「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル オランダ領東インド の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル オランダ領東インド の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年8月13日土曜日

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2016年8月12日)-江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

(国立歴史民俗博物館にて)


「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館・千葉県佐倉市)に行ってきた(2016年8月12日)。

「ミュンヘン五大陸博物館」(旧ミュンヘン国立民族学博物館)所蔵のシーボルト収集の日本関連グッズが150年ぶりに里帰りしたのである。明治になってから大量に海外に流出した浮世絵などの日本絵画の「里帰り展」は多いが、日常生活で使用する工芸品や、美術品としてはそれほどのカチが高いわけでもない品々が展示されるのは、考えてみたら珍しいことかもしれない。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダ東インド会社所属の医師として19世紀前半の江戸時代後期に来日した。来日したのは1823年、27歳の若さ(!)であった。長崎を拠点に高野長英など医学上の日本人弟子たちを養成、かれらをつうじて、じつに幅広く日本関連グッズを収集し、1828年の帰国に際してヨーロッパに持ち帰っている。

シーボルトは、その当時の日本人の生活関連や工芸品、植物や地図からなにからなにまで収集して日本学研究を行った植物学者であり博物学者でもある。日本人ならシーボルトの名を知らない人は、まずいないのではないだろうか。

(ドイツの切手に採用されたシーボルトの肖像画 wikipediaより)


■シーボルトの来日の背景と当時の欧州情勢

オランダは、1602年に設立された世界最古の株式会社「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。

17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、西欧諸国のなかで日本貿易を独占していたオランダの黄金期は意外と短かった。急速に勃興してきた英国に覇権を奪われたからだ。

フランス革命の混乱のなか、1799年には東インド会社は解散、しかもフランス革命後のナポレオン戦争時代には、混乱に乗じてオランダはフランスに占領され、海外植民地のオランダ領東インドは英国に占領されている。

(国立歴史民俗博物館の展示より「江戸時代の対外関係」地図)

ナポレオン戦争後に回復した国際秩序のウィーン体制(1814年)のもと、英国とオランダの関係は回復し、オランダは共和制から王政に転換する。戦後混乱のなか財政危機に陥ったオランダ本国は、植民地であった東インドの過酷な収奪によって財政再建を図る

1823年にシーボルトが日本に派遣されたのは、まさにこの時期のことであった。オランダ本国政府は財政再建の一環として、オランダ領東インド政庁を介した対日貿易の再建を考えており、シーボルトは日本市場の市場調査がミッションとして与えられていたのである。だからこそ、カネに糸目をつけずに日本の物産を購入することが可能で、地図などの軍事情報の収集も精力的に行ったのであった。

伊能忠敬作成の日本全図をひそかに国外持ち出しを図ったことが露見し、国外追放になった。いわゆる「シーボルト事件」である。1828年のことだ。国外追放処分となったシーボルトは、さらなる日本への渡航を希望していたが入国禁止となっており、「開国」後の日蘭通商条約締結後の1858年まで再来日はできなかった。

「シーボルト事件」にかんしては、『文政十一年のスパイ合戦-検証・謎のシーボルト事件』(秦新二、文春文庫、1996)に詳しく書かれている。同書によれば、幕府自身も地図の一件は知りながらシーボルトを泳がせていたようだ。日本国内の政争も背景にあり、なかなか複雑な構図があったようだ。

ともあれ、シーボルトは地図そのものは持ち出せなかったものの(・・ただし密かに写しを作成し持ち帰っている)、それ以外の日本関連グッズは収集品として大量に持ち帰ることができたのであり、その収集品をもとに「日本博物館」」として展覧を実現したのである。

(国立歴史民俗博物館にて)

医師・博物学者として優秀であったからこそオランダ政府から絶大な信頼を受けていたシーボルトであったが、シーボルトが、オランダ人ではなくドイツ人であったことは意外と知られていないかもしれない。シーボルトの収集品がドイツのミュンヘンで保存されているのはそのためだ。

