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2014年9月2日火曜日

書評『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹/梅棹忠夫、中公クラシック、2012 初版 1967)―「問い」そのものに意味がある骨太の科学論



『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹/梅棹忠夫)は、もともと中公新書から1967年に出版された対談である。いまからすでに47年前、ほぼ半世紀前ということになる。

「人間にとって科学とはなにか」という「問い」は、当時はありそうでなかったものだったらしい。そういう感想を文系の学者からもらったと梅棹忠夫は「あとがき」で書いている。こういう問いの立て方は、いまでも新鮮さは失っていないのではないのかもしれない。

「人間にとって科学とはなにか」という問いは、二段構えになっている。まずは「科学とはなにか」という問いである。これは、いわゆる「科学論」だ。

そして「科学とはなにか」という問いは、「人間にとって」という限定がつけられる。その結果、「人間にとって科学とはなにか」という問いは、「科学」とはそもそも「科学者」という人間によって行われてきた営みであるが、人間である科学者たちにとって、それから科学者ではない一般人にとって、意味合いが異なるのではないかということが示唆されている。

1907年生まれの湯川秀樹は日本人としてはじめてノーベル物理学賞を受賞した人であり、しかも人文系の教養を持ち合わせている人である。1920年生まれの梅棹忠夫は動物学出身で生態学者であったが最終的に人文科学の分野にいった人である。ともに文系的な素養をもった理系的発想の人たちである。しかも、ともに京都人で京大理学部卒である。

本書は、この二人の知的巨人による「人間にとって科学とはなにか」という「問い」をめぐる骨太の対談である。


科学者という存在と科学者以外の一般人

この二人の対談で重要なことは、科学者の視点で「科学とはなにか」を論じていることだ。

科学者は、ある種の知的衝動ともいうべきものによって突き動かされ開かれた世界で、つねに未知のものを探求するがゆえに、安心立命の境地とはほど遠い存在である。いわばあらたな科学的発見によって否定されるという、「自己解体」の可能性につねにさらされているのが科学者である。

不安定な状態がつづくことに耐えることのできる強靱な精神力、研究テーマに対する執着心とそれ以外のことには関心がないという変人性。人格円満とはほど遠い。

科学者の探求は、「未来」という未知の世界、「過去」という未知の世界に向かう。未来も過去も、ともに未知の世界であるのは、人間は一般に、「いま、ここ」という「現在」に生きている存在であり、未来も過去も、ともに「認識」の対象でしかないからだ。

これに対して、科学者ではない一般人は、未知よりも既知の世界、不安定よりも安定を志向する傾向が強い。対比的にいえば、科学よりも宗教の立場になびきやすいということだろうか。

この対談のなかでは、「科学」と「宗教」の共通性と違いがなんども指摘されているが、宗教を狭い意味の宗教ではなく、「~すべき」という当為(Sollen)の体系ととらえれば、一般人の日常な生活はほぼこの枠組みにしたがってなされているといっていいかもしれない。


(科学的認識は「未来」と「過去」に向かう 中公新書版より)


つまり、科学者と科学者以外の一般人は、それぞれが自分なりに「納得」したいというマインドセットを共有しているにもかかわらず、精神構造が大きく異なるということだ。そもそも科学と科学者という存在が確立したのが19世紀であるから、科学者はある時期までかなり特殊な人間類型であったのである。

ところが、この対談でも話題としてでてくるが、科学者が特殊な存在ではなくなり、「職業人」として一般化したことの意味について考える必要もある。研究所という組織に属する「組織人」としてのロジックに従わざるをえない状況についてである。2014年前半の理研をめぐる騒動における責任者の自死もまた、その一つの悲劇的結論といってよいだろう。科学者と組織人という、相異なるロジックの狭間で苦悩したのであろう。

科学の大衆化によって科学的知識が一般化するにともなう変化についても語られている。たしかに、科学的認識と科学的世界観の普及がなければ、未来と過去という時間意識は一般人にはあまり縁のないものであったかもしれない。ビジネスパーソンを含めた大多数の一般人にとっては、科学的探求精神による不確実な未来よりも、確実に予測できる未来がほしいのである。これは「科学」というよりも「宗教」に近いマインドセットである。

この対談が行われて出版された1967年当時は、「人類の未来」をうたう大阪万博を前にした「明るい未来」信仰と同時に、「高度成長期」のひずみによる公害問題など科学批判が発生していた。楽観主義と悲観主義が同時に存在していたのであった。

