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2016年1月4日月曜日

華人世界シンガポールの「ハウ・パー・ヴィラ」にも登場する孫悟空-2016年の干支はサル ③

(シンガポールのハウパーヴィラにおける孫悟空 筆者撮影)

中国文明でサルといえば、なんといても孫悟空であろう。孫悟空は、日本人にもおおいに愛されてきたサルのキャラクターで、マンガやアニメ、それから実写ものなど、さまざまな形で取り上げられてきた。

個人的には、小学生の頃に見ていた手塚治虫のアニメ 『悟空の大冒険』夏目雅子が三蔵法師を演じた実写版がなんといっても記憶に刻み込まれている。最近の子どものあいだでは『ドラゴンボール』がポピュラーなものであろう。マニアックなマンガでは諸星大二郎の『西遊妖猿伝』という作品もある。

『西遊記』のなかに登場する孫悟空は、仏教経典をもとめて天竺(=インド)に旅する三蔵法師のお供の一人(・・一匹というべきか?)。ブタ(?)の猪八戒(ちょはっかい)とカッパ(?)の沙悟浄(さごしょう)とトリオを形成している。日本の昔話でいえば、桃太郎のサル・キジ・イヌに該当する。

孫悟空といえば、「お釈迦様の手のひらの上をうろうろしているにすぎない」というフレーズでもよく登場して比喩的な使い方もされる。フィクションであるにもかかわらず、それだけ日常的な存在でもあるというわけだ。

こんなふうに日本では愛されてきた孫悟空だが、本家本元の中国ではどうなのだろうか? 

そもそも『西遊記』は中国の4大小説のひとつである。『西遊記』の根底にあるのは道教的な世界観であるといわれる。儒教が統治する側の論理であれば、道教は統治される側の民衆レベルに密着した教えである。妖怪などが登場する神仙思想もその流れにある。

それを知るにはシンガポールの「ハウ・パー・ヴィラ」(Haw Par Villa)にいってみるといいだろう。

「ハウ・パー・ヴィラ」は、中国共産党が大陸を制覇する前の、旧時代の中国人のアタマの中身を「見える化」したテーマパークである。妙にリアルで極彩色のキャラクターたちが所狭しと詰め込まれている不思議な空間だ。その大半は実在しない想像上の産物だ。


(妖怪どもと戦う孫悟空 筆者撮影)

「ハウ・パー・ヴィラ」は、万能塗り薬のタイガーバームの生みの親である胡文虎(ハウ)と胡文豹(パー)の兄弟の名前から一時づつをとった名称だ。いわゆる「タイガー・バーム・ガーデン」である。香港のタイガーバームガーデンは壊されてしまったので、シンガポールに残るものは、きわめて貴重な存在である。

シンガポールに限らず、タイやミャンマーなど華僑・華人として移住した先の東南アジアには、旧時代の中国がそのまま保存されているのである。胡文虎と胡文豹の兄弟は、大英帝国統治下のビルマの首都ラングーン(=ミャンマーの首都ヤンゴン)生まれの客家(はっか)出身者である。

そのシンガポールの「ハウ・パー・ヴィラ」には『西遊記』のコーナーがあって、孫悟空と妖怪たちとの戦いも、三次元の立体彫刻のジオラマとして展示されている。

ところで孫悟空はサルとしてきたが、中国文学者の中野美代子氏の『孫悟空の誕生-サルの民話学と「西遊記」-』(岩波現代文庫、2002)によれば、漢字の「猿」はじつはテナガザルのことであり、ニホンザルのような短腕で短尾のものは「猴」(こう)というのだそうだ。とすれば、孫悟空は「猿」ではなく「猴」(こう)となる。

(猪八戒が先導する三蔵法師一行 筆者撮影)

「ハウ・パー・ヴィラ」のキッチュでグロテスクな展示物は庶民的で面白い。『西遊記』というと、中国では古典演劇の京劇が引き合いに出されることが多いが、ハウ・パー・ヴィラの『西遊記』ジオラマもまた、片足を上げるポーズには京劇的な大げさな動作が反映している。日本人との感覚の違いを強く感じることだろう。

「旧時代の中国人のアタマ」の中身が、現在の中国人のアタマのなかにどれくらい残存しているのかはわからないが、そんなことを考えるためにも、旧時代の中国がそのまま保存された「ハウ・パー・ヴィラ」は、ほんとうに興味の尽きることのないテーマパークなのである。

シンガポール観光の際には、ぜったいにはずしたくないスポットである。





<ブログ内関連記事>

「タイガーバーム」創業者の「タイガー・カー」(改造車)
・・「ハウ・パー・ヴィラ」についてのより詳細な解説はこの記事を参照

書評 『HELL <地獄の歩き方> タイランド編』 (都築響一、洋泉社、2010)-極彩色によるタイの「地獄庭園」めぐり写真集
・・「ハウ・パー・ヴィラ」の地獄展示の写真を掲載

水木しげる先生がついに「あちら側」の世界へ行ってしまった(2015年11月30日)
・・水木しげるが創作した妖怪たちと中国の妖怪との違いは?


「サル年」関連

「見ざる、言わざる、聞かざる」(See No Evil, Hear No Evil, Say No Evil)-2016年の干支はサル ①

船橋市本町の猿田彦(サルタヒコ)神社を参拝-2016年の干支はサル ②

インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するハヌマーン-2016年の干支はサル ④


『新版 河童駒引考-比較民族学的研究-』(石田英一郎、岩波文庫、1994)は、日本人がユーラシア視点でものを見るための視野を提供してくれる本
・・駒(=馬)を引く猿の絵馬。サルとカッパは代替可能?


