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2024年3月23日土曜日

今日鎌倉へ行ってきました その3 北鎌倉から藤沢へ ー <番外編>藤沢に一遍上人の遊行寺をたずねて説経節の小栗判官のことを思う(2024年3月18日)

 (遊行寺の惣門 筆者撮影)

北鎌倉で東慶寺ほか禅寺をめぐったあとは、そのまま南下して鎌倉に向かうのが通常のコースであろう。 

だが、わたしはそういうコースはたどらずに、いったん大船に戻ってから東海道線で藤沢まで行くことにした。

理由は2つある。まずは藤沢で遊行寺(ゆぎょうじ)にいくこと。もうひとつは、藤沢から江ノ電に乗って車窓から海を見ることである。

後者についてはすでに「その1」で書いたので省略する。前者について「番外編」のような形でここに書いておくことにしよう。 


(安藤広重の「東海道五拾三次」の「藤澤 遊行寺」 Wikipediaより)


じつは、藤沢で下車するのも今回がはじめてのことなのだ。東海道線の藤沢駅は、かつて東海道五十三次の藤澤宿に近いこともあろう、思ったより大きな町だった。 

藤沢駅から歩くこと約15分で遊行寺に到着する。遊行寺は正式には清浄光寺という。念仏系の時宗の総本山である。宗祖は一遍上人。生涯を念仏の遊行に過ごした鎌倉時代の人物だ。 


(時宗の宗祖は念仏の一遍上人 筆者撮影)


遊行寺に行きたいと思っていたのは、一遍上人や遊行寺そのものへの関心だけでなく、そこが「説経節」の「小栗判官」(おぐりはんがん)の舞台のひとつにで、しかも重要な場面転換を行う地となっているからでもある。  




「小栗判官」は、伝説上の人物である。妻の照手姫(てるてひめ)の一門に騙されて毒杯をあおぎ、家臣もろとも殺害された小栗。地獄の底から餓鬼阿弥として蘇生し、姫と再会したのちに熊野の湯で人間として甦り、一門に復讐するというお話だ。 

その小栗判官の墓が、藤沢の遊行寺にある。小栗判官は、その墓のなかから餓鬼阿弥として這い出してきたのだ。

「説経節」のなかでは、わたしの生まれ故郷にも近い「山椒大夫」や、善光寺と高野山がらみの「刈萱」(かるかや)とともに好きな話だ。 いずれも中世に生きた日本人の感性が凝縮したような語り物である。

小栗判官についてはじめて知ったのは、学生時代に中公文庫版の折口信夫の『古代研究』を読んでいたときのことだ。「小栗判官論の計画」という、論文らしからぬ骨子だけを記したものがそれである。

小栗判官といえば、近藤ようこによるマンガ『説経 小栗判官』がすばらしい。この作品は大好きだ。 




とはいえ、小栗判官については、日本人でも知る人は少ないのかもしれない。でもそれはそれでいいではないか。

藤沢や熊野など関連する土地に住んでいる人なら、知っている人もいるだろう。そのおかげでインバウンドの外国人など皆無である。円安だけが理由で来日している外国人に理解してもらう必要などない。

さて、遊行寺は時宗の総本山だけあって、その境内はきわめて広い。端から端まで歩くも時間がかかる。

(遊行寺の境内 クリックで拡大)


本殿を参拝したのちに、当然のことながら「小栗判官の墓」を詣でる。あまり来る人も少ないのであろう、それは奥の奥にある。 


(小栗判官の墓は墓地の裏手にある 筆者撮影)

もちろん、小栗判官は伝説上の人物である。モデルとされた人物もいるものの、お墓そのものは実在の人物の墓ではないだろう。それでもいい。民衆がそう信じていたという事実こそが大事なのである。 


(小栗判官と家来たちの墓 その左隣に照手姫の墓がある 筆者撮影)


小栗判官の墓を詣でたあとは、境内にある宇賀神社を参拝。時宗もまた神仏習合である。宇賀神(うがじん)とは中世に信仰が始まった神さまだ。神仏習合によって生まれた、財をもたらす福神である。


(宇賀神者の鳥居はあたらしいが社殿は古い 筆者撮影) 