そのため、この対談は全体的にペシミスティックな基層低音を感じるのだが、2014年現在では、また異なる意味で科学批判が発生している。原発事故だけでなく、遺伝子工学やロボットなど、科学的知識をバックにした技術開発が、人間存在そのものに「ゆらぎ」を生じさせ、制御不能になっているのではないかという不安を一般人に与えているからである。

それが「科学信仰」のゆらぎということであれば、批判そのものは健全でもある。とはいいながら、狭義の科学者以外の一般人にとっては、宗教も科学もともに、もはや安心立命を与えてくれる存在ではなくなっていることを示しているのであり、不安感と不透明感は1967年当時よりも、さらに増しているといっていいのかもしれない。


「科学的探求」と「科学の未来」

対談では、「科学とはなにか」そのものについてのやりとりもきわめて面白い。

法則性についての因果論と目的論の違い、物質・エネルギー・情報で自然科学を統一できるという方向性、全体像が一瞬にして明らかになる直観的などである。これらは、科学者でなければ論じにくいテーマである。

最終章の「科学の未来」のなかで、超人間的存在としての神の実在の可能性について論じ合っている箇所がひじょうに興味深いので引用しておこう。この対談の雰囲気が理解できるだろう。

梅棹 科学は、どこまでいっても一種の宇宙論ですからね。科学が完結するとしたら宇宙論の段階で完結するしかない。もし、いやらしい結論は出したくないというのなら、そこまで繰り返して問うことはやめるほかはない。しかし、問題は厳然としてあるわけです。そこまで問うたら、いやらしい結論がたくさん出てきます。
湯川 人間が自分を特別貴重なものやというてるだけの話です。逆にいうと、人間より高等なものがあり得るわけでしょう。しかし、それを想像するだけでも、とってもいやなことになる。しかし、そういうことを考えるのが科学です。
梅棹 ここは大事なことですね。私は、神というものの存在が科学によって初めて実体的なものとして考えられるようになったと思う。・・(中略)・・人間自身を相対化し、地球を相対化し、太陽系を相対化する。そういう徹底的な相対化による人間自身の客観化、そしてその結果、なにか人間を超える生物のようなものだって、宇宙のどこかには当然あり得るのではないかという認識が生まれてくる。もしそういう超人間的生物が存在するとすれば、それはまさに「神」ではないか。

これが科学者の発想であり、科学的探求の行き着くところである。そしてその「問い」をやめることができないのもまた科学者という存在である。これは、この対談が行われた1967年当時も、2014年現在も変わらない科学者のマインドセットであろう。

科学的探求という知的衝動は、いわば「業」(ごう)のようなものだろう。それをいかに芽を摘むことなく「制御」することができるかは、科学者を含めた人間社会全体の問題である。

「科学者」が探求してきた「科学」という人間のいとなみが、「人間にとって」いかなる意味をもってきたか、そしてこれから持つのであろうかという問い。この「問い」をめぐるこの対談は、とくに結論めいたものはないが、「問い」そのものに意味がある対談なのである。

二人の知的巨人による知的密度の濃いこの対談は、ぜひ一度は読んでほしい。


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目 次

はじめに (湯川秀樹)
Ⅰ 現代科学の性格と状況
 人間からの離脱
 情報物理学の可能性
 自然観の再構成
Ⅱ 科学における認識と方法
 非法則的認識
 納得の構造
 科学の人類学的基礎
 イメージによる思考
Ⅲ 科学と価値体系
 価値の発生
 目的論的追求
 むだと未完結性
Ⅳ 科学とヒューマニズム
 自己拡散の原理
 執念と不安
 非科学ということ
 人間中心主義の根拠
Ⅴ 科学の未来
 当為と認識
 科学の社会化
 究極になるもの
 永夜清宵何所為
あとがき (梅棹忠夫)

増補
 現代を生きること-古都に住みついて
 科学の世界と非科学の世界
 科学と文化
解説 佐倉統


著者プロフィール 

湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)
1907~1981。京都帝国大学卒業後、大阪大学助教授を経て京都大学教授。1949年、中間子理論でノーベル物理学賞受賞。京都大学名誉教授。核兵器廃絶運動にも熱心の参加した。理論物理学専攻 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。

梅棹忠夫(うめさお・ただお)
1920~2010。京都帝国大学卒業。大阪市立大学助教授、京都大学教授を経て国立民族学博物館館長。生態学を基礎にしながら多方面に活動した。国立民族学博物館名誉教授。総合研究大学院大学名誉教授。京都大学名誉教授。比較文明学専攻 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


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2014年8月16日土曜日

書評『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」


『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)は、今月(2014年8月)の新書新刊だ。

内容は、「なぜヨーロッパにのみ、近代科学を生み出す思想が発達したのか。師と弟子の対話形式で、カント、ニーチェらが繰り広げてきた知的格闘の論点を明らかにし、解説する。独自の視点と思索による、思想史再構築の試み」(出版社による)。

古田博司氏は筑波大学教授。専門は政治思想・東アジア政治思想・北朝鮮政治・韓国社会論

そんな古田教授が、なぜ「ヨーロッパ思想」なのか?

