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2023年8月28日月曜日

書評『「蛮社の獄」のすべて』(田中弘之、吉川弘文館、2011)ー 渡辺崋山は 19世紀前半の「国策捜査」の犠牲者、この事件は蘭学弾圧が主目的だったわけではない

 

ちょっと前のことになるが、『「蛮社の獄」のすべて』(田中弘之、吉川弘文館、2011)という本を読んだ。

「蛮社の獄」とは、1839年(天保10年)に起こった事件のことだ。江戸時代後期の事件である。「獄」と名前がついているように、蘭学サークルの中心にいた渡辺崋山と高野長英など著名な人たちが逮捕され投獄された事件のことだ。

渡辺崋山についてもっと知りたいと思って、もはや古典ともいうべき書誌学者の森銑三ドナルド・キーンや比較文学の芳賀徹によるものなど、さまざまな本を読んでこの事件について調べているなか、正面から扱った本が意外とすくないことを知った。本書の著者の田中氏もまたそのようなことを書いている。

著者の田中氏は、無人島を意味する「ボニン・アイランズ」、つまり「幕末の小笠原」を調べていて、その関連でこの事件に取り組むことにしたらしい。


■「国策捜査」であった「蛮社の獄」

この本を読んでいて思ったのは、これは19世紀前半の「国策捜査」というべきだな、ということだ。

事件の指揮をとったのは、老中・水野忠邦の右腕として辣腕をふるった鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)。甲斐守であったこともあって、耀蔵の「よう」と甲斐守の「かみ」をあわせて、「妖怪」と陰では呼ばれていたらしい。幕末の歴史にくわしい人なら、悪役(ヒール)として記憶にあることだろう。


(渡辺崋山の肖像画 弟子の椿椿山によるもの Wikipediaより)


被害者だった渡辺崋山は画家として有名だが、田原藩家老をつとめた武士。国宝になっている鷹見泉石の肖像画や、重文の佐藤一斎の肖像画で有名だ。

幕末の内憂外患状態のなか、本人はオランダ語は習得できなかったが、「蘭学の施主」として蘭方医の高野長英や小関三英などに翻訳の仕事をさせていた。

「国策捜査」とは、検察当局が捜査方針を決める際、ときの政権の意図や、世論の動向を踏まえて、かならずしも有力な根拠を欠いたまま、「まず訴追ありき」という方針で捜査を進めることをいう。

この表現は、現在は作家の佐藤優氏が外務省時代に逮捕され投獄されたのち、第一作となる『国家の罠 ー 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社、2005)で使用されたものだ。佐藤優氏の発明ではなく、捜査担当の検事がそう言ったのだという。わたしもこの本を読んで「国策捜査」なることばを知った。

その後発生したホリエモンこと実業家の堀江貴文氏が「ライブドア事件」で逮捕投獄された事件でもつかわれ、一般に定着することになった。

本書は基本的に研究書であり、しかも研究者である著書は、間違っても「国策捜査」なる表現をつかたりはしないが、虚心坦懐に本書を読んでいくと、「蛮社の獄」はまさに「国策捜査」以外の何者でもなかったことがわかる。

なぜなら、「蛮社の獄」は「つくられた事件」であり、一罰百戒を狙った見せしめ的なものであったからだ。つまり冤罪事件でもある。

事件の核心に据えられたのは「無人島渡航計画」なる実態のあやふやな計画である。渡辺崋山も高野長英らも、「鎖国」という国法を犯しての計画であるとし、この計画に関与しているとされ逮捕投獄されたのだ。

危機感を抱いていた渡辺崋山は「開国策」を主張していたが、それが幕藩体制の「祖法」である「鎖国」という、国策の根本に触れることへの認識が不足していたのである。脇が甘かったというべきかもしれない。

ただし、かなりの程度のフレームワーク(でっち上げ)が存在したことは否定できないが、これまた意外なことに、「吟味」においては事実関係の調査がかなり公正に行われており、かならずしも一方的な弾圧とまでは言い切れないものがある。

たしかに、渡辺崋山が田原藩の重臣ではあったが幕臣ではなく交友関係もひろくて目立っていたのでターゲットにされ、ずっと内偵が行われていたのである。自白主義の捜査は江戸時代も同様で、崋山は心ならずも罪を認めて獄中生活を送ることになった。

