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2011年11月21日月曜日

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!



 頭山満(とうやま・みつる)といってピンとくる人は、九州北部(とくに福岡)を除いては、よほど近代日本史につうじた人か、あるいは大学受験前の高校生くらいだろう。

 東京にいくよりも、玄界灘をはさんで対岸の朝鮮半島のほうがはるかに近いのが国際都市・福岡だ。

 朝鮮半島だけではない。福岡から東京までの距離と、福岡から上海までの距離はほぼ同じである。これは上海から日本にむけて飛行機で移動してみれば、すぐにわかることだ。上海を飛び立った飛行機は、あっという間に五島列島上空にさしかかる。
 
 藩主の優柔不断と意志決定の間違いによって、藩論が左右に揺れるたびに、多くの優秀な人間が切腹を強いられて命を落としている。明治維新においても「敗者」となってしまった福岡藩からは、本来なら中央政府で立身出世したはずの人材が、多く民間に流れることになった。

 旧福岡藩士を中心とした、反中央、反官僚の立場を貫くひとたちが、個をベースとしたゆるやかな結合をしたのが政治結社「玄洋社」である。福岡に基盤を置いていた玄洋社は、日本近代のオルタナティブな歴史のの担い手となった。

 「玄洋社」の憲法は、以下の三ヵ条であった。

第一条 皇室を敬戴すべし
第二条 本国を愛重すべし
第三条 人民の権利を固守すべし

 国権と民権がともに存在していたのが「玄洋社」であった。自由民権運動のさなかに生まれた結社なのである。

 その「玄洋社」の実質的な中心にいたのが頭山満である。

 わたしもこのブログで、西郷隆盛と、自由民権運動にからめてなんどもその名を登場させてきた頭山満。わたしがはじめてその名を知ったのは、福岡出身の小説家・夢野久作(ゆめの・きゅうさく)を通じてである。大学時代のことだからすでに30年近く前のことだ。

 夢野久作といえば『ドグラマグラ』という小説で知られているが、その父は杉山茂丸という右翼の巨頭であった。茂丸の交友関係のなかに登場する最重要人物が頭山満であり、その姿は『百魔』(講談社学術文庫、)に活写されているだけでなく、息子の夢野久作(・・本名・杉山泰道)の『近世怪人伝』(昭和10年)に愛情をこめて描かれていることは知る人ぞ知ることだ。わたしの愛読書の一冊でもある。現在は、ちくま文庫に収録されているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい(*)

(*) 夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い という記事をブログに書いたので(2013年10月16日)、ぜひあわせてお読みいただけると幸いです。(2013年10月19日 追記)


 頭山満を「右翼」というレッテル張りで扱うのは大きな誤りである。とくに重要なのが、本書のタイトルでもある「大アジア主義」とのからみである。植民地支配に苦しむアジア解放の志士たちとの熱い友情について知らねばならない。

 ただ、頭山満の「大アジア主義」はイデオロギーというよりも、人間どうしの熱い友情を基礎にしたものだ。

 孫文のみならず、朝鮮の金玉均(キム・オッキュン)、インドのビハリ・ボース(・・いわゆる「中村屋のボース」)、チャンドラ・ボース、タゴールなどそうそうたる人物との交友に及んでいる。

 しかも単なる交友ではない。外国政府の刺客に追われ、官憲に追われている革命人士の匿い、身の安全を守るという義侠心から発したものでもあった。孫文もまたその一人である。

 本書『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001)に収録された写真が、その熱い友情を語っている。ぜひ直接手にとって見ていただきたい。

 本書には、日本のナショナリズム研究に従事してきた松本健一氏の講演をもとにした文章「一人で居ても淋しくない」が収録されている。

 「一人で居ても淋しくない」ほど、頭山満を言い表した表現はほかにないだろう。

 頭山満は、つねづね若い人たちに対して「一人で居ても淋しくない」と語っていたという。松本健一氏は以下のように解釈している。

この、「一人で居ても淋しくない」とは何か。たんに孤独に強い人間という意味ではない。それは、みずからの内部に「太陽の光」のような強い「火種」、いいかえると発光源をもつ人間になれ、という意味ではないか。みずからの内部に発光源をもてば、一人で居ても、すこしも淋しくない。(P.97)

 頭山満については、じつは数多くの著書が発行されているし、取り上げてみたいものの多数あるのだが、それはまた別の機会に譲るとして、この写真集だけはぜひ手元に置いて、眺めてほしいと思うのである。

 学校で教える日本近現代史とは違う、オルタナティブな歴史がここにあることを発見することであろう。福岡の出版社から出版された本であるということは、東京のまなざしとはイコールではないということも意味しているのだ。


(画像をクリック!)



