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2012年12月26日水曜日

書評 『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策-』(中野剛史、講談社現代新書、2011)-理路整然と「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」の違いを説いた経済思想書


1989年からはじまった「第三次グローバリゼーション」は、米国がみずからの国益追求の観点から強力に推進したものであったが、結果としてマネーは暴走し 2008年にはリーマンショックとして破綻、その後もいっこうに止まることのないグローバリゼーションによって先進国の国民経済は疲弊しつつある。

本書はこの認識にたって、本来の経済主体である「国民経済」の意味について認識を深めることを説いた内容の本である。2008年に出版された本書の原本はリーマショック以前に書かれたものだが、2011年に発生した「3-11」も踏まえた内容として増補改訂されたという。

ナショナリズムという、やっかいだが不可欠な存在を扱った本書は、『国力とは何か-経済ナショナリズムの理論と政策-』というタイトルのとおり、教科書のような理路整然とした記述である。Youtube などの映像で見る、ややエキセントリックなパフォーマンスをみせる著者の言動とはだいぶ異なる印象を受ける。

ゲルナーやスミス、ベネディクト・アンダーセンといったナショナリズム論の論客の議論をベースに、経済ナショナリズムの意味を考察した本書は、経済書というよりも経済思想について書かれた本である。

重要なのは、「経済ナショナリズム」と「国家資本主義」はまったく異なるものであるということ。この両者の混同が、日本では経済主体であるはずの国民経済を軽視する論調につながってしまったと著者は嘆き、読者に「経済ナショナリズム」の重要性を喚起する。

ネーション(nation)は、民族、国民のことであり、国家を意味するステート(state)とはイコールではない。そして、ネーションがステートを必要とすることは、現実世界では当然のことだろう。だがステートが必ずしもネーションを前提としていないことは中世から近世の歴史を振り返ってみればわかることだ。太陽王ルイ14世の「朕は国家である」という名言にあるように、ステートはネーションのものではなかった。

ネーションとステートが合致するようになったのはフランス革命以後のことである。それをさして「ネーション・ステート」(nation state)、すなわち「国民国家」という。世界的にみてもネーションが成立している日本にいるとこの重要な事実に気がつきにくいが、ネーションとステートは似て非なる存在であることは、なんどクチを酸っぱくしても言い過ぎではないのだ。

近代に成立したネーション・ステート(国民国家)は、欧州では200年以上、日本でも140年以上の歴史をもつ。だが、第二次大戦後独立したアジア・アフリカの新興国では、たかだか50年程度の歴史しかもっていないだけでなく、現在においてもステートはあってもネーションがきわめて弱い国もある。

もちろん、「国民経済」も「国民国家」 ある種の「理念系」ではあるが、著者にしたがってネーションから生み出される政治力と経済力を「国力」と定義すれば、やるべきことはおのずから見えてくる。

グローバル経済のなかにある国民経済のパワーが弱まっているのが現実だ。国際通貨制度は、「国民経済の独立」と「国際経済のルール」の対立関係をいかに調整するかが課題であるが、ブレトンウッズ体制崩壊後の変動相場制においては、唯一の覇権国であるアメリカが経済的に弱体化し、不安定な状態がつづいている。

問題は、いかし利己主義的な動機から自国の通貨安による「近隣窮乏化政策」など、攻撃型・排外主義的な行動にかられる誘惑から逃れることができるのか、あるいは制御できるのかということに。独善的な行動にならないか 国際協調ができるかということである。

これが「ステートの支配力」強化の懸念である。国家資本主義にみられる新重商主義的な行動と言い換えてもいいだろう。「ネーションの能力」ではなく「ステートの支配力」、国内での富の生産ではなく、外から富を収奪する方向。中国やロシアは言うに及ばず、アメリカのようにネーションのチカラが弱体化しているステートにおいてはその傾向がある。

独りよがりの経済政策を実行するのではなく、ネーションの能力を強化しながら、国際協調も行っていくという姿勢が、とくに日本というネーション・ステート(国民国家)に求められるのである。

ひじょうに面白い内容の本である。思想の表明としても面白い。ただ、金融だけでなく製造業も小売業も複雑にからみあったグローバルなサプライチェーンのなかにある現在、ネーションの能力をあげるだけでは、弱肉強食の環境のなかでは生き残ることはできないのではないかという懸念も感じる。ステートとしてのチカラも同時に必要ではないか?

