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2011年9月20日火曜日

医療ドラマ 『チーム・バチスタ 3-アリアドネの糸-』 のテーマは Ai (=画像診断による死因究明)。「医学情報」の意味について異分野の人間が学んだこと


 毎週火曜日夜10時台の医療ドラマ『チーム・バチスタ3-アリアドネの糸-』もいよいよ今夜(9月20日)で最終回。

 ドラマは原作は読んでないので結論がどうなるのか知らないが、というよりもドラマ化は原作とは結論を変えるのがいつものこと。ドラマはドラマとして最後まで楽しませてもらった。小説のドラマ化と映画化は、それぞれは別物と考えるべきなのだ。

 テーマは Ai、画像診断による死因究明。現役の医師でもある、原作者の海堂尊(かいどう・たける)氏がつくった Autopsy(検視) と Imaging(画像診断)の合成語、頭文字をとって Ai である。

 解剖すなわち死体損壊を行うことなく MRI(Magnetic Resonance Imaging)や CT(Computed Tomography)などによって画像をスキャンし、画像から死因を分析する方法らしい。これはドラマではじっさいに目に見えるものとして可視化されているので、イメージするのは容易になっている。

 1990年代以前からビジネスマンだったわたしなど、Ai ときくとまずは Artificial Intelligence (=人工知能)のことかと思ってしまうのだが、専門分野によって専門用語というものはそれぞれ違うものなのだ。だから、海堂氏はあえて Ai と i を小文字にしたらしい。iPhone や iPad などを念頭においていた山中伸弥学博士による iPS細胞(=人工多能性幹細胞)のネーミングと同じである。

 まあ、それはさておき、よくつくりこまれたドラマであった。ドラマ第一作『チームバチスタ』、シリーズ第二作目の『ナイチンゲール』、そしてシリーズ三作目となる『アリアドネの糸』は、社会的な重要性を主張してきた「死因究明」そのものずばりのテーマなので、原作者としての感慨はきわめて深いものがあることだろう。

 テレビドラマにとっては真犯人が誰であるかも大事だが、原作者にとっては Ai というコトバとその意味が少しでも視聴者に伝わったのであれば御の字ということだろう。


■世の中に訴えたいテーマをエンターテインメントで発表してきた著者が放ったストレートな一球

 自分の主張したいテーマをエンターテインメント作品というカタチで世に問うことの出来る能力は、誰にでも備わったものではない。

 むしろ、Ai そのものについて書かれた『死因不明社会-Aiが拓く新しい医療-』(海堂 尊、講談社ブルーバックス、2007)のほうがストレートに問題を指摘し、提言もできるので書きやすいのではないかと思う。

 講談社ブルーバックスという器は、科学技術の分野をわかりやすく解説した老舗の新書本シリーズなので、エンターテインメントに比べたら読者層が限定されるだろうが、それでも狭い医学界よりは広い層を対象に設定できる。

 高度な内容にかんする本であるが、本名では無名に近いので、著者はあえてペンネームで出版することにしたそうだ。これは、講談社ブルーバックスにおいても珍しいケースのようだ。たしか、元ソニー取締役の土井氏が天外伺朗(てんげ・しろう)なるペンネームで、研究開発組織にかんする本を書いていたのを読んだ記憶があるが、それが先例となっているのであろう。
                      
 ただし、この本は、海堂尊名義であっても内容はエンターテイメント性は高くないが、さすが「ロジカル・モンスター」白鳥圭輔なる人物を創りだした著者だけのことはある。構成も内容もきわめてロジカルな本である。

 読めば理解できなくはないが、医学を学問として勉強したことがまっったくないわたしにとっては、これが医学の王道か、医学ではそのようにものを見るのかという新鮮なオドロキを感じた。


■Ai の定義
 
 Aiの定義は、第8章「死亡時医学検索」の再建のための処方箋「Ai」で行われている。

 著者の説明をわたしなりのコトバで翻訳すれば、「Ai はスクリーニング、解剖はピンポイント」ということになろうか。Ai と解剖は相互補完関係にある。これはドラマを見ていた人にはピンとくる説明だろう。