『サル学の現在 上下』(立花隆、文春文庫、1996)は、20年後の現時点で読んでもじつに面白い-「個体識別」によるフィールドワークから始まった日本発の「サル学」の全体像

映画 『猿の惑星』の原作は、波乱万丈の前半生を東南アジアで送ったフランスの作家が1963年に発表したSFである

(2016年1月7日、2月1日 情報追加)


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2014年8月16日土曜日

書評『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」


『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)は、今月(2014年8月)の新書新刊だ。

内容は、「なぜヨーロッパにのみ、近代科学を生み出す思想が発達したのか。師と弟子の対話形式で、カント、ニーチェらが繰り広げてきた知的格闘の論点を明らかにし、解説する。独自の視点と思索による、思想史再構築の試み」(出版社による)。

古田博司氏は筑波大学教授。専門は政治思想・東アジア政治思想・北朝鮮政治・韓国社会論

そんな古田教授が、なぜ「ヨーロッパ思想」なのか?

それは、「非西洋の哲学や思想を見てきた私には、西洋哲学の特異性がはっきり見えてくる部分もある」(P.13)という発言に表現されているといっていい。

本書は、大学院生の弟子との「問答」とその「解説」という形式で構成されているので、読みやすいと思う。そもそも、プラトンの対話篇以来、哲学はモノローグ(=独白)ではなく、自問自答も含めたダイアローグ(=対話)であることが基本だから。

だが内容そのものには、賛否両論があるだろう。「内容は日本の哲学学徒たちの常識を大きくはずれるものである」(P.224)と、「おわりに」のなかで著者自身が述べているとおりである。


「向こう側の哲学」という「新哲学」

かなりクセのある内容である。よくいえば個性的だ。日本では一般的な西洋哲学史の理解とは異なる解釈によって一貫していることに、まずは注意して読むことが必要だ。

「近代科学」が西欧に生まれたことほかのどこでもない西欧キリスト教世界においてのみ生まれたこと、「それでも地球は回る」と地動説を主張したガリレオ以来、近代科学がカトリック教会の権威との戦いをつうじて鍛えられてきたということは、日本人の「教科書的な常識」となっていることだろう。

そして哲学もまた、古代ギリシアをその起源として、西欧世界において発展してきた。日本にも哲学や思想がなかったわけではないが、「狭義の哲学」は西欧で発展してきたものだ。これは古代ギリシアに起源をもつ数学や西洋音楽と同じであり、日本には明治維新以降にはじめて導入された。だから哲学というと、日本人からわかりにくいとして敬遠されがちなのは当然だろう。

だが、本書は「近代科学の誕生」がテーマではない。近代科学や西洋哲学が「向こう側」とのかかわりなしには成立しないことを、近代西欧の具体的な哲学者たちの言説を検証しながら指摘したものだ。

「あらたな科学的発見」は、「向こう側」では当たり前でも、「こちら側」ではそれまで知られていなかったに過ぎないのである。あくまでも「直観」で得たイメージを自分のアタマのなかで構築し、それを実験と観察という実証をつうじて理論として「見える化」(=可視化)することが、「科学的発見」の本質なのである。

その意味で、「向こう側」の哲学について書かれたこの新書本は、日本人の西洋哲学理解の「コペルニクス的転換」となるだろう。この表現は、著者が「消極哲学」とラベリングして斥けている哲学者カントの表現であるが、あえて使用させていただく。「消極哲学」とは、ドイツの哲学者シェリングによるものだ。

だから、わたしは個人的には、本書のタイトルは、帯にも大きく書かれているように『新哲学』あるいは、『「向こう側」の哲学』のほうがよかったのではないかと思う。だが、それでは出版社としては売りにくいと判断したのかもしれない。「向こう側」というコンセプトが、ややあいまいなことも原因の一つだ。

「向こう側」というコンセプトは、難解な哲学用語ではなく「日常語」である点に好感がもてるのだが、日常語であるがゆえのファジーさが残るのがやっかいな点だ。


日本人は「向こう側」の認識をもたずに「世間」内に存在

本書の「はじめに」は、以下のメッセージで締めくくられている。

いまの学生にはこう伝えたい。たえず自分の立ち位置を確かめ、そこから有用性のある方角を探れ。「人生には無限の可能性はない」。しかし、「無限の可能性へと近づく可能性」は健全すぎるほど健全にある--

古田氏の長年の人生の教師としての使命感と教育熱心さのあらわれた文章といえるだろう。

「フルタヒロシ」名義で 『ちょっとだけ考える。-思想という劇薬-』(日本経済新聞社)という、いまから13年前の2001年に出版されている本や、『新しい神の国』(ちくま新書、2007)の「第2章 マルクスどもが夢の跡」、 『日本文明圏の覚醒』(古田博司、筑摩書房、2010)にも、同じような所感が綴られている。

「近代という廃墟」から立ち上がり、たとえ一寸先が闇であっても勇気をもって前進せよというメッセージであろう。学生に限らず、若者に限らず、社会人であっても、あるいは学生や若者たちを指導する立場にある人にも聞かせたいものだ。

「自分の立ち位置を確かめ」には、さらに「世間のなかでの」を付け加えて、「世間のなかでの自分の立ち位置を確かめよ」という、わが恩師・阿部謹也先生のコトバを紹介しておきたい。

日本人がそのなかで生きている「世間」とは、「こちら側」のことである。日本人はみな「"世間" 内存在」である。哲学者ハイデガーの「世界内存在」(in-der-Welt-Sein; being-in-the-world)という表現は、じつは同じことを指しているに過ぎない。

