『楊花飛ぶ 原采蘋評伝』(小谷喜久江、九夏社、2018)という本を読んだ。江戸時代後期に生きた女性漢詩人の評伝である。
帯のコピーをそのまま引用しておこう。 オモテには「江戸末期、酒と酒と詩に生きた男装・帯刀の女性漢詩人の鮮烈なる生涯」。ウラには「「幕末前夜の福岡秋月藩、父の遺言を胸に、日本全国を旅し、各地の一流知識人と詩酒を交わして回った原采蘋」とある。
原采蘋(はら・さいひん)は、1798年に福岡藩の支藩の小藩・秋月藩の儒者の娘として生まれ、幕末の1859年に旅先の萩で客死した儒者で漢詩人。采蘋(さいひん)は号である。本名はみち。
肖像画は残っていないようなので、カバーのイラストはあくまでもイメージ図である。さすがに女の一人旅は危険であったためだろう、移動中は男装で帯刀していたらしい。絵になるねえ。
この人のことは最近まで知らなかった。そんな人がいたのか!という驚き。武士階級や知識階層では、儒教の影響で男女の別がうるさく言われた時代であったからなおさらだろう。
藩者だった原采蘋の父は、藩内の政争に巻き込まれてその地位を失う。病弱だった二人の息子ではなく、聡明だった娘に後継者として将来を託すことにし、遊歴の旅に連れ歩く。各地で儒者や漢詩人と交流し、そこで生まれた評判をもとに生活の資を稼ぐのである。
その旅の数々で漢詩人としての腕を磨いた原采蘋は、身を立て名を上げるまでは故郷に戻るなと父からいわれ、儒者で漢詩人であった父の人的ネットワークを頼りに全国各地を旅することになる。
江戸には結局20年も滞在することになり、多くの知識人たちと交流しながら(・・そのなかには女性儒者もいたらしい!)、儒者として漢詩人としての評価は上げることはできたが、亡き父の文集を出版するというミッションは果たせずに終わる。最後の旅で萩に客死した。
現代では漢文はおろか漢詩など、日本人の生活からほぼ消えてしまってているが(・・せいぜい唐詩鑑賞くらいだろう)、江戸時代では詩人といえば漢詩人のことをさしていた。だから、漢詩を抜きにして江戸の文化を語ることはできないのである。
この本は、残された漢詩と日記、書簡をもとに、交流関係のあった江戸や地方の知識人や地方文化人たちの記録を参照してできあがった研究書の要約版だ。原采蘋だけでなく、彼女をつうじた江戸時代後期の日本社会を知ることができる。
すでに200年以上前に亡くなっている人なので、残された文献資料から再現することしかできない。このため物足りなさが残るのは仕方ない。
だからこそ、マンガや小説やドラマに仕立てたら面白いだろう。飲みっぷりのよさは絵になる。叶わなかった恋の話もある。 問題は漢詩の扱い方となるだろう。その意味では絵と文字で説明できるマンガが向いているのではないか。
まずは、原采蘋という人のことがもっと知られるべきだろう。江戸時代後期に対する見方もやや変化することになるかもしれない。
目 次はじめに/凡例第一章 少女時代第二章 修行時代第三章 京都への旅立ち第四章 江戸への旅立ち第五章 江戸での二十年間第六章 房総遊歴第七章 帰郷第八章 終焉主要参考文献/人名索引
著者プロフィール小谷喜久江(こたに・きくえ)1947年、千葉県南房総市に生まれる。1970年、法政大学文学部英米文学科卒業。2003年、豪州 Maquarie University Master of Arts with Honours 修士号取得。2013年、日本大学大学院総合社会情報研究科博士課程修了。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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