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2020年11月27日金曜日

書評『Au オードリー・タン-天才 IT 相7つの顔』(アイリス・チョウ/鄭仲嵐、文藝春秋、2020)-台湾の「天才IT大臣」のこれまでの人生の軌跡を知る

 
台湾が新型コロナウイルス感染症の拡大を水際で防ぐことができた際、日本のようなマスク騒動を起こさずに済んだのは、「台湾には"天才"IT大臣がいるから」だ。そのように紹介されてから、日本でも急激に知名度が向上したのが、オードリー・タン(唐鳳)氏だ。

 発言の数々は対談その他をつうじてネットで知ることができるが、『Au オードリー・タン-天才 IT 相7つの顔』(アイリス・チョウ/鄭仲嵐、文藝春秋、2020)でその生い立ちから現在に至る軌跡を知ることができる。この本は、台湾のジャーナリスト2人が、日本語読者むけに書き下ろした共著である。 

35歳でIT大臣に就任し、現在まだ39歳のタン氏の人生を振り返ることは、「天才」とよばれた児童が経験することになる苦悩と葛藤を、いかに両親を筆頭に友人の理解のおかげで危機を乗り越えることができたかを知ることになる。「天才」というレッテルは便利だが、けっしてその人について知ったことにはならないのだな、と。 

オープン化と透明化によって、政治上の意志決定のプロセスをすべて可視化することで、人びとの参加をうながし、ネットによる民主主義の可能性を拡張してきたのがタン氏の軌跡であり、台湾の民主主義の短いが内容の濃い歴史であることが、この本を読むとよく理解できる。 

台湾の「いま」を知ることのできる好著でもある。ネット民主主義やLGBT法制など、日本人が思っているよりも、さまざまな面で台湾がはるかに進んでいることを知ることが重要だ。 




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2015年10月29日木曜日

映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』(ドイツ、2015年)をみてきた(2015年10月28日)ー 失敗に終わったヒトラー暗殺を単独で計画し実行した実在のドイツ人青年を描いたヒューマンドラマ


映画 『ヒトラー暗殺、13分の誤算』(ドイツ、2015年)をみてきた(2015年10月28日)。東京・日比谷のTOHOシネマズシャンテにて。

ヒトラー暗殺を単独で計画し実行した、実在のドイツ人青年ゲオルグ・エルザーを描いたヒューマンドラマである。

だが残念ながら、ヒトラー爆殺そのものは失敗に終わった。時限爆弾に設定した時間の13分前にヒトラーは演説を切り上げ、会場を後にしていたからだ。それが日本公開タイトルの「13分の誤算」という意味だ。原題は ELSER(エルザー) とじつにそっけない。

こんな人物がいたのかという驚き、未遂に終わったとはいえヒトラー暗殺計画を背後関係なくすべて単独で実行した者がいたのだという驚きでいっぱいである。

暗殺未遂事件はじっさいに1939年11月8日にあったものだが、その後ながく世に知られないままだったという。実行犯であるゲオルグ・エルザー(36)は警察に逮捕されたのち、1945年5月のドイツ敗戦を目前にして、ひそかに獄中で処刑されていたのだが、証拠隠滅のため処刑命令書が直後に廃棄されたためである。

「13分の誤算」の代償はきわめて大きなものについたことは、主人公にとってだけでなく、映画を見る者にとっても、まさに痛恨としかいいようがないだろう。国防軍将校たちによるヴァルキューレ作戦(1944年)などのヒトラー暗殺計画がみな失敗に終わった結果、結局は破局まで突き進んでしまったからである。


主人公のエルザーはドイツ南西部ヴュルテンベルク州の田舎町に生まれ育った家具職人。機械いじりが巧みで、アコーディオン演奏も得意だった彼は、ごくごくフツーの青年であった。

だが、彼は「自分のアタマで考え、自分で行動する」人間であった。ナチス支配の強化によって、世の中から自由が失われ行く状況のなか、このままでは大変なことになってしまう先見性と危機感が彼を突き動かすことになる。時限爆弾を仕掛けてヒトラーを暗殺するという決意に至り、綿密な計画のもとに実行したのである。

国家社会主義ドイツ労働者党(=ナチス)が単独過半数を握るまで、対極的位置ににあって激しく対立していたドイツ共産党のシンパではあったが党員でなかったエルザー。暗殺計画にはいっさいの背後関係はなく、恋人も含めて親しい者にもいっさい漏らさず、完全に単独犯として実行する。

戦前の左翼ドイツ青年エルザーの存在で想起するのは、戦後日本の単独暗殺者であった山口二矢(やまぐち・おとや)という17歳の遅れてきた右翼少年のことである。ともに自分ひとりで思いつめた末に暗殺を決行した単独犯であったが、後者の日本人単独暗殺犯は、巻き添えの犠牲者なし当時の社会党党首を相対で刺殺したのであった。

左翼の家具職人は時限爆弾での暗殺を計画し実行する。そして失敗に終わった暗殺計画の結果、ヒトラーとは無関係の一般市民が8人も爆弾の道連れとして犠牲者としてしまう。はたして大義さえあれば殺人は許されるといえるのだろうか? 主人公エルザーには良心の呵責はなかったのだるか? 主人公への全面的な共感をためらうものがここにあると感じるのは、わたしだけではないのではないだろうか。

事実関係には忠実に、ただし主人公の私生活にかんしては脚色があると断り書きが映画の末尾にでてくるが、主人公の心の奥底にあったものは、本当はいったいなんであったのだろうか。映画を見終わったあとも考え続けてしまう。

独裁者の暗殺が成功して体制の転覆に成功すると、暗殺者は新体制において英雄として賞賛されることになる。だが失敗した暗殺者は、テロリストの汚名を着せられることになる。これが世の中の評価というものだ。

はたしてドイツ青年エルザーは英雄であったのかテロリストであったのか、この映画をみても評価はきわめて難しい。ヒューマンドラマとしては見応えのある映画ではあることは間違いないのだが・・・。







<関連サイト>

映画 『ヒトラー暗殺、13分の誤算』  公式サイト 

ヒトラー暗殺をいち早く企てた男の正体とは? 『ヒトラー暗殺、13分の誤算』の衝撃 (日経トレンディネット、2015年10月16日)

ELSER Trailer German Deutsch [2015] (ドイツ語版トレーラー YouTube)