 MRI などで遺体の全身画像を撮影し、この画像をもとに死因を究明する。それでも引っかかる点をじっさいに解剖してみるという形の補完関係である。解剖が破壊検査であるなら、Ai は非破壊検査であるともいえる。

 なんと驚くべき事に、解剖率がたった 2%台(!)という日本の現状では、たとえ解剖が行われなくても、Ai を行えば残り 97%強の遺体について死因究明を行いうることを意味しているのである。

 さてこの、『死因不明社会-Aiが拓く新しい医療-』だが、なんだか繰り返しが多いなあと思いながらも、最後まで筋を追って読み進めれば、問題の根深さに気が付かざるを得ない。それはゾッとするようなこの国の現実だ。


■医療と医学の関係-プラクティスとしての医療行為とアカデミックな学問としての医学

 医療は生きている人間にたいしておこなわれるものであり、けっして無機質なモノではない

 医学用語というのは、医学を学問として勉強したことのない者にとってはなじみのない世界である。とくに「学問としての医学」が門外漢にとって新鮮なオドロキとなるのは、「医学情報」には生体と死体という二つの情報があるという認識である。

 生体にかかかわるプラクティス(=実践的行為)としての「医療」については、医学には直接かかわっていない一般人も、この側面には日常的に接しているものだ。「家庭の医学」などの「医学」はこの側面である。あくまでも生きている人間にとって有用な情報に限定される。

 しかし、生体だけではなく死体も扱うのが、アカデミックな理論体系構築を目指した「医学」である。これは著者が最初から最後まで一貫して主張していることである。

 死体から得た「医学情報」を、生体の「医療」へフィードバックすること。これが医学という学問の進歩にとって不可欠なだけでなく、生きている人間にとってもきわめて大きな意味をもつ。だからこそ、死体の検死が不可欠なのだというのが著者の主張である。

 しかしながら、日本では解剖はたったの2%、解剖ができないのであれば Ai を、しかも解剖と Ai は補完関係にあるといえるわけだ。

 医学における情報の意味を、著者は「実体情報」と「バーチャル情報」のふたつの足し算と考え、複素数で説明しているのが面白いと感じられた。たとえば、こういう式で表現されるとしている(P.160~161)。簡単に要約しながら紹介しておこう。

V info = VR + Vi

V : Vital(生体の)
R : 実数部分。生検情報や体表写真情報、血液の生化学解析など
VR :臨床検査の実体部分
i :虚数部分
Vi :CT、MRI、エコー(超音波)など種々の画像診断情報。Vi は VR の影ともいえる情報だが、情報量は膨大でとても重要。

 死亡時医学検索の論理方程式は以下のとおり

N info = AR + Ai

N : Necrotic(死体の)
A : 解剖(Autopsy)。
AR :死亡時医学情報の実体部分。すなわち検案⇒解剖という従来の「死体検索」。
Ai :死亡時医学情報の虚数部分。

 実数と虚数の足し算である複素数をつかって説明すると、実数以上の膨大な情報を範囲に含めることができる。著者は、虚数概念を導入することで量子力学が発達したことを例にとっているが、たしかに医学の世界も Ai によって大幅に拡張されることは間違いないだろう。

 梅棹忠夫も『情報の文明学』(中公文庫、1999 単行本初版 1991)に収録されている「情報産業論への補論」のなかで、「情報価格」を「お布施の理論」として、複素数をつかって説明している。計測可能な部分と計測不能は部分の足し算として表現されるべきだという考えに基づいている。

 複素数による説明は、その他分野にもインプリケーションは大きいといえよう。


■「経営診断」と「事故調査」-アナロジー(類比)としての「死因究明」


 経営学には、「経営診断」というコトバと実体がある。

 「診断」(ダイアグノーシス:diagnosis)という行為にかんして、おそらく医学のアナロジーを経営分析に応用した概念であろう。

 「経営診断」とは、基本的に過去数年分の財務諸表分析を中心にした定量分析に、経営者や経営幹部や従業員へのインタビュー、工場実地見学などの定性分析を加えて、経営の健康状態を総合的に判断するアプローチのことである。銀行融資の際に行われる企業審査はこの一部である。