それは、「非西洋の哲学や思想を見てきた私には、西洋哲学の特異性がはっきり見えてくる部分もある」(P.13)という発言に表現されているといっていい。

本書は、大学院生の弟子との「問答」とその「解説」という形式で構成されているので、読みやすいと思う。そもそも、プラトンの対話篇以来、哲学はモノローグ(=独白)ではなく、自問自答も含めたダイアローグ(=対話)であることが基本だから。

だが内容そのものには、賛否両論があるだろう。「内容は日本の哲学学徒たちの常識を大きくはずれるものである」(P.224)と、「おわりに」のなかで著者自身が述べているとおりである。


「向こう側の哲学」という「新哲学」

かなりクセのある内容である。よくいえば個性的だ。日本では一般的な西洋哲学史の理解とは異なる解釈によって一貫していることに、まずは注意して読むことが必要だ。

「近代科学」が西欧に生まれたことほかのどこでもない西欧キリスト教世界においてのみ生まれたこと、「それでも地球は回る」と地動説を主張したガリレオ以来、近代科学がカトリック教会の権威との戦いをつうじて鍛えられてきたということは、日本人の「教科書的な常識」となっていることだろう。

そして哲学もまた、古代ギリシアをその起源として、西欧世界において発展してきた。日本にも哲学や思想がなかったわけではないが、「狭義の哲学」は西欧で発展してきたものだ。これは古代ギリシアに起源をもつ数学や西洋音楽と同じであり、日本には明治維新以降にはじめて導入された。だから哲学というと、日本人からわかりにくいとして敬遠されがちなのは当然だろう。

だが、本書は「近代科学の誕生」がテーマではない。近代科学や西洋哲学が「向こう側」とのかかわりなしには成立しないことを、近代西欧の具体的な哲学者たちの言説を検証しながら指摘したものだ。

「あらたな科学的発見」は、「向こう側」では当たり前でも、「こちら側」ではそれまで知られていなかったに過ぎないのである。あくまでも「直観」で得たイメージを自分のアタマのなかで構築し、それを実験と観察という実証をつうじて理論として「見える化」(=可視化)することが、「科学的発見」の本質なのである。

その意味で、「向こう側」の哲学について書かれたこの新書本は、日本人の西洋哲学理解の「コペルニクス的転換」となるだろう。この表現は、著者が「消極哲学」とラベリングして斥けている哲学者カントの表現であるが、あえて使用させていただく。「消極哲学」とは、ドイツの哲学者シェリングによるものだ。

だから、わたしは個人的には、本書のタイトルは、帯にも大きく書かれているように『新哲学』あるいは、『「向こう側」の哲学』のほうがよかったのではないかと思う。だが、それでは出版社としては売りにくいと判断したのかもしれない。「向こう側」というコンセプトが、ややあいまいなことも原因の一つだ。

「向こう側」というコンセプトは、難解な哲学用語ではなく「日常語」である点に好感がもてるのだが、日常語であるがゆえのファジーさが残るのがやっかいな点だ。


日本人は「向こう側」の認識をもたずに「世間」内に存在

本書の「はじめに」は、以下のメッセージで締めくくられている。

いまの学生にはこう伝えたい。たえず自分の立ち位置を確かめ、そこから有用性のある方角を探れ。「人生には無限の可能性はない」。しかし、「無限の可能性へと近づく可能性」は健全すぎるほど健全にある--

古田氏の長年の人生の教師としての使命感と教育熱心さのあらわれた文章といえるだろう。

「フルタヒロシ」名義で 『ちょっとだけ考える。-思想という劇薬-』(日本経済新聞社)という、いまから13年前の2001年に出版されている本や、『新しい神の国』(ちくま新書、2007)の「第2章 マルクスどもが夢の跡」、 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)にも、同じような所感が綴られている。

「近代という廃墟」から立ち上がり、たとえ一寸先が闇であっても勇気をもって前進せよというメッセージであろう。学生に限らず、若者に限らず、社会人であっても、あるいは学生や若者たちを指導する立場にある人にも聞かせたいものだ。

