(1870年アメリカにて63歳のアガシー wikipediaより)
これは19世紀米国の博物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz 1807~1873)のコトバである。名字からわかるとおりフランス語圏の人で、スイス北西部のフリブール・カントンの生まれである。
海洋学者、地質学者、古生物学者であった。この時代の自然学者はむしろ博物学者といったほうがただしいだろう。
Study nature, not books !
ここに使われている英語自体は中学一年生でも理解できる、ごくごく簡単なものだが、実に含蓄のある表現だ。
直訳すると、「自然を学べ、本じゃないぞ」ということになるのだろう。
本で得た知識で自然を見るな、自然そのものを観察せよ、ということなのだろう。
確かに、知識を前提にものを見ると、曇ったグラスをとおして見るのと同じことだ。何か予断でもって物事を判断するのは危険なことだ、そういっているように思う。
子供の頃の私は自然観察少年だったから、動植物から鉱物にいたるまで何にでも関心の強い、いわば18世紀的博物学者志向の人間であったのかもしれない。
だから、このコトバはよく理解できる。その頃は、もっぱら図鑑をぼろぼろになるまで熟読していた。文字も読んでいるが、図像を読んでいたといえる。あくまでも自然界に存在するものが主であり、図鑑にある図像は従であったはずだ。
大人になったら魚の養殖の研究をしたいと考えていた。いわゆる栽培漁業(marine agriculture)である。もともとは理系志向の人間である。
■「もの」を「もの自体」として曇りなき目で見る
その後、本を読むことの味を覚えてしまってからは、かなり本を読む人間となってしまった。自称「活字中毒者」だが、知識で目が曇らされないようにはつねに心がけてきた。
実際に自分の目で見ること、五感を使って体験すること、これがもっとも大事である。
しかし、曇りなき目でものを見るというのは、実は思っているほど簡単なことではない。
大学時代に、現象学という哲学があることを知った。
ものをもの自体として見る、そのための哲学的方法論である。
実存主義の哲学者J.P. サルトルがドイツ留学から帰国した盟友メルロ=ポンティから現象学の話を聞いて、コップをコップとして語ることのできる哲学だ、と驚喜したという話が、木田元の『現象学』(岩波新書、1970)という本にエピソードとして紹介されている。
ものをもの自体として見る、しかしこれには言語を媒介とせざるをえない。そうでないと、見ても見えていない、ということになってしまう。
■蔵書という自己増殖する「生態系」(エコシステム)
本もまた数が増えると自然界に近い様相を呈してくる。私の書斎は熱帯雨林状態である。
本はよく読むが、ビジネスマンでそれなりのポジションにあり、なまじカネがあったので読むスピードよりも速いスピードで本を買っていた。
不要な本は捨てると新陳代謝(ホメオスタシス)が働くのだが、どうも整理するのが面倒なので・・・
最初は整然と並べるのだが、そのうちに生態系が形成され、整理という人為的な手を加えなくなると、自然に増殖をはじめ、「ブックカフェ」のはずだったのがいつしか・・・
もちろん勝手に増殖するわけではないが、定期的に整理を行わないとそうなってしまう。自然のままにまかせると、日の当たる面と当たらない面が分かれてくる。
しかし、この間引き剪定という選別作業は実にやっかいなものだ。
思い切りよく捨てることができる人はうらやましい。しかしその反面、肝心なものも捨ててしまう恐れはないのか、という懸念ももつ。
■Study nature, and books !
昨年の夏にダンボール100箱ほど売却処分した。本をめぐる自分の人生の回顧ともなる作業であった。残りの人生を考えると、やみくもに手を広げすぎるのは抑制もしなくてはなるまい。
そして今月、またダンボール15箱ほどを売却するか廃棄した。本当はもっと処分しなければならないのだが、考えただけでもくたびれてしまう。
英語版の映画VHSは結局引き取り手がなく廃棄処分とした。テクノロジーの進歩から取り残されたフォーマットは無用の長物である。映像コンテンツというソフトウェアそのものには価値があってもビデオテープ自体にはほとんど価値はない。
しかし本は単なるコンテンツではなく、質量をもった物理的な存在でもある。「自然」と「本」とをあまり対立物とは考えたくない。鉱物だって静物ではないか。匂いや手触りといった量感を大事にしたい。
だから私にとっては、Study nature, and books ! というのが、もっともぴったりくる表現なのだ。
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PS2 お雇い外国人のモースはルイ・アガシの弟子だった
重要なことを書き忘れていたことに気がついた。
明治時代初期の「お雇い外国人」の1人で「大森貝塚」を発見した米国人のエドワード・S・モースは、ハーバード大学でルイ・アガシの弟子であった。まさに study nature, not books ! の実践者だったわけだ。とはいえ、モースは日本がらみで多数著作を残している。
ちなみに生物学者として招致されたモースは、日本で「進化論」のレクチャーをしているが、日本人が異議なく「進化論」を受け入れたことに驚いたといわれている。21世紀の現在でも進化論を否定する人が多くいるのが米国であることを考えれば、日本人の先進性(?)は誇っていいだろう。 (2021年6月5日 記す)
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