「向こう側」からの視点をもつことで、はじめて「こちら側」にある日本人の「世間」が対象化され、相対化されるのである。阿部謹也先生は、中学生時代にカトリックの修道院で過ごした体験をもっているからこそ、「世間」の存在に気がついたのだろう。

「向こう側」については、高校二年のとき、わたしはこんな体験をしている。

高校には電車通学していたが、自宅から最寄りの駅までは自転車で通学していた。いわゆる理科少年であって、哲学少年というわけではなかったのだが、その当時、いつも偶然と必然とか、相対と絶対とはなにか、ということがアタマのなかに引っかかっていた。

ある朝のこと、通学のため全速力で自転車を漕いでいたとき、「こちら側」からみれば偶然に見えることも、「向こう側」からみたら必然なのだということが、突然わかったのである。それはもう、突然のことだった。アルキメデスではないが、まさに「ユーレカ!」体験の瞬間である。そのとき自転車で走っていた場所も空気も、自分の状態もみな、記憶のなかに刻み込まれている。

そしてそのとき同時に、「絶対者」の意味もわかったのである。「向こう側」に絶対者を想定するのは、たとえ人間がアタマで考えたことだとしても、絶対者の存在を前提にするとすべてが解決するのである、と。これらがみな「直観」として突然16歳の日本人男子にやってきたのである。アタマとカラダで体感されたのである。

もちろん自分は異次元にいってしまたわけではなく、「こちら側」で自転車をこいでいる。だが、「こちら側」と別に「向こう側」があると考えればすべてが解決するだけでなく、精神的に安心感を得ることもできるということがわかった。これが、わたしにおける「向こう側」の発見の瞬間だ。

キリスト教に限らず、信仰のある人にとっては「向こう側」の存在は当たり前のことだろう。だが、特に信仰をもたない人が、「向こう側」の存在と「絶対者」の意味について、少なくともアタマで理解することは、きわめて重要なことのである。わたし自身はキリスト教徒ではないし、仏教者ではあるがそれほど信心深い人間でもない。基本的に合理主義者である。

みなさんも「向こう側」発見の「思考実験」を試みてみるといいだろう。


「向こう側」は「見えない世界」

著者自身は、「向こう側」のことをカッコ書きで "other side" と書いている。

これは別の表現をつかえば "over there" ないしは "beyond" の意味になる。前者は水平的に「こちら側」から距離のある場所をぼんやりと表現したものであり、後者は垂直的に「こちら側」から上方に存在する場所をぼんやりと表現したものである。日常語というものは、そもそも多義的である。

だが、「向こう側」は自分の外部だけではない。自分の内部にひろがる広大な世界もまた「向こう側」と考えるべきだろう。 "over here" ないしは "inside" である。

本書にはいっさい言及がないが、C.G.ユングやルドルフ・シュタイナーといった20世紀のドイツ語圏の思想家たちは、「内面に降りてゆく方法」を開拓した。人間の外部ではなく、内面に広大な「向こう側」が存在することを「発見」したからである。ユングは医学、シュタイナーは工学から出発した人である。いずれも西欧近代の自然科学である。

「内面世界」は、東洋人にとっては当たり前の存在だ。すでに1,500年以上前大乗仏教の唯識(ゆいしき)派は、「眼耳鼻舌身」(ゲンニビセッシン)という五感による認識の、さらに底にあるアーラヤ識という深層意識を発見している。ユングが臨床において、患者が夢で見た世界を描かせた絵が、仏教のマンダラに酷似していることに驚いたというのは有名な話だ。

広大な「外部世界」と広大な「内部世界」。おそらくこの二つは分離不可能だろう。いっけん二元論のようにみえながら、じつは両者はつながっていると考えるべきで、この二つをあわせて「向こう側」というべきではないかと、わたしは考えている。

ともに肉眼では「見えない世界」、視覚では知覚できない世界である。いわゆる「心眼」で見る世界である。

だから、「向こう側」という表現は、「見えない世界」と言い換えても差し支えない。英語では、「インタンジブル」(intangible) あるいは 「インビジブル」(invisible)という表現をよくつかう。前者は、有形ではない無形、後者は文字通り「見えないもの」である。

「見える世界」がすべてだと思い込むのは傲岸不遜(ごうがんふそん)であり、「見えない世界」の逆襲を受けてしまう。これは「3-11」で日本人が、大津波や原発事故による放射能汚染で痛烈に体験したことだ。

「見えない世界」としての「向こう側」は、気がついてないだけで、「自分の周辺」に、あるいは「自分の内部」にもある。それは、「あの世」ではなく、「この世」の話だ。

特段に宗教的ではない日本人が「向こう側の存在を認識するには、「内面世界」を見るための各種の伝統的な瞑想法や精神修行法が適しているのではないか、という気がするのである。


この本の「効用」について

わたし自身、「社会科学の総合大学」に学んだ者だが、そもそも一橋大学は実学系の商科大学がその前身であっただけに、経済学においても英米流の「近代経済学」の牙城であり、ソ連崩壊のはるか前の1980年代前半においてすら、ドイツ流の「マルクス経済学」(・・いわゆるマル経)はまったくの少数派で周縁的な存在に過ぎなかった。

そのため、ドイツ社会学を代表するマックス・ウェーバーも読んでいたが、一方では J.S.ミルやベンサムなど英国流の「功利主義」(Utilitarianism)の経済学と倫理学は、人生の早いうちから身につけることになった。

そもそも高校時代からアメリカの英語雑誌 TIME を毎週読み(・・「英語道」を提唱していた松本道弘先生の全盛期だ)、おなじく高校時代に笠信太郎のベストセラー名著 『ものの見方について』を読んでからは、アングロサクソン流の「帰納法」的思考法こそ素晴らしい(!)と考えてきた人間だ。