ドイツ南部のミュンヘンは、当時のバイエルン王国の首都。シーボルトが生まれたのはヴュルツブルクだが、1814年にはバイエルン王国領となっている。そういうわけで、シーボルトはバイエルン王とは関係もあり、展示品のなかには、かの有名なルートヴィヒ2世あての書簡もある。


■江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

まあ、そういったシーボルトのバックグラウンドはさておき、19世紀前半の日本を、そっくりそのままモノをつうじて知ることができる興味深い企画展になっている。

展示品のなかには、カツオの形をした木製の刺身皿もあり(・・下図参照 『目録』より)、魚の腹の部分がフタになっており、開け閉めできるのが面白い。これなど復刻したら現在でも商品になるのではないかな。とにかく日本人は、小さなモノにかんしてはバツグンの能力を発揮していることが、あらためて確認できる。

(上は弁当箱、下はフタを閉めた状態の刺身皿 『目録』より)

常設展示の江戸時代の展示室とあわせて見学すると、江戸時代の日本がいかにすぐれていたかが実感されることになるはずだ。今回の企画展は、その意味でもおおいに意義のあるものだといえよう。


PS なお、今回の企画展の目録は、『よみがえれ! シーボルトの日本博物館』として青幻社から市販もされている。会場だけでなく、amazonなどのネット書店での購入も可能。





<関連サイト>

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」 特別サイト


<ブログ内関連記事>

国立歴史民俗博物館は常設展示が面白い!-城下町佐倉を歩き回る ①

すでに5月にアジサイの花-梅雨の時期も近い
・・「シーボルトとお滝さんのエピソードが知られているように、アジサイのラテン語の学名にはオタクサが含まれることになった。」

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」
・・「当時のオランダは、世界最古の株式会社といわれる「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、最盛期は意外と短く、覇権は英国に奪われる。」 

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか

9月になると紫色の実をつけるムラサキシキブの学名(Callicarpa japonica)はツンベルクの命名
・・「スウェーデン人のツンベルク(Carl Peter Thunberg 1743~1828)は、「分類学の父」であるカール・フォン・リンネ(1707~1778)の弟子。18世紀後半にオランダ東インド会社の商館に医師として来日することに成功し、日本滞在はわずか一年間であったが、精力的に日本の植物を調査した。日本では19世紀になってから来日したドイツ人のシーボルトの方が有名だが、学問世界、とくに分類学への貢献という点ではツンベルクはきわめて大きな存在である。」

(2017年10月14日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end

2014年6月1日日曜日

書評『オランダ ― 寛容の国の改革と模索』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)― 「オランダモデル」の光と影



欧州の「小国」オランダ。オランダもまたスイスと並んで学ぶべき「モデル」として、日本では賞賛される傾向がある。なんといっても、日本人の認識においては「先進国」としてのオランダは、オランダの観光政策の影響もあってポジティブなイメージに充ち満ちている。

だが、ビジネス界が注目した「オランダモデル」は、けっして手放しで礼賛するようなものではないのではなかろうか。すくなくともオランダ社会について正確な理解をもっていないと抽象的な「モデル」としての理解で終わってしまう物事はオモテとウラの両面、光と影の両面をみないとほんとうのことはわからないはずだ。

その意味で本書『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)は、きわめてコンパクトな」新書本という形で、オランダ社会の光と影について、理路整然と過不足なく整理してくれており、ひじょうに読みやすい本である。これ一冊読めばオランダ社会を理解できるのは、共著者がともにオランダで暮らした経験を踏まえたうえで知的に整理してくれるからでもある。

本書の帯の紹介文にも書かれているとおり、日本人からみたオランダ社会は、「安楽死・麻薬・売春」の合法化を実行している、合理主義に貫かれた社会というイメージも強い。もちろんアタマでは理解できても受け入れがたいという人も少なくないだろうが。