せっかくなので「遊行寺宝物館」にも立ち寄ることにする。たまたま「企画展 神仏を敬う」をやっていた。開館日は土・日・月と祝祭日のみ。当日は月曜日であったので入場できたわけだ。  

(チケットの画像は天神様)


この企画展では、一遍上人と熊野権現の関係だけでなく、天神信仰との関係も知る。「神仏習合」が進んだのが中世であったが、一遍上人の時宗もまた、念仏を中心としながらも本地垂迹による神仏習合そのものであった。 その点がおなじ念仏系とはいっても、浄土真宗とは根本的に違うところだ。

さて、遊行寺をあとにして藤沢駅に戻る。江ノ電に乗って「いざ、鎌倉へ」と旅はつづく。


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(つづく)



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2011年9月7日水曜日

明治22年(1889年)にも十津川村は大規模な山津波に襲われていた ― 災害情報は「アタマの引き出し」に「記憶」としてもっていてこそ命を救うカギになる


 災害時にこそ、「アタマの引き出し」が生きるチカラそのものになることを実感する機会は少ないかもしれません。

 今回の台風12号の被災地の状況を報道で知るにつけ心が痛みます。

 紀伊半島に2011年9月1日から4日間いすわった台風のため、大雨が降り続き、大規模な洪水と山崩れが発生しました。被災地の状況をテレビの映像でみると、つい半年前の「3-11」の大津波の被災地も思い出してしまいます。

 特に被害が大きかったのが、熊野に十津川(とつかわ)に紀州田辺ときくと、この土地を2回旅したわたしは心が痛みます。熊野には2回、十津川には1回いっています。

 はじめて熊野に行ったのは1995年5月8日前後のことです。

 なぜ日時まで確定できるかというと、小栗判官蘇りの湯で有名な湯の峰温泉に一泊したのですが、風呂からあがってテレビをみていたら歌手のテレサ・テンが滞在先のタイのチェンマイで亡くなったニュースが流れていたことを思い出したからです。ネット上の wikipedia で日時まで確定することができました。これがまさにエピソード記憶というものですね。エピソードにまつわる記憶がアタマのなかにあれば、インターネットの助けを借りれば事実関係が確定できるわけです。

 そのときは、熊野から十津川をさかのぼって奈良県の五條(・・ここもまた今回の台風で大被害を受けています)までバスで抜けるつもりでしたが、大雨のためバスが通行止めになって和歌山県の新宮市まで引き返し、紀州本線で大阪まで迂回しました。

 十津川は、奈良県の五條市と和歌山県の新宮市を結ぶ交通ルートが国道168号線の一本しかないので、そこが自然災害などによって寸断されると完全に孤立してしまうのです。ある意味では秘境のようなものといってもいいかもしれません。

 長年の念願であった十津川村には2003年にやっといくことができました。そのときは、逆に奈良県の五條市からバスで吉野を経由して十津川まで行きました。十津川では一泊して、その後バスで熊野まで抜けました。風光明媚な十津川沿いのルートを大いに楽しむことができたのはよい思い出です。

 十津川にいってはじめて知ったのは、明治22年(1889年)奈良県十津川村を襲った山津波のことです。テレビの災害報道ではなぜか触れていませんが、いまから 112年前の1889年8月17日から4日間つづいた大雨で大規模な山崩れが発生し、168人が亡くなったそうです。その結果、2,500人の住民が集団離村して、北海道に新天地を求め「新十津川」を切り開いた苦闘の歴史があるのです。

 十津川が大洪水という記事で思い出して、ダンボール箱のなかから 『十津川出国記』(川村たかし、北海道新聞社、1987) という本を引っ張り出してきました。旅から戻ったあと、もっとこの大洪水の話を知りたいと思って、ネット古書店から取り寄せてすぐに読んでみた本です。

 『十津川出国記』(川村たかし、北海道新聞社、1987)の目次を紹介しておきましょう。明治22年の大災害と北海道への集団移住の苦難を感じ取っていただけるものと思います。

第1章 近づく嵐
第2章 赤い湖
第3章 泥流走る
第4章 海陸をおおう惨状
第5章 悲報を受けて
第6章 秘境をめざす人々
第7章 北へ
第8章 苦難の行進
第9章 滝川での冬
第10章 米への憧れ
第11章 広野に立つ
第12章 明治は遠く
あとがき