<ブログ内関連記事>

映画 『バーダー・マインホフ-理想の果てに-』(ドイツ、2008年)を見て考えたこと ・・ナチス時代を全否定した戦後ドイツが生み出した鬼子が極左テロ集団

沢木耕太郎の傑作ノンフィクション 『テロルの決算』 と 『危機の宰相』 で「1960年」という転換点を読む
・・遅れてきた右翼少年によるテロをともなった「政治の季節」は1960年に終わり、以後の日本は「高度成長」路線を突っ走る

ジョン・レノン暗殺から30年、月日の立つのは早いものだ・・・(2010年12月8日)

JFK暗殺の日(1963年11月22日)から50年後に思う

書評 『ヒトラーの秘密図書館』(ティモシー・ライバック、赤根洋子訳、文藝春秋、2010)-「独学者」ヒトラーの「多読術」

書評 『ヒトラーのウィーン』(中島義道、新潮社、2012)-独裁者ヒトラーにとっての「ウィーン愛憎」

フォルクスワーゲンとヒトラー、そしてポルシェの関係



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2014年6月20日金曜日

法哲学者・大屋雄裕氏の 『自由とは何か』(2007年) と 『自由か、さもなくば幸福か?』(2014年)を読んで 「監視社会」 における「自由と幸福」 について考えてみる


「監視社会」と「自由」、いまこれほど刺激的なテーマはないかもしれない。この2つのキーワードを実際の行為として世界中に突きつけたのがエドワード・スノーデン氏であった。

「スノーデン事件」とは、米国の情報機関NSA(国家安全保障局)が行ってきた膨大な通信傍受と個人情報収集による監視を、元職員が暴露した「事件」である。「監視社会」を告発したスノーデン氏が「自由」を求めて「監視社会」のロシアに亡命さぜるを得なくなったというのは、まことにもって皮肉な事態ではあるが。

『自由とは何か-監視社会と「個人」の消滅-』(大屋雄裕、ちくま新書、2007)が出版されたのは、「スノーデン事件」が発生した2013年よりも6年前である。

ことし出版された『自由か、さもなくば幸福か?-21世紀の<あり得べき社会>を問う-』((大屋雄裕、筑摩選書、2014)とあわせて読んでみると、「監視」する主体が国家であろうとなにであろうと、現代を考えるうえで避けて通れないテーマであることがわかるはずだ。


「自由な個人」という幻想?

「自由な個人」として思考し、行動している。そうは思っていても、じつはかならずしもそうではない。無意識のうちに習慣となったことを繰り返しているのが日常生活というものだろう。

日常生活をスムーズに進めるためには、定型的で決まり切った手順や習慣に無意識にうちに従っうほうが効率的だ。「人間は習慣の奴隷である」という有名なフレーズもある。行動科学の立場からは人間の自由意志さえ否定される。

効率的であることがすべてだとは言わないが、「便利」で「安心」な生活のほうがいいに決まっている。そう考えるのがフツーの人の発想だろう。そうは思わない人もいるだろうが、このわたしも「便利」で「安心」な生活のほうがいいと思っている。

世の中はますます悪くなると思い、そういう「不安」をもらす人は多いが、ことテクノロジーの発達という点をみれば、あきらかに現在は10年前よりも、20年前よりも、「便利」で「安心」な生活が実現していることは、冷静に振り返ってみればおのずから理解されるはずである。

問題は、テクノロジーの発達に人間の意識が追いついていないということだろう。あるいはまだ過去にすり込まれた固定観念が消えずに残っていて、意識を支配し続けているためだろう。それほど人間が変化に追いついていくことは難しい。

だが、過去の経験をもたない世代であれば、それはけっして困難ではない。いま現在がすべての出発点となるからだ。変化の激しい時代には、知識は増大しても過去の知恵が通用しなくなる。

それは、21世紀の現在が「近代」が終わって次の時代に移行するトランジッションの状態にあるからだ。テクノロジーの発達は「意図せざる結果」を生み出しつつあるということだ。「自由」という概念もそれにともなって変化していく。

本書は、その移行期を法哲学の立場から分析して見せたものだ。権利や擬製(=フィクション)といったさまざまな法概念も俎上に載せて検討されることになる。

いま、さまざまな制度や概念が「機能不全」をおこしている。民主主義もまた「機能不全」状態にあることは、エジプトやタイといった中進国だけでなく、日本も含めた先進国もまたそうであることは世代間格差の問題を考えてみれば明白だろう。「一人一票システム」が民主主義の機能不全を生み出す要因となっている。

ビジネスパーソンは、コスト/ベネフィット思考でものを考えがちだが、経済的思考以外の法律的思考でものを考えてみることもときには必要だ。だが、本書の議論には「幸福」はあっても「便利」という経済的発想がないのが気にかかる。功利主義的発想の限界についての議論が弱いのではないだろうか。

たとえば、ベンサムの「最大多数の最大幸福」という功利主義を代表する有名なフレーズは、響きは美しいが経済学的には成り立たないことは冷静に考えてみればわかることだ。ミクロの総和はマクロとはイコールではない。資源の制約という前提が欠けた議論だからだ。経済学では、このミクロとマクロのあいだに存在するパラドックスのことをさして「合成の誤謬」と呼ぶ。


「監視社会」の主役である国家が別の「監視社会」の対抗軸となる!?

先進国においては、すでに「近代」が完成し「近代化」がすでに終わっている。いっけんして「前近代」に戻ったような印象も受けるが、もちろん後近代と前近代はイコールではない。近代を経たのちの後近代である。

「国家」対「個人」という、対立関係を主軸に据えた左派の議論が陳腐に感じるのはそのためだ。「主権国家」は近代の産物だが、「国家」もまた、その他のプレイヤーの勢力拡大を前にしてパワーを失いつつある。「国家」は弱体化しつつあるのだ。いっけん「監視社会」の最大の主役のように見えて、かならずしもそうではないのである。

国家以外のプレイヤーとして筆頭にあげるべきものは、米国のIT系を中心とした超巨大グローバル企業であることは、「監視社会」を考えるにあたって絶対不可欠なことだ。

グーグルの「検索」やアマゾンの「レコメンド」機能、フェイスブックの「いいね!」、スマホの位置情報などなど。膨大な個人情報を収集し機械的に解析してフィードバックする「ビッグデータ」時代の覇者たちである。いずれも人工知能テクノロジーの進化がその背景にある。

