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2011年11月20日日曜日

宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために


 映画『1911』は、オリジナルの中文バージョンでは『1911 辛亥革命』となっている。1911年の「辛亥革命」とは、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立にいたる「中国革命」の第一歩となった重要な歴史的事件である。

 その「中国革命」に人生をかけた日本人がいた。宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922年)である。

 宮崎滔天といえば、その半生の自叙伝である『三十三年の夢』(1902年刊)が有名であるが、残念ながらその記述は「辛亥革命」成功に至る十年前で終わっている。

 『三十三年の夢』で書かれなかったが、もちろん孫文は革命運動を継続し、全世界を飛び回って(・・いや、まだ飛行機のなかった時代だ、船で移動を続けていたのだ!)、革命のための軍資金調達に奔走していた

 さが、もちろんその後日談はある。それがこの『支那革命軍談』(1912年)である。

 1967年に法政大学出版会から復刊された『支那革命軍談』は、もともと辛亥革命の翌年1912年に東京で出版されたものである。いまだ「文化大革命」の最中にあって、中国を美化する言説があたりまえであった時代の復刊なので、その時代の匂いのつよい解説文であるが・・・

 これが読むとめっぽう面白いのだ。残念ながらそれ以後は版を重ねていないようですでに絶版状態だが、どこか文庫本で復刊してくれないものだろうか。

 文語体の『三十三年の夢』よりも読みやすく面白いし、「辛亥革命」に至までの孫文を知る上でも、宮崎滔天が当事者であっただけに、臨場感あふれた内容なのだ。

 「目次」を掲載しておこう。なお、孫逸仙とは孫文のことである。中国では孫中山先生と呼ばれることが多い。

1. 孫逸仙生ひ立ちの事
2. 一味の志士結社の車
3. 鄭頭目快撃を促す車
4. 孫逸仙欺かれて倫敦(ロンドン)の公使館に捕るゝ事
5. 公使舘の窓から命の綱の投文の車
6. 孫逸仙、公使館を脱け出さんと図る事
7. 両博士、孫の救助に苦心の事
8. 英政府の談判成功して孫 引渡しの事
9. 犬養毅 斡旋の事
10. 滔天、革命党員を尋ねて澳門(マカオ)行の事
11. 香港の革命党と秘密室に相語る事
12. 孫の入京を聞き、小村寿太郎吃驚(びっくり)の事
13. 壮士相会して対露清事業を約する事
14. 康有為、計策破綻して逃鼠の事
15. 亡命の康有為、梁啓超相抱いて泣く事
16. 比律賓(フィリピン)の志士、孫に大事を頼む事
17. 比律賓(フィリピン)志士の為に弾薬調達の事
18. 福州にて布引丸(ぬのびきまる)の沈没を聞く事
19. 布引丸の沈没に味方大損害の事
20. 革命党の頭目等、香港に会合の事
21. 三派連合の秘密会、意外の妨害に会ふ事
22. 滔天、同志の吃驚(びっくり)を鎮むる事
23. 三派愈々(いよいよ)合同して孫を首領とする事
24. 孫の一党、愈々(いよいよ)革命の大連動に着手する事
25. 康有為、滔天等を刺客と誤る事
26. 滔天、英国の警官に取調べらるゝ事
27. 滔天等、拘禁に先(さきだ)つて大酔する事
28. 滔天、新嘉坡(シンガポール)監獄に入牢の事
29. 英国官憲の命により新嘉披(シンガポール)追放の事
30. 孫等、又た香港を追放さるゝ事
31. 革命旗撃決行の事
32. 革命の挙、遂(つい)に敗るゝ事
33. 孫逸仙、黄興と初対面の事
34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事
35. 革命党、鎮南関攻撃の事
36. 鎮南関攻撃準備の事
37. 孫、黄 鎮南関の天険を陥るゝ事
38. 弾薬窮乏して鎮南関退陣の事
39. 革命軍再起して雲南河口を取る事
40. 汪兆銘、北京宮廷に撮政王を覗ふ事
41. 黄興、広東総督衛門焼打の事
42. 革命新政府樹立の事


附録 革命事情

湖北革命の発端
黄興の変装
孫及び黄等の砲台奪取事件
黎元洪(れいげんこう)の人物
支那の革命婦人
 革命の先駆者秋瑾(しゅうきん)
 男装剣を横ふる王夫人
 怪女優錦芝蘭