「自分の立ち位置を確かめ」には、さらに「世間のなかでの」を付け加えて、「世間のなかでの自分の立ち位置を確かめよ」という、わが恩師・阿部謹也先生のコトバを紹介しておきたい。

日本人がそのなかで生きている「世間」とは、「こちら側」のことである。日本人はみな「"世間" 内存在」である。哲学者ハイデガーの「世界内存在」(in-der-Welt-Sein; being-in-the-world)という表現は、じつは同じことを指しているに過ぎない。

「向こう側」からの視点をもつことで、はじめて「こちら側」にある日本人の「世間」が対象化され、相対化されるのである。阿部謹也先生は、中学生時代にカトリックの修道院で過ごした体験をもっているからこそ、「世間」の存在に気がついたのだろう。

「向こう側」については、高校二年のとき、わたしはこんな体験をしている。

高校には電車通学していたが、自宅から最寄りの駅までは自転車で通学していた。いわゆる理科少年であって、哲学少年というわけではなかったのだが、その当時、いつも偶然と必然とか、相対と絶対とはなにか、ということがアタマのなかに引っかかっていた。

ある朝のこと、通学のため全速力で自転車を漕いでいたとき、「こちら側」からみれば偶然に見えることも、「向こう側」からみたら必然なのだということが、突然わかったのである。それはもう、突然のことだった。アルキメデスではないが、まさに「ユーレカ!」体験の瞬間である。そのとき自転車で走っていた場所も空気も、自分の状態もみな、記憶のなかに刻み込まれている。

そしてそのとき同時に、「絶対者」の意味もわかったのである。「向こう側」に絶対者を想定するのは、たとえ人間がアタマで考えたことだとしても、絶対者の存在を前提にするとすべてが解決するのである、と。これらがみな「直観」として突然16歳の日本人男子にやってきたのである。アタマとカラダで体感されたのである。

もちろん自分は異次元にいってしまたわけではなく、「こちら側」で自転車をこいでいる。だが、「こちら側」と別に「向こう側」があると考えればすべてが解決するだけでなく、精神的に安心感を得ることもできるということがわかった。これが、わたしにおける「向こう側」の発見の瞬間だ。

キリスト教に限らず、信仰のある人にとっては「向こう側」の存在は当たり前のことだろう。だが、特に信仰をもたない人が、「向こう側」の存在と「絶対者」の意味について、少なくともアタマで理解することは、きわめて重要なことのである。わたし自身はキリスト教徒ではないし、仏教者ではあるがそれほど信心深い人間でもない。基本的に合理主義者である。

みなさんも「向こう側」発見の「思考実験」を試みてみるといいだろう。


「向こう側」は「見えない世界」

著者自身は、「向こう側」のことをカッコ書きで "other side" と書いている。

これは別の表現をつかえば "over there" ないしは "beyond" の意味になる。前者は水平的に「こちら側」から距離のある場所をぼんやりと表現したものであり、後者は垂直的に「こちら側」から上方に存在する場所をぼんやりと表現したものである。日常語というものは、そもそも多義的である。

だが、「向こう側」は自分の外部だけではない。自分の内部にひろがる広大な世界もまた「向こう側」と考えるべきだろう。 "over here" ないしは "inside" である。

本書にはいっさい言及がないが、C.G.ユングやルドルフ・シュタイナーといった20世紀のドイツ語圏の思想家たちは、「内面に降りてゆく方法」を開拓した。人間の外部ではなく、内面に広大な「向こう側」が存在することを「発見」したからである。ユングは医学、シュタイナーは工学から出発した人である。いずれも西欧近代の自然科学である。

「内面世界」は、東洋人にとっては当たり前の存在だ。すでに1,500年以上前大乗仏教の唯識(ゆいしき)派は、「眼耳鼻舌身」(ゲンニビセッシン)という五感による認識の、さらに底にあるアーラヤ識という深層意識を発見している。ユングが臨床において、患者が夢で見た世界を描かせた絵が、仏教のマンダラに酷似していることに驚いたというのは有名な話だ。

広大な「外部世界」と広大な「内部世界」。おそらくこの二つは分離不可能だろう。いっけん二元論のようにみえながら、じつは両者はつながっていると考えるべきで、この二つをあわせて「向こう側」というべきではないかと、わたしは考えている。