グーグル会長のエリック・シュミット氏は、「インターネットと相互接続権力の台頭」という論文で、「インターネットに接続さえできれば、誰でも個人で発言し変化を起こすことのできるパワーを手に入れることができる。そうしてパワーを得た非政府組織と活動家が、世界全体で「パワー拡散」をさらに促進している」という意味の発言を行っている。

グーグルのような超巨大IT系企業もまた「変化を起こすことのできるパワーを手に入れた」存在である。国家だけでなく、超巨大企業も大きなパワーをもつにいたっているである。国家はそのなかでワンオブゼムとなりつつあるといえるのかもしれない。

フランスの思想家ジャック・アタリもいうように、民主主義国家においては財政破綻の危険がつねにつきものであり、先進国においては、ますます国家のパワーは相対的に減退するということだ。「国家」の使命は国民の生命財産を守ることにあるが、国家のパワーが減退すると、その使命も完全に果たすことができなくなる

「国家」もまた諸勢力の一つであったのは「前近代」の中世社会であるが、「近代社会」に生を受けて、ある年齢まではそのなかにいた人は、「近代」のなんたるかをアタマとカラダの両面で体験しているので、逆に現在進行中の事態に不安やを強く感じているのかもしれない。


「ミラーハウス型」の相互監視社会」とは「世間」のこと!?

著者は、「ミラーハウス型」監視社会という表現をつかっているが、これは別の言い方をすれば「相互監視型システム」ということになる。

さきにグーグル会長のエリック・シュミット氏の発言を紹介したが、「相互接続権力」(interconnected estate)とは、「相互接続状態」(interconnected stateのことである。

「ミラーハウス型」は「相互監視社会」のことだと考えれば、それは日本語でいう「世間」のことではないか、とわたしは思う。

「世間のしがらみ」という表現でネガティブに捉えられがちな「世間」であるが、濃淡は存在するものの、「世間」とは親族を中心とした、所属組織などの「想像の共同体」における人間関係のネットワークのことにほかならない。ネットワークであるということは、相互接続状態にあるということだ。そのネットワークのなかでは相互に監視し、監視される関係にある。

監視されるのはうっとおしいが、一方ではそのなかに居る限り「安全」と「安心」が保証される。世間のポジティブな側面について考えてみる必要がある。

一方的にいいだけのことも、一方的に悪いだけのことも、世の中には存在しない。なにごともオモテがあればウラがある。善悪はコインの両面である。

ノンフィクション作家の吉田司氏に『デジタル・パラノイア-電脳ニッポン興亡記-』(徳間文庫、2001)という作品がある。まっとうな学者である大屋雄裕氏のレーダーには引っかからないようなので、代わりにわたしが言及しておこう。「第3部 デジタルファンタジー日本」から。

年配の読者ならよくご存じだが、村(ムラ)の暮らしの中の日本人は互いにスゴイ情報通で、他人の家の二代前三代前の御先祖の悪行善行をつい昨日のように記憶していて、仕返ししたりされたりして暮らしていた。なにしろ自分の女房の肉体の奥深い秘密まで青年宿やら夜這い仲間によって、スッカリ熟知されている(笑)。個人主義というものが成立しない。(P.199)

やや下卑た表現だが、これが<ムラ>という地域共同体の相互監視社会の構造だ。吉田氏はこれを<ムラ>という記憶装置(=データ・バンク)と表現している。引用を続けよう。

<記憶装置としてのムラ>と<管理装置としてのムラ>が二重構造となって、日本人の魂を大地や田畑に縛りつけていた。<ムラ>とは、逃れ得ない<大地の記憶装置(コンピュータ)>だった。・・(中略)・・ そ~した古典的な<ムラ>構造は、つい戦後の高度成長期まで続いた。・・(中略)・・私たちはいま、二つの巨大な人間管理システムが交差するのを目撃しているのだ。すなわち古代から続いた伝統的な<大地の記憶装置=アナログ・コンピュータ>が崩壊し、<電子の>の記憶装置=デジタル・コンピュータ>が日本人の暮らしを管理するに至る、そのつかの間の、過渡期の時代を生きている。(P.200)(*太字ゴチックは引用者=さとう)

なんだか身も蓋もないような気もするが、実態はそんなもんだろう。

基本的に、その内部にいる者の安心と安全は保証されるが、内部から排除された者は「自由」だが特殊な生き方を選択せざるを得なくなる。それは前近代社会の日本でも西欧でも、放浪芸人や乞食など被差別の道であった。日本の「村八分」と同様に、西欧中世にも「人狼」という存在もあった。

「都市の空気は自由にする」(Stadtluft macht frei)という格言はその事情を表現したものである。そもそも日本だけでなくロシアにも、プライバシーというコトバも概念もなかったことを想起しておけばいいだろう。

目に見えない「しがらみ」というソフトな監視は、同時にそのなかにいれば普段は気がつくこともなく、安心を得ることができる。何事であれ、物事には両面がある。一方的にメリットだけだとか、デメリットだけなんて事象はこの世には存在しない。

これはカトリック教会が「聖なる世界」だけでなく、「俗なる世界」においても「監視社会」のメインプレイヤーとして君臨していた西欧中世もまた同じだった。

「近代」が終焉していながらも、まだその残滓を引きずっていた1980年代頃までは、日本にいても西欧の口まねで「暗黒の中世」というフレーズでラベリングをしていたのだが、じつは中世社会はそのなかに生きていた人々にとっては、暗黒でもなんでもなかったというのが真相である。むしろ中世崩壊後の「初期近代」の17世紀が過酷な時代であったのだ。

大屋氏の『自由とは何か-監視社会と「個人」の消滅-』(2007年)では、阿部謹也氏の西洋中世のギルドにかんするの引用があるのに、「世間論」への言及がまったくないは残念なことだ。中世史家がなぜ日本の「世間」について鋭い指摘を続けたのか考えてみる必要がある。

法思想や法哲学の研究者は、近代日本が西洋法の承継のうえに成り立っているので、どうしても思考の準拠枠を西欧にもとめがちだが、それだけでは議論が日本人にしっくりくるものとはならない。

すでに近代を通過した現代という時代は、複数の、あるいは無数の「世間」が偏在している状態にある。出身地、出身校、家族、勤務先、地域社会、SNS・・・・。みな人的ネットワークと言い換えてもいいかしれない。一人の人間が複数の「世間」に足を突っ込んでいるのである。

「世間」という存在は、ネットワークの濃淡や外部性などの議論で理解することは可能だろう。相互監視社会はウチ・ソトを峻別するという構造をもっているので、世界が完全にフラットなのっぺらぼう状態になるとは考えにくい。 



テクノロジーの進化がさらに時代を「中世」に戻していく?