「合理主義」を支える「自由」と「寛容」の精神、これはオランダの国土の特性と、独立戦争によって建国したという歴史(・・先進国ではスイスとアメリカとオランダのみ)に起因するものだ。戦乱に明け暮れたいた17世紀の欧州で、宗教戦争から距離を置いて、商業中心の市民社会をいち早く築いたのもオランダである。英国にさきがけて近代市民社会を成立させたのである。

国土の4割は干拓によって作り出したオランダは、技術と工学精神で制約条件を克服してきた。これが合理精神の根底にある。著者がいうように、国土そのものが人間が作ったものであり、現在でも水利技術が根幹にある。

1960年代に天然ガスが発見され、1970年代の石油危機の時代にガスの輸出で儲けた結果、通貨高を招いてそれが賃金上昇につながり、高福祉政策ゆえに経済が停滞するという「オランダ病」に悩むことになるが、現在では「オランダ病」を克服している。

このように棚ぼた式の経済ではなく、合理精神を発揮して問題解決を行ってきたのがオランダだ。ワークシェアリングもまた、あらたな発明であり、その意味においても、「人工」がオランダのキーワードなのである。おなじ合理精神といっても、自然をすでにそこにあるものとして受け入れてきた日本人の感覚とは大いに異なるものがある。

「自由」と「寛容」の精神をささえてきたのが、オランダ社会を特徴づけてきた「柱状社会」(verzuiling)というキーワードである。本書の記述によれば、「柱状社会とは、基本的に宗派的に社会が組織され、極端にいえば生まれてから死ぬまで関係する人間組織がすべて宗派的ななかで可能になっている状態」(P.81)である。異なる柱が何本か立っており、互いに干渉を行わない共生や共存という形態である。

20世紀初頭にできあがったこの社会システムは、戦後の1960年代以降には大きく変化しているが、それでもオランダ社会を根底で規定するものだという。つまり、オランダを「棲み分け社会」「文化多元主義(あるいは多文化主義)社会」としてきたものである。

「文化多元主義社会」という点においてオランダは英国と共通するのであり、中央集権国家のフランスや連邦制の地方分権型国家ドイツとは大きく異なる点なのである。一口に欧州といっても社会の構成原理は大きく異なるのである。

「棲み分け社会」や「文化多元主義社会」とは、基本的に外に干渉しあわないので、ときとして「無関心」になりがちな点も問題点としてあるようだ。だが、基本的にキリスト教が中心にあって、キリスト教が衰退した現在でも無意識レベルでは根底に存在するからこそ可能だった。つまりオランダ人としての価値観を共有していたということだ。

ところが、戦後の復興期を経て高度成長時代には、人口増大による国内人口で労働力をまかない得た日本とは異なり、オランダはトルコやモロッコ出身のムスリムを労働力として受け入れる。かれあらが時を経て、「移民」として定住するようになると、「自由」と「寛容」の精神を国是とする文化多元主義社会オランダは、「柱状社会」のあらたな「柱」として、共生・共存の道が模索されることになる。

だが、ムスリム移民に芽生えてきたイスラーム意識の覚醒や、2001年の「9-11」のテロ事件の影響は、オランダ社会の「自由」と「寛容」を揺るがす事態を招いていることは、日本でも報道をつうじて知ることができる社会変化だ。価値観を共有しないと思われる社会集団への排他的な意識である。

本書には言及がないが、東インド(=インドネシア)という「植民地喪失」にまつわる、オランダ人の根強い「反日」意識を考慮にいれると、オランダ人が排他的な意識をムスリムに対して示す傾向が強まっていることは不思議ではないような気もする。

オランダのプロリーグでプレイする日本人サッカー選手も体験している差別もまた、再生産される「反日意識」の反映かもしれない。と考えると、ムスリムに対する排他意識も再生産されていく可能性もある。

けっして好ましいものだとは言えないが、悲しいかな差別感情は人間の本性に基づくものである。

どんな社会でも「モデル」としてポジティブな側面だけ抽出しても、その「モデル」が成立してきたコンテクスト(=文脈)の抜きには、モデルを正確に理解したとはいえないのである。オランダ社会もまた光と影の両面をもっている。

その意味でも、オランダ社会を正確に記述しようとした本書は、書店の店頭ではあまり見ることはないかもしれないが、すぐれた内容の良書である。ぜひ一読を薦めたい。


 (画像をクリック!


