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2011年10月22日土曜日

「リスボン大地震」(1755年11月1日)後のポルトガルのゆるやかな 「衰退」 から何を教訓として学ぶべきか?


 ひさびさにポルトガル料理を食べて、赤ワインを心ゆくまで飲んだ。大学学部のゼミナールのメンバーたちと。

 ポルトガル料理店マヌエル四ッ谷店。マヌエル・カーザ・デ・ファド。ファドの家である。

 渋谷店は何度もいったことがあるが、四ッ谷店ははじめてだ。渋谷店が家庭料理をコンセプトに出しているのに対し、四ッ谷店のほうはファドの生演奏をコンセプトにしている。ただし、昨夜は演奏はなかったので、かえって会話に集中できてよかったが。

 シーフードをたっぷり使った料理は日本とよく似ている。というより、日本化した西洋とはポルトガルのことかもしれない。もうそれともわからないくらい日本化してしまっているのかも。

 この原稿は、「3-11」から2ヶ月たっていない、今年の5月にアップすべく準備したのだが、その後忙しくなってほったらかしになってしまっていた。この機会にあらためて、全面的に書き直してアップすることとした次第だ。


ポルトガルは物価も安くてのんびりした風土が心地よい

 個人的にはポルトガルという国も、リスボンという街も大好きで、1999年には10日くらい滞在していたことがある。ユーラシア大陸最西端のロカ岬までいって、認定証にもサインしてもらっている。

 リスボンはある意味、タイのバンコクのようにゆるやかな空気の流れた街で、しかもシーフードが安くて旨いときたら、ついつい長期滞在というより、「沈没」したくなってしまうのもムリはない。作家の檀一雄が晩年に一年間、ポルトガルの漁村サンタ・クルスに移り住んだのも納得できるものがある。

 とはいえ、いやだからこそ、あまり長居するとヤバいなと思ったわたしは、リスボン滞在は切り上げて帰国することにしたのだった。いまから12年前のことである。

 そういえば、わたしがリスボン入りしたその当日、まさに奇しくもファドの女王、ポルトガルの至宝であったアマーリア・ロドリゲスが亡くなったのだった。1999年10月6日である。それから3日間がポルトガルは喪に服していたのだった。

 いま、ファドの女王といわれたアマリア・ロドリゲスのCDをいかけながら書いているが、漁師町で夫の帰りをまつ女性の心情を歌ったファドを聞いていると、東北の三陸海岸とどうしてもオーバーラップしてしまうのを感じる。下の写真は、リスボン滞在中に Virgin Megastore で買ったもの。滞在中は毎夜、赤ワインを飲みながら、持参した CDプレーヤーで聴きこんでいた。



 ドイツの映画作家ヴィム・ヴェンダース監督のロード・ムービー『リスボン物語』(1995年)。これに出演しているポルトガルのバンド、マドレデウスもまたファドの影響を受けていて心地よい。

 衰退した国家の、のんびりとしたライフスタイル。観光客としてポルトガルを訪れる限り、これはけっして悪いものでもないな、と思ってしまう。そう思うのは、わたしだけではないだろう。



「リスボン大地震」(1755年)とその後のポルトガルのゆるやかな衰退

 リスボンでは、1344年、1531年、1755年に大地震が発生して大きな被害をもたらしてきたが、とりわけ 1755年の大地震はリスボンに壊滅的打撃を与えたものとなった。

 まずは、「1755年リスボン地震」がどんなものであったのか、そしてポルトガルの首都リスボンは、はどう復旧、復興し、あるいは復興できなかったのか、ゆるやかな「衰退」をたどることになるポルトガル史の一断面として見ておきたいと思う。

 「リスボン大地震」(1755年)という wikipedia の項目から、ちょっと長くなるが引用させていただこう。
 
「1755年リスボン地震」は、1755年11月1日に発生した地震。午前9時40分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5。「リスボン大震災」ともいう。リスボンは地震の後、津波と火災によりほぼ灰燼に帰した

 これによりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いはそがれることとなった。

 また震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における弁神論と崇高論の展開を強く促したといわれる。それまで存在した「予定調和的世界」が崩壊してしまったのだ。

 「1755年リスボン地震」によって思想的に大きな変化を蒙った思想家にはヴォルテールがいる。これについては、ブログ記事「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読むを参照されたい。

 「1755年リスボン大地震」は当時の西欧世界においては、2011年の「3-11」級のインパクトがあったということだろう。アタマでは知っていた知識も、じっさいに大地震を体験したことで、日本人としてアクチュアルなものと感じることができるようになった。