 本書を読みながら、これまで医学の本質も知らずにアナロジーとして論じてきたことを恥ずかしく思ったことを告白しておきたい。

 「経営診断」とは基本的に、いま生きている会社の断層図を撮影して分析するというニュアンスの強いコトバだが、「生体」だけでなく倒産した会社という「死体」を観察しなくては、ほんとうの意味で「生体」の診断はできないのだということにあらためて気がつかされたのであった。

 なぜその会社は破綻したのかは、いくつかのパターンに分類されるが、破綻にいたった事情は個別性があって千差万別である。会社が破綻する原因をよく理解できれば、破綻させないための方策も考えることができる。

 もちろん、わたし自身、1990年代には集中的に会社倒産について研究していたのだが、このこと自体を医学のアナロジーで考えることができることを失念していたというわけなのだ。

 最近は流行らないが、「経営診断」のことはかつて「経営ドック」と称していたコンサル会社もある。「人間ドック」のアナロジーである。また、経営コンサルタントもかつては「経営ドクター」などという表現も行われていた。診断と治療を行うという意味においてである。

 医学のアナロジーはこのほかにも、「カネは企業にとっての血液である」などという表現にも表れている。「出血を止める」とか「輸血」などという表現がそのまま使われることもある。会社組織におけるカネ回りは、生体における血液循環の比喩として語られているわけだ。

 また、犯罪捜査と死因究明をわけて考えるべきことは、犯罪捜査と事故原因究明をわけて考えることに共通している。後者は原因分析である。
 
 事故分析とは、事故が起こってしまったあとに、事故が起きないための教訓を知識として得るための知見を得ることを目的としている。

 「事故に学び、その知識を社会で共有することで、将来の重大事故を防ぐ」という、「失敗学」の畑中洋太郎氏の表現をみると、あきらかにパラレルな関係があることがわかる。

 事故は起こらないに越したことはないが、いったん起こってしまった事故について、責任者を追求すること焦点があたりすぎて、事故原因の究明に焦点が当たらないのでは意味がない。


■論文形式によるストレートな主張とエンターテイメントによる間接的な主張

 Ai というテーマそのものをストレートに把握したい人はぜひこの本を読むべきだと薦めたい。

 だが、ドラマを見てからこの本を読むのは、ハードルが高いような気もする。本書が多くの読者を獲得するのはむずかしいだろうなとも思う。小説作品とはまったく異なるし、エンターテインメントとしてのドラマや映画とは大いに異なるからだ。

 なお、今年2011年の8月には、本書の各論編として『死因不明社会 2-なぜ Ai が必要なのか-』(海堂 尊=編著、塩谷清司/山本正二/飯野守男/高野英行/長谷川 剛、講談社ブルーバックス、2011)が刊行されたので付記しておこう。より具体的に Ai をめぐる話題が、それぞれ Ai を推進する現役の医師たちによって執筆されている。概念、歴史、医療、捜査、司法、倫理という側面からみた Ai は、医学と死というテーマそのものであるといっていいだろう。

 「Ai と倫理」の章では、歴史家のフィリップ・アリエスや哲学者のジャンケレヴィッチの「死にかんする考察」が解説されており、ひさびさにアリエスの名前を目にしたわたしは懐かしく思った。わたしの大学時代は「日曜歴史家」を自称していたアリエスが精力的に日本に紹介されていた時期であったからだ。アリエスについてはまた後日取り上げることとしたい。

 ところで、ペンネーム海堂尊氏の現在の肩書きは以下のようになっている。
 
独立行政法人放射線医学総合研究所重粒子医科学センター病院臨床検査室医長...