しかも、大学卒業後はビジネスマンとして四半世紀以上も過ごしているので、どうしても損得勘定や効用でものを考えることが習い性となっている。1990年にはアメリカに留学して、日本の「社会科学」とアメリカの Social Science が似て非なることもよくわかった。アメリカ的な実学というプラグマティズムには大いに共鳴する。

そこで、この本の「効用」(utility)について、わたしなりに書いておこう。もちろん、これは著者の意図とはまったく関係ない、わたし自身の独断と偏見によるものだ。

それは、「カントもヘーゲルも 『エポケー』 してしまえばいい」、ということだ(笑) 「エポケー」とはギリシア語で、カッコに入れて判断停止すること。つまり棚に上げてしまうということだ。著者が「消極哲学」とラベリングしているフッサール現象学の用語である。

カントやヘーゲルは「消極哲学」だから読む必要はないというお墨付き(?)を得たことで、無駄な時間を費やす必要がなくなるわけだ。

読みたい人は読んだらいいだろうが、なんせ「人生は短く技芸は長い」(ars longa vita brevis)のである。もっとほかに「効用」のあることに時間とカネは使うべきだろう。多忙な一般読者に代わって、わざわざカントやヘーゲルまで読み込んでいただいた著者には、大いに感謝すべきである。

ヘーゲルといえば、夏目漱石の『三四郎』(1908年)を想起する。大学に入った三四郎にあわせて、わたしも大学に入学してから読んだが、そのなかにこんな一節があった。大学図書館でのシーンである。

二時間ほど読書三昧ざんまいに入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。

ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫(ごう)も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化(じゅんか)一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭(ぜっとう)に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……余(よ)今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々(しんしん)たる頭(かしら)をおさえて未来永劫に試験制度を呪詛(じゅそ)することを記憶せよ

とある。署名はむろんない。三四郎は覚えず微笑した。けれどもどこか啓発されたような気がした。哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」よほどヘーゲルの好きな男とみえる。・・(中略)・・ もとの席へ来てみると、与次郎が、例のヘーゲル論をさして、小さな声で、「だいぶ振(ふる)ってる。昔の卒業生に違いない。昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。だいぶ気に入ったらしい。(* 引用は「青空文庫」から。太字ゴチックは引用者=さとう)

この一節を文庫本で読んだ18歳のとき以来、わたしはヘーゲルは読まないことに決めた(笑) そもそも、わたしは「歴史哲学のような観念論」にはまったく関心がないだけでなく、その手のアタマでっかちの観念論はには警戒感を感じるたちである。事実関係の解明は安直な図式をあてはめて行うべきではない。

かつての「後期近代」の日本、とくに「戦後」においては、マルクスとのからみでヘーゲルも読まれたのだろうが、じっさいにどれだけ理解されたかどうかはまったく不明だ。そもそも日本語になってないヘタクソな訳文をみただけで、健全な「精神」の持ち主なら、「消極哲学」のヘーゲルなど敬して遠ざけてしまうだろう。

例外は在野の哲学者・長谷川宏氏の新訳による 『歴史哲学講義 上下』(長谷川宏、岩波文庫、1994)だろう。わたしはこの訳本を海外出張の行き帰りの機内で読んだが、これはほんとにわかりやすい翻訳だった。だがわかりやすいがゆえに、ヘーゲルの見解にはぜんぜん賛成できないことが結果として確認されたのであったが・・・(笑)。だが、この本くらいは、読んでおいたほうがいい。

著者が「消極哲学」とラベリングしているが、フッサールが提唱した「生活世界」という概念は、「こちら側」の「世間」という「現実世界」を理解するためにはきわめて有効であることも明記しておきたい。

社会学や人類学をやった人間にとっては「常識」だろうが、現象学的アプローチが現実理解に有効であるだけでなく、アルフレッド・シュッツがその開拓者であるエスノメソドロジーは、「自分の体験」ではない「他者の体験」を理解するための方法論として、近年ではとくに看護や介護の現場では大きな意味をもっているのである。

とはいえ、「向こう側」の存在はつねに認識しておくことが重要なことは言うまでもないことだ。フッサールの思考にも、見えざる超越的存在がある。

「向こう側」は、まだまだ「こちら側」からは掘り尽くされていない、膨大な不可視の領域である。おそらく未来永劫にわたって、いや、人類が滅亡しても掘り尽くされることなどないだろう。


「直観」力を武器にし、哲学を根底においた「行動」こそ重要

「世のため人のために生きよ」なんていうと、通俗道徳や宗教めいたメッセージであるが、本書はその結論を導き出すに至った思索の軌跡と捉えるべきだろう。

近代哲学の祖であるデカルトは、かの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」(cogito, ergo sum; je pense, donc je suis)というフレーズで、「自分」の存在根拠を、「自分」が考える主体であると確認することに求めている。

だが、じっさいはその真逆であり、「われあり、ゆえに思う」のである。「われ頬をつねると痛む、ゆえにわれあり」でもかまわないからだ。つまり、考えようが、頬をつねようが、自分の身体と知覚は分離できずに一体なのである。

とはいえ、自分が「存在」することの根拠など、じつはまったく自明ではない。ハイデガーなら人間存在の「被投性」とでもいうところだろうが、この概念は現象を記述したに過ぎない言説だ。

「被投性」とは、人間は自分自身の意志で「こちら側」(=世間)に放り込まれたわけではないといった意味だが、これくらいのことなら14歳前後の少年少女でも直観的にわかっている。だから、「存在」不安に脅かされる子どもは、リストカットという自傷行為によって、すくなくとも自分が「存在」することを確認し、そのつど安心を覚えるのである。