 今回の「東北関東大震災」が発生する前のことだが、NHKの番組でこういう内容のものを見たのを思い出した。「リスボン大地震」の痕跡が、当時から残っている民家の壁を分析することによって明らかになるというような内容だったと思う。

 さて、引き続き、wikipediaの記述によって、リスボン再建と新生のプロセスについて見ておこう。

震災後

 国王一家は幸運なことに震災で怪我ひとつしなかった。ジョゼ1世らは当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、王女の願いを聞いて街から離れて祭日を過ごそうとしていた。地震の後、王は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。

 宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さぁ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。
 彼は、後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。

 教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された。ポルトガル軍は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。

 震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の知恵が現実になったことを示している)

 当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、世界最初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。
 こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。

 いやな連想はもちたくないが、ポルトガルはその後二度と覇権国になることはなかった。ポルトガルが味わった「短い黄金時代」は、植民地支配と収奪によるものだが、黄金時代の短さにかけては日本と同じかもしれない。

 この大地震のあと、リスボンはまったく新しい都市として再生したが、植民地依存型経済のポルトガルはブラジルも失い、衰退への道をたどっていくことになる。現在のポルトガルは、財政破綻した小国家にすぎない。

 とくに2008年の「リーマンショック」以降は、債務不履行すれすれの状態、国の将来に見切りを付ける若者が増えているという報道もある。書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)を参照していただきたい。 

 司馬遼太郎の『街道をゆく 23 -南蛮のみちⅡ』(朝日文庫、1988)に収録された「ポルトガル・人と海」によれば、作家・詩人の木下杢太郎こと太田静雄医学博士は、若い頃の南蛮趣味が高じて、キリシタン研究も趣味の域を超えていたようだが、若き日の憧れの地であるポルトガルに中年になってからはじめて訪れたリスボンは、喧噪が甚だしく、「大地震」以前の古いもの建築物が残っていないのであまり興味をひかなかったらしい。

 あえてポルトガルを代表する詩人フェルナンド・ペソアのリスボン案内記『ペソアと歩くリスボン』(近藤紀子訳、彩流社、1999)を引き合いに出さなくても、リスボンは坂の多い、じつに魅力的な街だ。司馬遼太郎も気に入っていたようだ。わたしも大いに気に入っている。



「高校地図帳」からわかる日本とポルトガルの共通性

 日本の東北とポルトガルの海岸線は、距離的にはほぼ同じ400km である。

 「3-11」の大津波の被害のあった東北太平洋岸の海岸線が 400km という話をきいてピンときたので、さっそく高校の地図帳を取り出してみたら、なんとあらかじめ図ったかのように、ポルトガル沖に日本列島をうすいピンク色でプロットされているではないか!

  以下にスキャンしたのは、『新詳高等地図-最新版-』(帝国書院編集部編、帝国書院、2006)である。高校の地図帳ほど役にたつものはない。



 そういえば緯度もほぼ同じ、同じく漁業国で「海洋国家」。この二つの国には、共通点があまりにも多すぎるのだ。

 リスボン大地震の震源は、イベリア半島南西沖のようだ。おなじく wikipedia から、震源地をプロットした画像を引用させていただこう。



 そしてまたあかるのは、「1755年リスボン大地震」では、津波が同心円状に拡がっていったことだ。おなじく wikipedia から、津波の拡散状況をの画像を引用させていただこう。



 この地図からもわかると思うが、ポルトガルは地中海諸国ではないのだ。ヨーロッパでは唯一、大西洋にのみ面した国である。アメリカ大陸ををはさんで、ポルトガルと日本とは隣国といえる。これは地球儀で確認できることだ。

 じっさい、米国東海岸の漁師には、アゾレズ諸島などから漂流して居着いたポルトガル系の人間が多いとも聞く。東海岸のビーチを歩いていると、肌が浅黒く、あきらかにアングロサクソンではない風貌をよく見かける。

 そしてまた、ユーラシア大陸の両端に位置しているのが日本とポルトガルである。ユーラシア大陸はユーラシア・プレートのうえに乗っている。日本もまた西半分がユーラシアプレート上にある。

 wikipedia の「プレート」という項目に掲載されている地図を加工して、ユーラシア・プレートを中心に再構成してみると、3つのプレートがぶつかる日本ほど危険ではないが、ポルトガルもまた沖合で2つのプレートがぶつかりあう危険な地帯であることがわかる。