 映画『1911』に描かれているのは、本書の 41. 黄興、広東総督衛門焼打の事 と 42. 革命新政府樹立の事 が中心である。

 映画冒頭に出てくる女性革命家・秋瑾(しゅうきん)の処刑シーンについては、支那の革命婦人 革命の先駆者 秋瑾(しゅうきん) で触れられている。

 冒頭のシーンをみて、すぐにピンとこなければ、中国近現代史をもう一度、勉強し直したほうがいい。


■映画『1911』にない、孫文とその盟友・黄興との出会いのシーンがこの本には臨場感たっぷりに活写されている

 映画『1911』は、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文との男の友情がメインテーマでもあるが、肝心要の二人の出会いのシーンがない。

 孫文と黄興が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのは、じつに残念なことだ。

 孫文の盟友の一人として、多額の資金援助を行った陰徳の日本人実業家・梅原庄吉の名は知る人も増えてきたが、逆に宮崎滔天の名前が忘れ去られているのはじつに残念至極。

 事の次第はこのようなものだ。

 黄興が、宮崎滔天の「中国革命」奔走記である『三十三年の夢』の中文抜粋訳を読んで感激し、亡命目的で来日した東京で宮崎滔天と知り合いになった。その黄興に、来日した孫文を引き合わせたのが宮崎滔天であった。

 だから、映画『1911』では、せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。宮崎滔天は中国共産党もお墨付きの日本人なのであるから。

 では、『支那革命軍談』から引用しておこう。33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 から。まさに、そこに居合わせているかのような臨場感あふれるシーンである。なぜなら、この一節を語った宮崎滔天(・・下の写真)自身がそこに居合わせているからだ。



33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 

(前略)超えて三十八年(注:明治38年=1905年)春、孫逸仙(=孫文)は欧米の漫遊を終へて日本へ帰り、僕の茅屋を訪ひ僅僅(きんきん)一三年の間に非常に留学生の殖えた事より留学生中変わつた人物がないかと云ふ問であるから、僕は黄興と謂ふ偉い人のある事を話すと孫は、『夫(それ)ぢゃ是から其(その)人を訪問しやう』と云ふから、僕は黄興の処へ行つて黄興を迎へて来やうと云ふと『其様(そのよう)な面倒な事は要らぬ、是から一人で訪問しやう』と云ふので相携へて神楽坂附近の黄興の寓所を訪ふた、当時僕と寝食を共にして居た末永は此時(このとき)黄興と同棲して居た故、孫を表へ立たして置いて格子を潜(くぐ)つて『黄さん』と声を掛ると末永と黄は一緒に顔を出して表に立つて居つた孫の顔を見るや『イヤ孫さん』と叫ばんとすると、黄興は直ちに其れと心付き大勢の学生が来て居るので、手真似で孫の家内へ入ることを差止めた。僕もそれと察したから、直ちに戸外へ出て、其まゝ待つて居ると、間もなく黄興、末永、張継の三人が出て来て鳳楽園と云ふ支那料理屋へ案内した、彼等は初対面の挨拶もそこそこに既に、見旧知の如く互いに添加革命の大問題に向かつて話を始める、僕等は支那語は十分に解する力が無いので如何なる話をして居るか分らぬが兎に角支那の豪傑が茲(ここ)に一堂に相集まつて手を握ることの嬉しさに、末永と二人で頻(しき)りに盃を傾けて居ると稍々(やや)二時間ばかりと云ふもの孫と黄の両人は酒にも肴にも口を着けず議論を上下して居つたが、終に萬歳(バンザイ)を唱へて祝杯を挙げたのであつた。

34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事

 此(この)黄、孫二人の握手が革命運動に対して非常なる発展の動機となつた、・・(以下略)・・

(出典:『支那革命軍談』(西田勝編・解説、法政大学出版会、1967) 引用は P.71~72。ただし、旧字体の漢字は新字体に直し、引用者(=わたし)の判断で( )内に読み仮名を補足した)

 孫文と黄興は、東京・神楽坂(かぐらざか)の中国料理店ではじめて胸襟(きょうきん)を開いて革命について熱く語り合ったのである。宮崎滔天は当事者としてそこに立ち会っていたというわけだ。

 『三十三年の夢』を書いたあと、革命の志やぶれて浪花節語りの桃中軒雲右衛門に弟子入りして、桃中軒牛右衛門と名乗っていた宮崎滔天の語りである。

 自由民権運動と浪花節は密接な関係にあったが、宮崎滔天の本意がどこにあったのかはうかがい知ることは難しい。

 しかし、苦労は報われたのだ。

 西田勝氏による解説は「文化大革命」の渦中に書かれたものだけに、現在からみると違和感を感じるトーンがあるが、「辛亥革命」成功を知って、孫文に会いに行くことになった宮崎滔天のことを長男が回想した文章が引用されているので、孫引きさせていただこう。