『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)

目 次 

はじめに
第1章 究極の合理主義者のとらわれない改革
 1. 世界ではじめて安楽死を合法化
 2. 麻薬と売春-合法化の理由
第2章 国土の建設-自由と独立を求めて
 1. 国家の成立とオランダの思想と技術
 2. 多様な価値観を認める社会へ
 3. 戦後のオランダ社会
第3章 生活しやすくつくられた社会構造
 1. 生活しやすい国
 2. 協調性とコミュニケーション
第4章 棲み分け社会オランダ
 1. 変わりつつあるオランダ
 2. 団体ごとの番組制作による国営放送
 3. 世界でもっとも自由な教育
第5章 オランダ的「寛容性」の課題
 1. 統合政策の行きづまり
 2. 混乱とその諸要因
 3. 新たな「寛容性」の構築
主要参考文献
あとがき


著者プロフィール
太田和敬(おおた・かずゆき)1948年生まれ。東京大学大学院教育学研究科満期退学・教育学博士。教育行政学・教育制度論専攻。文教大学人間科学部教授。教育制度が社会の統合や分化にどのような役割をはたすのか、個人の選択を保障する制度はいかなるものかを主要テーマとしている。本書の第1章~第4章を執筆。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。
   
見原礼子(みはら・れいこ)1978年生まれ。一橋大学大学院博士後期課程在籍。日本学術振興会特別研究員。専門はヨーロッパの多文化社会における比較教育論・比較社会論。本書の第5章を執筆。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。



<参考>

第5章で取り上げられたオランダ社会とムスリムの関係については、『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』(内藤正典、岩波新書、2004)、『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラム復興-(中東イスラム世界⑧)』(内藤正典、東京大学出版会、1996)を参照すると、より理解が深まるだろう。オランダ関連の目次を掲載しておこう。


『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』(内藤正典、岩波新書、2004)

 第Ⅱ章 多文化主義の光と影-オランダ
  1. 世界都市に生きるムスリム
  2. 寛容とはなにか
  3. ムスリムはヨーロッパに何を見たか

『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラム復興-(中東イスラム世界⑧)』(内藤正典、東京大学出版会、1996)

 第5章 多文化共生とみえざる差別・オランダ
   1. 文化の列柱
   2. 外国人労働者からエスニック・マイノリティへ
   3. エスニック・マイノリティから移民へ
   4. オランダは移民のユートピアか
   5. 病理への批判してのイスラム復興

書評『イスラームからヨーロッパをみる ー 社会の深層で何が起きているのか』(内藤正典、岩波新書、2020)ー イスラームとの「共生」が破綻した西欧社会の現実を見よ
・・「多文化主義」には光と影があるが、その影の部分がイスラーム移民へのネガティブな視線である



<関連サイト>

饗宴外交の舞台裏(197) オランダ新国王も引き継いだ「日蘭」-恩讐を越える道 (西川恵、フォサイト、2014年11月17日)

(2014年11月21日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?
・・オランダもまた多文化主義の近代国家。ただし英国は旧植民地で構成される英連邦という大英帝国ネットワークがからんでくる

映画 『戦場でワルツを』(2008年、イスラエル)をみた
・・イスラエル出身で、オランダでイスラエル料理(・・アラブ料理でもある)のファラフェル販売で一財産つくった事業家が登場する。アンネ・フランクを持ち出すまでもなく、もともとオランダは16世紀以来、ユダヤ人には寛容な土地柄である

書評『イスラームからヨーロッパをみる ー 社会の深層で何が起きているのか』(内藤正典、岩波新書、2020)ー イスラームとの「共生」が破綻した西欧社会の現実を見よ
・・「多文化主義」には光と影があるが、その影の部分がイスラーム移民へのネガティブな視線である