とはいえ、なぜ「自分」が「存在」するのか、その意味や根拠など、そう簡単に答えがでるわけがないのだ。そもそも「自分」という存在は自明のものでない。しかも、永遠の変化の相のもとで変化しつづける存在である

だからこそ、人も会社も、なんとかしてその「存在理由」(=レゾンデートル raison d'être)を求め、自分(たち)を納得させたいのである。結局は、「こちら側」において、世のため人のため、お客様のためというところに存在理由が落ち着くのはそのためだ。

この本で肯定的に描かれている「積極哲学」の哲学者たちも、「消極哲学」として否定的に描かれている哲学者たちも、彼らが生きた時代環境のなかで、借り物ではない、自分のアタマで徹底的に考え抜いた思索者たちなのである。

同時代に生きる一般人の固定観念を揺さぶり、自分自身のアタマでものを考えさせること。それこそがソクラテス以来、「哲学者」の役割なのだ。

その意味において、本書は「教科書」ではまったくないし、著者自身の「新哲学」と受け取るべきなのである。哲学というものは、自分が自分のアタマで考えること、つまり主観的なものがその出発点にある。

本書で採用された「問答体」は、読みやすいので、かえって読み飛ばしやすいという欠点がある。だから、いったん読んだ後も自分のアタマのなかで自問自答という反芻をしてみしたり、いろんな人とダイアローグ(対話)してみるのがいいだろう。

哲学は、そもそもその最初の出発点から、お籠もりをしているソクラテスの耳に聞こえてきたデルフォイの神託(=オラクル)のように「向こう側」からいきなりやってくる「直観」からはじまるものだ。

そして、その直観を自問自答しながら考え抜き、さらにはプラトンの対話篇にあるように、「自分」と「他者」とのあいだのダイアローグ(=対話)で深めていくものだ。

「他者」は、自分の外部に存在すると認識されているが、ほんとうは「他者」は自分の内部に存在するのである。これは西欧的な発想であるが、「他者」(alter-ego)には、「自分」(ego)が反映しているのである。ルネサンス時代の政治思想家マキャヴェッリのように、独り書斎で死者としての古人と対話するのもまたダイアローグといっていい。

著書をつうじて著者と対話する、著書のなかに登場する哲学者のコトバを反芻(はんすう)してみる。それが自分で考えるということ、すなわち哲学の第一歩となる。

そしてなによりも大事なことは「行動」なのである。「実践」なのである。「直観」を武器にして、哲学を根底においた行動が不可欠なのだ。


読みやすいが常識をゆさぶる内容の本である。読みやすいが内容の濃い本なので、まずは一読してみることをすすめたい。そして、わかるまで何度も読み返してみるといい。







PS 『ヨーロッパ思想を読み解く』の成立に 佐藤けんいち が関与

この本の成立に、このブログ記事の執筆者である 佐藤けんいち 自身が関与しております。この点については、『ヨーロッパ思想を読み解く』の「おわりに」を読んで、いただけると幸いです。


2014年8月の新刊書籍にて「天性のコーチともいうべき人」と紹介されました (姉妹ブログ 「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる! にアップした記事)も参照いただけると幸いです。

ただし、このブログ記事に描いた内容は、あくまでもわたし個人の見解であり、『ヨーロッパ思想を読み解く』の一つの「読み方」であることを明記しておきます。

(2014年9月3日 記す)



目 次 
はじめに
プロローグ 世界をつくった「向こう側の哲学」
Ⅰ 向こう側をめぐる西洋哲学史
 第1章 この世の「向こう側」など本当にあるのか-バークリ
 第2章 「こちら側」に引きこもる-フッサール
 第3章 「こちら側」をさらに深める-ハイデガー
 第4章 「向こう側」は殺せるか-ニーチェ
 第5章 我々の時代と「向こう側」-デリダ
Ⅱ  「向こう側」と「あの世」の思想
 第6章 時間論
 第7章 近代以後の「生かされる生」
 第8章 「あの世」と「向こう側」
おわりに


著者プロフィール

古田博司(ふるた・ひろし)
1953年生まれ。筑波大学人文社会系教授。専門は政治思想・東アジア政治思想・北朝鮮政治・韓国社会論。著書に『朝鮮民族を読み解く-北と南に共通するもの-』(ちくま学芸文庫)、『日本文明圏の覚醒』(筑摩書房)、『「紙の本」はかく語りき』(ちくま文庫)、『東アジア・イデオロギーを超えて』(新書館)など。(出版社サイトより)。



<関連サイト>

偉大な企業だけが知っている「隠れた真実」の見つけ方  『ゼロ・トゥ・ワン』先行公開(6) (ピーター・ティール、ブレイク・マスターズ、日経ビジネスオンライン、2014年10月3日)
・・「隠れた真実」という「見えないもの」の存在を確信し、それを明らかにしようという情熱が未来を切り開く。シリコンバレーで現在もっとも注目される起業家でベンチャキャピタリストのピーター・ティール(Peter Thiel) の発言

(2014年10月4日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

古田博司教授関連

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書評 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(古田博司、WAC、2014)-フツーの日本人が感じている「実感」を韓国研究40年の著者が明快に裏付ける

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・日本は儒教国家ではないという点にかんして、古田博司氏の『東アジアの思想風景』(古田博司、岩波書店、1998)について触れている


本書出版後に、よりわかりやすい形で「新哲学」についての語り下ろし本が出版されている。

書評 『使える哲学-ビジネスにも人生にも役立つ-』(古田博司、ディスカヴァー・トウェンティワン、2015)-使えなければ哲学じゃない!?