スノーデン事件は国家による個人の監視であったが、「国家」に勝るとも劣らぬ活動を行っているのが米国を中心としたIT系の巨大民間企業であることを失念すべきではない。

ビジネスの世界でいう「ビッグデータ時代」は、膨大な個人情報をもとに統計解析によって、ビジネスに有用な情報を探索する技術を背景に成立していることを確認しておく必要があるだろう。

しかも、国家と巨大民間企業この両者の関係もまた一筋縄でいくものではない。その力関係もいまではかならずしも国家のほうが上というわけでもない。

「監視社会」と「開かれた社会」、そのどちらが望ましいか言うまでもない。だが、家族の安全や国防上の安全という「監視社会」のメリット面にかんする議論になったとき、議論のシロクロを明確に言い切れる人はそう多くあるまい。メリットとデメリットは、ある種のトレードオフの関係にある。

国家からみれば、プライバシーという「私権」をどこまで制約できるかという問題である。個人の立場からいえば、プライバシーという「私権」をどこまで守ることができるかという問題である。

あらゆる「私人」が「公人」化しているのが現代という時代の特徴かもしれない。もちろん「公人」にもプライバシーは存在するのだが、その領域はきわめて小さい。だが、「私人」のプライバシー領域は小さくなる傾向にあり、「私人」と「公人」の違いが限りなく小さくなりつつある。

「自由」か「監視」かという問いに対しては、そう簡単に答えのでる問題ではないが、はっきりしているのはテクノロジーの進歩が止まることはないということだ。あとはテクノロジーが先行してつくりだす世界に、われわれ自身がどこまで適応(?)できるかという点にあるだけかもしれない。

著者の大屋氏は、まだまだ「近代」が生み出したリベラリズムに未練があるように見受けられるが、ジョージ・オーウェルの『1984』から30年後の2014年においては、現時点の状況に応じた現実的な対応が求められるのではなかろうか。幻想は捨てなくてはならない。

こんな言い方をすると、身も蓋もない話になってしまうかもしれないが・・・





『自由とは何か-監視社会と「個人」の消滅-』(大屋雄裕、ちくま新書、2007)

目 次

第1章 規則と自由
 「個人」の自己決定と法・政治
 自由への障害
 二つの自由-バーリンの自由論
 交錯する自由
第2章 監視と自由
 見ることの権力
 強化される監視
 ヨハネスブルク・自衛・監視
 監視と統計と先取り
 監視・配慮・権力
 「配慮」の意味
 衝突する人権?
 事前の規制・事後の規制
 規制手段とその特質
第3章 責任と自由
 刑法における責任と自由
 自己決定のメカニズム
 責任のための闘争-刑法40条削除問題
 主体と責任
おわりに-「自由な個人」のために






『自由か、さもなくば幸福か?-21世紀の<あり得べき社会>を問う-』((大屋雄裕、筑摩選書、2014)


目 次

はじめに
第1章 自由と幸福の一九世紀システム
 1. 近代リベラリズムと自己決定の幸福
 2. 契約自由の近代性
 3. 参政権-自己決定への自由
 4. 権利としての戦争
 5. 19世紀システムの完成-自己決定する「個人」
第2章 見張られる私-21世紀の監視と権力
 1. 監視の浸透
 2. 情報化・グローバル化と国家のコントロール
 3. 「新しい中世」
第3章 20世紀と自己決定する個人
 1. 19世紀から遠く離れて-戦争と革命の20世紀
 2. 個人と人間の距離
 3. 個人の変容への対応
 4. Why not be Perfect?-アーキテクチャと完全な規制)
第4章 自由と幸福の行方-不安社会/民主政の憂鬱
 1. 過去への回帰願望
 2. 新たなコミュニティ・ムーブメント
 3. アーキテクチャと「感覚のユートピア」
 4. ホラーハウス、ミラーハウス
おわりに 三つの将来
謝辞



著者プロフィール

大屋 雄裕(おおや・たけひろ)
1974年生まれ。東京大学法学部卒業。法哲学を専攻。現在、名古屋大学大学院法学研究科教授。著書に『法解釈の言語哲学-クリプキから根元的規約主義へ-』(勁草書房)、『自由とは何か-監視社会と個人の消滅』(ちくま新書)が、共著に『岩波講座 憲法1』(岩波書店)、『情報とメディアの倫理(シリーズ人間論の21世紀的課題』(ナカニシヤ出版)などがある。(出版社サイトより)


<関連サイト>

書評 自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う [著]大屋雄裕 [評者]萱野稔人(津田塾大学教授・哲学) [掲載]2014年05月04日

Christopher Soghoian: Government surveillance — this is just the beginning TED Fellows Retreat 2013 · 8:18 · Filmed Aug 2013

アップル社CM『1984』 (リドリー・スコット監督)
・・『1984』世界は「ビッグ・ブラザー」による一方的な監視社会。

グーグルは神なのか-「忘れられる権利」判決で惑うグーグル (原 隆、日経ビジネスオンライン、2014年6月16日)
・・「「忘れられる権利」裁判では、人の目で判断して差配すべしという判決が出たようなもの。殺到する削除要請に対し、その善悪の判断をグーグルに委ねる判決でもあるのだ。・・(中略)・・はたしてデータの中身の善悪を民間企業が判断し、コントロールすることが正しいのだろうか。グーグルに「私的な検閲」(東京大学大学院特任講師の生貝直人氏)という新たな権利を渡し、結果、神格化を進めてしまう結果に繋がらないのか」

生きる目的や倫理は蒸発する 人類が行きつく「幸福なデータ奴隷」とは?(Forbes Japan
 編集部、2019年3月25日)
・・デジタル経済学者・成田祐輔氏へのインタビュー。議論はこういう段階まで来ている

