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2024年2月3日土曜日

書評『大拙』(安藤礼二、講談社、2018)ー「近代日本」と格闘して生まれた思想家・鈴木大拙の全貌をアクチュアルな存在として浮かび上がらせる

 

『大拙』(安藤礼二、講談社、2018)をようやく読了。大拙とはいうまでもなく鈴木大拙のことだ。購入から5年たってしまった。  

安藤礼二氏といえば、大著『折口信夫』を完成させた文芸評論家だが、なぜ鈴木大拙かというと、それは折口信夫の出発点にいわゆる「新仏教」運動なるものがあったことを知ったからだという。 

本書『大拙』は、その10年以上にわたる取り組みの成果である。『折口信夫』の副産物というよりも、これだけで「ひとつの世界」になっていると考えていい。 

近代化を西洋化として急速に進めていた日本。あらたに流入してきたキリスト教と近代科学に、仏教はどう応えていくのか。この課題に正面から取り組んだのが「新仏教」であり、若き日の鈴木大拙の思索の出発点であった。 

鈴木大拙がなぜアメリカに渡り、そこで11年間も過ごしたのか?

生涯にわたる親友であった西田幾多郎とのあいだの相互の影響関係国際結婚したビアトリスとの関係。初期にはスウェーデンボルグ、後期にはマイスター・エックハルトという西洋神秘主義からの影響などなど。

こういったテーマを深掘りすることで見えてくるものがある。 


■「二元論」の克服こそ鈴木大拙の生涯のテーマ

東洋と西洋、仏教とキリスト教、禅と浄土、日本語と英語、ローカルとグローバル・・・ 

こういったさまざまな二項対立的な二元論的要素を、「二即一」であり「一即二」として、あるいは「多即一」であり「一即多」であるとして、「一元論的」的に把握する思考のあり方こそ、「近代人」であった鈴木大拙が咀嚼し直して世界に向けて展開した禅の思想と実践であり、また同時に盟友の西田幾多郎の哲学であった。 

安藤礼二氏の『大拙』は濃厚な内容であり、多岐なテーマにわたっているので読むのに時間がかかるが、すでに没後50年を超えた鈴木大拙はけっして過ぎ去った過去のものではなく、現代の問題をはるかに先取りして思索し続けた存在であることが、読んでいると再確認される。 

21世紀の現在の課題は、日本語世界の鈴木大拙と英語世界の D.T. Suzuki とのズレを認識することだろう。

この両者は「一にして二」であり「二にして一」の存在である。とはいえ、日本人は英語世界の D.T. Suzuki をまだまだ知らないのではないか? 




日本の敗戦後、80歳を過ぎてから(!)、ふたたび渡米し精力的に活動した鈴木大拙の尽力により、戦後のアメリカで熱狂的に受け入れられ、すでに完全に定着している「ZEN」。むかしからある日本の禅寺の座禅の「禅」

両者は本質的におなじであっても、その受け取られかた、そのあり方には違いがある。 

世界はすでに一体化しているが、一体化しているからこそ、その多様であることに意味がある。人類としての本質的な共通性と、文化による多様性。「一にして多」であり「多にして一」なのである。この認識がきわめて重要だ。 

鈴木大拙について考えることは、現代日本人にとっても大いに意味あることなのだ。国際化や国際人とはなにか、その本当の意味を考えるためにも、参照系として想起すべき存在なのである。 

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目 次
はじめに 
第1章 インド 
第2章 アメリカ 
第3章 スエデンボルグ 
第4章 ビアトリスと西田幾多郎 
第5章 戦争と霊性 
第6章 華厳 
第7章 禅 
第8章 芸術 
後記