(2017年7月27日 情報追加)


古田博司氏の「新哲学」に興味をもって反応している人たち

(書評再録) 『ムッソリーニ-一イタリア人の物語-』(ロマノ・ヴルピッタ、中公叢書、2000)-いまだに「見えていないイタリア」がある!
・・イタリア人のヴルピッタ・ロマノ氏

書評 『知的唯仏論-マンガから知の最前線まで ブッダの思想を現代に問う-』(宮崎哲弥・呉智英 、サンガ、2012)-内側と外側から「仏教」のあり方を論じる中身の濃い対談 ・・宮崎哲弥氏

書評 『漢文法基礎-本当にわかる漢文入門-』(二畳庵主人(=加地伸行)、講談社学術文庫、2010) ・・加地伸行氏


「見えないもの」をみる

「東洋文庫ミュージアム」(東京・本駒込)にいってきた-本好きにはたまらない!
・・「アダム・スミスの有名な「見えざる手」の原文が an invisible hand と単数であることも知ることができた。「神の見えざる手」ではまったくないし、複数形でもないし、右腕か左腕かもこの英語原文からはわからない

『はじめての宗教論 右巻・左巻』(佐藤優、NHK出版、2009・2011)を読む-「見えない世界」をキチンと認識することが絶対に必要
・・プロテスタント神学の立場から。内容にはかならずしも同調する必要はないが、思考のフレームワークを知るのはよい

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

『奇跡を起こす 見えないものを見る力』(木村秋則、扶桑社SPA!文庫、2013)から見えてくる、「見えないもの」を重視することの重要性
・・理系のりんご栽培農家が語る「見えないもの」の重要性

書評 『ものつくり敗戦-「匠の呪縛」が日本を衰退させる-』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)-これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!
・・日本人にいちばん欠けているのが「見えないもの」を「見える化」する能力

経営計画の策定と実行は、「自力」と「他力」という仏教の考えをあてはめるとスムーズにいく

書評 『梅棹忠夫の「人類の未来」-暗黒の彼方の光明-』(梅棹忠夫、小長谷有紀=編、勉誠出版、2012)-ETV特集を見た方も見逃した方もぜひ
・・「こちら側」だけを見ていたのでは「科学の限界」に気がつくことはない

最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)

書評 『サウンド・コントロール-「声」の支配を断ち切って-』(伊東乾、角川学芸出版、2011)-幅広く深い教養とフィールドワークによる「声によるマインドコントロール」をめぐる思考
・・作曲家で識者、大学では物理学を専攻した著者は、音響学にも造詣の深かった作曲家の父をもつガリレオ・ガリレイにおける「音楽の知」について語っている

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・現世とは異なる「向こう側」の存在を感知していた「世間論」の阿部謹也と「空気の研究」の山本七平。両者はともに日本人としてはマイノリティのキリスト教信者であった


非ヨーロッパ圏の科学

書評 『失われた歴史-イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった-』(マイケル・ハミルトン・モーガン、北沢方邦訳、平凡社、2010)
・・古代ギリシアの継承者としてのイスラーム文明

書評 『インドの科学者-頭脳大国への道-(岩波科学ライブラリー)』(三上喜貴、岩波書店、2009)


真に「哲学者」といえる日本人「哲学者」

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝
・・プラトンの「叡智界」とは直観によってのみ捉えうる魂の世界のことである

「魂」について考えることが必要なのではないか?-「同級生殺害事件」に思うこと ・・哲学者の池田晶子氏の著作を引き合いに出してある


東洋的な「向こう側」認識メソッド

「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん)
・・心身一体の修行を長く続けていくことによって、「開眼」し「開耳」する瞬間が突然やってくる

『図説 中村天風』(中村天風財団=編、海鳥社、2005)-天風もまた頭山満の人脈に連なる一人であった
・・インドでのヨーガ修行で「開眼」した中村天風

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定
・・禅仏教の修行もまたそのメソッドである。ただし宗教としての仏教にこだわる必要はない


哲学者によるダイアローグ(対話)

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは
・・政治哲学者サンデル教授のソクラテスメソッドによる対話型授業ときわめて高度なファシリテーション技術

ダイアローグ(=対話)を重視した「ソクラテス・メソッド」の本質は、一対一の対話経験を集団のなかで学びを共有するファシリテーションにある

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」 
・・「根強く社会に存在する「反ユダヤ主義」のなか、「同化」によるアイデンティティ喪失の道ではなく、自らの内なるユダヤ性探求の方向に向かい出す・・(中略)・・フランツ・ローゼンツヴァイクによる「対話の哲学」」


アングロサクソン的思考法

書評 『知的複眼思考法-誰でも持っている創造力のスイッチ-』(苅谷剛彦、講談社+α文庫、2002 単行本初版 1996)-複眼的思考法は現代人にとっての知恵である!

What if ~ ? から始まる論理的思考の「型」を身につけ、そして自分なりの「型」をつくること-『慧眼-問題を解決する思考-』(大前研一、ビジネスブレークスルー出版、2010)

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと 

Cool Head but Warm Heart 「アタマはクールだが、ココロは暖かい」
・・19世紀英国の経済学者アルフレッド・マーシャル(1842~1924)が遺した有名なコトバ


自分のアタマで考える哲学

「稲盛哲学」 は 「拝金社会主義中国」を変えることができるか?

ビジネスパーソンに「教養」は絶対に不可欠!-歴史・哲学・宗教の素養は自分でものを考えるための基礎の基礎

「倫理」の教科書からいまだ払拭されていない「西洋中心主義」-日本人が真の精神的独立を果たすために「教科書検定制度」は廃止すべし!