(2022年7月22日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

監視社会と自由

書評 『スノーデンファイル-地球上で最も追われている男の真実-』(ルーク・ハーディング、三木俊哉訳、日経BP社、2014)-国家による「監視社会」化をめぐる米英アングロサクソンの共通点と相違点に注目

映画 『善き人のためのソナタ』(ドイツ、2006)-いまから30年前の1984年、東ドイツではすでに「監視社会」の原型が完成していた

エンマ・ラーキンの『ジョージ・オーウェルをビルマに探して』(Finding George Orwell in Burma)を読む-若き日のオーウェルが1920年代、大英帝国の植民地ビルマに5年間いたことを知ってますか?
・・「オーウェルはビルマについて一冊の小説を書いたが、実は三部作だ。すなわち『ビルマの日々』『動物農場』『1984』だ」、という軍政下ビルマ人のジョーク

書評 『海賊党の思想-フリーダウンロードと液体民主主義-』(浜本隆志、白水社、2013)-なぜドイツで海賊党なのか?
・・どうも情報公開にかんする敏感さにかんしては、日本人とドイツ人の感覚は真逆の関係にあるようだ

書評 『原爆と検閲-アメリカ人記者たちが見た広島・長崎-』(繁沢敦子、中公新書、2010)-「軍とメディア」の関係についてのケーススタディ


すでに「近代」は終わり現在は次の時代への移行期にある

書評 『21世紀の歴史-未来の人類から見た世界-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2008)-12世紀からはじまった資本主義の歴史は終わるのか? 歴史を踏まえ未来から洞察する
・・「第Ⅳ章は、21世紀に押し寄せる「第一波」として民主主義・政治・国家を破壊する「超帝国」について言及される。第Ⅴ章ではつぎの「第二波」として従来の戦争や紛争を超える「超紛争」が発生することが語られる。市場と民主主義、その興亡の未来史が「第一波」と「第二波」である。現在も進行中の学校や軍事など公共サービスの民営化は、先進国が軒並み財政危機にあえぐなかでは、さらに推進されていくことは大いに予想されることだ。そこに出現するのは、市場の勝利と民主主義の敗北である。そして最後に「第三波」として民主主義を超える「超民主主義」が出現するのだという。だが、あらかじめ著者自身も予防線張っているとはいえ、やや理想的に響くのは仕方かなかろう。なんだか『黙示録』の構造を想起するが、最後が正義が勝つ、ということか」

書評 『持たざる国への道-あの戦争と大日本帝国の破綻-』(松元 崇、中公文庫、2013)-誤算による日米開戦と国家破綻、そして明治維新以来の近代日本の連続性について「財政史」の観点から考察した好著
・・民主主義が機能不全状態で行われた、国家による過った意志決定のツケは、結局は国民が支払うことになる(・・「戦前」の日本においても、大日本帝国憲法のもとで議会制民主主義は不完全ながら機能はしていたのだが・・・)


「国家」を超える存在となったグローバル企業の存在

書評 『グーグル秘録-完全なる破壊-』(ケン・オーレッタ、土方奈美訳、文藝春秋、2010)-単なる一企業の存在を超えて社会変革に向けて突き進むグーグルとはいったい何か?

書評 『アップル帝国の正体』(五島直義・森川潤、文藝春秋社、2013)-アップルがつくりあげた最強のビジネスモデルの光と影を「末端」である日本から解明
・・「国家」を超える存在となったグローバル企業という「帝国」の代表がアップルだ。ただし急速に「帝国」化したアップルも未来永劫に盤石である保証はない

書評 『ゲームのルールを変えろ-ネスレ日本トップが明かす新・日本的経営-』(高岡浩三、ダイヤモンド社、2013)-スイスを代表するグローバル企業ネスレを日本法人という「窓」から見た骨太の経営書

書評 『日本式モノづくりの敗戦-なぜ米中企業に勝てなくなったのか-』(野口悠紀雄、東洋経済新報社、2012)-産業転換期の日本が今後どう生きていくべきかについて考えるために

TGIF 「ああ、やっと金曜日!?」 いいえ、Twitter, Google, iPhone and Facebook の頭文字が TGIF


テクノロジーの「指数関数的」発達と「相互接続型社会」の出現

書評 『2045年問題-コンピュータが人間を超える日-』(松田卓也、廣済堂新書、2013)-「特異点」を超えるとコンピュータの行く末を人間が予測できなくなる?
・・「冒頭で 「amazon からつよくレコメンドされた」と書いたが、これこそまさに人工知能の産物である。「amazon のレコメンド」もまた、「機械学習」という人工知能のあたらしい潮流のなかにある。「Google の検索」については言うまでもない。・・(中略)・・「特異点」(singularity)という発想の根底にあるのは、技術の発展は直線的(=リニア)ではなく、指数関数的(exponential)に発展するという経験則だ。ヒトゲノム解読など、みなコンピュータの演算処理能力の爆発的な増大で想像以上のスピードで達成されてきた。S字カーブの繰り返しによるスピード上昇である」

書評 『グーグル秘録-完全なる破壊-』(ケン・オーレッタ、土方奈美訳、文藝春秋、2010)-単なる一企業の存在を超えて社会変革に向けて突き進むグーグルとはいったい何か?

書評 『100年予測-世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-』(ジョージ・フリードマン、櫻井祐子訳、早川書房、2009)-地政学で考える


「相互接続型社会」とは「世間」のこと

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?
・・「世間」とは持続性のある相互監視の視線であり、「空気」とは持続性はないが濃度の濃い相互監視の視線の集まりと考えてよいのではないだろうか。いずれにせよ日本人の人間関係を息詰まるものにしている正体について「空気」だけでなく、「世間」で考える必要はある


「個」の解体とその全面的肯定

書評 『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』(平野啓一郎、講談社現代新書、2012)-「全人格」ではなく「分割可能な人格」(=分人)で考えればラクになる
・・分割不可能な「人格」という近代が生み出した固定観念が現代の日本人を縛って苦しめているという不幸

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ
・・複数の「世間」(=人的ネットワーク)に足を突っ込んでいるからこそ、「是々非々」というマインドセットが生み出されるには日本だけでなく先進国共通である


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2014年6月1日日曜日

書評『オランダ ― 寛容の国の改革と模索』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)― 「オランダモデル」の光と影



欧州の「小国」オランダ。オランダもまたスイスと並んで学ぶべき「モデル」として、日本では賞賛される傾向がある。なんといっても、日本人の認識においては「先進国」としてのオランダは、オランダの観光政策の影響もあってポジティブなイメージに充ち満ちている。