著者プロフィール
安藤礼二(あんどう・れいじ)
1967年、東京都生まれ。文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授。東京大学客員教授。早稲田大学第一文学部卒業。大学時代は考古学を専攻し、出版社の編集者を経て、2002年「神々の闘争―折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞、批評家としての活動をはじめる。2006年、『神々の闘争折口信夫論』(講談社)で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。2009年、『光の曼陀羅日本文学論』(同)で第江健三郎賞と伊藤整文学賞を受賞。2015年、『折口信夫』でサントリー学芸賞と角川財団学芸賞を受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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2014年8月7日木曜日

書評『ロボット新世紀』(シリル・フィエヴェ、本多力訳、文庫クセジュ、2003)-ロボット大国ではないフランスのジャーナリストが簡潔にまとめたロボット開発の見取り図


『ロボット新世紀』というタイトルになっているのは、21世紀初頭の2003年に出版されたからだろう。原著は、2002年にフランスで出版された Les robo(レ・ロボ=ロボット) という、じつにそっけないタイトルの本である。

「文庫クセジュ」は、フランスの岩波新書のようなものだ。サイズからいって文庫ではなく新書であるだけでなく、自然・人文・社会の科学全般にわたる百科全書的な知のライブラリーの日本語版である。「クセジュ」は、16世紀のモンテーニュの名言 Que sais je ?(わたしは何を知っているというのか?)という反語的表現からきている。

全般的にその分野の碩学が、簡潔なページ数に学識を詰め込んだかつてのスタイルと異なり、最近のものは読みやすくて理解しやすいものが多くなった印象を受ける。これは翻訳レベルの向上だけでなく、フランス語の本じたいがそういう傾向にあるのだろう。知の軽薄化というよりも、それが本来の「一般読者向け啓蒙書」のあり方ではないか。英語圏の影響だろう。

じつはこの本は、買ってからすでに11年もたっているのだが、ずっと本棚の奥で眠っていたこの本を「再発見」してパラパラと読んでいたら面白いので、あっという間に最後まで読んでしまった。

日進月歩のロボット分野のことだから、原著出版から12年もたてば、もうはるかかなたの昔のような気がしなくもない。だが、押さえるべきところは押さえているので過不足はない。最新事例を入れ替えれば、2014年時点でも読む意味はないとはいえない。

ロボット前史からはじまり、ロボット開発の方向性を分類している。「目次」を見ていただければわかると思うが、現在のロボット開発の方向性はほぼ網羅されている。

フランス人のコンピュータエンジニアでジャーナリストの著者が、フランス人向けにフランス語で書いた本だが、でてくる事例の大半は日本とアメリカである。この両国がロボット分野では世界の二大大国なのである。とはいえ、日本人が書いたのでもアメリカ人が書いたものでもないので、第三者が俯瞰的に見ている公平な視点が感じられる。



読んでいて思うのは、現在でも圧倒的に中心に位置づけられる産業ロボットを除けば、ヒューマノイドという二足歩行の人間型ロボット開発に注力してきたのが日本だが、どうも日本人には「ロボット性善説」があるようだ。人間の生活空間における人間とロボットの共生というテーマである。たしかに著者がいうように、文化的な影響が無意識のうちに働いているのだろう。

だが、アメリカにかんしてはかならずしもそうではない。アメリカは軍事以外でもさまざまな用途のロボット開発が行われてきているが、あくまでも「道具」として位置づけている印象を受ける。いってみれば「ロボット性悪説」とでもいうべきか。ヨーロッパもそうだが、アメリカでも開発者の動機の背後には、哲学や思想が背景にある印象を受ける。人間機械や人造人間である。

本質においてコンピュータであるロボットは、ますます「自律性」を明確にしつつある。コンピュータに自律性とモビリティが加わると自立型のロボットになる。フランス人の目からみると、アメリカのロボット開発にある種の懸念をもっていることがわかる。