目 次

はじめに
解説・頭山満と玄洋社-その封印された実像(石瀧豊美)
歴史資料
 維新動乱
 筑前玄洋
 大アジア
 敬天愛人
 封印命令
 あの人この顔
 ふくおか玄洋社マップ
 一人でいても淋しくない(松本健一)
資料
 「人ありて 頭山満と玄洋社」報道の記録
 回顧展「大アジア!燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社」開催の記録
 出品協力団体・個人一覧
 主な参考文献
 編集後記



<参考>

田中清玄の『自伝』より

あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする。

戦前の共産党の闘士だった田中清玄ならではのスゴミのある発言。田中清玄は会津藩家老の末裔。『田中清玄自伝』(初版は文藝春秋社 1993)は松岡正剛の「千夜千冊」にもとりあげられている。上記の発言はそこから引用した。わたしは単行本で読んだが、こんな面白い本はなかなかない。  

(2013年10月19日 追記) 




<ブログ内関連記事>

「主権在民」!-日本国憲法発布から64年目にあたる本日(2011年5月3日)に思うこと
・・民主主義は米国占領軍によって与えられたものではない!明治の自由民権運動の志士たちによる闘いのたまものだ

「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し」(西郷南洲) 
・・頭山満といえば西郷精神!

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情。長崎出身の梅屋庄吉もまた「頭山人脈」のなかにあった

宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために
・・宮崎滔天もまた「頭山人脈」のなかにあった

書評 『霊園から見た近代日本』(浦辺登、弦書房、2011)-「近代日本」の裏面史がそこにある
・・玄洋社につらなる人たちを東京の墓地にさぐる旅

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い


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2011年11月20日日曜日

宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために


 映画『1911』は、オリジナルの中文バージョンでは『1911 辛亥革命』となっている。1911年の「辛亥革命」とは、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立にいたる「中国革命」の第一歩となった重要な歴史的事件である。

 その「中国革命」に人生をかけた日本人がいた。宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922年)である。

 宮崎滔天といえば、その半生の自叙伝である『三十三年の夢』(1902年刊)が有名であるが、残念ながらその記述は「辛亥革命」成功に至る十年前で終わっている。

 『三十三年の夢』で書かれなかったが、もちろん孫文は革命運動を継続し、全世界を飛び回って(・・いや、まだ飛行機のなかった時代だ、船で移動を続けていたのだ!)、革命のための軍資金調達に奔走していた

 さが、もちろんその後日談はある。それがこの『支那革命軍談』(1912年)である。

 1967年に法政大学出版会から復刊された『支那革命軍談』は、もともと辛亥革命の翌年1912年に東京で出版されたものである。いまだ「文化大革命」の最中にあって、中国を美化する言説があたりまえであった時代の復刊なので、その時代の匂いのつよい解説文であるが・・・