 『チーム・バチスタ』シリーズの主要登場人物である厚労省の白鳥室長の肩書きではないが、じつに長いと絶句してしまう。とても記憶できるものではありません(笑)

 ああそうか、著者は自分のこの長い肩書きを、登場人物で再現させることをつうじて揶揄しているわけなのか。こういうお遊びができるのも、エンターテイネント作品ならではのものなのだなあ、と。









<ブログ内関連記事>

■検死と鑑識について

鎮魂!「日航機墜落事故」から26年 (2011年8月12日)-関連本三冊であらためて振り返る

書評 『タイに渡った鑑識捜査官-妻がくれた第二の人生-』(戸島国雄、並木書房、2011)
・・タイ南部を襲ったインド洋大津波による大量の遺体確認をおこなった日本人鑑識捜査官の記録


■テレビドラマ

連続ドラマ『夜光の階段』-松本清張生誕100年

NHK連続ドラマ「坂の上の雲」・・・坂を上った先にあったのは「下り坂」だったんじゃないのかね?

アルバイトをちょっと長めの「インターンシップ期間」と捉えてみよう
・・連続テレビドラマ『フリーター、家を買う。』(2010年放送)にヒントを得て

「泣いてたまるか」
・・渥美清または青島幸夫が主演した昭和40年代前半の連続ドラマ






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2009年5月23日土曜日

"粘菌" 生活 ― 南方熊楠について読む ―





 4月分の国民年金をコンビニで払ってきた。再び厚生年金に戻るまで、しばし・・・。コンビニで納付できるなんて便利になったものだ。前回7年前にはそんなことはなかったので。
 
 「ねんきん」は「ねんきん」でも、これから書く話は「年金」ではなく「粘菌」のほうだ。粘菌とは、植物でも動物でもない、粘菌は粘菌としか分類不可能な生物のことである。変形菌ともいう。

 ここ1週間、これまで購入していながら未読であった南方熊楠(みなかた くまぐす)関連書籍をひたすら読み漁ってきた。

 南方熊楠(1867-1941)とは、柳田國男とともに日本民俗学を創った人であり、折口信夫とならんで日本民俗学の3人として称せられるが、民俗学という狭い分野というよりも、日本人ばなれした地球スケールの学問をした「民間学者」である。日本近代が生み出した「知の巨人」といってよい。

 南方熊楠の学問の中心が「粘菌」の研究にあったから、粘菌生活とダジャレてみたわけだ。働いておらず、しかもまだリタイアには程遠い現在の私の生活は、"年金"生活ではなく、"粘菌"生活というのにふさわしい。働いておらず死んでいるように見えるときは実は生きている、働いていて生きているように見えるときは実はくたびれて死んでいる、という粘菌。 


 南方熊楠漬けの1週間となったきっかけは、歴史家の川勝平太と社会学者の鶴見和子との対談、『「内発的発展」とは何か- 新しい学問に向けて-』(藤原書店、2008)を読んだことであった。

 「内発的発展」とは、かつての日本を含めた開発途上国が、外部からの圧力による他律的なものだけでなく、外圧に触発されて危機感を抱いた個人やコミュニティーが主体となって、内側から発展(develop:発達)することを示した、鶴見和子が提唱した、日本発の社会科学理論である。

 大学時代、よく立ち寄っていた国立の増田書店の棚段に、茶色の装丁の単行本があって何度も立ち読みしたが、結局購入せず、通読しないまま現在に至っていたことを思い出したが、川勝平太との対談を通読することで、かつて大学時代に読んだ鶴見和子の『南方熊楠-地球志向の比較学-』(講談社学術文庫、1981)と「内発的発展論」が結びつくことを知ったのは、うれしい収穫であった。


 これがきっかけとなって(・・・他の本も読んでいたのだが並行して)、鶴見和子の南方熊楠関連の本を読んだら、ついでに全部読みたくなったのだった。

 読んだ順番に列挙すると以下のとおり:

●鶴見和子、『南方熊楠・萃点の思想【未来のパラダイム転換に向けて】』、藤原書店、2001
●鶴見和子、『南方曼陀羅論』、八坂書房、1992  
●松井竜五、『南方熊楠 ー 一切智の夢』、朝日選書、1991     
●荒俣宏/田中優子/中沢新一/中瀬喜陽、『奇想天外の巨人 南方熊楠』、平凡社、1995
●松井竜五、ワタリウム美術館編、『クマグスの宇宙 ー 南方熊楠の見た宇宙(とんぼの本)』、新潮社、2007
●松居竜五/岩崎 仁=編、『南方熊楠の森 (CD-ROM付)』、方丈堂出版、2005
●近藤俊文、『天才の誕生 ー あるいは南方熊楠の人間学』、岩波書店、1996
●荒俣宏/環栄賢=編、『南方熊楠の図譜』、青弓社、1991
●中沢新一、『森のバロック』、せりか書房、1992

 そしてこれに関連する書籍数冊にも参考書として目をとおす。

●中瀬喜陽/長谷川興蔵編、『南方熊楠アルバム』、八坂書房、1990
●『新文芸読本 南方熊楠』、河出書房新社、1993
●『現代思想 1997・7 特集 南方熊楠』、青土社、1992


 南方熊楠を知ったのは大学1年のときである。柳田国男は高校3年のとき、自分があまりにも日本について知らないことに愕然として、岩波文庫に入ったばかりのものを文庫本で手当たり次第に読み始めた。折口信夫もその当時、中公文庫から文庫版全集がでていたので入手しやすく、大学時代から読み始めていた。

 そのころ平凡社が倒産して再建途上にあったので、大学生協で「がんばれ平凡社フェア30%引き」というのをやっていた。この際に、『南方熊楠全集』の第一巻「十二支考」と東洋文庫数冊を注文して入手したのが、南方熊楠を入手した最初である。大学寮のベッドサイドにおいて、折にふれてページをめくって読み込んでは楽しんでいた。

 大学学部時代の前半は、合気道の稽古を終えたあと毎日大学図書館分館に入り浸り、自分の知的好奇心にまかせて片っぱしから本を見るという、いまから思えば夢のような日々を送っていたのだが、その頃よく図書館のなかで拾い読みしていた澁澤龍彦の文章にこういうものがあった。南方熊楠が私費で英国に遊学していた時代の日記に、大英図書館でやたら自分にからんでくるイギリス人をついに腕力でぶちのめした、という一節である。

 ほぼ同時期に国費で英国留学しながら、下宿にひきこもって毎日泣いていたという情けない夏目漱石とは大違いで、白人と対等にやりあう日本人がいたということは、大変うれしい驚きであり、深く記憶に刻み込まれた。もちろん、腕力だけでなく、現在でも有名な「ネイチャー」という自然科学の雑誌に何度も英語で書いた投稿論文が掲載されており、知力でも対等にやりあっていたのである。

 その南方熊楠が書いた文章はめっぽう面白く、引用は無限広大、文体は過剰で饒舌、講談調ながら、これだけ博識でかつ中身の濃い文章を書けるのは、スケールはだいぶ小さくなるが、現代では小室直樹くらいだろう。


 それはさておき、私自身が米国留学から日本に帰国した1992年頃は、空前の南方熊楠ブームとなっていたようである。出版物が集中していることがわかる。そのころ住んでいた南阿佐ヶ谷駅近くにある書原というユニークな本屋は、自分の趣味にまったく合致した本屋で、かなりの本を買い込む結果となったが、南方熊楠ももちろんそのラインアップにあり、読む時間が確保されないのにもかかわらず、本を買いまくっていたのであった。その残滓が上記の蔵書ということになる。

 この時期には、なんと内田春菊も南方熊楠を漫画にしているくらいである(原作者からの原稿が遅いので、ブチ切れた内田は未完のまま終わらせた、と本人はあとがきに書いているが、残念だ)。ついでにいうと水木しげるの『猫楠-南方熊楠の生涯-』は実に味があっていい。


 この時期に出版されたもっとも中身の濃い南方熊楠論が、中沢新一の『森のバロック』であることは、今回初めて通読してみて納得された(*ただし単行本は絶版、文庫版は大幅に削除されているとのこと)。