「第4章 特殊探査ロボット」では、「自律性」を備えたロボットの出現によって、アシモフのロボット三原則の尊重がますます難しくなるであろう事が指摘されている。

特殊探査ロボットのカテゴリーには、戦争、観測、偵察、探索などの目的が含まれるが、もっとも裾野が広く投資額が膨大であり、目的性や道具性が明確なこの分野では、自律性をもったロボットが制御不能になった場合の What-if (もし~なら)にかんするイマジネーションが必要となってくるはずだ。「性悪説」が不可欠なのである。

人工知能そのものにはページはあまり割いていないが、「ロボットが知能的であるとは?」という問いを最後に行っている。こういう問いは西欧人ならではという気もする。

著者は、人間型ロボットであるヒューマノイドが感情面まで備えたように見えるのは、人間型ロボットだけでなくペットの動物に対しても、人間はどうしても擬人化して感情移入しがちだからだとする。ロボットに知能があるのは、人間がそのように設計しているからだ、と。2002年当時でも、2014年現在でも、この見解はそのとおりだろう。

だが、著者は未来にかんしては断定的な結論は出すことなく、アメリカの発明家で人工知能研究の第一人者カーツワイルの「特異点」にかんするビジョンも含めて、さまざまなロボット開発者や人工知能開発者の議論を紹介している。ここでもその大半がアメリカ人と日本人の見解になるのだが、その違いが興味深い

先日(2014年6月)、日本のソフトバンクが人間の自然言語を理解する人間型ロボット Pepper を発表したが、プロトタイプはフランスのベンチャー企業 Aldebaran Robotics のものだという。日本企業でもアメリカ企業でもなく、フランス企業と提携したというのが興味深い。個別企業との提携だが、ロボット開発思想にフランス的なものがあるのかどうか。

「クセジュ」は写真も図版もいっさいない、文章だけのそっけないつくりの本だ。日本語版もそうである。フランスの「クセジュ」は、同じタイトルの本を、著者を替えて定期的にアップデートしているが、つぎのエディションではホンダでもソニーでもなく、ソフトバンクの取り組みが全面にでてくるのかもしれない。




目 次

はじめに
第1章 ロボットの歴史
 Ⅰ ロボットという言葉の進化と方向
 Ⅱ 映画とサイエンス・フィクション
 Ⅲ 最初のロボット
第2章 産業用ロボット
 Ⅰ 敏感でダイナミックな市場
 Ⅱ 目的が異なるさまざまなロボット
 Ⅲ 外科手術支援ロボット
第3章 家庭用ロボット
 Ⅰ 純粋に仕事が目的のロボット
 Ⅱ 高級なオモチャ
 Ⅲ アイボ、家庭用ロボット、すべてをこなすパートナー
 Ⅳ ロボット泥棒にご用心
 Ⅴ パーソナルロボットのオペレーションシステム
第4章 特殊探査ロボット
 Ⅰ 戦争と秩序の維持
 Ⅱ 探索ロボット
 Ⅲ 闘争するロボット
第5章 人間型ロボット
 Ⅰ ヒューマノイド型ロボット、なにを目ざすのか?
 Ⅱ 歩くロボット、アシモ
 Ⅲ ソニーの夢ロボット
 Ⅳ HRP、日本の未来のスター
 Ⅵ アメリカのコグが道筋を示す
 Ⅶ 「社会化」する機械、注目されるキズメット
第6章 ロボットの未来
 Ⅰ いくつかの大きな傾向
 Ⅱ 問題の人工知能
 Ⅲ 未来を予測する
おわりに
 Ⅰ 多様性の支配
 Ⅱ 曲がり角
 Ⅲ 意識するロボットか? あるいは一緒に存在するロボットか?
訳者あとがき
参考文献/ウェブリスト



著者プロフィール
シリル・フィエヴェ(Cyril Fiévet)
1967年生まれ。コンピュータエンジニアでジャーナリスト.1991年、トゥールーズの国立電子情報高等学院を卒業。1994年までパリのオルガ・コンセイユというコンサルタント会社に情報システムエンジニアとして勤務したあと独立。現在、ウェブサイトを利用したコンピュータ、ロボット、ナノテクノロジーなどの先端科学技術を専門とするジャーナリスト、フリーランスライターとして活躍。(訳者あとがきより)