著者が経済官僚であるという点は、残念ながらマイナスイメージにつながっている可能性もある。官僚だから国家の観点からの発言なのかという邪推を生みかねないからだ。出版当時は経済産業省から文部科学省に出向中(・・京都大学準教授)であったが、現在は経産省に戻っている。著者は学者ではあるが現役の官僚である。

しかし、現実にただしい済政策が実行されるかどうかは、本書でも何度も留保されているように、理論どおりにはいかないものである。たとえ官僚であっても、政策の最終決定者でも最終実行責任者でもないからだ。

その意味では、「理念系」について語った思想書として受け取るべきだろう。内容はけっして異端ではない。





目 次

序 大震災という危機
第1章 危機に直面する世界
第2章 経済ナショナリズムとは何か
第3章 はじめに国家ありき
第4章 国力の理論
第5章 国力の政策
第6章 経済ナショナリズムとしてのケインズ主義
第7章 国民国家を超えて?
第8章 経済ナショナリズムと日本の行方
あとがき


著者プロフィール

中野剛志(なかの・たけし)
1971年、神奈川県に生まれる。東京大学教養学部(国際関係論)卒業。エディンバラ大学より博士号取得(社会科学)。経済産業省産業構造課課長補佐を経て、京都大学大学院工学研究科准教授。専門は経済ナショナリズム。イギリス民族学会 Nations and Nationalism Prize 受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

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・・ナショナリズム論の古典である『想像の共同体』について簡単な解説を加えておいた

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読

書評 『自由市場の終焉-国家資本主義とどう闘うか-』(イアン・ブレマー、有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011)-権威主義政治体制維持のため市場を利用する国家資本主義の実態

書評 『日本近代史の総括-日本人とユダヤ人、民族の地政学と精神分析-』(湯浅赳男、新評論、2000)-日本と日本人は近代世界をどう生きてきたか、生きていくべきか?




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2012年12月25日火曜日

書評 『新・国富論-グローバル経済の教科書-』(浜 矩子、文春新書、2012)-「第二次グローバリゼーション時代」の論客アダム・スミスで「第三次グローバル時代」の経済を解読


アダム・スミスの『国富論』、この経済学の著名な古典も、カール・マルクスの『資本論』とならんで膨大な著作であり、名前だけは知られていても読まれることのほとんどない古典であろう。

正式には『諸国民の富』と訳されるべき The Wealth of Nations は、1776年に出版された。経済学説史的にいえば、アダム・スミスに始まる「労働価値説」は、デイヴィッド・リカードを経てカール・マルクスが集大成することになる。もちろん、こういった予備知識はなくても、比較的気軽に読めるように工夫されている本だ。

本書は、アダム・スミスとリカードを案内役にグローバル経済について考えてみようという試みの内容だ。この二人は「第二次グローバリゼーション時代」を代表する英国の経済学者である。いろんな日本人が「国富論」をタイトルに入れた本を書いているが、この本は原典であるアダム・スミスをより意識した内容である。

スミスが生きていたのは産業革命時代にあたる「第二次グローバリゼーション」の時代。英国が世界の覇権を握り始めた時代である。「第一次グローバリゼーション」は大航海時代であり、「第三次グローバリゼーション」は最初の500年が終わった1989年以降に始まり、現在まで続いている。


(東洋文庫所収の原本の展示)



グローバル経済と国民経済の関係

グローバル化やグローバリゼーションといったコトバはあまり考えなしにつかうことが多いのではないだろうか。

実務家の観点からいえば、国境がなくなったわけではないのでグローバルといいうコトバにはうさんくささを感じるのだが、マクロ的にみればあきらかにグローバル市場が形成されているといってよい。まずはカネ、そしてモノ、最後にヒトまでグローバル化していった。

カネには色がつかないという表現があるようにもっともグローバル化しやすいモノも製造拠点が海外移転することによって簡単に国境を越えてしまう。

ヒトにかんしては、もっともグローバル化しにくい性格をもているが、じっさいに国際移動がなくても賃金が平準化されフラットになることによって、グローバル化に巻き込まれているのである。


「解体の誤謬」?

グローバル市場は、国内市場の総和ではない。国民経済をミクロと考えれば、グローバル経済はマクロの関係にあたるものだ。

従来の経済学においては、国民経済全体をマクロ経済で考えていた。個人や企業など個々の経済主体の活動がミクロ経済であれば、その総体をマクロ経済ととらえている。

ある意味では、二重の入れ子構造になっていると考えるべきかもしれない。個々の経済主体は国民経済のなかにあり、国民経済はまたグローバル経済のなかにある。つまり、グローバル経済をマクロと考えれば、国民経済もまたミクロの関係にある。

現在の問題は、個々の経済主体が国境を越えて複雑に絡み合っているために、国民経済の意味が不透明になってしまっていることにある。とはいっても、国境が消えたわけではなく、個々の経済単位は国境を軽く越えたとしても、経済政策の主体は国民経済単位でしか実行できない。これが現在のグローバル経済の問題なのだ。