獄中生活で身体を壊してしまったが、最終的に死罪一等は免ぜられ、蟄居扱いとなっている。師であった佐藤一斎の指摘どおり、渡辺崋山は武士であったからだ。医者の高野長英が看守を買収して脱獄し、顔をつぶして各地に潜伏生活を送ったことは、比較的知られているかもしれない。


(高野長英 Wikipediaより)


だが、同時に逮捕された町人たちと僧侶は獄中死している。獄中における過酷な拷問のためとされている。

身分制度のもと、権威主義体制の体制維持のための「国策捜査」で犠牲になったのは、渡辺崋山や高野長英だけではなく、無人島渡航計画を雑談レベルで話していた無名の民間人たちであた。


■捜査を指揮した鳥居耀蔵という「悪役」の真相

捜査を指揮した鳥居耀蔵は、大学頭の林術斎の息子として生まれ、名門旗本の鳥居家に養子として入った男であった。べらぼうに頭が切れ、林家の出身だけに儒学を中心とした教養も深く、しかも堅い信念の持ち主であった。

言い悪いは別にしたら、使命感のきわめてつよい人物であり、しかも、強靱な精神力の持ち主であった。現在でも東大出身の高級官僚や、そういったエリート官僚出身の政治家に見られるタイプである。

幕藩体制という「権威主義体制」を身体を張ってでも守らなくてはならないという使命感の持ち主だったのである。現在の中国共産党をはじめとする権威主義体制を支えている政治家や高級官僚たちとなんら変わりがない。

鳥居耀蔵は、水野忠邦が失脚後の不義理な振る舞いにより、水野が一時的に復権された際には、今度は本人が失脚することになった。丸亀藩預かりとなって20年以上にたって軟禁状態になっていたが、その間にも心が折れることなく幕府の崩壊と明治維新後まで生き抜いている。

『鳥居耀蔵 ー 天保の改革の弾圧者』(松岡英夫、中公新書、1991)によれば、だから俺の言うとおり「開国」などしなければよかったのだ、という意味の発言をしているという。

最期は介錯なしの切腹で果てた渡辺崋山、逮捕され処刑された高野長英は、ともに「開国」後の日本を知ることができなかった。その他の獄中死した町人たちもあわせて考えれば、人間の運命というものにある種の感慨を抱かずにはいられない。

「蛮社の獄」は「国策捜査」だったわけだが、わたしはこの事件を現代日本に引きつけすぎて読んだのかもしれない。だが、本書『「蛮社の獄」のすべて』によって、この事件の複雑な性格を知ることができたのは幸いだった。

複雑な事件の真相を多面的に、絡め手で迫り、複合的に解明した好著といえよう。関心のある人に、ぜひ一読を薦めたい。




目 次 
はじめに

研究史の回顧と問題の所在
蛮社の獄の背景
林家と蛮社の獄
鳥居耀蔵
渡辺崋山
田原藩の助郷と海防
渡辺崋山と江川英竜
高野長英
小関三英
モリソン号事件
江戸湾巡視
尚歯会と蛮社
『戊戌夢物語』と『慎機論』
無人島
鳥居耀蔵の告発
一斉捕縛と取調べ
判決とその周辺
蛮社の獄をめぐって

あとがき


著者プロフィール
田中弘之(たなか・ひろゆき)
1937年東京に生まれる。1964年駒澤大学文学部歴史学科卒業。元駒澤大学図書館副館長。著書には『幕末の小笠原』(中公新書)など。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに加筆)


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・・「証人が、その事態について、感情の上で同意か不同意かを、日本語は見事に表現してしまう。そうしないためには、日本語ならざる日本語、つまり官庁式答弁をするほかはない。他方、現実のその事態がどんなものかについては、ややいい加減で済む。だから、われわれは伝統的に自白を重視する。これは言語の特性だから、しかたがない。日本語は、使用者の心理状態と、ことばとの間の関節が固いのである」  告発者の「自白」と心理的動機の関係について考察するヒントになる