「スティル・ライフ」-アートで哲学してみよう

「行動とは忍耐である」(三島由紀夫)・・・社会人3年目に響いたコトバ

(2014年8月19日、26日、2015年6月15日、7月8日 情報追加)



 
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2010年2月8日月曜日

書評『ものつくり敗戦 ー「匠の呪縛」が日本を衰退させる』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)ー これからの日本のものつくりには 「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」 が必要だ!




日本の未来を真剣に考えているすべての人に一読をすすめたい「冷静な診断書」-問題は製造業だけではない!

 「リーマンショック」発生から1年以上たったが、製造業にとっては、その後に発生した「トヨタショック」のほうがはるかにダメージは大きかった。

 「トヨタショック」とは、トヨタの売り上げが北米を中心に大幅にダウンし、とくに関連部品メーカーに与えた大ショックのことだ。今後も、円高傾向が続けば、量産型の製造業が日本で存続可能かどうか、その答えはおのずから出ることだろう。

 しかもまた、品質問題と大量リコールにともなう「第二のトヨタショック」は、日本の製造業の基盤が揺らぎ始めていることを示している。

 日本の製造業の何が問題なのか、ここで一度キチンと検証しておくことが必要だ。検証は多方面からなされることが必要だが、科学技術の観点からの分析による本書は、その試みの一つである。

 『ものつくり敗戦 ー「匠の呪縛」が日本を衰退させる』(木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009)の著者は、評論家でも、経済学者でも、ジャーナリストではない。機械設計においてもっとも重要な要素技術にかかわる「制御理論」の研究者である。

 この立場から、技術と科学の関係が根本的に変化した「第三の科学革命」について考察し、付加価値をつくりだす要素がハードではなくソフトウェアになった時代の技術開発について、現状の日本が抱える問題について診断を行っている。

 中国やインドを初めとするアジア諸国からの追い上げが激しくなる現在、日本が「ものつくり」で生きていくためにはどこに活路を見いだすべきなのか。単なる組み立て(=アセンブリー)など労働集約型産業は間違いなく日本からは消えてゆくだろう。すでに「世界の工場」となった中国は、単なる労働集約型産業から脱し、さらに高度な製造業へとシフトを始めている。

 日本の製造業は、先端技術のキャッチアップではなく、先端技術分野においてブレークスルー技術を開発していかなくてはならない。そのためには、いままで世の中に存在しない、「目に見えないもの」を見えるようにすることが必要であり、著者のいう「理論・システム・ソフトウェアの三点セット」が必要である。

 しかしながら残念なことに、この三点セットは、これまで日本人がもっとも軽視し、しかも弱い部分である。「匠」(たくみ)や「技」(わざ)などの「暗黙知」を過度に重視し、「形式知」であるシステム思考を軽視してきたツケが回ってきたのか・・・

 「ものつくり」そのものではなく、「ものつくり神話」を批判する著者の問題指摘は正しい。とはいえ、問題点の指摘と大きな方向性を示しただけに終わっているような印象もうけないではない。著者による診断では、教育そのものを抜本的に見直さない限り日本の製造業に未来はないからなのだが、教育の効果がすぐにはでないことを考えると・・・

 読んで元気の出る本ではないかもしれない。しかし、冷静な現状認識をもたないかぎり真の問題解決にはつながらない。そのための診断書の一つとして、製造業だけでなく、日本の未来を真剣に考えているすべての人、とくに教育関係者には一読をすすめたい。


<初出情報>

■bk1書評「日本の未来を真剣に考えているすべての人に一読をすすめたい「冷静な診断書」-問題は製造業だけではない!」投稿掲載(2010年2月5日)



画像をクリック!



目 次
序章 日本型ものつくりの限界
第1章 先端技術を生み出した二つの科学革命
第2章 太平洋戦争もうひとつの敗因
第3章 システム思考が根付かない戦後日本
第4章 しのびよる「ものつくり敗戦」
終章 「匠の呪縛」からの脱却―コトつくりへ

著者プロフィール
木村英紀(きむら・ひでのり)
理化学研究所BSI‐トヨタ連携センター長。1970年東京大学大学院工学系博士課程修了、工学博士。大阪大学基礎工学部助手、工学部教授、東京大学大学院工学系研究科、同大学院新領域創成科学研究科教授などを経て、2001年より理化学研究所生物制御システム研究室チームリーダ。横断型基幹科学技術研究団体連合会長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




<書評への付記>

 このブログに一番最初に書いた記事は、2009年5月4日に執筆して投稿した「円安バブル崩壊」というものである。その直前まで、機械部品関連の会社にいた私は、「リーマンショック」と「トヨタショック」の直撃をくらった。そんな渦中に書いたのが、上記の記事である。

 それから1年近くたつが、基本的な認識を変える必要はなさそうだ。しかしそれは、ある意味では日本にとっては幸せなことではない。

 さらに今回激震をともなってダメージとなるのが、「第二のトヨタショック」とでもいうべき、大量リコール問題である。これにトップ経営層による対外コミュニケーション不足が、とくに米国を中心とした海外でバッシングを引き起こしている。

 こと問題が、トヨタの代名詞であった高い品質のそのものにかかわるものだけだけに、ブランド失墜のみならず、製造業の「ものつくり」の基礎が崩れつつあるのではないか、という強烈な危機感を感じているのは私だけではないはずだ。


 この本は、「円安バブル崩壊」というブログ記事を書いたあとに読んだものだが、あらためて書評に仕立てたうえで紹介することとした。日本の「ものつくり」に根強く存在する「ものつくり神話」を批判したものだからだ。「すりあわせ型」生産による「匠」と「技」にしがみつき、ある種の退行現象をみせている日本人に対して、これでいいのかという疑問を感じるためだ。もちろん「匠」と「技」が悪いのではない。名人芸に依存した「ものつくり」では、時代を超えて前に進むことは不可能である。