 これが読むとめっぽう面白いのだ。残念ながらそれ以後は版を重ねていないようですでに絶版状態だが、どこか文庫本で復刊してくれないものだろうか。

 文語体の『三十三年の夢』よりも読みやすく面白いし、「辛亥革命」に至までの孫文を知る上でも、宮崎滔天が当事者であっただけに、臨場感あふれた内容なのだ。

 「目次」を掲載しておこう。なお、孫逸仙とは孫文のことである。中国では孫中山先生と呼ばれることが多い。

1. 孫逸仙生ひ立ちの事
2. 一味の志士結社の車
3. 鄭頭目快撃を促す車
4. 孫逸仙欺かれて倫敦(ロンドン)の公使館に捕るゝ事
5. 公使舘の窓から命の綱の投文の車
6. 孫逸仙、公使館を脱け出さんと図る事
7. 両博士、孫の救助に苦心の事
8. 英政府の談判成功して孫 引渡しの事
9. 犬養毅 斡旋の事
10. 滔天、革命党員を尋ねて澳門(マカオ)行の事
11. 香港の革命党と秘密室に相語る事
12. 孫の入京を聞き、小村寿太郎吃驚(びっくり)の事
13. 壮士相会して対露清事業を約する事
14. 康有為、計策破綻して逃鼠の事
15. 亡命の康有為、梁啓超相抱いて泣く事
16. 比律賓(フィリピン)の志士、孫に大事を頼む事
17. 比律賓(フィリピン)志士の為に弾薬調達の事
18. 福州にて布引丸(ぬのびきまる)の沈没を聞く事
19. 布引丸の沈没に味方大損害の事
20. 革命党の頭目等、香港に会合の事
21. 三派連合の秘密会、意外の妨害に会ふ事
22. 滔天、同志の吃驚(びっくり)を鎮むる事
23. 三派愈々(いよいよ)合同して孫を首領とする事
24. 孫の一党、愈々(いよいよ)革命の大連動に着手する事
25. 康有為、滔天等を刺客と誤る事
26. 滔天、英国の警官に取調べらるゝ事
27. 滔天等、拘禁に先(さきだ)つて大酔する事
28. 滔天、新嘉坡(シンガポール)監獄に入牢の事
29. 英国官憲の命により新嘉披(シンガポール)追放の事
30. 孫等、又た香港を追放さるゝ事
31. 革命旗撃決行の事
32. 革命の挙、遂(つい)に敗るゝ事
33. 孫逸仙、黄興と初対面の事
34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事
35. 革命党、鎮南関攻撃の事
36. 鎮南関攻撃準備の事
37. 孫、黄 鎮南関の天険を陥るゝ事
38. 弾薬窮乏して鎮南関退陣の事
39. 革命軍再起して雲南河口を取る事
40. 汪兆銘、北京宮廷に撮政王を覗ふ事
41. 黄興、広東総督衛門焼打の事
42. 革命新政府樹立の事


附録 革命事情

湖北革命の発端
黄興の変装
孫及び黄等の砲台奪取事件
黎元洪(れいげんこう)の人物
支那の革命婦人
 革命の先駆者秋瑾(しゅうきん)
 男装剣を横ふる王夫人
 怪女優錦芝蘭

 映画『1911』に描かれているのは、本書の 41. 黄興、広東総督衛門焼打の事 と 42. 革命新政府樹立の事 が中心である。

 映画冒頭に出てくる女性革命家・秋瑾(しゅうきん)の処刑シーンについては、支那の革命婦人 革命の先駆者 秋瑾(しゅうきん) で触れられている。

 冒頭のシーンをみて、すぐにピンとこなければ、中国近現代史をもう一度、勉強し直したほうがいい。


■映画『1911』にない、孫文とその盟友・黄興との出会いのシーンがこの本には臨場感たっぷりに活写されている

 映画『1911』は、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文との男の友情がメインテーマでもあるが、肝心要の二人の出会いのシーンがない。

 孫文と黄興が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのは、じつに残念なことだ。

 孫文の盟友の一人として、多額の資金援助を行った陰徳の日本人実業家・梅原庄吉の名は知る人も増えてきたが、逆に宮崎滔天の名前が忘れ去られているのはじつに残念至極。

 事の次第はこのようなものだ。

 黄興が、宮崎滔天の「中国革命」奔走記である『三十三年の夢』の中文抜粋訳を読んで感激し、亡命目的で来日した東京で宮崎滔天と知り合いになった。その黄興に、来日した孫文を引き合わせたのが宮崎滔天であった。

 だから、映画『1911』では、せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。宮崎滔天は中国共産党もお墨付きの日本人なのであるから。

 では、『支那革命軍談』から引用しておこう。33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 から。まさに、そこに居合わせているかのような臨場感あふれるシーンである。なぜなら、この一節を語った宮崎滔天(・・下の写真)自身がそこに居合わせているからだ。



