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2024年2月3日土曜日

書評『大拙』(安藤礼二、講談社、2018)ー「近代日本」と格闘して生まれた思想家・鈴木大拙の全貌をアクチュアルな存在として浮かび上がらせる

 

『大拙』(安藤礼二、講談社、2018)をようやく読了。大拙とはいうまでもなく鈴木大拙のことだ。購入から5年たってしまった。  

安藤礼二氏といえば、大著『折口信夫』を完成させた文芸評論家だが、なぜ鈴木大拙かというと、それは折口信夫の出発点にいわゆる「新仏教」運動なるものがあったことを知ったからだという。 

本書『大拙』は、その10年以上にわたる取り組みの成果である。『折口信夫』の副産物というよりも、これだけで「ひとつの世界」になっていると考えていい。 

近代化を西洋化として急速に進めていた日本。あらたに流入してきたキリスト教と近代科学に、仏教はどう応えていくのか。この課題に正面から取り組んだのが「新仏教」であり、若き日の鈴木大拙の思索の出発点であった。 

鈴木大拙がなぜアメリカに渡り、そこで11年間も過ごしたのか?

生涯にわたる親友であった西田幾多郎とのあいだの相互の影響関係国際結婚したビアトリスとの関係。初期にはスウェーデンボルグ、後期にはマイスター・エックハルトという西洋神秘主義からの影響などなど。

こういったテーマを深掘りすることで見えてくるものがある。 


■「二元論」の克服こそ鈴木大拙の生涯のテーマ

東洋と西洋、仏教とキリスト教、禅と浄土、日本語と英語、ローカルとグローバル・・・ 

こういったさまざまな二項対立的な二元論的要素を、「二即一」であり「一即二」として、あるいは「多即一」であり「一即多」であるとして、「一元論的」的に把握する思考のあり方こそ、「近代人」であった鈴木大拙が咀嚼し直して世界に向けて展開した禅の思想と実践であり、また同時に盟友の西田幾多郎の哲学であった。 

安藤礼二氏の『大拙』は濃厚な内容であり、多岐なテーマにわたっているので読むのに時間がかかるが、すでに没後50年を超えた鈴木大拙はけっして過ぎ去った過去のものではなく、現代の問題をはるかに先取りして思索し続けた存在であることが、読んでいると再確認される。 

21世紀の現在の課題は、日本語世界の鈴木大拙と英語世界の D.T. Suzuki とのズレを認識することだろう。

この両者は「一にして二」であり「二にして一」の存在である。とはいえ、日本人は英語世界の D.T. Suzuki をまだまだ知らないのではないか? 




日本の敗戦後、80歳を過ぎてから(!)、ふたたび渡米し精力的に活動した鈴木大拙の尽力により、戦後のアメリカで熱狂的に受け入れられ、すでに完全に定着している「ZEN」。むかしからある日本の禅寺の座禅の「禅」

両者は本質的におなじであっても、その受け取られかた、そのあり方には違いがある。 

世界はすでに一体化しているが、一体化しているからこそ、その多様であることに意味がある。人類としての本質的な共通性と、文化による多様性。「一にして多」であり「多にして一」なのである。この認識がきわめて重要だ。 

鈴木大拙について考えることは、現代日本人にとっても大いに意味あることなのだ。国際化や国際人とはなにか、その本当の意味を考えるためにも、参照系として想起すべき存在なのである。 

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目 次
はじめに 
第1章 インド 
第2章 アメリカ 
第3章 スエデンボルグ 
第4章 ビアトリスと西田幾多郎 
第5章 戦争と霊性 
第6章 華厳 
第7章 禅 
第8章 芸術 
後記

著者プロフィール
安藤礼二(あんどう・れいじ)
1967年、東京都生まれ。文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授。東京大学客員教授。早稲田大学第一文学部卒業。大学時代は考古学を専攻し、出版社の編集者を経て、2002年「神々の闘争―折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞、批評家としての活動をはじめる。2006年、『神々の闘争折口信夫論』(講談社)で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。2009年、『光の曼陀羅日本文学論』(同)で第江健三郎賞と伊藤整文学賞を受賞。2015年、『折口信夫』でサントリー学芸賞と角川財団学芸賞を受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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2022年1月17日月曜日

書評『折口信夫』(安藤礼二、講談社、2014)-「折口信夫という謎」に迫った「集大成」となる大著

 