経済学を勉強した人なら、「合成の誤謬」というのを習ったことがあると思う。ミクロをすべて足しあわせてもその総和がマクロにはならないというパラドックスのことである。部分の総和が全体ではない、と言い換えてもいいだろう。

浜矩子氏は、「合成の誤謬」に対して、「解体の誤謬」もまた存在するのではないかという興味深いことを述べている。グローバル経済を分解しても国民経済にはならないということだ。

聞きなれない表現ではあるが、グローバル経済の問題を把握するためには重要な概念である。


新・重商主義批判

だからこそ、一国繁栄主義である「重商主義」を批判したアダム・スミスが現在においても意味をもつのである。浜矩子氏もまた通貨安による「近隣窮乏化政策」などの収奪型の「新重商主義」を批判する。

それは、「第二次グローバリゼーション」の反動として発生した「ブロック経済化」がいかなる災難を全世界にもたらしたかを考えれば明らかだろう。ファシズムの台頭と第二次世界大戦による破壊にいたった歴史を忘れてはならない。

日本は1998年からゼロ金利政策により、市場にカネ余り現象を作り出してきた。さらにアメリカも、欧州もゼロ金利政策を採用し、世界中がカネ余り現象となっている。しかし先進国には需要がないので経済は好転せず、インフレの悪影響は新興国にでてくる。

だが、誰も借りないし、誰も使わない。これからさらなる金融緩和を行なって無制限に資金を供給したとしても、個人にも企業にもニーズがないから、実体経済には吸収されないのである。

この状況がいつまでもつづくわけがないのは自明の理で、本来なら恐慌発生によって経済的な自浄作用が行われるべきところ、むりやりダムをせき止めていると著者は言う。

理屈ではわかっても、大好況は誰しも望むところではないだろう。処方箋としては、論者によって大きく異なるのが経済学の分野であり、経済学の専門家であるからすべてが正しいというわけでもない。だから、一般国民は耳に心地よい発言に魅了されやすく、政治家もまたそのような発言しかしなくなる。

その結果、世界中で問題はひたすら先送りされ続けている。しかしこのまま現状維持で続くはずがない。


ではどうしたらいいのか?

現状分析まではいいのだが、本書の結論はやや拍子抜けの感がある。いきなり理想に飛んでしまうような印象を受けるからだ。すべての人にとって最適の処方箋を書くことは不可能なことはわかるのだが。

「教科書」というには、語り口がやや冗長で、内容的にもなんだか尻切れトンボのようであまりにも未完成だが、現在の「第三次グローバリゼーション」の問題がいかなるものであるか考えるのはいいかもしれない。

ただし、好き嫌いで好みがわかれる語り口であることは否定できないと付け加えておこう。





目 次

はじめに
第1章 グローバル経済のいま
-1. 世界は越えてはいけない一線を越えつつある
-2. グローバル経済はどのような壮年期を迎えるのか
-3. グローバル時代のアリとキリギリス物語
第2章 アダム・スミスの『国富論』から考える
-1. 『国富論』は "第二次グローバル化時代" への処方箋だった
-2. 労働・市場・貨幣は、スミスの時代の "ヒト・モノ・カネ"
第3章 グローバル市場における分業
-1. グローバル経済を理解するための新しい思考法
-2. 国破れて企業あり、企業栄えて国滅ぶ
-3. 「二国二財モデル」と「羊羹チャート」
-4. 「○○立国」で国は立たない
第4章 カジノ金融とマジメ金融のはざまで
-1. なぜ、金融が暴走する世界になったのか?
-2. グローバル・カジノの胴元、ニッポン
第5章 スミス先生と現代へ
-1. リーマンショックでミイラ捕りがミイラになった
-2. 出来の悪い魔法使いの弟子たち-『国富論』的見地から見たG20
-3. グローバル長屋はどこへ行く?
第6章 そして、「新・国富論」の幕が開く
-1. 審査員はスミス先生とリカード先生
-2. 第一次接近:問題の抽出
-3. 第二次接近:課題の整理
-4. 第三次接近:検討項目の設定
-5. 枠組みつくりへの挑戦
-6. パズルの中の物語を読む
あとがき


著者プロフィール 

浜 矩子(はま・のりこ)
1952年生まれ。一橋大学経済学部卒業。三菱総合研究所ロンドン駐在員事務所長、同研究所主席研究員を経て、同志社大学大学院ビジネス研究科教授。専門はマクロ経済分析、国際経済(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?
・・『ネクタイを締めた海賊たち-「元気なイギリスの謎を解く-』(浜矩子、日本経済新聞社、1998)に言及している





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