「・・・この年の秋(明治44年)になって俄然四川省に変乱か起り、それから武昌の義挙となり、革命運動はそのドン底の苦しみから一時(いっとき)に成功の火の手を見ることが出来るやうになりました。革命の烽火(のろし)が上がった時、孫(文)さんはフランスにをられました。滔天等も急いで行かなければならなかったのですが、何しろこの上ないの貧乏ですから、おいそれとはたてません。その内幾分か工面のよかった菅野(長知)氏は、加納清蔵、杉浦和介、金子克巳、亀井一郎、三原千尋等の諸氏を連れて先発されました。
 滔天は折よく駆けつけて来られた石丸鶴吉、島田経一両氏の心尽しを得て出発する事になりました。中でも永年の貧乏時代を見捨てもせず出入りしてくれた江戸ッ子紺屋の川城七太郎氏は
 『旦那! 私が見込んだ眼に狂ひはねえや、ポッチリですが気は心、あんまり少なくて旅費の足しにもなりますめえが、船ん中で煙(煙草)にして下さい』
 と心からの餞別を贈ってくれました。滔天は盃に一杯傾け、
 『二十五年の苦しみがやっと報いられた。空想だ、夢想だと笑はれた革命が、どうやら出来た。これからが大変だ』
 と哄笑しながら、旅装も簡単に大きな身体をのそりと旅立ちました。滔天は上海に直行し、フランスから帰る孫さんを迎へに香港に転航しました。上海に着いた孫さんは同志と共に南京に入り、臨時大総統に就任されて、いよいよ革命の基礎が築かれたのです。」(昭和十八年四月三十日、文藝春秋社刊『三十三年の夢』所収の宮崎龍介『父滔天のことども』による)


 宮崎滔天は 1922年に亡くなっている。その 3年後の 1925年には孫文も亡くなった。「辛亥革命」後、意見対立から孫文とは袂を分かった黄興は「辛亥革命」から3年後の1915年には病死している。






<関連サイト>

■『1911』の予告編比較

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)



<ブログ内関連記事>

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!
・・大陸浪人を多く生み出したのは維新の負け組となった福岡藩であった

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い
・・大陸浪人を多く生み出したのは維新の負け組となった福岡藩であった

書評 『恋の華・白蓮事件』(永畑道子、文春文庫、1990)-大正時代を代表する事件の一つ「白蓮事件」の主人公・柳原白蓮を描いたノンフィクション作品
・・柳原白蓮の不倫の恋の相手となり、のち結婚した宮崎龍介は宮崎滔天の長男であった

(2014年8月21日 情報追加)




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2011年11月19日土曜日

ジャッキ-・チェン製作・監督の映画 『1911』 を見てきた-中国近現代史における 「辛亥革命」 のもつ意味を考えてみよう


 映画『1911』をやっと見てきた。

 ジャッキー・チェンの記念すべき映画100作目は、「辛亥革命」100年を記念する映画である。骨太の歴史ドラマであり、スペクタル大作である。

 この件については、すでにこのブログでは「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! に書いたので参照していただきたい。

 中国近現代史においてもっとも重要な歴史的事件である「辛亥革命」について知るためには、見る価値はあると言っておこう。

 中国近現代史とはまた日本近現代史でもある。この意味については、おいおい書いていくこととする。


■この映画で描かれる「辛亥革命」とは

 腐敗する王朝を倒し、漢民族によるあるべき世の中をビジョンとして描き、そのための手段として革命を行うというミッションを掲げたのが孫文であった。

 しかし、なんども試みても武装蜂起はことごとく失敗に終わり、革命烈士である若い命が次から次へと失われていくことになる。

 そして、中国近現代史を一変することになる「辛亥革命」 が始まったのが、ちょうど100年前の1911年10月11日のことだった。

 その後、約2ヶ月を経て、清朝最後の皇帝、いわゆる「ラストエンペラー」であった皇帝溥儀(ふぎ)は退位を余儀なくされる。といっても溥儀は幼児であったので、意志決定したのはその母である皇太后であったのだが。それとともに、清朝は倒れることになったが、それは皇帝退位と引き替えに命を選んだからである。

 そして、翌年1912年1月1日に孫文は中華民国の臨時大総統に就任する。これが「辛亥革命」であり、映画『1911』もここでほぼ終わりとなる。


 
■「アヘン戦争」以後の中国近現代史における「辛亥革命」の意味

 ジャキー・チェンは香港人なのに中国共産党寄りだという批判というか批評をされていたが、おそらくこの映画を完成させるのにはそれも必要だと判断したのだろう。実際問題、中国政府からの協力がなければこれだけの作品を製作するこことは不可能だ。きわめて戦略的な映画製作なのである。