 日本が「日出づる国」であれば、ユーラシア大陸の西端に位置するポルトガルは「日沈む国」である。対岸北アフリカのマグリブと緯度は違うが軽度はほぼ同じだ。



衰退の作法-ポルトガルの場合

 「大英帝国の興亡」は日本でも大きな話題になるが、おなじく「海洋帝国」であった「ポルトガルの衰退」は、なぜか話題になることは少ない。

 「大航海時代」を切り開いたのは、ユーラシア大陸西端の国家ポルトガルであり、その旗振り役を果たしたのがエンリケ航海王子である。

 インドのゴア、現在のマレーシアのマラッカ、そして中国のマカオを極東の拠点にして日本とも往来するに至ったのは、現在ではもともと存在したイスラーム商人の交易ルートに取って替わったものであると了解されるようになっている。とはいえ、爆発的なエネルギーが根底にあったことは間違いない。

 それに加えて、「進取の気性」の強いのがポルトガル人だろう。 『ウズ・ウジアダス』(ポルトガルの人々)で有名なポルトガルの国民詩人カモンイス(1524年頃~1580年)は、一節によれば、なんとマカオまで足を伸ばしていたという。

 伝統的に海外にでかける人間が多いポルトガルは、本国とは縁が切れて「土着化」してしまっている者もきわめて多い。

 ブラジルでも、インドのゴアでも、マレーシアのマラッカでも、東ティモールでも、現地人と混血して「土着化」が進んでいる。人間も混血すれば、料理も土地の料理と融合してあらたなジャンルを生み出すに至っている。『南蛮料理のルーツを求めて』(片寄眞木子、平凡社、1999)は、土着化したポルトガル人の末裔の料理におけるクリエイティビティをよく描いた本でおすすめだ。

 日本には、ポルトガルの元海軍士官で、外交官として神戸に駐在していたモラエスのような人もいた。モラエスは後半生を徳島に隠棲して過ごしている。

 日本にかんする記事の文筆活動で生計を支えていたモラエスは、ポルトガル本国との縁は切らなかったようだが、現在ではポルトガル国内でも知る人は少ないようだ。

 リスボンに行った際、観光案内所でモラエスの旧家について場所を訊ねたところ、わからないという回答が帰ってきただけでなく、「モラエスとは誰か?」と逆に聞かれてしまった。ある意味では、海外に土着し、その土地の土となって、本国に住み人間からは忘れ去られた人であるのかもしれない。

 海外に出て「土着化」しやすいのは日本人も似ているような気がする。それはそれで、いいではないか。

 徳川幕府の三代将軍家光のときにいわゆる「鎖国令」がでてから、海外在住の日本人は帰国できなくなり、在住先に土着化し歴史のなかに消えていった。こういう点は、移住先にチャイナタウンをつくる中国人とは大きく異なるようだ。

 「鎖国」した日本とは異なり、17世紀以降も、ゆるやかに衰退しながらも 「海洋国家」 でありつづけたポルトガルは、最初で最後の「植民地帝国」として、「1755年リスボン大地震」以降は、国内経済の衰退を植民地への経済的依存で乗り切った。先にも書いたように、ポルトガルは1974年の革命で海外植民地ほほぼすべて放棄したが、マカオは最後の最後まで維持しつづけた。

 わたしがリスボンに滞在していた1999年10月は、旧ポルトガル領の「東ティモール独立運動」がピークに達していた頃だ。音楽による東ティモールへの支援活動も行われていて、バンドの名前は忘れたが、わたしもシングル盤のCDをリスボンで購入している。

 東ティモールは1999年8月に国民投票で独立を選択し、2002年にはようやくインドネシアから独立を勝ち取ることができた。1997年の 「IMFショック」後の弱体化した経済と混乱する政治状況のなか、激しい闘争ののちに勝ち取った独立であるが、陰に陽にポルトガルが支援していたことも記憶しておくべきだろう。インドネシアは、東ティモール以外は大半がオランダの植民地であった。

 そして、1999年12月20日、ポルトガル最後の植民地マカオは中国に返還された。1997年の香港返還の影にかくれて忘れられがちだが、英国が香港を放棄した時点でマカオの運命も決まったといってよい。

 できれば、返還される前にマカオに行きたかったのだが、残念ながらそれはかなわなかった。数年後にようやくマカオにはいくことができたが、予想に反して街中にはポルトガル語表記の看板が生き続けていた。

 まあ、こんなことを考えていると、うまい衰退の仕方が重要なのではないか、と思うのである。大英帝国も、オランダも、フランスも、スペインもポルトガルも、植民地を放棄したかつての覇権国はいずれも、歴史の表舞台から主役を降りた後は、ゆるやかに衰退する道を歩まざるをえない。これは、いい悪いといった次元の話ではなく、歴史的事実である。