 旅をしている最中や、旅先から戻ってきたあとに関連する本を読むと、旅というエピソードともに関連情報や知識がつよく記憶に刻まれまるものです。まさにアタマの引き出しですね。旅に持参したのは、司馬遼太郎の『街道をゆく 12 十津川街道』(朝日文庫、1983)です。2008年に新装版がでています。とくに幕末に大きな役割を果たした十津川郷士についての話が中心に書かれている紀行文です。

 今回の大災害で那智大社の社殿が土砂で半分埋まるという事態が発生していますが、同じ明治22年の大洪水で、熊野本宮の社殿が流されたことにも言及してほしいものです。

 日本サッカーのシンボル八咫烏(やたがらす)で有名な熊野本宮は、その結果、高台に社殿を移したのです。こういう事実もあわせて報道してほしいものだと思うのですが、歴史意識の乏しい日本のテレビ・ジャーナリズムの限界でしょうか・・・。

 たとえ直接に被災者とならなくても、災害列島に住む以上、他人事とは思わないことが大事ですね。  

 災害情報は、自分が体験していることや、親や祖父から直接聞いている話はアタマのなかに刻まれますが、本で読んだりテレビでみた情報も重要です。

 災害情報というものは、たとえ「記録」にのこっていても、自分のアタマのなかに「記憶」としてないと、いざというときにカラダが動くことにつながりません。生きのびるためには、たとえ自分が体験しないくても、本で読んだ記憶であってもアタマのなか「引き出し」としてとどめておくことが重要です。

 明日は我が身と思って、気持ちをひきしめておきたいものです。災害情報は「アタマの引き出し」にしておくと、いざというときにあなたの命を救うことになるかもしれません。


(画像をクリック!)



<関連サイト>

NHKクローズアップ現代(2011年9月6日)止まない雨 緊急報告 紀伊半島豪雨 
・・動画あり

NHKスペシャル 緊急報告 記録的豪雨の衝撃(2011年9月9日放送)



<ブログ内関連記事>

「天災は忘れた頃にやってくる」で有名な寺田寅彦が書いた随筆 「天災と国防」(1934年)を読んでみる

『崩れ』(幸田文、講談社文庫、1994 単行本初版 1991)-われわれは崩れやすい火山列島に住んでいる住民なのだ!

書評 『津波てんでんこ-近代日本の津波史-』(山下文男、新日本出版社、2008)

書評 『三陸海岸大津波』 (吉村 昭、文春文庫、2004、 単行本初版 1970年)

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む

大震災のあと余震がつづくいま 『方丈記』 を読むことの意味

「場所の記憶」-特定の場所や特定の時間と結びついた自分史としての「エピソード記憶」について

(2015年7月18日 情報追加)


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2010年1月30日土曜日

グルマン(食いしん坊)で、「料理する男」であった折口信夫


 『折口信夫 独身漂流』(持田叙子、人文書院、1999)の第一章は「餓鬼の思想-大食家・正岡子規と折口信夫」と題されている。著者の文章をそのまま引用させていただく。


二人とも生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(P.6)


 折口信夫は、最近の表現を使えば、文字通り「肉食系」の人であったようだ。「食い倒れの町」大阪出身の人である。

 この第一章には、アララギ派の同人で、『野菊の墓』の作者・伊藤左千夫が自ら庖丁を握ってウサギを屠り、料理する姿も引用されており、意外な感を抱くものである。

 歌人・釋迢空として、自らを、むさぼり食う”餓鬼”(ガキ)になぞらえた歌を作っている。


前(サキ)の世の 我が名は、
人に、な言ひそよ。
藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、
我ぞ


神奈川県の藤沢にある時宗(一遍宗)の寺、藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)の餓鬼阿弥(ガキアミ)のことを語った歌だ。

 説教節の主人公・小栗判官(をぐりはんがん)は舅に毒殺されて地獄に堕ちるが、遊行寺の坊さんに救済されて、醜い餓鬼の姿のまま生き返る。

 手押し車に乗せられ、妻である照手姫(てるてひめ)がさまざまな人たちの助けをかりなが熊野まで連れて行き、熊野の湯で湯治してもとの小栗に甦った、という伝説にもとづく。