 「モジュール型」生産のアンチテーゼである「すりあわせ型」を、日本の「ものつくり」の根幹だと勘違いしただけでなく、日本企業でかつては非常に有効に働いていた「暗黙知」による経営を、日本の経営学者によって過分なまでに礼賛されて、これでいいのだと勘違いしてきた、とくに製造業分野の日本の大企業。経営学者たちの学説を、自分たちの都合のいいように解釈し、自己正当化を図ってきたこれら大企業の慢心。

 これがビジネス界で言説として流通することによって、発生し定着した「負のスパイラル効果」といっていいのではないか。


 「モジュール型」生産で大きく後から追い上げてくる、中国をはじめとする新興国の「ものつくり」企業群に対抗していうためのは、「暗黙知」に安住することなく、「暗黙知」を「形式知」に徹底的に変換していくことが求められる。これが、これからの時代に必要なものなのだ。

 「形式知」への転換能力は、日本人の「言語力」そのものにかかわるものだともいえるだろう。日本人のある世代以上のあいだで通じ合っていた「あうんの呼吸」は、日本国内ですら通用せず、深刻なコミュニケーション問題を引き起こしている。いわんや海外の異文化経営においておや、だ。

 本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)で、日本人とユダヤ人の共通点と相違点について書いた際、似ている面が多いが、根本的に異なるのは、ユダヤ人が徹底した論理思考であることだと指摘した。「目に見えないもの」を「見えるもの」とする技術開発、この分野においては、日本人の弱点はすでに致命的な弱点となりつつある。

 とくに「言語力」を強化することは、すべての日本人にとって喫緊(きっきん)の課題である。この弱点を克服しない限り、たとえ日本人が世界に誇れる優位性をもっていたとしても、世界のなかで「名誉ある地位」を締めることは不可能となっていくだろう。
 
 とはいえ、教育の効果がでるには時間がかかる。ため息をつきたくなる現状だが、けっして絶望してはならない。勇気をもって立ち向かわなくてはなるまい。


PS 読みやすくするために改行を増やし、写真を大判にした。あらたに<ブログ内関連記事>を新設した。2014年時点でも、価値ある内容の本である。逆にいえば、この5年ではたして改革が実行されたのかどうか疑問ではあるが・・・ (2014年8月18日 記す)

PS2 出版から15年たつ。ようやく日本の製造業復活の兆しが見え始めた。だが、本書の史的と提言はいまだ古びていない。(2024年4月9日 記す)



<ブログ内関連記事>

「円安バブル崩壊」(2009年5月4日)
・・このブログでいちばん最初に投稿した記事で、野口悠紀雄の『世界経済危機-日本の罪と罰-』 ( ダイヤモンド社、2009)を踏まえた所感を述べている


ものつくり関連

書評 『製造業が日本を滅ぼす-貿易赤字時代を生き抜く経済学-』(野口悠紀雄、ダイヤモンド社、2012)-円高とエネルギーコスト上昇がつづくかぎり製造業がとるべき方向は明らかだ

書評 『日本式モノづくりの敗戦-なぜ米中企業に勝てなくなったのか-』(野口悠紀雄、東洋経済新報社、2012)-産業転換期の日本が今後どう生きていくべきかについて考えるために

鎮魂!戦艦大和- 65年前のきょう4月7日。前野孝則の 『戦艦大和の遺産』 と 『戦艦大和誕生』 を読む

書評 『中古家電からニッポンが見える Vietnam…China…Afganistan…Nigeria…Bolivia…』(小林 茂、亜紀書房、2010)

書評 『グローバル製造業の未来-ビジネスの未来②-』(カジ・グリジニック/コンラッド・ウィンクラー/ジェフリー・ロスフェダー、ブーズ・アンド・カンパニー訳、日本経済新聞出版社、2009)-欧米の製造業は製造機能を新興国の製造業に依託して協調する方向へ

書評 『アップル帝国の正体』(五島直義・森川潤、文藝春秋社、2013)-アップルがつくりあげた最強のビジネスモデルの光と影を「末端」である日本から解明

書評 『現代中国の産業-勃興する中国企業の強さと脆さ-』(丸山知雄、中公新書、2008)-「オープン・アーキテクチャー」時代に生き残るためには

書評 『中国貧困絶望工場-「世界の工場」のカラクリ-』(アレクサンドラ・ハーニー、漆嶋 稔訳、日経BP社、2008)-中国がなぜ「世界の工場」となったか、そして今後どうなっていくかのヒントを得ることができる本

書評 『空洞化のウソ-日本企業の「現地化」戦略-』(松島大輔、講談社現代新書、2012)-いわば「迂回ルート」による国富論。マクロ的にはただしい議論だが個別企業にとっては異なる対応が必要だ


「見えないもの」を「見える化」するのが科学的発見と理論化

書評 『ヨーロッパ思想を読み解く-何が近代科学を生んだか-』(古田博司、ちくま新書、2014)-「向こう側の哲学」という「新哲学」

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点

最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる

書評 『「大発見」の思考法-iPS細胞 vs. 素粒子-』(山中伸弥 / 益川敏英、文春新書、2011)-人生には何一つムダなことなどない!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!
・・「「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるのである」(梅棹忠夫)


言語力と論理力アップのために

書評 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(田嶋幸三、光文社新書、2007)-「論理力」と「言語力」こそ、いま最も日本人に必要なスキル

書評 『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか、白水社、2003)-日本語の「言語技術」の訓練こそ「急がば回れ」の外国語学習法!

書評 『言葉にして伝える技術-ソムリエの表現力-』(田崎真也、祥伝社新書、2010)

(2014年8月18日 情報追加)


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