33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 

(前略)超えて三十八年(注:明治38年=1905年)春、孫逸仙(=孫文)は欧米の漫遊を終へて日本へ帰り、僕の茅屋を訪ひ僅僅(きんきん)一三年の間に非常に留学生の殖えた事より留学生中変わつた人物がないかと云ふ問であるから、僕は黄興と謂ふ偉い人のある事を話すと孫は、『夫(それ)ぢゃ是から其(その)人を訪問しやう』と云ふから、僕は黄興の処へ行つて黄興を迎へて来やうと云ふと『其様(そのよう)な面倒な事は要らぬ、是から一人で訪問しやう』と云ふので相携へて神楽坂附近の黄興の寓所を訪ふた、当時僕と寝食を共にして居た末永は此時(このとき)黄興と同棲して居た故、孫を表へ立たして置いて格子を潜(くぐ)つて『黄さん』と声を掛ると末永と黄は一緒に顔を出して表に立つて居つた孫の顔を見るや『イヤ孫さん』と叫ばんとすると、黄興は直ちに其れと心付き大勢の学生が来て居るので、手真似で孫の家内へ入ることを差止めた。僕もそれと察したから、直ちに戸外へ出て、其まゝ待つて居ると、間もなく黄興、末永、張継の三人が出て来て鳳楽園と云ふ支那料理屋へ案内した、彼等は初対面の挨拶もそこそこに既に、見旧知の如く互いに添加革命の大問題に向かつて話を始める、僕等は支那語は十分に解する力が無いので如何なる話をして居るか分らぬが兎に角支那の豪傑が茲(ここ)に一堂に相集まつて手を握ることの嬉しさに、末永と二人で頻(しき)りに盃を傾けて居ると稍々(やや)二時間ばかりと云ふもの孫と黄の両人は酒にも肴にも口を着けず議論を上下して居つたが、終に萬歳(バンザイ)を唱へて祝杯を挙げたのであつた。

34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事

 此(この)黄、孫二人の握手が革命運動に対して非常なる発展の動機となつた、・・(以下略)・・

(出典:『支那革命軍談』(西田勝編・解説、法政大学出版会、1967) 引用は P.71~72。ただし、旧字体の漢字は新字体に直し、引用者(=わたし)の判断で( )内に読み仮名を補足した)

 孫文と黄興は、東京・神楽坂(かぐらざか)の中国料理店ではじめて胸襟(きょうきん)を開いて革命について熱く語り合ったのである。宮崎滔天は当事者としてそこに立ち会っていたというわけだ。

 『三十三年の夢』を書いたあと、革命の志やぶれて浪花節語りの桃中軒雲右衛門に弟子入りして、桃中軒牛右衛門と名乗っていた宮崎滔天の語りである。

 自由民権運動と浪花節は密接な関係にあったが、宮崎滔天の本意がどこにあったのかはうかがい知ることは難しい。

 しかし、苦労は報われたのだ。

 西田勝氏による解説は「文化大革命」の渦中に書かれたものだけに、現在からみると違和感を感じるトーンがあるが、「辛亥革命」成功を知って、孫文に会いに行くことになった宮崎滔天のことを長男が回想した文章が引用されているので、孫引きさせていただこう。

「・・・この年の秋(明治44年)になって俄然四川省に変乱か起り、それから武昌の義挙となり、革命運動はそのドン底の苦しみから一時(いっとき)に成功の火の手を見ることが出来るやうになりました。革命の烽火(のろし)が上がった時、孫(文)さんはフランスにをられました。滔天等も急いで行かなければならなかったのですが、何しろこの上ないの貧乏ですから、おいそれとはたてません。その内幾分か工面のよかった菅野(長知)氏は、加納清蔵、杉浦和介、金子克巳、亀井一郎、三原千尋等の諸氏を連れて先発されました。
 滔天は折よく駆けつけて来られた石丸鶴吉、島田経一両氏の心尽しを得て出発する事になりました。中でも永年の貧乏時代を見捨てもせず出入りしてくれた江戸ッ子紺屋の川城七太郎氏は
 『旦那! 私が見込んだ眼に狂ひはねえや、ポッチリですが気は心、あんまり少なくて旅費の足しにもなりますめえが、船ん中で煙(煙草)にして下さい』
 と心からの餞別を贈ってくれました。滔天は盃に一杯傾け、
 『二十五年の苦しみがやっと報いられた。空想だ、夢想だと笑はれた革命が、どうやら出来た。これからが大変だ』
 と哄笑しながら、旅装も簡単に大きな身体をのそりと旅立ちました。滔天は上海に直行し、フランスから帰る孫さんを迎へに香港に転航しました。上海に着いた孫さんは同志と共に南京に入り、臨時大総統に就任されて、いよいよ革命の基礎が築かれたのです。」(昭和十八年四月三十日、文藝春秋社刊『三十三年の夢』所収の宮崎龍介『父滔天のことども』による)


 宮崎滔天は 1922年に亡くなっている。その 3年後の 1925年には孫文も亡くなった。「辛亥革命」後、意見対立から孫文とは袂を分かった黄興は「辛亥革命」から3年後の1915年には病死している。