・・国宝の鷹見泉石像を描いたのは渡辺崋山

・・重文の佐藤一斎像を描いたのは渡辺崋山

・・渡辺崋山はまだ平穏無事だった頃に旅した鎌ケ谷の風景

・・高野長英はシーボルトの弟子であった


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2023年5月9日火曜日

物理学者・池内了氏の『江戸の宇宙論』(集英社新書、2022)と『司馬江漢 ー「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(集英社新書、2018)を読む ー 江戸時代後期に地動説や宇宙論を展開した民間人たちに目をむけることの意味

 
江戸時代の天文学については、800年ぶりに改暦を実現した立役者の渋川春海(しぶかわ・はるみ)がもっとも有名だが、江戸時代後期の「寛政の改暦」を実現した高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)のコンビもまた、それに劣らず重要だ。

だが、こういった専門の天文学者だけでなく、天文学に多大な興味をいだいて、それぞれ独自の思索を行い、一般向けに啓蒙活動を行った人物にも関心を向けるべきであろう。

それは、サイエンス・コミュニケーターとしての司馬江漢(しば・こうかん)であり、江戸時代後期の1780年から1820年のあいだに「宇宙論」を一気に世界水準に押し上げた志築忠雄(しづき・ただお)、山片蟠桃(やまがた・ばんとう)といった民間人たちである。


■江戸で生まれ育ったが長崎で開眼した司馬江漢

司馬江漢といえば西洋風の銅版画を日本ではじめて実現したアーティストとして知られているが、それは多面的な人物であった司馬江漢(1747~1818)の一面であるに過ぎない。

美術にくわしい人なら、江戸に生まれ育った司馬江漢が最初は鈴木春信の弟子として美人浮世絵からキャリアを開始し、その後さまざまな画法を身につけて、生涯をフリーで過ごした人物であることを知っているだろう。

だが、サイエンス・コミュニケーターとして「地動説」を一般向けに啓蒙し続けた人であることは、なかなか視野に入ってこないのではないだろうか。
 
物理学者の池内了氏のリタイア後の余技というべきであろうか、『司馬江漢 ー「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(池内了、集英社新書、2018)という本を読むと、そのことがよくわかってくる。

さすがに「日本のダヴィンチ」というのは褒めすぎだと思うが、絵も描き、ガジェットも自分でつくって、文章も書いてなると、たしかに多彩多芸で博覧強記の人物であったことは間違いない。しかも、毀誉褒貶相半ばする「奇人」であったことも確かなことだ。
 
もちろん、科学に多大な興味をもつ素人としての限界はあるが、「地動説」を19世紀初頭の日本で普及させた功績は大きいというべきだろう。司馬江漢は長崎遊学で目覚めたのである。


■長崎で発展し大坂で花開いた蘭学

おなじく池内了氏の『江戸の宇宙論』(池内了、集英社新書、2022)によれば、コペルニクスの地動説とニュートンの万有引力について、日本ではじめて認識し、理解したのは、志築忠雄(1760~1806)であった。

長崎のオランダ語通詞出身の翻訳家である。早々と通詞をリタイアして、自分の興味と関心にまかせて、さまざまな科学文献を読んでは自分で日本語に翻訳しながら、理解を深めていった人だ。業務として翻訳を行ったのではなく、あくまでもイニシアティブはかれの側にあった。


志築忠雄については、『蘭学の九州』(大島明秀、弦書房、2022)でも大きく取り上げられている。いわゆる「蘭学」は江戸で始まったという、「『蘭学事始』神話」の解体の一環である。

当然といえば当然だが、漢訳洋書やオランダ語の原書がもっとも入手しやすかったのが長崎である以上、蘭学が長崎から始まったのである。その影響は、地の利からいってまず九州で、その後は瀬戸内海ルートをつうじて大坂で花開いたというべきだろう。

高橋至時と間重富の師匠であった麻田剛立は、もともとは現在の大分県にあった杵築藩の侍医だったが、脱藩して大坂で好きな天文学に打ち込んだ人である。町人中心の大坂の知的風土に魅了されたからのようだ。その麻田剛立と密接な交流をもっていたのが、生まれ故郷の豊後にとどまり続けた自然哲学者の三浦梅園であった。

山片蟠桃(1748~1821)は、大坂の商人であり懐徳堂で学んだ思想家である。ペンネームの「蟠桃」は「番頭」をもじったものだ。辣腕の商人だったからこそ、合理的で現実的な科学思想家でもありえたわけである。主著『夢の代』で、無限宇宙論や複数宇宙論を展開しているのである。18世紀の西欧社会とおなじ知的関心となっていたのである。