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか
・・小国オランダにとって「虎の子」であった東インド植民地の喪失というトラウマについての冷静な解剖所見

書評 『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)-現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド
・・ノスタルジーと悔恨の記録

書評 『ニシンが築いた国オランダ-海の技術史を読む-』(田口一夫、成山堂書店、2002)-風土と技術の観点から「海洋国家オランダ」成立のメカニズムを探求

書評 『植物工場ビジネス-低コスト型なら個人でもできる-』(池田英男、日本経済新聞出版社、2010)
・・「植物工場先進国のオランダの事例は興味深い。「施設栽培が最も進んだオランダでは、養液栽培による施設園芸こそが、環境負荷が最も少なく、持続的で、無農薬栽培に最も近いといわれている。なぜならここでは除草剤や土壌殺菌剤が不要で、天敵昆虫も利用でき、湿度調整をすると病害の発生すらもほとんど問題にならないようにできる」(P.16)」

エラスムスの『痴愚神礼讃』のラテン語原典訳が新訳として中公文庫から出版-エープリルフールといえば道化(フール)③
・・オランダを「寛容の国」とした先駆者の一人が初期近代のエラスムス

(2015年6月26日、2023年12月7日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2014年5月28日水曜日

書評『五十年ぶりの日本軍抑留所 ― バンドンへの旅』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)― 現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド



『五十年ぶりの日本軍抑留所 ー バンドンへの旅』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000)は現代オランダ文学である。第二次大戦中のオランダ領東インド(=現在のインドネシア)に生まれ、その地で少年時代を過ごした著者の体験をベースにしたものだ。

2000年が日蘭交流400周年であったためだろう、オランダ関係の本が多数出版されているが、この本もその一冊である。じつはその当時購入したまま積ん読状態だったのだが、14年目(!)にして初めて読んでみた。そして小説であることに気がついた。

同時期に購入して、すでに読んでいた『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)と同様の、社会問題を扱った評論かノンフィクションだと思い込んでいたので、すこし意外な感じがしたのである。

オランダの文学作品など日本語ではめったに読めるものではない。おなじく第二次大戦中のユダヤ人迫害を扱った世界的ベストセラー『アンネの日記』くらいしか思い浮かばないのは、そもそもわたしがあまり小説を読まない人間だということもあろうが、かならずしもそうとは言えないと思う。

現代オランダ人の著者といえば、日本文化の研究者でもあるイアン・ブルマ(Ian Buruma)の本くらいしか読んだ記憶はない。しかも英語である。オランダ語では読者人口が小さすぎる(・・調べると、世界全体で2,300万人程度らしい)からだろう。

「2000年が日蘭交流400周年」であったと書いたが、また大多数の日本人の認識においては、オランダといえば出島や長崎、蘭学といったポジティブな話に終始しているのだろう。江戸時代からいきなり現代に飛んで、風車やチューリップといったイメージ。

だが、日本とオランダは第二次大戦で戦った、しかもアジアで(!)ということが、日本人の知識にすらなっていないのは困ったことだ。日本は大東亜戦争の4年間、インドンシアを占領して軍政を敷いていたわけだが、その当時はオランダの植民地であったのである。日本の歴史教育は現代史を軽視しているので、こういう致命的な知識の欠落が生じてしまうのである。

『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』は、外交官だった著者がリタイア後に書いた「帰国文学」である。「帰国文学」というジャンルがオランダにあるらしいが、植民地への「ノスタルジーを語ったものが大半であるようだ。日本でいえば満洲ものなどの「引揚者文学」がそれに該当するのだろうか。


(カバー裏 現地ジャワ人の乳母と著者 モノクロ着色写真)


主人公は、政界からの引退を余儀なくされたオランダの国会議員に設定されている。オランダ領東インドに生まれ育った彼は、少年時代には占領軍である日本軍の民間人抑留所に収容され、日本の敗戦後は両親とともにオランダ本国に「引き揚げ」た。以後、少年時代の記憶は心の中に封印し、東インドには一度も戻ることはなかった・・・

