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2022年5月13日金曜日

映画『デンジャー・クロース 極限着弾』(2019年、オーストラリア)-迫撃砲を中心にした知られざるベトナム戦争のオーストラリア軍の戦い

 
 『デンジャー・クロース 極限着弾』(2019年、オーストラリア)を amazon prime video で視聴。知られざる実話を描いた、オーストラリアのベトナム戦争ものという珍しい作品だ。  

1966年8月19日、南ベトナムの農園地帯ロンタンでオーストラリア軍の将兵108人がベトコンの2000人に包囲された「ロンタンの戦い」を描いた戦争映画。118分。

そもそも、オーストラリア軍とニュージーランド軍がベトナム戦争に派遣されていたことすら知らなかった。無知の至りである。 

マレーシアが英国から独立したのは1957年であり、英連邦に属するオーストラリア軍もまた、ベトナム戦争の前には、マレー半島の英領マラヤのジャングルで、華人系のマラヤ共産党とのゲリラ戦を戦っていたのだ。 

だから、オーストラリア軍には、マレー半島での戦闘体験をもった将校が多数いたわけであり、その点では米軍に勝っているはずであった。 

そしてまた、この映画の設定である1966年は、大東亜戦争が日本の敗戦で終結してから、わずか20年あまりのちの話でもある。そう考えると、オーストラリア軍は四半世紀にわたって、ずっと東南アジアで戦っていたことになる。 

さて、映画そのものに戻るが、原題の Danger Close は、日本語タイトルにあるように「極限着弾」のこと。歩兵部隊の支援として迫撃砲による砲撃が行われていたが、敵に向けて発射する砲弾が、自軍のすれすれに着弾するという、きわめて危険な状態をさしている。

そんな場面が、この映画のなかでは何度も繰り返される。 オーストラリア軍には、ヘリコプターによる補給支援以外には、米軍のような爆撃を目的とした航空支援はなかったのである。米国のベトナム戦争ものを見ていると気がつかないが、オーストラリア軍は地上から固定式の迫撃砲による攻撃しかできなかったのだ。まるで、第一次世界大戦のような世界ではないか! 

オーストラリア軍の志願兵は20歳前後の若い兵士が多く、その少なくない数がこの激戦で戦死している。米軍はこの戦闘におけるオーストラリア軍の勇敢な行動を大いに評価したが、オーストラリア政府は45年間も公式に評価してこなかったのだという。だから、2019年というこんな時期にベトナム戦争ものが製作されたのだ。 

米国のベトナム戦争ものが集中的に製作され公開されたのは、1980年代前後に集中している。『ディア・ハンター』(1978年)と『地獄の黙示録』(1979年)をはじめにして、『プラトーン』(1986年)や『フルメタル・ジャケット』(1987年)などである。このブームはすでに過去のものとなった。 

ベトナム戦争には韓国軍も派遣されていたことは現在では常識だと思うが、これについては韓国映画『ホワイト・バッジ』(1992年)も製作されている。だが、オーストラリア軍の戦闘については、いまのいままでまったく知らなかった。 

映画そのものが迫真の戦争映画となっているだけでない。ベトナム戦争については意外な事実も多く、その全貌をしっているわけではないのだなと、この映画を見て痛感するばかりだ。 


PS 視聴したうえでブログ記事のドラフトを書いたのは、2022年の2月のことだが、アップするタイミングを失したまま現在に至った。いままさにロシアの軍事侵攻による「ウクライナ戦争」の渦中であり、旧式の戦争について振り返る意味もあろう。






<ブログ内関連記事>

・・迫撃砲といえば、第一次世界大戦の東部戦線でに哲学者ウィトゲンシュタインを想起する。「ウィトゲンシュタインは、1914年の「ガリツィア会戦」では、砲撃の際のサーチライトの照射を担当(敵の目標にもなるので危険が高い)、その後は兵器工場の技術監督となったが、再び最前線への転出を希望し、砲兵隊に配属され観測手として活躍することになる。着弾点と着弾距離の測定を行い、正確な砲撃を実現するのがその任務である。ロシア帝国との「ブルシーロフ攻勢」(1916年)では激戦で「勇敢賞」を複数回授与されている。(・・中略・・)日本ではあまり知る人のないこの戦闘で、ウィトゲンシュタインは、敵の砲撃も顧みず、砲兵として勇敢に戦っていたのである。そして、生還率のきわめて低かったこの激戦で生き残った。」





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