池内了氏は、『江戸の宇宙論』の「はじめに」で以下のように書いている。

1780~1820年のほんの短い間に、西洋から天文学・宇宙論を学ぶなかで、日本人はコペルニクスの地動説(1543年)からの250年間の遅れを取り戻しただけでなく、無限宇宙論の描線において一気に世界の第一線に躍り出たのである。
その意味では、一瞬とはいえ日本人の宇宙論が世界の第一線にまで到達したと言えるのではないか。自由な発想で学問を楽しむなかでこそ世界の最前線に立つことができた、このような江戸の文化の豊かさをともに味わいたい、そう思ったのが本書を執筆した動機である。

このように、司馬江漢や志築忠雄、そして山片蟠桃といった人たちは、あくまでも自分の趣味や知的好奇心から出発して、それぞれ独自の世界を探索している。科学がまだ、知的遊戯であった時代の幸せな人物たちであったとえいるかもしれない。

あまりにも専門分化がすすんで個別分野ごとに「バカの壁」ができあがって、相互にコミュニケーション不全状態となっているのが、現在の科学の世界である。

こんな時代だからこそ、司馬江漢や志築忠雄、そして山片蟠桃といった「科学の素人たち」にも目を向ける必要があるといっていいだろう。なんといっても、かれらは科学を楽しんでいた先人たちなのであるから。

  
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2023年5月8日月曜日

書評『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)ー 江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきだ

 
碁打ちから暦学者に転じた渋川春海は、映画化もされた冲方丁氏の小説『天地明察』で有名になったが、それは江戸時代前期の日本の天文学の黎明期の話だ。

江戸時代中期の吉宗の衣鉢を継いで改暦を実現したのが、江戸時代後期のはじめに生きた高橋至時(たかはし・よしとき)と間重富(はざま・しげとみ)である。ともに大坂出身の天文学者で、前者は下級武士、後者は質屋を営む大商人であった。

二人はともに大坂で第二の人生を築いた、天文学者で医者の麻田剛立の弟子たちである。メカ好きで観測機器も自分でつくてしまう実測家の間重富と、もっぱら理論家肌の高橋至時は相補的な関係のいいコンビだったようだ。身分制度の時代であっても、知的探求の世界では身分は関係なかったことをよく示している。

そして、伊能忠敬は高橋至時の弟子でもあった。伊能忠敬は庄屋であったが、当時の江戸のの物流の要となっていた利根川下流域で生業を営んでいた伊能家。したがって伊能忠敬も限りなく商人に近い存在であった。間重富と同様に商才にすぐれ、計数感覚の持ち主であった。

知名度からいったら、測量によって日本全図を完成させた伊能忠敬に軍配が上がる。だが、「寛政の改暦」に大きな貢献をした間重富は、伊能忠敬に勝るとも劣らない存在であったと言わねばならない。

本来なら、高橋至時の考えでは、間重富が西日本の測量を行い、伊能忠敬が東日本の測量を分担するハズだったのだ。


『星に惹かれた男たち ー 江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』(鳴海風、日本評論社、2014)という本を読むと、間重富という大坂出身の天文学者にはもっと注目すべきことが大いに納得される。

総論的な概説書には、『天文学者たちの江戸時代 ー 暦・宇宙観の大展開』(嘉数次人、ちくま新書、2016)というものがある。著者の嘉数次人氏は大坂出身の研究者だが、かならずしも地域びいきだけから大坂の天文学者たちに注目しているのではない。

そのことは、和算作家の鳴海風氏が新潟県出身で、しかも名古屋に本拠をおいたデンソーの元エンジニアであることからもわかる。

鳴海氏は、18世紀後半の大坂の医者たちの、臨床を重視した科学精神と実証精神に注意を喚起している。江戸の医者たちとの違いである。

高橋至時と間重富の師匠であた麻田剛立は、天文学者であると同時に、解剖も多くこなす医者でもあった。江戸中心の『解体新書』神話のワナにはまってはいけないのである。


(松平定信の命によって天文方の高橋至時と間重富が中心になって作成した「新訂万国全図」(1816年)。銅版画は亜欧堂田善 国立歴史民俗博物館にて筆者撮影)