 「衰退」という二文字には夢がないというなかれ。 日本はここにきてやっと大人の国に脱皮する重要な時期を迎えつつあるのではないか。

このブログでも、NHKによる「坂の上の雲」ドラマ化に距離をおいて、衰退論として大英帝国に言及した記事を書いているが、重要なのはどのような衰退の仕方を選択するかということではないだろうか。

 衰退の比較論をするにはブログ記事だけではとても書ききれないが、大英帝国も、オランダも、フランスも、スペイン、ポルトガルについて、衰退過程が始まってからの歴史的推移をキチンとトレースすることが重要である。

 海外にでて土着化するもよし、国内に踏みとどまって生きてゆくのもよし。 

 要は、この日本もまた短い黄金時代を享受したのち、間違いなく始まっている衰退過程にあるという歴史的事実から目をそらすことなく、まずは自分自身の生き方を決めて行動していくことが大事なのである。

 他人の行動を非難したり、吠えたりするのはお門違いだというべきだろう。あくまでも自分の人生、他人の発言に右往左往すうることなく、信念を貫いて生きてゆくべきである。


<参考文献>

『ポルトガル史』(金七紀男、彩流社、1996)

『街道をゆく 23-南蛮のみちⅡ-』(司馬遼太郎、朝日文庫、1988)


『ポルトガルへ行きたい(とんぼの本)』(菅原千代志/日埜博司他、新潮社、1995)


『ポルトガルを知るための55章 第2版(エリア・スタディー)』(村上義和/池俊介=編著、明石書店、2011)がつい先日、2011年10月に出版されたが、驚いたことに、1755年の「リスボン大地震」の記述が項目としてたてられていない。「3-11」後の日本ではもっとも大きな話題である「大地震」を、ポルトガルはどう乗り切ったか、乗り切れなかったのかという記述を欠いているのは理解できない。
編者たちも出版社も、時代状況が読み切れずに、ピンぼけしているのではないか?


 


PS 2023年9月8日に発生したM6.8のモロッコ大地震

死者が2000人を超える大地震が発生。世界遺産のマラケシュでも、耐震設計のされていない旧市街やモスクが倒壊。
モロッコはポルトガルとは地中海をはさんで対岸にある。ポルトガルは「ユーラシアプレート」、モロッコは「アフリカプレート」のうえにあり、ともにプレートの境界に近い
詳細は、「2023 Marrakesh-Safi earthquake」(Wikipedia)を参照。

(2023年9月12日 記す)



<関連サイト>

大地震はそれまでの楽観論を覆した-18世紀、リスボンの地震が起こした思想界の激震(上)
・・しかし一七五五年に、リスボンとは遠く離れたケーニヒスベルクの町で大学の私講師になったばかりのカントにとっては、この事件は神の摂理の問題でも、弁神論の問題でもなく、まず地球力学の問題だった。

旧植民地に頼るポルトガル(FINANCIAL TIMES の翻訳記事 2010年1月18日)

イタリアとスペイン国債が下落-ポルトガル格下げで危機拡大を懸念 2011年7月6日

止まらぬ頭脳流出 ~ユーロ危機 ポルトガルの落日~ (NHK・BS1 ドキュメンタリーWAVE 2012年10月6日放送)
・・ポルトガル旧植民地のアフリカ諸国に頭脳流出する若者たち


<ブログ内関連記事>

「自分の庭を耕やせ」と 18世紀フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは言った-『カンディード』 を読む

We're in the same boat. 「わたしたちは同じ船に乗っている」

書評 『ユーロが危ない』(日本経済新聞社=編、日経ビジネス人文庫、2010)
・・「ポルトガルがさらに衰退する可能性の岐路にたっている記述を読むと、他国のことながら暗澹(あんたん)とした気持ちになる。若者に夢のない国として、母国に見切りをつける動きがでているらしいのだ」

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ
・・ポルトガルの漁村で晩年の一年間を過ごした檀一雄の『檀流クッキング』には、ポルトガルの庶民料理も登場する。

「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・1543年鉄砲伝来、1549年キリスト教伝来。ともにその役割を担ったのは「大航海時代」のポルトガル人であった

書評 『未来の国ブラジル』(シュテファン・ツヴァイク、宮岡成次訳、河出書房新社、1993)-ハプスブルク神話という「過去」に生きた作家のブラジルという「未来」へのオマージュ

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

秋山好古と真之の秋山兄弟と広瀬武夫-「坂の上の雲」についての所感 (2) 

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)

(2016年2月8日 情報追加)


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2010年3月28日日曜日

書評『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)ー「下り坂の衰退過程」にある日本をどうマネジメントしていくか「考えるヒント」を与えてくれる本