以下は、出版社による要約をそのまま引用させていただこう。文学趣味のあまりないわたしが下手に要約するよりもはるかに秀逸であるから。

党の長老にして首相のご意見番でもあるレーヘンスベルフは、同僚の突然の裏切りで議員辞職に追い込まれ、仕方なく回顧録でも書こうかと思う。そこへインドネシアへの経済使節団に加わる話が舞い込んできた。現地に着くと、記憶の底に押し込めたはずの光景が次々に蘇ってくる。彼のことを知っているかのごとくガイドする運転手(実は小学校の友人)、能天気な妻、残されていた母の手紙…。すべてに苛立ちながら、彼は少年の頃に収容されたバンドンの日本軍抑留所に引き寄せられていく。日本軍抑留所ですごした少年時代の体験を文学作品に昇華させた秀逸な作品。

生き馬の目を抜く政治の世界もさることながら、ビジネスマンのわたしには経済ミッションに参加するという設定が面白い。主人公のモノローグという内面のつぶやきを多用した文体は、現代に生きるオランダ人の心性(メンタリティ)に触れることができて興味深い。先進国という点で、現代オランダ人が現代日本人とさして変わりないこともわかる。

「植民地支配者と被支配者の間にいまだに微妙に残る心理的な葛藤を、バンドンの日本軍抑留所ですごした少年時代の体験と交差させながら描いた」(内容紹介から)作品だが、この小説は1993年の出版で、オランダ語の原題は、Bandoeng-Bandung というらしい。


(原著オランダ語版カバー)

バンドンとは、インドネシア独立後に第三世界の旗手となったスカルノ大統領が「バンドン会議」を開催した、あのバンドンである。

Bandoeng-Bandung というのは前者の Bandoeng がオランダ領東インド時代のつづりで、後者の Bandung は現代インドネシアのつづりである。前者で「過去」を、後者で「現代」を表現しているだけでなく、植民地と被植民地の関係、植民地支配者と被支配者の関係もまた表現しようとしているのだろう。ノスタルジーと苦い悔恨のないまぜになった、微妙な感覚である。

植民地時代のバタヴィアがジャカルタに、ボイテンゾルク(=無憂)がボゴールにと、植民地時代の記憶を断ち切るかのようの地名の変更を行った独立後のインドネシアだが、つづりはかわってもバンドンは発音は同じままバンドンで変化はない。そんなこともアタマのなかにいれておきながら読んでみるといい。

現代オランダ、現代インドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インドと、時空と虚実がさまざまに交錯しながら、封印していた過去がよみがえり、苦い味を感じる人生。

英国人やフランス人は東南アジアを舞台にした植民地ノスタルジーものが多く日本にも紹介されているし、映画作品も多く公開されているが、オランダのものはきわめて少ない。

大人向けの文学作品として読むもよし、オランダ人にとってのインドネシアの意味を垣間見ることで、オランダ人のメンタリティーを知ることのできる作品でもある。


 (画像をクリック!




著者プロフィール

F・スプリンガー(F. Springer)
本名カーレル・ヤン・スフネイデル(Carel Jan Schneider)。1932年、旧オランダ領東インド(現インドネシア)のバタヴィア(現ジャカルタ)生まれ。父親はプロテスタント系高校のドイツ語教師(のちにアムステルダム大学のドイツ語教授)。マランとバンドンで幼年時代をすごし、10歳のとき日本軍民間人抑留所に、14歳でオランダ本国に引き揚げ、ライデン大学法学部を卒業。1961年、行政官としてニューギニアに駐在(当時まだオランダ領)。1964年から1989年まで、外交官としてニューヨーク、バンコク、ブリュッセルなど各国に勤務。駐東ドイツ大使を最後に退官。外交官時代から作家活動をはじめ、『ブーゲンヴィル』『さよならニューヨーク』など駐在地を舞台にした小説を執筆。1981年刊行の『ブーゲンヴィル』でボルテウェイク文学大賞を受賞、一躍脚光を浴びる。1995年、全作品でコンスタンテイン・ハイヘンス文学大賞を受賞。(カバー記載の情報から)。