 河出文庫の『南方熊楠コレクション全5冊』(現在品切れ状態)の解説が基になっているので、まったく読んでないわけではなかったが、最初から最後まで通読することによって、南方熊楠と全面的に取り組んで、南方熊楠論を書き上げたのは、鶴見和子と中沢新一の二人しかないことを実感した。いずれも著者が対象と共鳴、共振するものが多く、南方熊楠を語ることはそのまま自らを語ることになっているのは面白い。



 
 鶴見和子は、アメリカで社会学の博士号を取得した、西洋流の学問を完璧に修めた人であり、その点に南方熊楠に同質のものを見出したとすれば、中沢新一の場合はチベット密教の修行を経たうえで、南方熊楠の思考に密教の思考方法を見出したことにあるのだろう。

 あえて単純化していえば、鶴見和子の『南方熊楠-地球志向の比較学』は市民社会の範疇のもので、それを「顕教」(exoteric)とすれば、中沢新一のものはより「密教」(esoteric)的色彩が強い。


 そもそも南方熊楠は西洋的な因果関係論に飽き足らぬものを感じ、幼いころからどっぷりと浸かっていた真言密教の方法で独自の科学論を構想していたのだが、鶴見和子はこれを南方曼陀羅と命名した(・・直接は仏教学者中村元のサジェスチョンによる)。

 中沢新一はこれに対し、華厳哲学と真言密教で表現したとして別の図を南方曼陀羅としている。南方曼陀羅に関しては、私は中沢新一に賛成である。必然性に偶然性の要素を持ち込んだ生成論である。


(南方曼荼羅)


 鶴見和子が「学者」として語っているのに対し、中沢新一は「思想家」として語っているという違いもある。南方熊楠自身の思想なのか、それを発展させた中沢の思想なのか明瞭ではないのがひっかかるところである。個人的には、やたら「私たちは」という語り方をする中沢新一の文体は好きではない。

 南方熊楠の思想を知りたいと思えばまず鶴見和子のものを読むべきだろう。しかしながら、脳内出血で倒れ、半身不随になってから作歌に専念し、論文という形で自己表現するのをやめた鶴見和子は、直観的に生命について感じるようになったらしい。ある意味で、中沢新一がいっているのと近いところにきているような感も受ける。


 日本人の信仰の原型が森にあることは、ことさら森林浴などといわなくても、森にいると何か癒される気がすることからも十分に納得される。森はそれを構成する個々の生命体が、それぞれ自律的に生きていながら共生する関係にあり一つの全体を形成している生命体であること、そして神社の森を聖域化することで日本人は森を守ってきた。

 明治維新以降の日本人は資本主義のもと、徹底的に森を破壊してきたが、ようやく自然環境保護の観点から、またパワースポットという観点から神社の森に注目が集まるようになってきている。日本人はようやく自覚的に原点回帰できるようになってきた、ということっだろうか。

 一度破壊された森は二度とそのままの形では復活はしないが、なにせ高温多湿の日本である、耕作放棄された農地が各地で森と化しつつある、という話をよく聞く。森は生命力そのものであり、日本人はそれに対して癒しだけでなく、同時に懼れも抱いてきたのである。西行法師ではないが、「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」、これが日本人の信仰の原点だ。森そのものが御神体なのである。


 とりとめないことを書いてきたが、そもそも南方熊楠を語るのは。群盲象をなでるに等しい行為である。南方熊楠は人生そのものが破天荒で面白い。伝記を追体験するだけでも十分に楽しめる。

 しかも粘菌学者としてはその当時、日本では昭和天皇と並ぶ存在であったという事実。昭和4年(1929年)に南方熊楠は昭和天皇に粘菌学についてのご進講を行っているが、これは彼の人生におけるハイライトであった。

(粘菌学者としての南方熊楠の名は長く残るであろう)


 南方熊楠は昭和天皇について、「普通の家に生まれていらしたら、大変な学者になられたやろうにと、残念がっていた」といっていた、と娘が回想している。南方熊楠は昭和16年(1941年)に没し、昭和天皇も好きな生物学研究に専念できるような時代状況にはなく、日本の粘菌学は大きく遅れをとるにといとなった、というのはまことに残念であった。