読みたくて購入したのだが、あっというまに7年もたってしまった。意を決して538ページの大冊にとりかかるも、途中に空白が生じたりして読み終わるまで結局まる4日もかかってしまった。

「折口信夫という謎」に長年にわたって取り組んできた著者による「集大成」ともいうべき大著である。文芸評論家・小林秀雄の晩年の大著『本居宣長』に匹敵するといっていいかもしれない。おそらく著者自身も意識していることだろう。 


■折口信夫とは

折口信夫というと、日本民俗学の創始者・柳田國男の弟子でライバルであったというのが一般的な理解であろうが、わたしは折口は本質的に国文学者であり、かつ釋釈迢の名による文学者とが一元化した存在であったと考えている。日本語ではうまく表現できないが、ラテン語でいう poeta  doctus というのがふさわしい。 

折口本人が認識していたように、学問が細分化される以前の「国学者」だとするべきであろう。それも本居宣長よりも、より神道神学の方向をくわめた平田篤胤の系譜につらなる国学者である、と。


「万葉集」をつうじて古代人の生活と思考に迫るために、さまざまな学問を身につけた上で柳田國男の民俗学との出会いが大きな意味をもったのだ、と。本書を読んで、わたしの理解は固まりつつある。 

『更級日記』や『伊勢物語』をはじめ、王朝文学は好きだったが、高校三年のときに「自分はまったく日本のことがわかってないな」と自覚して深く反省し、文庫本で柳田國男を読み始めた。 

大学に入ってからは、寮で同室となった親友の影響もあって折口信夫を読み始めた。当時は、中公文庫から『折口信夫全集』も出ていたので手に取りやすかったこともある。


■「安藤礼二氏の折口信夫」は「評伝」ではあるが「伝記」ではない 

わたし自身の回想はさておき、安藤礼二氏の『折口信夫』は、折口信夫の弟子筋を中心に積み上げられた膨大な回想録や評論などとは一線を画している。 

折口信夫の知られざる生涯、とくに大学時代の青年期の神道系の宗教実践活動と、柳田國男の民俗学の出会うまでの学問遍歴に焦点をあてている。著者による長年の調査研究による数多くの新発見が反映されており、読みごたえは十二分にある。 

青年期の神道系の宗教実践活動は、神道教義研究団体の「神風会」におけるものであった。キリスト教プロテスタントの米国発の「救世軍」に対抗する街頭活動も行っていた。

国家神道体制のもと、宗教性を欠いた神道へのアンチテーゼとして敗戦後に打ち出されたのが「神道宗教化」の構想だが、その萌芽はすでに青年時代に芽生え、培われていたのである。 

しかも、仏教とキリスト教の一致を説く、浄土真宗系の謎の青年僧・藤無染との出会いをつうじて、キリスト教など一神教の本質を深く理解したうえでの「一元論」志向の形成が背景にあった。日米で平行した思想運動である。「純粋経験」(西田幾多郎、ウィリアム・ジェームズ)、鈴木大拙(仏教、スウェーデンボルグ)なども視野に入れる必要があるのだ。

その一元論とは、プロティノスの「一にして多、多にして一」というべきものである。折口信夫とキリスト教徒の関係は、表面にはほとんど出てこないが、それだけに無視できないものがある。

 そして、「神風会」における謎の女・本荘幽蘭との接点富岡多恵子氏の『釋迢空ノート』や、富岡氏と安藤氏の共著『折口信夫の青春』で、すでに取り上げられたテーマが本書でさらに深掘りされている。神道系新宗教への親近感、霊性の観点からみた女性の男性に対する優位性など、折口信夫の思想のラディカルな性格などがそうだ。

同時代のフランスの民族学者マルセル・モースの「マナ」の影響も指摘されている「外来魂」としての「たま(しひ)」の考察は、血筋だけでなく外来魂としての「天皇霊」(あくまでも作業仮説ではある)が重要だとした折口信夫の学説の基礎となっている。

この折口説を貫けば、「崎門の学」の浅見絅斎(あさみ・けいさい)の「(政治的)正統性」にかんする議論が「尊皇思想」を生み出しとする、山本七平や小室直樹が強調するとは真っ向から対立することになる。安藤氏自身は、その議論は展開していないが、天皇と天皇制をめぐる折口信夫の学説が、いかに危険なものであるかがわかろうというものだ。