訳者プロフィール
本多力( ほんだ・つとむ)
1977年東京工業大学大学院博士課程修了。国内外の大学研究所等をへて現在日本原子力研究所勤務。富士山火山洞窟学研究会理事、日本洞窟学会評議員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



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『新世紀 エヴァンゲリオン Neon Genesis Evangelion』 を14年目にして、はじめて26話すべて通しで視聴した
・・ロボットと一体化する人間と知能の行方

書評 『2045年問題-コンピュータが人間を超える日-』(松田卓也、廣済堂新書、2013)-「特異点」を超えるとコンピュータの行く末を人間が予測できなくなる?
・・カーツワイルの「特異点」(シンギュラリティ)



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2010年10月15日金曜日

『ガラパゴス化する日本』(吉川尚宏、講談社現代新書、2010)を俎上に乗せて、「ガラパゴス化」の是非について考えてみる




「ガラパゴス」のどこが悪い?! -日本はそもそも、「本家ガラパゴス」をはるかにしのぐ「超ガラパゴス」なんだけどね(笑)

 「ガラパゴス化」という表現を初めて知ったのは、『ガラパゴス化する日本の製造業-産業構造を破壊するアジア企業の脅威-』(宮崎智彦、東洋経済新報社、2008)のことであった。この本を手にする前に、経済雑誌で見たのかもしれない。

 その当時まさに東南アジアはタイ王国のバンコクで、製造業相手の機械部品販売ビジネスに従事していた私から見ても、製造業についてはまったくそのとおりだなと強く納得したのを覚えている。

 「ガラパゴス化」とは、太平洋の孤島ガラパゴス島になぞらえた表現。その心は、世界の大勢から孤立した島のなかで、イグアナなど生物が独自の進化を遂げたガラパゴス島の状態を、同様に世界から孤立した島のなかで独自発展を遂げた日本の現状、とくに世界標準から大きく離れて進化している携帯電話について指摘したものだ。

 タイをはじめとする東南アジアでは、通信規格が欧州標準の GSM であり、しかも私が従事していた商売は、機械部品の規格品(標準品)を在庫販売する形態のビジネスであったので、余計に同感したのかもしれない。規格品はモジュール化のための基本である。

 『ガラパゴス化する日本の製造業』出版後、「ガラパゴス化」というタイトルの悲観論が世に一気に拡がったのは、「リーマンショック」と「トヨタショック」によって日本の製造業にとっての「円安バブル」というフォローの風が、一気にアゲンストの風に変わったという状況があったためだろう。

 ただし、ここでいう「トヨタショック」とは、米国での品質問題がらみのリコール騒ぎのことではなく、その前に顕在化した大幅な販売数量落ち込みのことを指す。


『ガラパゴス化する日本』(吉川尚宏、講談社現代新書、2010)をレビューする

 本書は、その『ガラパゴス化する日本の製造業』から始まったキーワード「ガラパゴス化」を日本全体に拡大して論じた本である。いっけん難しそうな内容に思えたが、中身は一気に読み進めることができる。

 基本的に、経済学者・野口悠紀夫などの所説を踏まえた、日本がおかれている状況にかんする著者の現状分析は正しい。日本の経常収支構造はもともと内需中心であって、外貨を稼いでいるという日本国民一般の固定観念とは大きく異なり、むしろ巨大な国内市場を抱える米国に近い構造である。

 しかし、日本が人口減少によって縮小している「縮小するガラパゴス」であるのに対して、米国は移民を含めた人口増加傾向にある「膨張するガラパゴス」であるとする点、ここまでは著者の分析には賛成だ。