「下り坂の衰退過程」にある日本をどうマネジメントしていくか、直接的な参考にはならないが、現状を冷静に見つめるための「考えるヒント」を与えてくれる本

 「脱欧入亜」によってアジア・アフリカで一大植民地帝国を築き上げ、ヨーロッパ大陸とは基本的に距離をとってきた大英帝国の興亡。

 1492年から始まった「西洋による世界支配の500年」、その先導役となったのがスペイン帝国であったならば、その後に覇権を握ったのは、エリザベス一世のもと海賊を取り込み、「情報力」によってスペインの「無敵艦隊」を打ち破った英国であった。

 英国は以後、スペインに変わって大西洋世界の覇権を握り、アメリカ独立によって北米を失うという痛い経験をしたのちも、「大英帝国」としてアフリカからアジアにわたる一大植民地帝国を築き上げていった。

 しかし大英帝国は、衰退過程に入ってから約半世紀にして植民地のほぼすべてを名誉ある撤退によって放棄、最終的には「脱亜入欧」によってヨーロッパに回帰することになる。米ソによる冷戦構造が崩壊したのち、1994年に雑誌連載されたこの歴史書は、大英帝国はすでに「歴史」として描かれる対象となったことを図らずも示すこととなった。


 本書は、大英帝国の支配が及んだ植民地の記述は非常に少なく、なぜ英国が300年近くにわたって覇権を維持できたかローマ帝国やヴェネツィア共和国の比較を念頭におきながらも、もっぱら英国内部の政治経済の状況と、政治を支えた貴族と国民の精神力に重点を置いた記述を行っている。

 大英帝国の草創期からその終焉にいたるまでを一冊で描いた本書は、日本語でよめる本では先駆となるもので、意外にも充実した読書感をもつことができた。

 私は個人的には中世から近世にいたる英国史にはまったく興味を感じることのできないのだが、大英帝国となって以後、とくにヴィクトリア女王統治下に絶頂期を経験し、以後衰退していく英国史には大いに興味をそそられた。より現代に近いというのもその理由の一つだろう。

 多くの有識者が改革の必要性について論じていたにもかかわらず、成功しているがゆえに改革が徹底できないもどかしさ。もちろん著者の念頭には、本書が雑誌連載されていた当時の1994年、そして単行本としてまとまった1997年当時の日本の状況があるのだろう。

 16年たった2010年の現在、この国で改革は果たして実行されたといえるのだろか。ただただ迷走を続けているようにしか見えないのだが。


 大英帝国に替わって世界の覇権を握ったのは米国であるが、現在この米国の覇権に挑戦するかのように視られているのが中国であることはいうまでもない。

 しかし、本書を読んで思うのは、英国に対する挑戦者としてヨーロッパ大陸から急速に勃興し英国を脅かす存在となったドイツが、何かしら日本に対して挑戦者として急速に勃興してきた中国を想起させるものがあるのだ。

 歴史の教訓として、英国はドイツを意識しすぎるあまり、衰退を早めたことが本書では語られている。もちろん当時の英国と現在の日本とでは、置かれている環境に違いがあるものの、地政学的には似たようなポジションにある英国のパターンが日本にもあてはまるのではないかと考えるのは不自然なことではないだろう。

 第二次世界大戦の勝利者となった英国が、実は財政的には破綻状態にあり、あらたな覇権国となりつつあった米国を頼みの綱と思い込んでいたにもかかわらず、戦争終結後は米国からきわめてビジネスライクな対応をされた英国の姿に、われわれはいったい何をみるべきか。われわれ自身のマインドセットも大幅に変更しなくてはならないのかもしれない。こんな感想ももつのである。


 「歴史にイフはない」と、当然といわんばかりにクチにするのは、二流の歴史家に過ぎないと私は思っている。人間の歴史とはさまざまな局面における政治的な意志決定が複雑にからみあい、意図せざる結果をもたらすものである以上、その時々の意志決定の是非について「イフ」を考えるのは、むしろ生産的で建設的な思考である。著者も、衰退論を研究する意味はそこにあると主張しており、大いに納得するものを感じた。

 日本もすでに「下り坂の衰退過程」にあるとはいえ、なんとかして国家として、民族として生きのびるためには、国民一人一人が考え、行動していかなくてはならない。本書は、そのための直接的な参考にはならないが、現状を冷静に見つめるためにの、考えるヒントを与えてくれる本である。

 「ローマ帝国」衰亡史や「ヴェネツィア共和国」衰亡史もさることながら、いまから50年前の1960年に「帝国の終わり」を公式に宣言したばかりの「大英帝国」の衰亡史こそ、まだまだ現時点においてリアリティをもって想像することのできる「歴史」である。

 いかに「下り坂の衰退過程」をマネジメントしていくか、この課題を考えることは政治家だけにまかすわけにはいかないのだ。


<初出情報>

■bk1書評「「下り坂の衰退過程」にある日本をどうマネジメントしていくか、直接的な参考にはならないが、現状を冷静に見つめるための「考えるヒント」を与えてくれる本」投稿掲載(2010年3月24日)


(新装版が2015年2月に発売 画像をクリック!