<関連サイト>

■『1911』の予告編比較

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)



<ブログ内関連記事>

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

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・・大陸浪人を多く生み出したのは維新の負け組となった福岡藩であった

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い
・・大陸浪人を多く生み出したのは維新の負け組となった福岡藩であった

書評 『恋の華・白蓮事件』(永畑道子、文春文庫、1990)-大正時代を代表する事件の一つ「白蓮事件」の主人公・柳原白蓮を描いたノンフィクション作品
・・柳原白蓮の不倫の恋の相手となり、のち結婚した宮崎龍介は宮崎滔天の長男であった

(2014年8月21日 情報追加)




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2011年11月19日土曜日

ジャッキ-・チェン製作・監督の映画 『1911』 を見てきた-中国近現代史における 「辛亥革命」 のもつ意味を考えてみよう


 映画『1911』をやっと見てきた。

 ジャッキー・チェンの記念すべき映画100作目は、「辛亥革命」100年を記念する映画である。骨太の歴史ドラマであり、スペクタル大作である。

 この件については、すでにこのブログでは「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! に書いたので参照していただきたい。

 中国近現代史においてもっとも重要な歴史的事件である「辛亥革命」について知るためには、見る価値はあると言っておこう。

 中国近現代史とはまた日本近現代史でもある。この意味については、おいおい書いていくこととする。


■この映画で描かれる「辛亥革命」とは

 腐敗する王朝を倒し、漢民族によるあるべき世の中をビジョンとして描き、そのための手段として革命を行うというミッションを掲げたのが孫文であった。

 しかし、なんども試みても武装蜂起はことごとく失敗に終わり、革命烈士である若い命が次から次へと失われていくことになる。

 そして、中国近現代史を一変することになる「辛亥革命」 が始まったのが、ちょうど100年前の1911年10月11日のことだった。

 その後、約2ヶ月を経て、清朝最後の皇帝、いわゆる「ラストエンペラー」であった皇帝溥儀(ふぎ)は退位を余儀なくされる。といっても溥儀は幼児であったので、意志決定したのはその母である皇太后であったのだが。それとともに、清朝は倒れることになったが、それは皇帝退位と引き替えに命を選んだからである。

 そして、翌年1912年1月1日に孫文は中華民国の臨時大総統に就任する。これが「辛亥革命」であり、映画『1911』もここでほぼ終わりとなる。


 
■「アヘン戦争」以後の中国近現代史における「辛亥革命」の意味

 ジャキー・チェンは香港人なのに中国共産党寄りだという批判というか批評をされていたが、おそらくこの映画を完成させるのにはそれも必要だと判断したのだろう。実際問題、中国政府からの協力がなければこれだけの作品を製作するこことは不可能だ。きわめて戦略的な映画製作なのである。

 「国父・孫文」は、国民党だろうが共産党だろうがその立ち位置にかかわらず、中国人・華人であれば共通に抱いている尊敬の対象である。このことは、日本人はもっとよく知っておくべきことだろう。

 わたしが見たのは当然のことながら字幕版(・・音声は普通話と英語)だが、映画の冒頭に日本語による1分程度の背景解説が入っていた。オリジナル版にはないと思うが、この程度のことは最低限知っておきたいものだという内容である。

 日本版の宣伝には、『レッドクリフ』(赤壁)のスタッフが総動員とうたわれているが、『三国志』をテーマにした『レッドクリフ』と違って、「辛亥革命」をテーマにした『1911』は、日本人には難しいテーマかもしれないと、映画をみながら思ったのは正直なところだ。

 おそらく多くの日本人の認識では、「辛亥革命」は『三国志』ほど知られていない可能性がある。

 江戸時代以来、『三国志』は日本人の一般教養のなかに通俗的なかたちで存在してきただけでなく、基本的に合従連衡(がっしょうれんこう)の国盗り合戦であるから、RPGゲームとも親和性が高いし、これまでも小説に、マンガにと何度も何度も取り上げられてきた作品だ。

 これに対して、わずか100年前とはいえ、1911年の「辛亥革命」の意味は、1840年の「アヘン戦争」から、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立という「中国革命」の歴史の流れをある程度まで知っていないと理解しにくいのではないだろうか。