ここで、あらためて間重富と伊能忠敬の経歴について見ておこう。

伊能忠敬(1745~1818)と間重富(1756~1816)は、生没年から見たらわかるように、ほぼ同時代を生きた人物である。伊能忠敬のほうが間重富より9年早く生まれ、2年長く生きている。伊能忠敬は73歳で、間重富は60歳で亡くなっている。伊能忠敬は健康そのもの、間重富は病気がちだったらしい。

この違いが測量事業での大きな違いを生んだのである。伊能忠敬も天文学を学んだ天文学者でありながら、現在ではもっぱら測量家として記憶されている理由となっている。

伊能忠敬は、佐原の庄屋に養子として迎えられ、大いに辣腕を発揮、社会事業でも大きな取り組みをなし、隠居して息子に家督を譲ってから、後顧の憂いなく江戸に出て本格的に天文学を学んだ人物だ。

間重富は六男として生まれたが、兄たちが夭折しているため家業を継ぐことになった。改暦事業のため高橋至時とともに幕府に召し出されたが、大坂に家族と家業を残したままであった。さぞ気がかりであったことだろう。




『江戸の天文学者 星空を翔ける ー 幕府天文方、渋皮春海から伊能忠敬まで』(中村士、技術評論社、2008)では、この間重富と、儒者で最終的に幕府の儒官となった佐藤一斎の交際について取り上げられている。

佐藤一斎は、20歳での大きな挫折を経験しており、出身藩であった岩村藩の士籍を返上し浪人となっていた。師友のすすめで21歳で大坂に遊学したらしい。誰の紹介かよくわからないが、大坂での受け入れ先となったのが間重富であった。

間重富には大坂を代表する学問所であった懐徳堂の老儒者・中井竹山を紹介してもらい、半年という短い期間ではあったが、間重富宅から竹山のもとにほぼ毎日通って濃い内容の個人授業を受けている。

間重富は自宅で天体観測もしていたから、才気煥発であった青年であった佐藤一斎も、間違いなく天文学について多大な関心をいだくキッカケになったはずである。

佐藤一斎の若き日の間重富との出会いと、その後の孫子の世代にいたるまでの密接な交流。幕府天文方との交流は、伊能忠敬の死後にみずから筆を執って墓碑銘を書いたことにも現れている。佐藤一斎は、伊能忠敬の孫の面倒もみていたという。

天文ファンで機械時計マニアだった佐藤一斎の意外な面がわかるだけでなく、間重富という人物の懐の深さ、人脈の豊富さについて納得されるのである。

江戸時代後期の天文学者であった大坂の間重富には、もっともっと注目するべきである。


 
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<関連サイト>

貴重資料展示室 第55回常設展示:2016年10月21日〜2017年10月12日 間 重富

『星学手簡』 高橋至時、間重富他筆 渋川景佑編 写本 上・中・下3冊



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2023年2月10日金曜日

美術展「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」(千葉市美術館)に行ってきた(2023年2月9日)― 200年前のエキゾチックに驚き、その精緻な銅版画の技術にさらに驚く

 

ひさびさに千葉市美術館に行ってきた。昨日のことだ。「没後200年 亜欧堂田善 江戸の洋風画家・創造の軌跡」という美術展を見るためである。 

記録をみると2015年以来のことになるので、8年ぶりということにある。その間に新型コロナ感染症(COVID-19)コロナを挟んでいるが、理由はそれよりも浮世絵の研究者で美術史家の小林忠氏のような個性的な館長の退官後には、個性的な美術展が企画されていなかったからだろう。

亜欧堂田善は、オランダ語の書物のなかに見た西洋の風物や人物を、精緻な模写によって銅版画として再現、また同時代の江戸の風俗を浮世絵ではなく、洋画の道具と手法で描いた画家である。 

21世紀の現代から見てもエキゾチックな印象の画風は、同時代の人たちからみたら、なおいっそうのこと、そのように受け止められたことであろう。まるで外国人が描いたかのような印象である。


(洋風風俗画の「両国図」 画面中央に力士が二人)


 「没後200年」というこの機会をを逃したら、これだけの規模の回顧展はなかなかないだろう。その意味では、今回の美術展はひじょうにうれしい。


(「大日本金龍山之図」 浅草の浅草寺の境内を銅版画で NHK番組より)


亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん 1748~1822)は、江戸時代後期に活躍した銅版画作家で洋風絵師本名の長田善吉を略して田善。佐藤けんいち略してサトケンのようなものだ。面白いねえ、そういう名乗り方もあるのか、と。 

亜欧堂という号は、老中も努めた白河藩主の松平定信から命名されたのだという。亜(=アジア)と欧(=ヨーロッパ)を合わせたような絵を描いてほしい、という含意である。 


(『銅版画見本帖』のうち「フローニンヘンの新地図」 忠実な模写に見えて田善による遊びの要素あり)


田善は、現在の福島県須賀川市の出身。定信に見いだされ、西洋の銅版画の技法を身につけるよう命ぜられたのは47歳のときである。子どもの頃から画才があったが、画家になるのは断念し、それまでは家業の染め物屋の主人であった。 

晩学や第二の人生というと、49歳から天文学と測量の勉強を本格的に始めた伊能忠敬を想起するが、亜欧堂田善も同時代人であった。ともに松平定信を中心とした学問芸術ネットワークに属する人たちだ。あらためて、松平定信という人物には、大いに注目する必要がある。




銅版画というと、同時代の万能人・司馬江漢(1747~1818)を想起させるが、田善は江漢をして「日本に生まれたオランダ人」と言わしめたほどの技量の持ち主であった。 

今回の美術展は「没後200年の回顧展」であり、福島県立美術館と共催である。福島県は亜欧堂田善の生まれ故郷であり、かれが生きていた時代から地元の人たちから大いに愛好され大事にされてきたらしい。そのおかげで、銅版画の原板も多くが保存されてきたのだ。 今回もその多くが出品されている。

田善が残した銅版画の原板を見ていると、その昔に高校の美術の授業で銅版画を作成したことを思い出した。田善の手法はエッチングであるが、ほぼゼロい近い時点からのスタートであった当時の苦労を考えると、なおさら頭が下がるのである。

 
(『医範堤綱内象銅版図』(1808年)の挿絵)



■「芸術」という概念のなかった時代、アートは芸術であり技術であった

今回の美術展では美術的要素の強い銅版画や洋画のほかに(洋画風の絵馬もあり!)、宇田川玄真が訳したオランダの解剖書『和蘭内景 医範提綱 付内象銅版図』の挿絵や、天文方の高橋景保を中心としたチームによる幕府官製の世界地図「新訂万国全図」が展示されている。いずれも実用性の高い仕事である。 


(「新訂万国全図」(1816年出版)東半球と西半球)


こういった西洋の最新知識を日本に普及させるためには、文字だけでは不十分である。目で見てわかるビジュアルが必要だ。そういう認識をもっていた定信は、写真術など存在しなかった時代に、原本の画像を銅版画で再現するという手法を推進させたのである。まさに慧眼というべきであろう。 

「広く知識を世界に求め」というのは明治維新における「五箇条の御誓文」(1868年)の一節だが、18世紀末の時点で定信は、実用性という観点からすでにその方向性を推進していたのである。田善は、その実行のために採用された一人なのであった。 日本人の世界認識の拡大に貢献したのである。


    (晩年の田善。弟子による肖像画 Wikipediaより)


司馬江漢は全国レベルの知名度だが、亜欧堂田善は西日本ではあまり知名度が高くないのかもしれない。福島の須賀川に生まれて、後半生を江戸を中心に活動し、晩年は故郷に戻った人だからであろうか。今回の美術展は西日本での巡回展はないようだ。 


(美術展の図録)

亜欧堂田善だけでなく、蘭学のビジュアル的側面に関心のある人はぜひ行くべきだろう。充実した図録も販売されている。大冊で2,750円するが購入する価値がある。 

  

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<参考>




Johann Elias Ridinger(Wikipediaドイツ語版 英語版もあるが日本語版はない)
・・亜欧堂田善が模写したウマの図は、定信が所有していたドイツ人の動物画家で銅版画家のヨーハン・エリアス・リーディンガー(1698~1767)の画集から。日本に多く輸入されているのは、軍馬に対する関心からであろうとされている


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・・これはすべて木版



・・17世紀西欧の銅版画の革新者ジャック・カロ


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