ともに肉眼では「見えない世界」、視覚では知覚できない世界である。いわゆる「心眼」で見る世界である。

だから、「向こう側」という表現は、「見えない世界」と言い換えても差し支えない。英語では、「インタンジブル」(intangible) あるいは 「インビジブル」(invisible)という表現をよくつかう。前者は、有形ではない無形、後者は文字通り「見えないもの」である。

「見える世界」がすべてだと思い込むのは傲岸不遜(ごうがんふそん)であり、「見えない世界」の逆襲を受けてしまう。これは「3-11」で日本人が、大津波や原発事故による放射能汚染で痛烈に体験したことだ。

「見えない世界」としての「向こう側」は、気がついてないだけで、「自分の周辺」に、あるいは「自分の内部」にもある。それは、「あの世」ではなく、「この世」の話だ。

特段に宗教的ではない日本人が「向こう側の存在を認識するには、「内面世界」を見るための各種の伝統的な瞑想法や精神修行法が適しているのではないか、という気がするのである。


この本の「効用」について

わたし自身、「社会科学の総合大学」に学んだ者だが、そもそも一橋大学は実学系の商科大学がその前身であっただけに、経済学においても英米流の「近代経済学」の牙城であり、ソ連崩壊のはるか前の1980年代前半においてすら、ドイツ流の「マルクス経済学」(・・いわゆるマル経)はまったくの少数派で周縁的な存在に過ぎなかった。

そのため、ドイツ社会学を代表するマックス・ウェーバーも読んでいたが、一方では J.S.ミルやベンサムなど英国流の「功利主義」(Utilitarianism)の経済学と倫理学は、人生の早いうちから身につけることになった。

そもそも高校時代からアメリカの英語雑誌 TIME を毎週読み(・・「英語道」を提唱していた松本道弘先生の全盛期だ)、おなじく高校時代に笠信太郎のベストセラー名著 『ものの見方について』を読んでからは、アングロサクソン流の「帰納法」的思考法こそ素晴らしい(!)と考えてきた人間だ。

しかも、大学卒業後はビジネスマンとして四半世紀以上も過ごしているので、どうしても損得勘定や効用でものを考えることが習い性となっている。1990年にはアメリカに留学して、日本の「社会科学」とアメリカの Social Science が似て非なることもよくわかった。アメリカ的な実学というプラグマティズムには大いに共鳴する。

そこで、この本の「効用」(utility)について、わたしなりに書いておこう。もちろん、これは著者の意図とはまったく関係ない、わたし自身の独断と偏見によるものだ。

それは、「カントもヘーゲルも 『エポケー』 してしまえばいい」、ということだ(笑) 「エポケー」とはギリシア語で、カッコに入れて判断停止すること。つまり棚に上げてしまうということだ。著者が「消極哲学」とラベリングしているフッサール現象学の用語である。

カントやヘーゲルは「消極哲学」だから読む必要はないというお墨付き(?)を得たことで、無駄な時間を費やす必要がなくなるわけだ。

読みたい人は読んだらいいだろうが、なんせ「人生は短く技芸は長い」(ars longa vita brevis)のである。もっとほかに「効用」のあることに時間とカネは使うべきだろう。多忙な一般読者に代わって、わざわざカントやヘーゲルまで読み込んでいただいた著者には、大いに感謝すべきである。

ヘーゲルといえば、夏目漱石の『三四郎』(1908年)を想起する。大学に入った三四郎にあわせて、わたしも大学に入学してから読んだが、そのなかにこんな一節があった。大学図書館でのシーンである。

二時間ほど読書三昧ざんまいに入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。

ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫(ごう)も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化(じゅんか)一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭(ぜっとう)に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……余(よ)今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々(しんしん)たる頭(かしら)をおさえて未来永劫に試験制度を呪詛(じゅそ)することを記憶せよ

とある。署名はむろんない。三四郎は覚えず微笑した。けれどもどこか啓発されたような気がした。哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」よほどヘーゲルの好きな男とみえる。・・(中略)・・ もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、「だいぶ振(ふる)ってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。だいぶ気に入ったらしい。(* 引用は「青空文庫」から。太字ゴチックは引用者=さとう)

この一節を文庫本で読んだ18歳のとき以来、わたしはヘーゲルは読まないことに決めた(笑) そもそも、わたしは「歴史哲学のような観念論」にはまったく関心がないだけでなく、その手のアタマでっかちの観念論はには警戒感を感じるたちである。事実関係の解明は安直な図式をあてはめて行うべきではない。