 また日本の製造業がモジュラー型への移行が必用だという所論にも賛成だ。そのための形式知の重要性についても同感だ。

 だが、処方箋にかんしては納得しがたいものを感じるのは、基本線が悲観論の様相を帯びており、おそらく本人は無意識であろうが、大企業クライアントのみを相手にしてきたエリートによるエリートのための、上から目線に終始しているからのように思われる。

 本書で説く内容の問題は、国全体のマクロレベルの話と、企業や個人といったミクロレベルの主体的な行動とは次元が異なるという点にあることに十分に留意していないことにある。

 第2章のおわりで、日本企業と日本国と日本人がとるべき選択にかんするシナリオが8つ提示されている。

シナリオの説明(参考)

「① 総ガラパゴス化シナリオ」
「② 若者日本脱出シナリオ」
「③ 霞ヶ関商社化シナリオ」
「④ 国が先導し、若者が中心となる脱ガラパゴス化シナリオ」
「⑤ JUDOシナリオ」
「⑥ 優良企業・優良人材脱出シナリオ」
「⑦ 官民グローバル化シナリオ」
「⑧ 出島シナリオ」


 著者が第4章で詳細に論じている 「③霞ヶ関商社化シナリオ」と、その対極にある「特区」活用型「⑧出島シナリオ」、著者の主張は、この「⑧ 出島シナリオ」にあるようだ。これは別に否定はしない。
 ただ、ここでは詳しく説明しないが、私は個人的には、「⑤JUDOシナリオ」が可能性としては一番高く、「⑥優良企業・優良人材脱出シナリオ」がそれに次ぐだろうと考える。悲観論からではなく、それがもっとも自然だと思うからだ。それがいいかどうかは別にして。

 「JUDO化」とは、競技スポーツ化によって世界の JUDO になった結果、日本のお家芸だった「柔道」がチカラを発揮できなくなってしまった現状を指している。

 みなさんも、自分なりの結論を考えて見ると思考訓練になるので、やってみたらいかがでしょうか。具体的には、直接本文(P.141~142)をよく読んでみてください。

 「⑥優良企業・優良人材脱出シナリオ」に対しては、国が制度面で規制撤廃を図っていく以外に施策はない。

 なぜ私が、著者の見解にあえて反することをここに書くかというと、著者が現状を憂えて主張する「べき論」と、日本人の特性と時代環境を踏まえた「である論」はわけて考えておきたいからだ。

 現在の日本は、著者のみるように米国社会に近いといえる。ともに海外に出たがらない「ガラパゴス」の住民という点において。日本人も流動性が高かった高度成長期はもうウンザリだろう、落ち着きたいのだ。米国人も米国からさらによその国に移民しようというのは、一部のユダヤ系市民だけだろう。

 ただし、「膨張するガラパゴス」の米国に対して、「縮小するガラパゴス」の日本という違いは存在するが。

 しかし、同じマクロ経済データをみても、たとえば経済評論家の三橋貴明の所論とは正反対の結論にいたるのは面白いことだ。書評 『日本のグランドデザイン-世界一の潜在経済力を富に変える4つのステップ-』(三橋貴明、講談社、2010)を参照。

 著者は悲観的にものを見ているが、三橋氏は楽観的にみている。この違いはただ単にマインドセットの問題だけではないように思う。

 日本はそのもてるマンガやアニメなどのソフトパワーによって、海外から観光客を「引き寄せ」ているという現実を無視すべきではないという視点をもっているか否かの違いではないだろうか。

 実際にアキバ(秋葉原)にいってみればいい。外国人が多くいるのは、そこでしか入手できないモノが多数あるからだ。それは日本が、アキバこそが、お宝が無尽蔵にでてくる「ガラパゴス」だからである。

 つまるところ、日本全体の話と、企業や個人のとるべき選択肢は一緒に論じるべきではないのである。企業は株主の利害に従って、個人は自分のもてる資源とマインドセットに基づいて行動する。それだけではないか。