だが、ビジネス界が注目した「オランダモデル」は、けっして手放しで礼賛するようなものではないのではなかろうか。すくなくともオランダ社会について正確な理解をもっていないと抽象的な「モデル」としての理解で終わってしまう物事はオモテとウラの両面、光と影の両面をみないとほんとうのことはわからないはずだ。

その意味で本書『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)は、きわめてコンパクトな」新書本という形で、オランダ社会の光と影について、理路整然と過不足なく整理してくれており、ひじょうに読みやすい本である。これ一冊読めばオランダ社会を理解できるのは、共著者がともにオランダで暮らした経験を踏まえたうえで知的に整理してくれるからでもある。

本書の帯の紹介文にも書かれているとおり、日本人からみたオランダ社会は、「安楽死・麻薬・売春」の合法化を実行している、合理主義に貫かれた社会というイメージも強い。もちろんアタマでは理解できても受け入れがたいという人も少なくないだろうが。

「合理主義」を支える「自由」と「寛容」の精神、これはオランダの国土の特性と、独立戦争によって建国したという歴史(・・先進国ではスイスとアメリカとオランダのみ)に起因するものだ。戦乱に明け暮れたいた17世紀の欧州で、宗教戦争から距離を置いて、商業中心の市民社会をいち早く築いたのもオランダである。英国にさきがけて近代市民社会を成立させたのである。

国土の4割は干拓によって作り出したオランダは、技術と工学精神で制約条件を克服してきた。これが合理精神の根底にある。著者がいうように、国土そのものが人間が作ったものであり、現在でも水利技術が根幹にある。

1960年代に天然ガスが発見され、1970年代の石油危機の時代にガスの輸出で儲けた結果、通貨高を招いてそれが賃金上昇につながり、高福祉政策ゆえに経済が停滞するという「オランダ病」に悩むことになるが、現在では「オランダ病」を克服している。

このように棚ぼた式の経済ではなく、合理精神を発揮して問題解決を行ってきたのがオランダだ。ワークシェアリングもまた、あらたな発明であり、その意味においても、「人工」がオランダのキーワードなのである。おなじ合理精神といっても、自然をすでにそこにあるものとして受け入れてきた日本人の感覚とは大いに異なるものがある。

「自由」と「寛容」の精神をささえてきたのが、オランダ社会を特徴づけてきた「柱状社会」(verzuiling)というキーワードである。本書の記述によれば、「柱状社会とは、基本的に宗派的に社会が組織され、極端にいえば生まれてから死ぬまで関係する人間組織がすべて宗派的ななかで可能になっている状態」(P.81)である。異なる柱が何本か立っており、互いに干渉を行わない共生や共存という形態である。

20世紀初頭にできあがったこの社会システムは、戦後の1960年代以降には大きく変化しているが、それでもオランダ社会を根底で規定するものだという。つまり、オランダを「棲み分け社会」「文化多元主義(あるいは多文化主義)社会」としてきたものである。

「文化多元主義社会」という点においてオランダは英国と共通するのであり、中央集権国家のフランスや連邦制の地方分権型国家ドイツとは大きく異なる点なのである。一口に欧州といっても社会の構成原理は大きく異なるのである。

「棲み分け社会」や「文化多元主義社会」とは、基本的に外に干渉しあわないので、ときとして「無関心」になりがちな点も問題点としてあるようだ。だが、基本的にキリスト教が中心にあって、キリスト教が衰退した現在でも無意識レベルでは根底に存在するからこそ可能だった。つまりオランダ人としての価値観を共有していたということだ。

ところが、戦後の復興期を経て高度成長時代には、人口増大による国内人口で労働力をまかない得た日本とは異なり、オランダはトルコやモロッコ出身のムスリムを労働力として受け入れる。かれあらが時を経て、「移民」として定住するようになると、「自由」と「寛容」の精神を国是とする文化多元主義社会オランダは、「柱状社会」のあらたな「柱」として、共生・共存の道が模索されることになる。

だが、ムスリム移民に芽生えてきたイスラーム意識の覚醒や、2001年の「9-11」のテロ事件の影響は、オランダ社会の「自由」と「寛容」を揺るがす事態を招いていることは、日本でも報道をつうじて知ることができる社会変化だ。価値観を共有しないと思われる社会集団への排他的な意識である。

本書には言及がないが、東インド(=インドネシア)という「植民地喪失」にまつわる、オランダ人の根強い「反日」意識を考慮にいれると、オランダ人が排他的な意識をムスリムに対して示す傾向が強まっていることは不思議ではないような気もする。

オランダのプロリーグでプレイする日本人サッカー選手も体験している差別もまた、再生産される「反日意識」の反映かもしれない。と考えると、ムスリムに対する排他意識も再生産されていく可能性もある。

けっして好ましいものだとは言えないが、悲しいかな差別感情は人間の本性に基づくものである。

どんな社会でも「モデル」としてポジティブな側面だけ抽出しても、その「モデル」が成立してきたコンテクスト(=文脈)の抜きには、モデルを正確に理解したとはいえないのである。オランダ社会もまた光と影の両面をもっている。

その意味でも、オランダ社会を正確に記述しようとした本書は、書店の店頭ではあまり見ることはないかもしれないが、すぐれた内容の良書である。ぜひ一読を薦めたい。


 (画像をクリック!