 「国父・孫文」は、国民党だろうが共産党だろうがその立ち位置にかかわらず、中国人・華人であれば共通に抱いている尊敬の対象である。このことは、日本人はもっとよく知っておくべきことだろう。

 わたしが見たのは当然のことながら字幕版(・・音声は普通話と英語)だが、映画の冒頭に日本語による1分程度の背景解説が入っていた。オリジナル版にはないと思うが、この程度のことは最低限知っておきたいものだという内容である。

 日本版の宣伝には、『レッドクリフ』(赤壁)のスタッフが総動員とうたわれているが、『三国志』をテーマにした『レッドクリフ』と違って、「辛亥革命」をテーマにした『1911』は、日本人には難しいテーマかもしれないと、映画をみながら思ったのは正直なところだ。

 おそらく多くの日本人の認識では、「辛亥革命」は『三国志』ほど知られていない可能性がある。

 江戸時代以来、『三国志』は日本人の一般教養のなかに通俗的なかたちで存在してきただけでなく、基本的に合従連衡(がっしょうれんこう)の国盗り合戦であるから、RPGゲームとも親和性が高いし、これまでも小説に、マンガにと何度も何度も取り上げられてきた作品だ。

 これに対して、わずか100年前とはいえ、1911年の「辛亥革命」の意味は、1840年の「アヘン戦争」から、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立という「中国革命」の歴史の流れをある程度まで知っていないと理解しにくいのではないだろうか。

 全般的に、中国人や西洋人にくらべると歴史意識が低い日本人は、現代人として生きるうえでもっとも肝心な近現代史が、常識のなかから欠落しているという問題があるのではないかと思うのだ。日本史でも世界史でも高校の授業で触れられないまま終わってしまうことも、大きな原因のひとつだ。

 今回の映画は、『宋家の三姉妹』とは違って、日本や日本人はただ一人の例外を除いて出てこないので、日本近現代史との関係も見えにくいという難点がある。これはこの映画を日本で公開する際の致命的な欠陥であろう。「命」や「感動」といった、やや陳腐なコトバをちりばめなければならなかった日本版の宣伝コピーには苦労のあとが見える。

 ただひとつの例外とは宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922)のことであるが、映画にでてくるのは名前だけでシーンとしてではない。



 孫文の盟友として、「中国革命」に全身全霊をもって身を投じたこの日本人は、若き日の毛澤東も中文版の著書を読んで感激し、直接ファンレターを日本に送ったという存在であるので、中国共産党も公認の日本人なのだろう。宮崎滔天についてはべつに記事を書くこととする。

 今年は、孫文に資金援助した陰徳の日本人実業家・梅屋庄吉(うめや・しょうきち)の存在がクローズアップされたが、中華民国(=台湾)政府は日本でも梅屋庄吉を顕彰する写真展を東京で開催したが、中国共産党の革命正史のなかではいまだ認められていないのは残念なことだ。

 「全面協力(?):朝日新聞社」という文字が画面にでてきたが、これは一部の日本人にとっては逆効果になりそうな気もしなくはない。


■「辛亥革命」の1911年は明治44年であった-その年まで清朝が存在したのだ!

 せめてこの映画をみる人は、1911年が明治44年であった(!)ことをアタマのなかにたたき込んでおいてほしい。

 映画では、米国人や欧州人がでてくるシーンがいくつもあり、清朝の高官たちの弁髪と礼服姿が、革命によって倒されるべき旧体制というイメージを際立たせるためにコントラストをもって描かれているが、すでにその時点の日本は明治44年、つまり「明治維新」から44年(!)もたっていたことに思いをはせるべきなのである。

 孫文は、「辛亥革命」から13年後の 1924年(大正13年)に神戸でおこなった最後の講演「大アジア主義」のなかで、「明治維新」と「日露戦争」が植民地支配で苦しむアジア人を覚醒させたことを取り上げて語っているいるが、「辛亥革命」からはじまった「中国革命」もまた、「明治維新」にインスパイアされたものであることはアタマのなかにいれておきたい。

 「大アジア主義」は、『孫文革命文集』(深町英夫編訳、岩波文庫、2011)で読むことができる。


■孫文と黄興の男の友情-もっとも重要なシーンがこの映画には出てこない

 さて映画そのものだが、前半は武装蜂起における激しい銃撃戦とそのあいつぐ失敗によって失われた若い命への慟哭によって見る者の胸を打つが、後半の革命成就による孫文の臨時大総統(・・大統領ではなく大総統!)就任のシーンでクライマックスを迎える。