<書評への付記>

ミャンマー(ビルマ)の真ん中で『大英帝国衰亡史』を読む-「ご当地読書」のすすめ


 この本は、ミャンマーにもっていって、リゾート地のインレー湖にある水上コテッジのテラスで読み終えた(左写真)。背景に写っているのは、インレー湖の有名な足漕ぎ舟の漁師である。

 ミャンマーはいうまでもなくかつてはビルマ(Burma)と呼ばれた国であり、大英帝国の植民地として、英領ビルマは英領インドの一部として統治されていた。現在にいたるまでミャンマーでは軍事政権が続いている理由の一端に、かつての大英帝国が政策として巧みに実施運用していた「分割統治」(divide and rule)があることは知っておくべきである。

 多民族状況のビルマで民族どうしを互いに牽制させることによっって、ごくごく少数者である植民統治者である英国の支配を可能にした。これがいかに問題を現在まで残しているか、国内内戦状態がいまだに終わっていないのが、ミャンマー連邦(Union of Myanmar)の実情である。国内統一のための軍の存在は否定することはできないのである。もちろん、真の意味における民政移管が進展することを切に望むが、国内治安状況を考慮に入れれば、民主化にはまだまだ時間がかかるのは仕方あるまい。

 この点については、かつて私が書いた 書評『ミャンマーの柳生一族』(高野秀行、集英社文庫、2006)を参照されたい。ミャンマーを江戸時代に見立てた冒険作家の記述は実に鋭い。面白くてためになる本である。

 しかし、せっかく旧植民地ビルマ(ミャンマー)にもっていって読んだのだが、英領インドにかんする記述も、英領ビルマにかんする記述もごくわずかだった。「本書は、大英帝国の支配が及んだ植民地の記述は非常に少なく・・・」と書評に書いたのは、そういうことが背景にあった。

 とはいえ、こういう本を日本国内ではなく、「ご当地」の一つで読むというのも、また面白いものがある。観光気分を損ねない範囲内で、旅先でも本を読みたいものだ。

 ビルマ(ミャンマー)から大英帝国が去って62年、すでに「今は昔の物語」となっている感がなくもない。

 13年前に初めて訪れた時に比べても、大英帝国の名残が日に日に消えてゆくミャンマーであった。


『大英帝国衰亡史』(中西輝政)について

 本の中身については書評に書いたとおりだが、著者については毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする人物でもあるので、少し注記しておきたい。

 著者は、京大法学部大学院で政治学者・高坂正堯(まさたか)の弟子であり、英国贔屓(びいき)は、師匠譲りのものといえるだろう。以前このブログに書いた 書評『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)を読んでいただけると幸いだが、高坂正堯に比べると、同じ保守派とはいっても、資質の点からいってもだいぶ異なる印象を受ける。また、私自身は民主主義先進国である英国政治を特別視するつもりもないし、中西輝政のように英国の貴族制度が素晴らしいと手放しで礼賛する気持ちもない。

 この本を読んだのは、「大英帝国」の通史として、日本語で読める先駆的作品であること、かつ首尾一貫した内容で論旨に破綻がなく、また比較的コンパクトにまとまった本であるからだ。

 英語では、すでに British Empire にかんするに大冊が何冊も出版されており、私自身も2冊もっているが、正直いって面倒くさいので全部とおしで読むことはしていない。自分の関心にあわせて、アジアの旧植民地の記述を斜め読みするだけである。

 私が書評に書いた文章にこういう一節がある。

英国に対する挑戦者としてヨーロッパ大陸から急速に勃興し英国を脅かす存在となったドイツが、何かしら日本に対して挑戦者として急速に勃興してきた中国を想起させるものがあるのだ。歴史の教訓として、英国はドイツを意識しすぎるあまり、衰退を早めたことが本書では語られている。もちろん当時の英国と現在の日本とでは、置かれている環境に違いがあるものの、、地政学的には似たようなポジションにある英国のパターンが日本にもあてはまるのではないかと考えるのは不自然なことではないだろう。

 これは私の感想であって、著者自身のものではないが、いろいろと考えさせられるものが多い歴史的事実であるというべきである。

 日本を軸にして考えても、大英帝国がはじめて結んだ軍事同盟である「日英同盟」によって、からくも日露戦争に勝利した日本は、その後勃興してきた米国の横やりで日英同盟を破棄することを余儀なくされ、大東亜戦争においてはついには大陸国家ドイツと軍事同盟(=「日独伊三国軍事同盟」)を結ぶに至る。