『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)

目 次 

はじめに
第1章 究極の合理主義者のとらわれない改革
 1. 世界ではじめて安楽死を合法化
 2. 麻薬と売春-合法化の理由
第2章 国土の建設-自由と独立を求めて
 1. 国家の成立とオランダの思想と技術
 2. 多様な価値観を認める社会へ
 3. 戦後のオランダ社会
第3章 生活しやすくつくられた社会構造
 1. 生活しやすい国
 2. 協調性とコミュニケーション
第4章 棲み分け社会オランダ
 1. 変わりつつあるオランダ
 2. 団体ごとの番組制作による国営放送
 3. 世界でもっとも自由な教育
第5章 オランダ的「寛容性」の課題
 1. 統合政策の行きづまり
 2. 混乱とその諸要因
 3. 新たな「寛容性」の構築
主要参考文献
あとがき


著者プロフィール
太田和敬(おおた・かずゆき)1948年生まれ。東京大学大学院教育学研究科満期退学・教育学博士。教育行政学・教育制度論専攻。文教大学人間科学部教授。教育制度が社会の統合や分化にどのような役割をはたすのか、個人の選択を保障する制度はいかなるものかを主要テーマとしている。本書の第1章~第4章を執筆。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。
   
見原礼子(みはら・れいこ)1978年生まれ。一橋大学大学院博士後期課程在籍。日本学術振興会特別研究員。専門はヨーロッパの多文化社会における比較教育論・比較社会論。本書の第5章を執筆。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。



<参考>

第5章で取り上げられたオランダ社会とムスリムの関係については、『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』(内藤正典、岩波新書、2004)、『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラム復興-(中東イスラム世界⑧)』(内藤正典、東京大学出版会、1996)を参照すると、より理解が深まるだろう。オランダ関連の目次を掲載しておこう。


『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』(内藤正典、岩波新書、2004)

 第Ⅱ章 多文化主義の光と影-オランダ
  1. 世界都市に生きるムスリム
  2. 寛容とはなにか
  3. ムスリムはヨーロッパに何を見たか

『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラム復興-(中東イスラム世界⑧)』(内藤正典、東京大学出版会、1996)

 第5章 多文化共生とみえざる差別・オランダ
   1. 文化の列柱
   2. 外国人労働者からエスニック・マイノリティへ
   3. エスニック・マイノリティから移民へ
   4. オランダは移民のユートピアか
   5. 病理への批判してのイスラム復興

書評『イスラームからヨーロッパをみる ー 社会の深層で何が起きているのか』(内藤正典、岩波新書、2020)ー イスラームとの「共生」が破綻した西欧社会の現実を見よ
・・「多文化主義」には光と影があるが、その影の部分がイスラーム移民へのネガティブな視線である



<関連サイト>

饗宴外交の舞台裏(197) オランダ新国王も引き継いだ「日蘭」-恩讐を越える道 (西川恵、フォサイト、2014年11月17日)

(2014年11月21日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?
・・オランダもまた多文化主義の近代国家。ただし英国は旧植民地で構成される英連邦という大英帝国ネットワークがからんでくる

映画 『戦場でワルツを』(2008年、イスラエル)をみた
・・イスラエル出身で、オランダでイスラエル料理(・・アラブ料理でもある)のファラフェル販売で一財産つくった事業家が登場する。アンネ・フランクを持ち出すまでもなく、もともとオランダは16世紀以来、ユダヤ人には寛容な土地柄である

書評『イスラームからヨーロッパをみる ー 社会の深層で何が起きているのか』(内藤正典、岩波新書、2020)ー イスラームとの「共生」が破綻した西欧社会の現実を見よ
・・「多文化主義」には光と影があるが、その影の部分がイスラーム移民へのネガティブな視線である

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか
・・小国オランダにとって「虎の子」であった東インド植民地の喪失というトラウマについての冷静な解剖所見

書評 『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)-現代オランダ人にとってのインドネシア、そして植民地時代のオランダ領東インド
・・ノスタルジーと悔恨の記録

書評 『ニシンが築いた国オランダ-海の技術史を読む-』(田口一夫、成山堂書店、2002)-風土と技術の観点から「海洋国家オランダ」成立のメカニズムを探求

書評 『植物工場ビジネス-低コスト型なら個人でもできる-』(池田英男、日本経済新聞出版社、2010)
・・「植物工場先進国のオランダの事例は興味深い。「施設栽培が最も進んだオランダでは、養液栽培による施設園芸こそが、環境負荷が最も少なく、持続的で、無農薬栽培に最も近いといわれている。なぜならここでは除草剤や土壌殺菌剤が不要で、天敵昆虫も利用でき、湿度調整をすると病害の発生すらもほとんど問題にならないようにできる」(P.16)」

エラスムスの『痴愚神礼讃』のラテン語原典訳が新訳として中公文庫から出版-エープリルフールといえば道化(フール)③
・・オランダを「寛容の国」とした先駆者の一人が初期近代のエラスムス

(2015年6月26日、2023年12月7日 情報追加)


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2010年3月23日火曜日

Google が中国から撤退!?(その3)



              
 Google が中国での検索事業から撤退するというニュースが、NHKではトップニュースとして今朝から何度も放送している。中国におもねりがちな「日本の公共放送」である「みなさまの NHK」 にとっては、太平洋を挟んだ米国と中国のつばぜり合いは「対岸の火事」として済ませるわけにはいかない一大事なのだろうか?
 Google なんて何のことかさっぱりわからないような、アナログ世代のシニア世代の多くの日本人にとって、果たしてトップニュースの意味があるのだろか? という感想がなくもない。Google をただ単に便利な検索ツールとしてしか思っていないような人たちにとっても、このニュースが果たして大きな意味をもつのかどうか?

 もちろん、私は重大事件だと考えているが、このブログでも過去二回にわたってこのテーマで書いているので、驚きはまったくない。
 ◆Google が中国から撤退!?-数週間以内に最終決定の見通し(2010年1月14日)
 ◆Google が中国から撤退!?(続き)(2010年1月15日)
 原理原則の国である米国を代表する企業 Google と、同じく原理原則の国である中国の共産党政権が、お互いの原理原則をぶつけあった結果、でてきた結論に過ぎないからだ。

 とりあえず、後日の検証目的で、ネット上の報道を要約して紹介しておこう。中国での検索事業からの撤退は以下のような内容である。

・2010年3月22日 12:03:00 PM(米国時間)にアップロードされた公式ブログのなかで、Google は、で、中国本土での「ネット検索サービス」を同日停止したと発表。
・Google は、中国政府による検閲の中止を求めてきたが、認められないことが明らかになったためとしている。
・中国版サイト「Google.cn」にユーザーがアクセスすると、香港版サイト「Google.com.hk」に自動転送される。
・検索停止の一方で、中国における研究開発事業や営業活動は継続する意向。

