北鎌倉で東慶寺ほか禅寺をめぐったあとは、そのまま南下して鎌倉に向かうのが通常のコースであろう。
だが、わたしはそういうコースはたどらずに、いったん大船に戻ってから東海道線で藤沢まで行くことにした。
理由は2つある。まずは藤沢で遊行寺(ゆぎょうじ)にいくこと。もうひとつは、藤沢から江ノ電に乗って車窓から海を見ることである。
後者についてはすでに「その1」で書いたので省略する。前者について「番外編」のような形でここに書いておくことにしよう。
(安藤広重の「東海道五拾三次」の「藤澤 遊行寺」 Wikipediaより)
じつは、藤沢で下車するのも今回がはじめてのことなのだ。東海道線の藤沢駅は、かつて東海道五十三次の藤澤宿に近いこともあろう、思ったより大きな町だった。
藤沢駅から歩くこと約15分で遊行寺に到着する。遊行寺は正式には清浄光寺という。念仏系の時宗の総本山である。宗祖は一遍上人。生涯を念仏の遊行に過ごした鎌倉時代の人物だ。
(時宗の宗祖は念仏の一遍上人 筆者撮影)
遊行寺に行きたいと思っていたのは、一遍上人や遊行寺そのものへの関心だけでなく、そこが「説経節」の「小栗判官」(おぐりはんがん)の舞台のひとつにで、しかも重要な場面転換を行う地となっているからでもある。
「小栗判官」は、伝説上の人物である。妻の照手姫(てるてひめ)の一門に騙されて毒杯をあおぎ、家臣もろとも殺害された小栗。地獄の底から餓鬼阿弥として蘇生し、姫と再会したのちに熊野の湯で人間として甦り、一門に復讐するというお話だ。
その小栗判官の墓が、藤沢の遊行寺にある。小栗判官は、その墓のなかから餓鬼阿弥として這い出してきたのだ。
「説経節」のなかでは、わたしの生まれ故郷にも近い「山椒大夫」や、善光寺と高野山がらみの「刈萱」(かるかや)とともに好きな話だ。 いずれも中世に生きた日本人の感性が凝縮したような語り物である。
小栗判官についてはじめて知ったのは、学生時代に中公文庫版の折口信夫の『古代研究』を読んでいたときのことだ。「小栗判官論の計画」という、論文らしからぬ骨子だけを記したものがそれである。
小栗判官といえば、近藤ようこによるマンガ『説経 小栗判官』がすばらしい。この作品は大好きだ。
とはいえ、小栗判官については、日本人でも知る人は少ないのかもしれない。でもそれはそれでいいではないか。
藤沢や熊野など関連する土地に住んでいる人なら、知っている人もいるだろう。そのおかげでインバウンドの外国人など皆無である。円安だけが理由で来日している外国人に理解してもらう必要などない。
さて、遊行寺は時宗の総本山だけあって、その境内はきわめて広い。端から端まで歩くも時間がかかる。
(遊行寺の境内 クリックで拡大)
本殿を参拝したのちに、当然のことながら「小栗判官の墓」を詣でる。あまり来る人も少ないのであろう、それは奥の奥にある。
(小栗判官の墓は墓地の裏手にある 筆者撮影)
もちろん、小栗判官は伝説上の人物である。モデルとされた人物もいるものの、お墓そのものは実在の人物の墓ではないだろう。それでもいい。民衆がそう信じていたという事実こそが大事なのである。
(小栗判官と家来たちの墓 その左隣に照手姫の墓がある 筆者撮影)
小栗判官の墓を詣でたあとは、境内にある宇賀神社を参拝。時宗もまた神仏習合である。宇賀神(うがじん)とは中世に信仰が始まった神さまだ。神仏習合によって生まれた、財をもたらす福神である。
(宇賀神者の鳥居はあたらしいが社殿は古い 筆者撮影)
せっかくなので「遊行寺宝物館」にも立ち寄ることにする。たまたま「企画展 神仏を敬う」をやっていた。開館日は土・日・月と祝祭日のみ。当日は月曜日であったので入場できたわけだ。
(チケットの画像は天神様)
この企画展では、一遍上人と熊野権現の関係だけでなく、天神信仰との関係も知る。「神仏習合」が進んだのが中世であったが、一遍上人の時宗もまた、念仏を中心としながらも本地垂迹による神仏習合そのものであった。 その点がおなじ念仏系とはいっても、浄土真宗とは根本的に違うところだ。
さて、遊行寺をあとにして藤沢駅に戻る。江ノ電に乗って「いざ、鎌倉へ」と旅はつづく。
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(つづく)
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