 地政学的に見れば、ユーラシア大陸の両端に位置する英国と日本はきわめて似た性格をもっているが、「衰退する大英帝国」を見限り、「勃興するドイツ」と手を結んだのが正しい政策であったのかどうか、答えがすでにでているとはいえ、日本が国家としての透徹した歴史観を欠いていたことの証左ともなる意志決定であったといわざるをえまい。

 つい最近ブログに書いた 『次の10年に何が起こるか-夢の実現か、悪夢の到来か-』(Foresight編集部=編、新潮社、2000) - 「2010年予測本」を2010年に検証する(その2)には、2000年時点における塩野七生のインタビュー記事から引用を行ったが、19世紀の時点において「衰退する英国」「勃興するドイツ」にかんして面白い発言があったので再録しておこう。

塩野 たとえば、ギボンは『ローマ帝国衰亡史』を18世紀の啓蒙主義時代に書いた。・・(中略)・・当時のイギリス人として学ぶべきことは、どうすればローマのように衰退しないですむか、という一事だけだった。そこでギボンは、ローマの衰亡史のみをとりあげたわけ。
---ローマ帝国の後半部ですね。
塩野 ええ。ギボンはイギリスはローマを超えたと思っているので、ローマ帝国の興隆期のことは書く必要などないと思ったのでしょう。・・(中略)・・1848年にはヨーロッパ各地で革命が勃発・・(中略)・・この混迷の時代にモムゼンというドイツ人の歴史家が、建国からカエサルの死までの、ローマの興隆期を書くのです。まだドイツが統一されていない時期でしたから、なぜローマが統一し興隆できたかを、知りたいという痛切な欲求があったんですね。これが、ギボンのものと並んで現代に至るまでのローマ史の名著の一つであるモムゼンの『ローマ史』が書かれた背景です。

 英国は衰退し、ドイツもすでにピークは過ぎ、そして日本もともに下り坂の衰退過程にある。国のかたちはさまざま異なれども、いずれも全盛期はすでに過ぎていることは明らかである。
 
 しかし、中西輝政が『大英帝国衰亡史』最終章で書いているように、1960年代の英国はすでにビートルズを生み出し、新しい英国として再生していったことが語られている。

 1980年代には私の好きな元祖ビジュアル系バンドのクイーンも生み出しているし。ビートルズのメンバーはみなアイリッシュ(・・さかのぼればケルト人)の系統であったが、クイーンのボーカル故フレディー・マーキュリーは、パルシー(=ゾロアスター教徒)のペルシア系インド人植民地官僚の息子であり、まさに大英帝国の遺産そのものである。いまクイーンを聴きながらこれを書いているが、YouTube で Killer Quuen でも聴いてみましょうかね。ついでに We Are the ChampionsFlash も。きりがないからここらへんでやめとこう。

 「リーマンショック」以降の英国の現状は、財政面にかんしてきわめて多難なものがあるとはいえ、大英帝国の終焉以降も数々の苦難を時には荒治療も行いながら、なんとか乗り越えてきた。マーガレット・サッチャー、そして政党は違ってもその改革の継承者であるトニー・ブレア。
 1990年代のブレアの時代には「クール・ブリタニカ」(Cool Britanica)というキャッチフレーズを全面に打ち出したことも記憶に新しい。

 ビジネス界でいえば、いうまでもなく異端児リチャード・ブランソン率いるヴァージン・グループがある。いまはもう事業から撤退したが、私はかつて新宿のヴァージン・メガストアで海外版CDを大量に購入していたものだ。

 まあ、こんな状況もずべて踏まえた「大英帝国以後」を誰か書いてほしいものだ。

 しかし、中西輝政の表現を借りれば、「脱欧入亜」の大英帝国から、「脱亜入欧」で欧州に回帰したはずの英国では、EUには加盟したものの、究極の国家主権(sovereignty)である「通貨発行権」(seigniorage)を欧州に委譲して英ポンド(GBP)を放棄し、共通通貨ユーロを導入することにかんしては英国内では反対論も根強く、欧州内でのポジショニングとしてはスイスフラン(SFR)にこだわるスイスに近いものがある。

 さて、日本は日本円(JPY)の通貨発行権を守るのか、それとも「友愛」精神によって「アジア共通通貨」の道を選ぶのか??