訳者プロフィール
近藤紀子(こんどう・のりこ)
翻訳家。1941年、山梨県生まれ。1963年、東京外国語大学インドネシア語科卒業。六四年オランダ政府給費生としてライデン大学に留学。オランダ近代文学を専攻する。以来ライデン市に在住、紀子ドゥ・フローメン(De Vroomen)の名前で日本文学の紹介につとめる。翻訳書に大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『芽むしり仔撃ち』『万延元年のフットボール』、大岡信『遊星の寝返りの下で』、安部公房『短編集』、オランダ語から日本語への訳書として『西欧の植民地喪失と日本』(草思社刊)、著書として『連句・夏の日』『大江源三郎・文学の世界』などがある。(カバー記載の情報から)。


<ブログ内関連記事>

書評 『アマン伝説-創業者エイドリアン・ゼッカとリゾート革命-』(山口由美、文藝春秋、2013)-植民地解体後の東南アジアで生まれた「アマン」と「アジアン・リゾート」というライフスタイルとは?
・・ジャワ島のジャカルタの南にボゴール、さらにその先にスカブミという地方都市がある。バンドンの西にあたる。 ここで生まれたゼッカというオランダ人と華僑の血を引く男が作り出した「アジアン・リゾート」というコンセプト

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか

『戦場のメリークリスマス』(1983年)の原作は 『影の獄にて』(ローレンス・ヴァン・デル・ポスト)という小説-追悼 大島渚監督
・・日本占領時代のジャワ島の捕虜収容所が舞台

「無憂」という事-バンコクの「アソーク」という駅名からインドと仏教を「引き出し」てみる
・・熱帯植物園で有名なインドネシアのボゴールは、オランダ植民者にとっての「夏の避暑地」として建設されバウテンゾルグ(無憂)と命名された

書評 『ニシンが築いた国オランダ-海の技術史を読む-』(田口一夫、成山堂書店、2002)-風土と技術の観点から「海洋国家オランダ」成立のメカニズムを探求
・・オランダにとっての東インドとは?

なぜ「経営現地化」が必要か?-欧米の多国籍企業の歴史に学ぶ
・・・グローバルビジネスの原型である「オランダ東インド会社」についての記述あり  「「植民地」における企業経営の経験が非常に大きいと思われます。 英領インドにおける英国の東インド会社(East India Company)、蘭領東インド(=現在のインドネシア)におけるオランダの東インド会社が典型的な事例です。英国とオランダの双方に本社のある、エネルギーのロイヤル・ダッチ・シェル(Royal Dutch Shell)や、食品のユニリバー(Unilever)のような英蘭系グローバル企業は、その最右翼というべきでしょう。 要は、限られた駐在員ですべてをこなすのは不可能なので、「二重支配体制」を創り上げたのです」

「フェルメールからのラブレター展」にいってみた(東京・渋谷 Bunkamuraミュージアム)-17世紀オランダは世界経済の一つの中心となり文字を書くのが流行だった
・・フェルメールとスピノザをつなぐものは光学レンズであった

書評 『チューリップ・バブル-人間を狂わせた花の物語』(マイク・ダッシュ、明石三世訳、文春文庫、2000)-バブルは過ぎ去った過去の物語ではない!
・・17世紀オランダの「バブル経済」

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③
・・蘭学とオランダ語書籍がなぜ佐倉に集積しているのか?

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」

映画 『レイルウェイ 運命の旅路』(オ-ストラリア・英国、2013)をみてきた-「泰緬鉄道」をめぐる元捕虜の英国将校と日本人通訳との「和解」を描いたヒューマンドラマは日本人必見!
・・これはシンガポール陥落で捕虜となった英国人将校の回想録


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end