 この話は、『説教 小栗判官』(近藤ようこ、ちくま文庫、2003)というマンガに描き尽くされている。私が好きな物語である。折口信夫はこの物語を「餓鬼阿弥蘇生譚」とよんでいる。

 大学一年生のとき、フランス語会話の授業で習ったのは、グルメとグルマンとは違う!ということだ。グルメ(gourmet)は美食家、グルマン(gourmands)は食いしん坊。フランスでは、グルメとよばれてストレートによろこぶ人はあまりいないようだ。

 日本人はやたら何かと「グルメ」と口にするが、フランス語のニュアンスでは、必ずしもほめコトバではないらしい。スノッブな響きがあるためか。

 この意味でいえば、正岡子規も折口信夫もグルマンであったといえるだろう。

 大食漢であり、「食いしん坊ばんざい!」である。私もグルメではなく、グルマンである。何よりも旨いものを食って、旨い酒を飲むのがすきな、関西人の DNA を100%受け継いでいる。

 各種の回想録によれば、折口信夫はグルマン(食いしん坊)であり、酒は日本酒は飲まずビールのみだったという。

 日本の「古代」を研究する学者がビールしか飲まなかったというのも面白い。コメつくりが弥生人によっってもたらされる以前、縄文人は「日本酒」は知らなかったわけだが、それとは関係はないだろう。趣味嗜好の問題に過ぎないと思われる。

 また、折口信夫は、自ら料理する男、でもあった。


●集合写真のキャプションより

大正10年信夫宅で。前列左より金田一京助、ニコライ・ネフスキー、柳田國男、後列左より信夫・・(中略)・・この時か、20人分位の天麩羅を信夫が一人で揚げてもてなし、柳田はこんなに料理を熱心にする人の学問は果たして大成するのかと思ったという。
(出典:『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』(新潮社、1985) P.40 太字は引用者による)

●わがまま料理

折口信夫は料理をつくるのが好きだし、上手だった。ところが夜中に急に「しるこをつくろう」などといい出し、弟子たちに用意させる。それができあがるころには夜もしらじらと明けかかるのだった。

(出典:『世界史こぼれ話』(三浦一郎、辻まこと=イラスト、角川文庫、1976)


 料理は、女が作るものと頭から決めてかかっていた柳田國男には理解不能なことだったのだろう。「あなた作る人、私食べるひと」という固定観念である。

 料理作りほど身近にあってクリエイティブな行為はない、と実際に料理作りをする私は思うのだが・・。料理作りとは、素材を使った加工という側面だけではなく、情報編集そのものであり、創造性そのものにかかわる行為である。

 「料理をつくる男」としての折口信夫、私が編集者だったら、誰かに書いてもらいたいテーマなんだけどねー。檀一雄の『檀流クッキング』は有名なのだが。



PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にした(2014年3月12日 記す)

PS2 よくよく考えてみれば、アララギ派の歌人であった伊藤左千夫は、正岡子規に心酔してその弟子になったわけであり、折口信夫(=釈迢空)もまた最初はアララギ派に属していた人たちである。
アララギ派とグルマンにかんしては、なんらかの関係があるのだろうか?
(2025年5月9日 記す)


<ブログ内関連記事>

■「料理する男」たち

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ

『こんな料理で男はまいる。』(大竹 まこと、角川書店、2001)は、「聡明な男は料理がうまい」の典型だ         
・・「料理する男」はもてる!?

邱永漢のグルメ本は戦後日本の古典である-追悼・邱永漢
・・「投資の神様」は「料理する男」でもあった

書評 『缶詰に愛をこめて』(小泉武夫、朝日新書、2013)-缶詰いっぱいに詰まった缶詰愛
・・発酵学者もまた「料理する男」

『きのう何食べた?』(よしなが ふみ、講談社、2007~)
・・男が男のために料理する

『聡明な女は料理がうまい』(桐島洋子、文春文庫、1990 単行本初版 1976) は、明確な思想をもった実用書だ
・・「女が「女性化」すると料理がヘタになる」という名言

(2014年7月20日 情報追加)


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