 著者は、米国については以下のように書いている。

幼稚にも見える自己中心性と理想主義の一方で、到底それらと普通には同居しえないほどの鋭敏な感覚と複雑な「計算」能力をもつ、それが当初より国家としてのアメリカの本質であった。・・(中略)・・このようなアメリカ外交の、膨張的なパワー志向と原理的理想主義、プラグマティックな国益追求と高邁な理念の自己主張が、独特の仕方で結びつく、そのあり方・・(後略)・・(P.197)

 この覇権国である米国が簡単に衰退すると考えるのは、きわめて浅はかだというべきだろう。米国はユーラシア大陸国家ではなく、アメリカ大陸国家であることを忘れてはならない。

 「ユーラシア大陸の西端に位置する島国である英国」にとっての「ユーラシア大陸国家ドイツ」「ユーラシア大陸の東端(=極東)に位置する島国である日本」にとっての「ユーラシア大陸国家・中国」

 このいずれの関係にもあてはまらない、別の大陸の覇権国・米国は、地政学的に見れば別種の存在である。安直な「米中同盟論」などに耳を貸さないことが、われわれには必要なのではないか。私にはそう思われてならないのだ。

 著者は、1934年の時点で「英国衰退論の当否」という論文で、英国衰退を否定した外交官・石井菊次郎を引き合いに出して、以下のようなコメントを書いている。太字ゴチックは引用者による。

しかし事実として石井の予測がはずれたというだけでなく、石井のような発想には、大国の興亡という長大なドラマと歴史のダイナミズムを見てとる洞察力において、欠けるところがあり、とかく眼前の現状を過大評価しやすいという実務家にありがちな深い欠陥が指摘されねばならない。(P.84)

こうした、いわば目前の状況に拘泥する近視眼的な政治的配慮が、歴史を見据える眼を曇らせたのである。政策や実務に深い関心をもつ人間が、歴史の長い行末を見てゆくことの難しさを示す例といえよう。(P.85)

 実務家である私にとっては、実に耳に痛い苦言であり指摘である。肝に銘じておきたい。

 歴史は経済史に限ってみても、短期波動、中期波動、長期波動という異なる波動で動いていることに注意しておかねばならない。

 とくにコンドラチェフの波ともいう長期波動は重要であり、私はさらに「500年単位」の歴史の重要性を強く意識している。

 とはいっても、限られた人生であるし、ビジネス界にいる以上、どうしても月次単位あるいは四半期単位でものをみるクセも強い。デイトレーダーではないので、あまりにも細かい動きは見ないようにしているが、しかし歴史家の洞察力をもつのはいうはやすし、実際は難しい。

 歴史的洞察力と日々のビジネス活動との関係、実務家である以上、中西輝政のような態度はとりにくい。現在の関心を出発点にして歴史を考える点においては、歴史家も実務家も同じはずだが・・・。

 だからこそ面白い。真の意味で成功した人間は、必ずや確固とした歴史観をもっているものである。



<関連サイト>

欧州に「尖閣諸島とサラエボ」比較論 ドイツに広まる「日本は過去と真剣に向き合わない国」のイメージ (熊谷 徹、日経ビジネスオンライン 2014年1月27日)
・・「欧州の一部の知識人や言論人たちが、急成長する新興国・中国とヴィルヘルム2世統治下のドイツ帝国を重ね合わせている」


<ブログ内参考記事>

書評 『大英帝国という経験 (興亡の世界史 ⑯)』(井野瀬久美惠、講談社、2007)-知的刺激に満ちた、読ませる「大英帝国史」である

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)・・「海洋国家日本」のモデルとして高坂正堯が想定したのは英国

書評 『イギリス近代史講義』(川北 稔、講談社現代新書、2010)-「世界システム論」と「生活史」を融合した、日本人のための大英帝国「興亡史」

書評 『民衆の大英帝国-近世イギリス社会とアメリカ移民-』(川北 稔、岩波現代文庫、2008 単行本初版 1990)-大英帝国はなぜ英国にとって必要だったのか?

書評 『砂糖の世界史』(川北 稔、岩波ジュニア新書、1996)-紅茶と砂糖が出会ったとき、「近代世界システム」が形成された!

「東インド会社とアジアの海賊」(東洋文庫ミュージアム)を見てきた-「東インド会社」と「海賊」は近代経済史のキーワードだ

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?


P.S. The Economist 最新号にこういう記事がでている。まだまだ英国は健在のようだ。(2010年3月29日付記)
The British economy Out of the ruins: Growth will be sluggish. Yet, as a crucial election looms, Britain still has a lot going for it
Mar 25th 2010 | From The Economist print edition


PS2 読みやすくするため改行を増やし、「ブログ内関連記事」を増補した (2013年12月17日)


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