その意味でも、折口信夫はまだまだアクチュアルな問題提起をつづける存在だというべきなのだ。


■いまだ解かれるのを待っている「折口信夫という謎」

本書は、「評伝」であり、生涯全体を論じた「伝記」ではない。膨大な資料探索を背景にしているが、狭い意味での研究書ではない。だから、部分部分を論じてもあまり意味はないだろう。それよりも、この大著全体から感じ取るものが重要だろう。 

「折口信夫という謎」に限りなく迫った本書は、2014年時点の「集大成」ではあるが、いまこれを書いている2022年までの7年のあいだにも新発見やあらたな論著が生み出されている。「折口信夫という謎」にかんしては、個々の謎の解明は今後もさらに進んでいくだろう。 

繰り返すが、折口信夫が提起した問題群は、過去のものになったわけではない。きわめてアクチュアルな問題を提起しつづけている存在だというべきなのだ。日本とはなにか、神とはなにか、その他もろもろの問題を考えていくいうえで、きわめて大きな存在である。 

わたし自身は、大学時代に読みはじめた折口信夫だが、まだまだ理解に至るまでほど遠い。中公文庫版の『折口信夫全集』(ただし内容的には旧版)もすべて読み尽くしたわけではない。安藤礼二氏の著作活動も含め、折口信夫については、今後もつよく意識していきたい。

 
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目 次
はじめに
第1章 起源
 聖父子の墓/藤無染と本荘幽蘭/神風会
第2章 言語
 曼陀羅の花/言語情調論/無我の愛
第3章 古代
 根源の世界/詩と文法/「妣が国」へ
第4章 祝祭
 祝祭の論理/「二色人」(ニイルビト)の発見/民俗学を超えて
第5章 乞食
 魂のふるさと/弑虐された神々/乞丐相(こつがいそう)
第6章 天皇
 大嘗祭の本義/森の王/翁の発生
第7章 神
 餓鬼阿弥蘇生譚/憑依の論理/民族史観における他界観念
第8章 宇宙
 生命の指標/万葉びとの生活/海やまのあひだ
列島論
 国家に抗する遊動社会--北海道のアイヌと台湾の「蕃族」/折口信夫と台湾
詩語論
 スサノヲとディオニュソス--折口信夫と西脇順三郎/言語と呪術--折口信夫と井筒俊彦/二つの『死者の書』--ポーとマラルメ、平田篤胤と折口信夫
後記 生命の劇場
初出誌一覧と謝辞


著者プロフィール
安藤礼二(あんどう・れいじ)
1967年、東京都生まれ。文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授。早稲田大学第一文学部卒業。大学時代は考古学を専攻する。出版社(=河出書房新社)の編集者を経て、2002年「神々の闘争――折口信夫論」で群像新人文学賞優秀作を受賞、批評家としての活動をはじめる。2006年、折口の全体像と近代日本思想史を問い直した『神々の闘争 折口信夫論』(講談社)で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。2009年には『光の曼陀羅 日本文学論』(同)で大江健三郎賞と伊藤整文学賞も受賞した。他に、『近代論 危機の時代のアルシーヴ』『場所と産霊 近代日本思想史』『祝祭の書物 表現のゼロをめぐって』などの著作がある。(講談社のサイトより一部修正)


<関連サイト>



・・「少なくとも歴史家の資料の読み方とは全く異なるスタイルで、本書は鮮烈に幕を開ける。(・・・中略・・・) 全体を通して痛感する。すさまじい力業である。折口研究にかつてない広大な視野をもたらした。世界思想へ通ずる可能性の扉をつくった。安藤氏の曼陀羅は、政治宗教哲学史など諸分野からの関心を呼び、各発信を編集する自由な交叉の塔ともなった。
もちろん今後、個々の思想家と折口学との結合│「一つの起源」の必然と意味が問われ、考究されてゆくのだろう。知の交歓図の世界的な広がりは極まった。さらには縦の深度が求められてゆくはずだ。安藤氏の曼陀羅は、生産力ある壮麗な仮説なのだと思う。
事実と違うと言い立てて批判することにはあまり意味がない。逆に、曼陀羅図を固定し絶対化することにも意味はない。折口は仮説を愛した。仮説とは自らを強く固めず、つねに流動変化する意志をもつ。評論に独特の、けなげな妙なる美しさでもある。」

(2025年5月31日 情報追加)


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・・折口信夫は、たまたま乗り合わせた車中で初対面の長谷川伸に「よいものを書いて頂いてありがとうございました」と直接伝えている。平田派国学に殉じた草莽の志士たちへの挽歌として


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