かつての「後期近代」の日本、とくに「戦後」においては、マルクスとのからみでヘーゲルも読まれたのだろうが、じっさいにどれだけ理解されたかどうかはまったく不明だ。そもそも日本語になってないヘタクソな訳文をみただけで、健全な「精神」の持ち主なら、「消極哲学」のヘーゲルなど敬して遠ざけてしまうだろう。

例外は在野の哲学者・長谷川宏氏の新訳による 『歴史哲学講義 上下』(長谷川宏、岩波文庫、1994)だろう。わたしはこの訳本を海外出張の行き帰りの機内で読んだが、これはほんとにわかりやすい翻訳だった。だがわかりやすいがゆえに、ヘーゲルの見解にはぜんぜん賛成できないことが結果として確認されたのであったが・・・(笑)。だが、この本くらいは、読んでおいたほうがいい。

著者が「消極哲学」とラベリングしているが、フッサールが提唱した「生活世界」という概念は、「こちら側」の「世間」という「現実世界」を理解するためにはきわめて有効であることも明記しておきたい。

社会学や人類学をやった人間にとっては「常識」だろうが、現象学的アプローチが現実理解に有効であるだけでなく、アルフレッド・シュッツがその開拓者であるエスノメソドロジーは、「自分の体験」ではない「他者の体験」を理解するための方法論として、近年ではとくに看護や介護の現場では大きな意味をもっているのである。

とはいえ、「向こう側」の存在はつねに認識しておくことが重要なことは言うまでもないことだ。フッサールの思考にも、見えざる超越的存在がある。

「向こう側」は、まだまだ「こちら側」からは掘り尽くされていない、膨大な不可視の領域である。おそらく未来永劫にわたって、いや、人類が滅亡しても掘り尽くされることなどないだろう。


「直観」力を武器にし、哲学を根底においた「行動」こそ重要

「世のため人のために生きよ」なんていうと、通俗道徳や宗教めいたメッセージであるが、本書はその結論を導き出すに至った思索の軌跡と捉えるべきだろう。

近代哲学の祖であるデカルトは、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」(cogito, ergo sum; je pense, donc je suis)というフレーズで、「自分」の存在根拠を、「自分」が考える主体であると確認することに求めている。

だが、じっさいはその真逆であり、「われあり、ゆえに思う」のである。「われ頬をつねると痛む、ゆえにわれあり」でもかまわないからだ。つまり、考えようが、頬をつねようが、自分の身体と知覚は分離できずに一体なのである。

とはいえ、自分が「存在」することの根拠など、じつはまったく自明ではない。ハイデガーなら人間存在の「被投性」とでもいうところだろうが、この概念は現象を記述したに過ぎない言説だ。

「被投性」とは、人間は自分自身の意志で「こちら側」(=世間)に放り込まれたわけではないといった意味だが、これくらいのことなら14歳前後の少年少女でも直観的にわかっている。だから、「存在」不安に脅かされる子どもは、リストカットという自傷行為によって、すくなくとも自分が「存在」することを確認し、そのつど安心を覚えるのである。

とはいえ、なぜ「自分」が「存在」するのか、その意味や根拠など、そう簡単に答えがでるわけがないのだ。そもそも「自分」という存在は自明のものでない。しかも、永遠の変化の相のもとで変化しつづける存在である

だからこそ、人も会社も、なんとかしてその「存在理由」(=レゾンデートル raison d'être)を求め、自分(たち)を納得させたいのである。結局は、「こちら側」において、世のため人のため、お客様のためというところに存在理由が落ち着くのはそのためだ。

この本で肯定的に描かれている「積極哲学」の哲学者たちも、「消極哲学」として否定的に描かれている哲学者たちも、彼らが生きた時代環境のなかで、借り物ではない、自分のアタマで徹底的に考え抜いた思索者たちなのである。

同時代に生きる一般人の固定観念を揺さぶり、自分自身のアタマでものを考えさせること。それこそがソクラテス以来、「哲学者」の役割なのだ。

その意味において、本書は「教科書」ではまったくないし、著者自身の「新哲学」と受け取るべきなのである。哲学というものは、自分が自分のアタマで考えること、つまり主観的なものがその出発点にある。

本書で採用された「問答体」は、読みやすいので、かえって読み飛ばしやすいという欠点がある。だから、いったん読んだ後も自分のアタマのなかで自問自答という反芻をしてみしたり、いろんな人とダイアローグ(対話)してみるのがいいだろう。

哲学は、そもそもその最初の出発点から、お籠もりをしているソクラテスの耳に聞こえてきたデルフォイの神託(=オラクル)のように「向こう側」からいきなりやってくる「直観」からはじまるものだ。