 ただし、第3章の「脱ガラパゴスの道」で取り上げられた個別の業界とそこで活躍するプレイヤーである個別企業のケーススタディにあるように、要は非製造業においても、業界特性と製品特性を正確に把握したうえで、コンテンツを形式知化し、モジュール化をどこまで経営戦略に取り込めるかというミクロレベルの話なのである。
 こういった戦略をとるかとらないかは、あくまでも個別企業の選択の問題だ。

 出版されてから8ヶ月たってから初めて読んでコメントするので、フェアじゃないかもしれないが、この間に「ガラパゴス」の何が悪いのだという声も多数あがっているのは当然だと思う。amazonのレビューでも、そうじて本書の評価が低いのは、現在の日本の「空気」を体現しているといえる。


生物固有種の数においては、日本はガラパゴス以上の「超ガラパゴス」なのである!つまり「世界一」なのだ!

 先日放送されていた、NHKスペシャル「日本列島 奇跡の大自然 第2集 海 豊かな命の物語」では、生物固有種の数においては、なんと日本はガラパゴスに勝っている(!)そうだ。日本は「ガラパゴス化」するどころか、そもそも日本こそ「超ガラパゴス」なのであったというオチがついたお話。

 文明論の観点からいっても、いわゆる「鎖国」時代に、多種多様な独自の固有文化の花が開いたことは周知のこと。これが現在にまでつながる日本人の感性、発想のユニークさ(・・文字通りの one and only の意味で)を作り出しているのである。
 だから、「ガラパゴス」であること自体はなんら問題はない。問題は、この「ガラパゴス」をいかにソフトパワーとして活性化するかにかかっているのではないか?
  
 日本にしかいない「スノー・モンキー」(snow monkey)を見るために、外国から観光客がくる。スノー・モンキーとは、東北地方に住むニホンザルのことだ。これは、人間以外では、もっとも北に住むサルらしい。青森県はサル生息の北限である。長野県の地獄谷温泉のニホンザルの映像はここ(YouTube映像)。

 日本国内のエンジニアのモチベーションを維持するために、つねに難しい製品化開発に従事させているという実状も無視してはいけない。ただし、開発成果は自社内に埋もれさせず外販するなど、とるべき施策はいくらでもあるはずだ。死蔵されていまっている技術がかなり多い。

 あとは日本のソフトパワーがどこまで米国のソフトパワーを凌駕できる所まで行けるかということにかかっているといえよう。すでにある日本のソフトパワーの「引き寄せ力」には多大なものがある。ソフトパワーの中身そのものにかんしては、政府や官僚は余計なクチを挟むべきではない。個人や企業が活動しやすい環境整備に徹すればそれで必用にして十分だ。

 浮き足立たずに、しっかりと自分の足元を見つめるべきだ。自分の会社も生き方も。

 そもそも「日本は・・」などと、国士きどり(?)の発言が空虚に響くのは、すでにそれが「昭和的」な風景と化しているからだ。「平成」に生きるわれわれは、まずわれわれ国民の一人一人が取り組まねばならないのは、自分とその家族、そして生活費を稼ぐ場である職場からだろう。

 日本企業は、国内の厳しいマーケットと新興国のスペック要求の厳しくないマーケットを同時に攻略すればよい。ベンチャー精神に富んだ人は海外でもまれたらいいというお話だ。 

 海外に出たい人間は出るだろうし、海外に出ざるを得ない人間もまた出るだろう。しかし、出たくない人間はたとえ所得が下がっても、もはや移民という形でも出ようとしないだろう。人口膨張傾向にあった過去の「近代日本」とは根本的に違うのだ。

 これは、日本で暮らしている、ブラジルなどの日系人をみていると不思議ではないと思う。日本人は、ブラジル国籍の日系ブラジル人のことを「日本人」とはみていないと思われる。海外移民したら、あのようになってしまうのかと見ているのではないのだろうか。