 この映画は、シークエンスの数があまりにも多すぎて、しかも短い時間でつぎつぎと場面転換するので、正直言って目が疲れた。本来なら連続ドラマか、映画なら3時間超必要なテーマを、2時間20分に押さえているから仕方ないといえば仕方ない。

 この映画の人間ドラマとしては、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文の男の友情をメインに据えているのだが、この二人が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのが残念だ。

 黄興が宮崎滔天の『三十三年の夢』の中文訳を読んで感激し、来日して東京で宮崎滔天と知り合いになったのだが、その黄興に孫文を引き合わせたのが宮崎滔天だったのだ。せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。この点については、宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために に書いておいた。

 また舞台が、サンフランシスコ、ペナン島、デンバー、ロンドン、広東、香港と全球的に及んでいるが、孫文の活動は主に在外華僑に向けての革命の軍資金のファンドレイジング(資金調達)であったのだが、軍資金のうち多くが、日本の実業家であった梅原庄吉から出ていたことにはいっさい触れられていないのは不自然である。

 中国共産党の正史においては、梅原庄吉はいまだ公式に認められた存在ではないのだろう。

 
■この映画でもっとも興味深い登場人物は袁世凱(えん・せいがい)ではないか?

 映画『1911』の主人公は孫文、盟友の黄興が脇役(バイプレイヤー)と考えるのが自然なのだろうが、どうしても国際的知名度からいってもジャッキー・チェン(成龍)が演じる黄興のほうに目がいってしまうのではないだろうか?

 この結果、主人公が孫文と黄興の二人になって希薄化してしまった結果、むしろ袁世凱(えん・せいがい)の存在感が、この映画でもきわめて大きく浮上してくるのを感じてしまう。

 プロレスでいえば、「ヒール」の魅力といったものだろう。いわゆる悪役レスラーのことだ。ずいぶん昔だが、似たような体型のアブドラ・ザ・ブッチャーを思い出した。

 この映画でも、袁世凱はでっぷりと太った、権謀術数を駆使する古狸(ふるだぬき)として登場しているが、この駆け引きの才能と交渉力、政治家としての演技力と遊泳術はなかなかのものだ。

 袁世凱を演じた役者の演技力ももちろんあすかって大きいが、わたしとしてはぜひ、袁世凱を主人公にした映画を見てみたいものだと思った。「皇帝になれなかった男」なんてタイトルでいかがか?

 「革命は銃口から生まれる」(毛澤東)という有名なセリフがあるが、軍を握っている者が、革命の行方を左右するもの。これは古今東西まったく変わらない事実である。

 袁世凱もまた、清朝の軍の近代化の推進役として権力の座に上り詰めた人物であった。

 
■ 「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)

 じつは、この映画のあとの歴史がまた激動の連続であった。

 この映画のヒールである袁世凱は、孫文から大総統の地位を譲り受け、その後、革命を後退させる役割を演じることになる。皇帝になりたいがために、日本からの「対華21ヵ条要求」も含め、列強の要求を受け入れた袁世凱は、国内外からの激しい反発をうけ皇帝になるのは断念、その後急死してしまう。

 臨時大総統の地位を袁世凱に譲ったのち、孫文はその後も革命指導者として、共和制の理念を定着させるために国内外を奔走することになる。その間、日本にも亡命している。

 そして、「辛亥革命」成就から 14年後の 1925年(民国14年、奇しくも日本は大正14年)3月12日、肝臓がんのため北京で死去。享年59歳であった。

 そして、翌年12月12月25日、大正天皇崩御にともない昭和天皇が即位、孫文が危惧したように、日中関係は激動の時代へと突き進むことになる。

 孫文は 「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)というコトバを残して亡くなった。

 中国共産党の正史では、1949年の中華人民共和国成立をもって「中国革命」は完結したといいいたいのだろうが、やはりいまでも「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)と言わねばならないのではないか?中国の現状を見る限り、そう思わざるを得ない。

 「三民主義」は、民族主義、民権主義、民生主義の三つから成るとしたが、いまだ民権主義が貫徹しているとは言い難いのが大陸の現状なのだ。

 その意味でも、「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)。いまだ孫文は過去の人ではない。







<関連サイト>

宗家の三姉妹(宗家皇朝 The Soong Sisters)
SOONG SISTERS_Trailer


■『1911』の予告編比較

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)



<ブログ内関連記事>

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情
 
宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)





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