 実際にこのとおりかどうかは、直接自ら確かめていただきたい。

 Google の公式ブログにアップロードされた文章は、 A new approach to China: an update と題されている。ここらへんについては、英語の表現に気をつけてみておく必要がある。
 The new approach ではなく、A new approach と単数形の不定冠詞 a を使用している。そしてコロンのあとは an update とこれまた、単数形の不定冠詞である。
 つまりどういうことかというと、中国政府の検閲政策に対して、数ある対抗策の一つとして、Google が3月22日付けの結論に達したという現状報告を示しているわけである。
 定冠詞も不定冠詞ももたない日本語や中国語では表しにくいニュアンスを示しており、ある意味ではまだまだ交渉の余地がありますよ、譲歩の余地はお互いにあるのではないですか、というニュアンスを表明しているわけである。
 おそらく中国政府が折れることはないだろうが、今後は Google が採用した「新しいアプローチ」である、香港のサーバーに「検閲のない簡体字で検索」(uncensored search in simplified Chinese)できるサービスが果たしていつまでつづけられるかが焦点になることだろう。

 実際、Google は、Mainland China service availability というページで、Google が提供するサービスのうちどれが中国国内で可能で、どれが不可能かを毎日アプデートすると表明している(We will therefore be carefully monitoring access issues, and have created this new web page, which we will update regularly each day, so that everyone can see which Google services are available in China.)。
 後学のために、3月21日(米国時間)現在の状況は以下の通りである。左の画像をクリックすると拡大した画像をみることができます。
 
 Web(グーグルのウェブサイト): No issues(=問題なし*)
 Images: No issues(=問題なし)
 Youtube(動画サイト): Blocked(=完全にブロック)
 Sites(グーグルでつくるウェブサイト): Blocked(=完全にブロック)
 News(ニュース): No issues(=問題なし)
 Ads(ウェブ広告): No issues(=問題なし)
 Docs(ドキュメント): Partially Blocked(=一部ブロック)
 Gmail(メール): No issues(=問題なし)
 Blogger(グーグルでつくるブログ): Blocked(=完全にブロック)
 Picasa(画像投稿サイト): Partially Blocked(=一部ブロック)
 Groups(グループ): Partially Blocked(=一部ブロック)

 *(注):ただし、www.google.cn から自動的に www.google.com.hk にリディレクトされる。

 なお、Google が提供しているサービスの一覧はここを参照。

 私はこのブログでも書いたように、昨日(3月21日)まで約一週間ミャンマーに滞在していたが、ミャンマーでは Google の Gmail は使用できるし、しかも2010年3月20日と21日時点では Twitter(ツイッター)も使用できたことを確認した。
 ツイッター上の、私が書き込んだ過去ログを参照していただきたい。 http://twitter.com/kensatoken1985
 後学のために、ヤンゴンから書き込んだ「つぶやき」を再録しておこう。なお、投稿時間は日本時間となっているが、日本とミャンマーのあいだの時差は2時間半(・・中途半端でめんどくさいなあ)であり、現地時間は日本時間から2時間半引いたものになる。

ミンガラバー! お久しぶり! 現在ヤンゴンです。ツイッター使えますねー やってみるもんだなあ。これから友人の結婚式&お坊さんの法話会です。時差は2時間半。昨夜まで田舎にいたので、ウェブがつながりませんでしたが、ヤンゴンの高級ホテルは問題なし。ではまた。詳し話は後ほど。
10:16 AM Mar 20th webから

ツイッターはつながったが、Bloggerによるマイ・ブログはアクセス拒否だ。残念。まあどっちにしろ詳しい話は、帰国後に「三度目のミャンマー、三度目の正直」というタイトルで、ブログで連載しますのでこうご期待。 http://e-satoken.blogspot.com/
10:26 AM Mar 20th webから

ミャンマーは一年で一番暑い4月直前で、夕方なんかものすごく暑い。タクシーもエアコンないから、熱風が窓から入ってくる。首都はクルマが増えて空気が悪い。日本の中古車が自家用車もバスも現役で走り回っている。昭和のにおいをまき散らしてるねー。治安はまったく問題なし!バンコクより安全です。
10:46 AM Mar 20th webから

昨日は、ミャンマー式結婚式に出席、たいへん貴重な体験をすることができた。大僧正の法話はパーリ語でほとんどわからなかったが、ミャンマーの人たちも必ずしも全部はわからないようだ。食事会でうまいミャンマー料理を堪能、夜も中華街で生ビール浴びるほど飲んで、快適な一日を過ごしました。マル
10:21 AM Mar 21st webから


 やろうと思えばできるのに、ミャンマー政府が Gmail も Twitter も完全にブロックしていないのは、それなりの考えがあってのことだろう。もちろん外部からは検証のしようがないのだが。
 Gmail にかんしては、ミャンマーでは半年前も現時点でも大きな変化はない。中国政府も Gmail はブロックはしていないようだ。

 インターネットの検閲は、発展途上国では当たり前のように行われている。これはたいていの国で、一カ所で集中管理が可能なためだ。中国やミャンマーはいうまでもなくタイも同様で、反政府的な内容のウェブサイトやブログはフィルタリングに引っかっかって閲覧できない。アラブ諸国も同様であると聞いている。
 いずれの国においても自国のエンジニアだけでなく、外国人の専門家を雇っているらしい。そういう話も耳にする。


 今回の問題にかんしては、中国政府が正しいのか、Google が正しいのか、「表現の自由」(free speech)という価値観(values)にかかわるものだけに、どちらが一方的に正しいとは一義的には決められるものではない
 もちろん、「表現の自由」が確保された日本という民主主義国家の国民である私は、米国のそれに近い価値観をもっているが、中国政府の抱えている問題がまったく理解できないわけでもないのである。
 Google のボードにおいても、中国からの検索事業撤退の利害得失と法的な問題にかんして、相当突っ込んだ議論と徹底的な検証が行われたものと推測されるが、おそらく中国事業を犠牲にしても、全世界における Google の評判(reputation)とブランド価値(brand equity)の維持を考慮に入れれば、撤退もやむなしという結論に達したのであろう。そう推測するのが自然である。

 この Google の意志決定が今後の米国や日本の中国ビジネスにどのような影響を与えていくのか、詳細にモニターしていく必要がある。もちろん、ソフトウェア系統とハードウェア系統はわけて考える必要があるが、現在ではほぼすべてのビジネス活動にソフトウェアが関わっているので、まったく何の影響も受けない事業活動はないと考えるべきだ。

 現時点では、まだよく見えてこないというのが正直なところである。


<ブログ内関連記事>

Google が中国から撤退!?-数週間以内に最終決定の見通し

Google が中国から撤退!?(続き)





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