 全般的に、中国人や西洋人にくらべると歴史意識が低い日本人は、現代人として生きるうえでもっとも肝心な近現代史が、常識のなかから欠落しているという問題があるのではないかと思うのだ。日本史でも世界史でも高校の授業で触れられないまま終わってしまうことも、大きな原因のひとつだ。

 今回の映画は、『宋家の三姉妹』とは違って、日本や日本人はただ一人の例外を除いて出てこないので、日本近現代史との関係も見えにくいという難点がある。これはこの映画を日本で公開する際の致命的な欠陥であろう。「命」や「感動」といった、やや陳腐なコトバをちりばめなければならなかった日本版の宣伝コピーには苦労のあとが見える。

 ただひとつの例外とは宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922)のことであるが、映画にでてくるのは名前だけでシーンとしてではない。



 孫文の盟友として、「中国革命」に全身全霊をもって身を投じたこの日本人は、若き日の毛澤東も中文版の著書を読んで感激し、直接ファンレターを日本に送ったという存在であるので、中国共産党も公認の日本人なのだろう。宮崎滔天についてはべつに記事を書くこととする。

 今年は、孫文に資金援助した陰徳の日本人実業家・梅屋庄吉(うめや・しょうきち)の存在がクローズアップされたが、中華民国(=台湾)政府は日本でも梅屋庄吉を顕彰する写真展を東京で開催したが、中国共産党の革命正史のなかではいまだ認められていないのは残念なことだ。

 「全面協力(?):朝日新聞社」という文字が画面にでてきたが、これは一部の日本人にとっては逆効果になりそうな気もしなくはない。


■「辛亥革命」の1911年は明治44年であった-その年まで清朝が存在したのだ!

 せめてこの映画をみる人は、1911年が明治44年であった(!)ことをアタマのなかにたたき込んでおいてほしい。

 映画では、米国人や欧州人がでてくるシーンがいくつもあり、清朝の高官たちの弁髪と礼服姿が、革命によって倒されるべき旧体制というイメージを際立たせるためにコントラストをもって描かれているが、すでにその時点の日本は明治44年、つまり「明治維新」から44年(!)もたっていたことに思いをはせるべきなのである。

 孫文は、「辛亥革命」から13年後の 1924年(大正13年)に神戸でおこなった最後の講演「大アジア主義」のなかで、「明治維新」と「日露戦争」が植民地支配で苦しむアジア人を覚醒させたことを取り上げて語っているいるが、「辛亥革命」からはじまった「中国革命」もまた、「明治維新」にインスパイアされたものであることはアタマのなかにいれておきたい。

 「大アジア主義」は、『孫文革命文集』(深町英夫編訳、岩波文庫、2011)で読むことができる。


■孫文と黄興の男の友情-もっとも重要なシーンがこの映画には出てこない

 さて映画そのものだが、前半は武装蜂起における激しい銃撃戦とそのあいつぐ失敗によって失われた若い命への慟哭によって見る者の胸を打つが、後半の革命成就による孫文の臨時大総統(・・大統領ではなく大総統!)就任のシーンでクライマックスを迎える。

 この映画は、シークエンスの数があまりにも多すぎて、しかも短い時間でつぎつぎと場面転換するので、正直言って目が疲れた。本来なら連続ドラマか、映画なら3時間超必要なテーマを、2時間20分に押さえているから仕方ないといえば仕方ない。

 この映画の人間ドラマとしては、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文の男の友情をメインに据えているのだが、この二人が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのが残念だ。

 黄興が宮崎滔天の『三十三年の夢』の中文訳を読んで感激し、来日して東京で宮崎滔天と知り合いになったのだが、その黄興に孫文を引き合わせたのが宮崎滔天だったのだ。せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。この点については、宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために に書いておいた。

 また舞台が、サンフランシスコ、ペナン島、デンバー、ロンドン、広東、香港と全球的に及んでいるが、孫文の活動は主に在外華僑に向けての革命の軍資金のファンドレイジング(資金調達)であったのだが、軍資金のうち多くが、日本の実業家であった梅原庄吉から出ていたことにはいっさい触れられていないのは不自然である。

 中国共産党の正史においては、梅原庄吉はいまだ公式に認められた存在ではないのだろう。

 
■この映画でもっとも興味深い登場人物は袁世凱(えん・せいがい)ではないか?

 映画『1911』の主人公は孫文、盟友の黄興が脇役(バイプレイヤー)と考えるのが自然なのだろうが、どうしても国際的知名度からいってもジャッキー・チェン(成龍)が演じる黄興のほうに目がいってしまうのではないだろうか?