 理科少年であった私は、生物学者としての昭和天皇には少年時代から大いなる尊敬の念を抱いてきただけに、何やら感慨深いものを感じる。

 英国のジェントルマンシップに大いに感化され、戦前はたいへんゴルフに凝っていた昭和天皇は皇居にコースを作らせてよくプレーされていたらしいのだが、ある時きっぱりとゴルフをやめ、皇居内をいっさい人間の手をくわえさせずに、草木がはえるままにされたという話を、だいぶ昔に読売新聞の連載で読んだ記憶がある。これが現在の皇居の森である。南方熊楠とのかかわりはわからないが。

 明治神宮の森ともども、あと100年もすれば、さらに原始の状態に近い森になっていくことだろう。100年後は生きて確かめられないのが残念だが。


<関連サイト>

南方熊楠顕彰会(公式サイト)
・・「南方熊楠邸の保存管理と南方熊楠の学業の成果を顕彰」

南方熊楠顕彰館の概要(公式サイト)


*****

Heather Barnett: What humans can learn from semi-intelligent slime (TED Talks, Filmed Jun 2014 · Posted Jul 2014)
・・粘菌(slime)の知的行動について生物学者がプレゼンテーション(音声英語、日本語字幕あり)

南方熊楠、生誕150周年 日本に実在した「知の妖怪」 (荒俣宏、朝日新聞書評サイト 2017年5月7日)

脳を持たない生物の知恵、都市インフラ設計に活かす「粘菌アルゴリズム」(MIT Technology Review 日本版 2025年10月23日) 


******

「南方曼荼羅」と『華厳経』の接点(唐澤太輔、龍谷大学世界仏教文化研究センター、2025年)
・・とかく真言密教の枠組みのなかで論じられてきた「南方曼荼羅」だが、じつは『華厳経』の思想との接点があることが明らかにされている

(2014年9月11日、2017年5月17日、2025年10月23日、2026年3月28日 情報追加)




<ブログ内関連記事>

『生誕150年企画展 南方熊楠 100年早かった智の人』(国立科学博物館 東京・上野)に行ってきた(2017年12月22日)-「グローカル」で「智の巨人」であった南方熊楠の全体像を知る企画展

(2017年12月29日 情報追加)

『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司)-「屋久島」と対比しながら読んでみる
・・南方熊楠の熊野

書評 『聖地の想像力-なぜ人は聖地をめざすのか-』(植島啓司、集英社新書、2000)

書評 『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)-東京という土地の歴史を縄文時代からの堆積として重層的に読み解く試み

書評 『日本の文脈』(内田樹/中沢新一、角川書店、2012)-「辺境日本」に生きる日本人が「3-11」後に生きる道とは?

書評 『緑の資本論』(中沢新一、ちくま学芸文庫、2009)-イスラーム経済思想の宗教的バックグラウンドに見いだした『緑の資本論』

書評 『異端力のススメ-破天荒でセクシーな凄いこいつら-』(島地勝彦、光文社文庫、2012)-「常識に染まらず、己の道を行く」怪物たちの生き様
・・南方熊楠と小室直樹が取り上げられている

『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む

成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 (総目次)
・・真言宗智山派の成田山新勝寺で断食修行を行ったわたしの手記

経営計画の策定と実行は、「自力」と「他力」という仏教の考えをあてはめるとスムーズにいく

「無計画の計画」?

「植物学者 牧野富太郎の足跡と今(日本の科学者技術者シリーズ第10回)を国立科学博物館」(東京・上野)にいってきた
・・土佐の牧野富太郎もまた植物に魂を奪われた無学歴の「知の巨人」


PS. 読みやすくするために改行を増やし、一部のセンテンスを太ゴチック化、関連資料も整備した。なお内容については、執筆時点の考えの表明であるので、いっさい書き換えは行っていない(2013年10月31日 記す) 

さらに写真を増やしてビジュアル化を図り、必要なリンクを本文中のセンテンスに張った(2014年9月11日 記す)。



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