そして、その直観を自問自答しながら考え抜き、さらにはプラトンの対話篇にあるように、「自分」と「他者」とのあいだのダイアローグ(=対話)で深めていくものだ。

「他者」は、自分の外部に存在すると認識されているが、ほんとうは「他者」は自分の内部に存在するのである。これは西欧的な発想であるが、「他者」(alter-ego)には、「自分」(ego)が反映しているのである。ルネサンス時代の政治思想家マキャヴェッリのように、独り書斎で死者としての古人と対話するのもまたダイアローグといっていい。

著書をつうじて著者と対話する、著書のなかに登場する哲学者のコトバを反芻(はんすう)してみる。それが自分で考えるということ、すなわち哲学の第一歩となる。

そしてなによりも大事なことは「行動」なのである。「実践」なのである。「直観」を武器にして、哲学を根底においた行動が不可欠なのだ。


読みやすいが常識をゆさぶる内容の本である。読みやすいが内容の濃い本なので、まずは一読してみることをすすめたい。そして、わかるまで何度も読み返してみるといい。







PS 『ヨーロッパ思想を読み解く』の成立に 佐藤けんいち が関与

この本の成立に、このブログ記事の執筆者である 佐藤けんいち 自身が関与しております。この点については、『ヨーロッパ思想を読み解く』の「おわりに」を読んで、いただけると幸いです。


2014年8月の新刊書籍にて「天性のコーチともいうべき人」と紹介されました (姉妹ブログ 「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる! にアップした記事)も参照いただけると幸いです。

ただし、このブログ記事に描いた内容は、あくまでもわたし個人の見解であり、『ヨーロッパ思想を読み解く』の一つの「読み方」であることを明記しておきます。

(2014年9月3日 記す)



目 次 
はじめに
プロローグ 世界をつくった「向こう側の哲学」
Ⅰ 向こう側をめぐる西洋哲学史
 第1章 この世の「向こう側」など本当にあるのか-バークリ
 第2章 「こちら側」に引きこもる-フッサール
 第3章 「こちら側」をさらに深める-ハイデガー
 第4章 「向こう側」は殺せるか-ニーチェ
 第5章 我々の時代と「向こう側」-デリダ
Ⅱ  「向こう側」と「あの世」の思想
 第6章 時間論
 第7章 近代以後の「生かされる生」
 第8章 「あの世」と「向こう側」
おわりに


著者プロフィール

古田博司(ふるた・ひろし)
1953年生まれ。筑波大学人文社会系教授。専門は政治思想・東アジア政治思想・北朝鮮政治・韓国社会論。著書に『朝鮮民族を読み解く-北と南に共通するもの-』(ちくま学芸文庫)、『日本文明圏の覚醒』(筑摩書房)、『「紙の本」はかく語りき』(ちくま文庫)、『東アジア・イデオロギーを超えて』(新書館)など。(出版社サイトより)。



<関連サイト>

偉大な企業だけが知っている「隠れた真実」の見つけ方  『ゼロ・トゥ・ワン』先行公開(6) (ピーター・ティール、ブレイク・マスターズ、日経ビジネスオンライン、2014年10月3日)
・・「隠れた真実」という「見えないもの」の存在を確信し、それを明らかにしようという情熱が未来を切り開く。シリコンバレーで現在もっとも注目される起業家でベンチャキャピタリストのピーター・ティール(Peter Thiel) の発言

(2014年10月4日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

古田博司教授関連

書評 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)-「日本文明」は「中華文明」とは根本的に異なる文明である

書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか

書評 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(古田博司、WAC、2014)-フツーの日本人が感じている「実感」を韓国研究40年の著者が明快に裏付ける

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・日本は儒教国家ではないという点にかんして、古田博司氏の『東アジアの思想風景』(古田博司、岩波書店、1998)について触れている


本書出版後に、よりわかりやすい形で「新哲学」についての語り下ろし本が出版されている。

書評 『使える哲学-ビジネスにも人生にも役立つ-』(古田博司、ディスカヴァー・トウェンティワン、2015)-使えなければ哲学じゃない!?