 この結果、主人公が孫文と黄興の二人になって希薄化してしまった結果、むしろ袁世凱(えん・せいがい)の存在感が、この映画でもきわめて大きく浮上してくるのを感じてしまう。

 プロレスでいえば、「ヒール」の魅力といったものだろう。いわゆる悪役レスラーのことだ。ずいぶん昔だが、似たような体型のアブドラ・ザ・ブッチャーを思い出した。

 この映画でも、袁世凱はでっぷりと太った、権謀術数を駆使する古狸(ふるだぬき)として登場しているが、この駆け引きの才能と交渉力、政治家としての演技力と遊泳術はなかなかのものだ。

 袁世凱を演じた役者の演技力ももちろんあすかって大きいが、わたしとしてはぜひ、袁世凱を主人公にした映画を見てみたいものだと思った。「皇帝になれなかった男」なんてタイトルでいかがか?

 「革命は銃口から生まれる」(毛澤東)という有名なセリフがあるが、軍を握っている者が、革命の行方を左右するもの。これは古今東西まったく変わらない事実である。

 袁世凱もまた、清朝の軍の近代化の推進役として権力の座に上り詰めた人物であった。

 
■ 「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)

 じつは、この映画のあとの歴史がまた激動の連続であった。

 この映画のヒールである袁世凱は、孫文から大総統の地位を譲り受け、その後、革命を後退させる役割を演じることになる。皇帝になりたいがために、日本からの「対華21ヵ条要求」も含め、列強の要求を受け入れた袁世凱は、国内外からの激しい反発をうけ皇帝になるのは断念、その後急死してしまう。

 臨時大総統の地位を袁世凱に譲ったのち、孫文はその後も革命指導者として、共和制の理念を定着させるために国内外を奔走することになる。その間、日本にも亡命している。

 そして、「辛亥革命」成就から 14年後の 1925年(民国14年、奇しくも日本は大正14年)3月12日、肝臓がんのため北京で死去。享年59歳であった。

 そして、翌年12月12月25日、大正天皇崩御にともない昭和天皇が即位、孫文が危惧したように、日中関係は激動の時代へと突き進むことになる。

 孫文は 「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)というコトバを残して亡くなった。

 中国共産党の正史では、1949年の中華人民共和国成立をもって「中国革命」は完結したといいいたいのだろうが、やはりいまでも「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)と言わねばならないのではないか?中国の現状を見る限り、そう思わざるを得ない。

 「三民主義」は、民族主義、民権主義、民生主義の三つから成るとしたが、いまだ民権主義が貫徹しているとは言い難いのが大陸の現状なのだ。

 その意味でも、「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)。いまだ孫文は過去の人ではない。







<関連サイト>

宗家の三姉妹(宗家皇朝 The Soong Sisters)
SOONG SISTERS_Trailer


■『1911』の予告編比較

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)



<ブログ内関連記事>

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情
 
宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)





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2011年10月10日月曜日

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい!


 1911年10月10日、革命家・孫文たちによる 「辛亥革命」(しんがい・かくめい)が始まった。いまからちょうど 100年前のきょうだ。

 この日から約2ヶ月後に清朝は滅亡し、翌年 1912年1月1日に、孫文を臨時大総統(・・大統領ではない、"大総統")にして中華民国が成立することになる。

 これを記念して、ちょうど100作目となる映画『1911』を製作・監督したのがジャッキー・チェン(李成龍)だ。カンフー映画でも、アクション映画でもなく、歴史、しかも中国現代史を描いた超大作である。100作目の映画が、ちょうど革命から100年目というキリのいい数字と重なる。

 構想10年、総製作費30億円という歴史エンターテインメント超大作 は、中華圏ではすでに9月29日(木)から公開されている。

 ところが、日本公開は、11月5日(土)までおあずけ。なんてバカなことをしているのだ、日本の興行界は!?