 日本人というのは、いったん日本から出てしまうと、糸が切れたタコみたいに縁が切れてしまいがちなのだ。中国人や韓国人とは違って宗族意識が弱いので、「一族内での世界ネットワーク」を形成しにくい。だから、華僑のような形での海外進出はあまり期待しない方がいい。

 日本と海外を行ったり来たり、出たり入ったりしたらいいのではないかな。


<初出情報>

 『ガラパゴス化する日本』(吉川尚宏、講談社現代新書、2010)のレビューは、このブログへの書き下ろしです。



目 次

第1章 ガラパゴス化する日本
 ガラパゴス化とは何か?
 日本製品のガラパゴス化 ほか

第2章 なぜガラパゴス化はよくないのか?
 柔道とJUDO教訓
 日本製品のガラパゴス化の行き着く先 ほか

第3章 脱ガラパゴス化への道
 海運業界のケース
 トレンドマイクロのケース ほか)

第4章 脱ガラパゴス化へのヒント
 企業の新しい戦略遂行能力-ゲームのルールをつくる、ルールをかえる
 霞が関商社化シナリオ ほか)



著者プロフィール

吉川尚宏(よしかわ・なおひろ)

A.T.カーニー株式会社プリンシパル。京都大学工学部卒、京都大学大学院工学研究科修士課程修了、ジョージタウン大学大学院修了(IEMBA プログラム)。野村総合研究所、野村総合研究所アメリカ・ワシントンDC支店等を経て現職。2009年10月より、総務省「グローバル時代における ICT 政策に関するタスクフォース」のメンバーに就任。専門分野は通信、メディア、金融サービス分野におけるマーケティング戦略、価格戦略、事業戦略、オペレーション戦略、制度設計や規制対応戦略など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



PS 読みやすくするために改行を増やした。内容にはいっさい手は入れていない。(2014年8月12日 記す)


<ブログ内関連記事>

書評 『中古家電からニッポンが見える Vietnam…China…Afganistan…Nigeria…Bolivia…』(小林 茂、亜紀書房、2010)
・・新興国向けには過剰スペックではなく、ベーシックに高品質な製品を販売すべきだろう。メードインジャパンではなくなっても、日本ブランドがついている限り品質は安心できるというもので・・

書評 『空洞化のウソ-日本企業の「現地化」戦略-』(松島大輔、講談社現代新書、2012)-いわば「迂回ルート」による国富論。マクロ的にはただしい議論だが個別企業にとっては異なる対応が必要だ

書評 『この国を出よ』(大前研一/柳井 正、小学館、2010)
・・「この国をでよ!」と檄を飛ばすこの二人も、「いったんこの国をでたら戻ってくるな」などとは一言も言っていない。

書評 『民衆の大英帝国-近世イギリス社会とアメリカ移民-』(川北 稔、岩波現代文庫、2008 単行本初版 1990)-大英帝国はなぜ英国にとって必要だったのか?
・・本国で雇用がつくりだせない以上、増大する失業者が社会問題にも発展しかねない。そこで活用されたのが、植民地だったのである

「JICA横浜 海外移住資料館」は、いまだ書かれざる「日本民族史」の一端を知るために絶対に行くべきミュージアムだ!
・・かつて過剰人口問題に悩んでいた日本もまた「移民」送り出しで問題解決を行っていた

書評 『未来の国ブラジル』(シュテファン・ツヴァイク、宮岡成次訳、河出書房新社、1993)-ハプスブルク神話という「過去」に生きた作家のブラジルという「未来」へのオマージュ
・・移民の国ブラジル。民族は共存し融合していく

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)
・・明治以来の「近代」は終わったんだよ、と静かに、しかし熱く語る論客の語りに耳を傾けよう。

『移住・移民の世界地図』(ラッセル・キング、竹沢尚一郎・稲葉奈々子・高畑幸共訳、丸善出版,2011)で、グローバルな「人口移動」を空間的に把握する

(2014年8月12日 情報追加)




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