(2017年7月27日 情報追加)


古田博司氏の「新哲学」に興味をもって反応している人たち

(書評再録) 『ムッソリーニ-一イタリア人の物語-』(ロマノ・ヴルピッタ、中公叢書、2000)-いまだに「見えていないイタリア」がある!
・・イタリア人のヴルピッタ・ロマノ氏

書評 『知的唯仏論-マンガから知の最前線まで ブッダの思想を現代に問う-』(宮崎哲弥・呉智英 、サンガ、2012)-内側と外側から「仏教」のあり方を論じる中身の濃い対談 ・・宮崎哲弥氏

書評 『漢文法基礎-本当にわかる漢文入門-』(二畳庵主人(=加地伸行)、講談社学術文庫、2010) ・・加地伸行氏


「見えないもの」をみる

「東洋文庫ミュージアム」(東京・本駒込)にいってきた-本好きにはたまらない!
・・「アダム・スミスの有名な「見えざる手」の原文が an invisible hand と単数であることも知ることができた。「神の見えざる手」ではまったくないし、複数形でもないし、右腕か左腕かもこの英語原文からはわからない

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要
・・プロテスタント神学の立場から。内容にはかならずしも同調する必要はないが、思考のフレームワークを知るのはよい

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性
・・理系のりんご栽培農家が語る「見えないもの」の重要性

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力

経営計画の策定と実行は、「自力」と「他力」という仏教の考えをあてはめるとスムーズにいく

書評 『梅棹忠夫の「人類の未来」-暗黒の彼方の光明-』(梅棹忠夫、小長谷有紀=編、勉誠出版、2012)-ETV特集を見た方も見逃した方もぜひ
・・「こちら側」だけを見ていたのでは「科学の限界」に気がつくことはない

最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)

書評 『サウンド・コントロール-「声」の支配を断ち切って-』(伊東乾、角川学芸出版、2011)-幅広く深い教養とフィールドワークによる「声によるマインドコントロール」をめぐる思考
・・作曲家で識者、大学では物理学を専攻した著者は、音響学にも造詣の深かった作曲家の父をもつガリレオ・ガリレイにおける「音楽の知」について語っている

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・現世とは異なる「向こう側」の存在を感知していた「世間論」の阿部謹也と「空気の研究」の山本七平。両者はともに日本人としてはマイノリティのキリスト教信者であった


非ヨーロッパ圏の科学

書評 『失われた歴史-イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった-』(マイケル・ハミルトン・モーガン、北沢方邦訳、平凡社、2010)
・・古代ギリシアの継承者としてのイスラーム文明

書評 『インドの科学者-頭脳大国への道-(岩波科学ライブラリー)』(三上喜貴、岩波書店、2009)


真に「哲学者」といえる日本人「哲学者」

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝
・・プラトンの「叡智界」とは直観によってのみ捉えうる魂の世界のことである

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと ・・哲学者の池田晶子氏の著作を引き合いに出してある


東洋的な「向こう側」認識メソッド

「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・心身一体の修行を長く続けていくことによって、「開眼」し「開耳」する瞬間が突然やってくる

『図説 中村天風』(中村天風財団=編、海鳥社、2005)-天風もまた頭山満の人脈に連なる一人であった
・・インドでのヨーガ修行で「開眼」した中村天風

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定
・・禅仏教の修行もまたそのメソッドである。ただし宗教としての仏教にこだわる必要はない


哲学者によるダイアローグ(対話)

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは
・・政治哲学者サンデル教授のソクラテスメソッドによる対話型授業ときわめて高度なファシリテーション技術

ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」 
・・「根強く社会に存在する「反ユダヤ主義」のなか、「同化」によるアイデンティティ喪失の道ではなく、自らの内なるユダヤ性探求の方向に向かい出す・・(中略)・・フランツ・ローゼンツヴァイクによる「対話の哲学」」


アングロサクソン的思考法

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)-複眼的思考法は現代人にとっての知恵である!

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと 

Cool Head but Warm Heart 「アタマはクールだが、ココロは暖かい」
・・19世紀英国の経済学者アルフレッド・マーシャル(1842~1924)が遺した有名なコトバ


自分のアタマで考える哲学

「稲盛哲学」 は 「拝金社会主義中国」を変えることができるか?

ビジネスパーソンに「教養」は絶対に不可欠!-歴史・哲学・宗教の素養は自分でものを考えるための基礎の基礎

「倫理」の教科書からいまだ払拭されていない「西洋中心主義」-日本人が真の精神的独立を果たすために「教科書検定制度」は廃止すべし!

「スティル・ライフ」-アートで哲学してみよう

「行動とは忍耐である」(三島由紀夫)・・・社会人3年目に響いたコトバ

(2014年8月19日、26日、2015年6月15日、7月8日 情報追加)



 
 (2020年12月18日発売の拙著です)


(2020年5月28日発売の拙著です)


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)


   
(2012年7月3日発売の拙著です)

 





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