 革命記念日である10月10日にあわせて公開しなくちゃダメじゃないか! 10月10日は、台湾(=中華民国)では「双十節」という国慶日(=建国記念日)で、しかも今年は「中華民国建国百年」あるから、中国共産党に配慮したということだろうか? 憶測は意味はないことだが。

 日本版の予告編と中文版の予告編を比較してみると、日本版の予告編は、あいもかわらぬ情緒的、感傷的な日本人向けコピーに充ち満ちている。「歴史に残らなかった<命>の物語」だそうだ。映画の宣伝プロモーションにはその市場向けのローカライズが必要とはいえ、なんだかよくわからないコピーである。

 中国では、歴史イコール政治、政治イコール命がけ、ということがどこまでわかっているのだろうか? 映画の見方は一つだけではないのだが、それにしてもこのコピーでは、さらなる誤解を日中間で再生産するだけなのではないだろうか?

 とにかく、予告編を比較してみておくことをお奨めしたい。以下に列挙しておいた。

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)


 基本的に歴史エンターテイメント作品なので、見るのを楽しみにしているのだが、この作品を見ることによって、製作・監督にあたった香港人ジャッキー・チェンの歴史観・政治観を知ることもできるだろう。

 「辛亥革命」以後の100年とは中国現代史であるとともに、日中関係の歴史でもある。

 そして、孫文と辛亥革命というシンボルは、現在台湾にある中国国民党にとっても、中国本土を統治する中国共産党にとっても、共通のシンボルである。事の是非は別にして、「国共合作」というコンセプトの根拠ともなりうるシンボルなのだ。

 歴史を知らないで現代を語るのはきわめて危険である。繰り返すが、現代中国史とは日中関係の歴史でもあり、近現代の中国史は、日本人にとってはけっして無縁なものではない。
 
 革命にために膨大な軍資金を提供した実業家・梅屋庄吉をはじめ、玄洋社の頭山満(とうやま・みつる)や宮崎滔天(みやざき・とうてん)など、多くの日本人が直接かかわった「辛亥革命」。1911年は明治44年である。

 「辛亥革命」への日本人のかかわりが、ジャッキー・チェンの映画ではどう描かれているのかいないのか、香港・日本の合作映画 『宋家の三姉妹』(1997) との違いはなど、気になるところだ。

 とりあえずは、一ヶ月後の 11月5日の日本公開を待つこととしよう。




<関連サイト>

宗家の三姉妹(宗家皇朝 The Soong Sisters)
SOONG SISTERS_Trailer


<ブログ内関連記事>

ジャッキ-・チェン製作・監督の映画 『1911』 を見てきた-中国近現代史における 「辛亥革命」 のもつ意味を考えてみよう
・・じっさいに『1911』をみて感じたこと、考えたことを記事にした

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし
・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情

ひさびさに宋文洲さんの話をライブで聞いてきた!-中国人の「個人主義」について考えてみる
・・孫文の『三民主義』について書いておいた

(2016年7月27日 情報追加)



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2011年7月8日金曜日

特別展「孫文と日本の友人たち ー 革命を支援した梅屋庄吉たち」にいってきた。 日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし


 中華民国(台湾)建国百周年記念特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」が、東京・白金台の台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」で開催されている。

【開催期間】2011年6月17日(金)~7月14日(木)
【会場】台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」
    東京都港区白金台 5-20-2  TEL:03-3280-9717
     http://www.roc-taiwan.org/JP/
【開館時間】10:00~16:00(入場は15:30まで)
【休館日】無休  
【入場料】無料
【主催】台北駐日経済文化代表処
【共催】台湾孫文紀念館/國民党党史館
【後援】財団法人 交流協会/日華親善協会全国連合会/日本中華聯合総会
【協力】愛知大学東亜同文書院大学記念センター/梅屋庄吉の曾孫 小坂文乃/株式会社ムラヤマ



 今週月曜日(7月5日)、いまだ梅雨明けとはならぬものの、かんかん照りの太陽が照るつけるなか、台北駐日経済文化代表処に立ち寄ってみた。

 訪問するのは今回がはじめて。受付で慣れない筆ペン書きで記帳している際に聞いてみたら、だいたい毎日100人くらいが来場しているようだ。「写真はどんどん撮ってくさい」ということなので、遠慮なく撮影させていただいた。

 孫文(1866~1925)についてはあえて説明するまでもあるまい。ことしで100周年をむかえる中華民国(=台湾)の建国の父でもあり、広い意味の「中国革命」の父でもある。

 歴史用語としては「辛亥革命」が正しいのだろうが、わたしは 1911年の革命こそ「中国革命」とよぶにふさわしいと考えている。したがって、「中国革命」とは「辛亥革命」のことを指していると思って、以下の文章を読んでいただきたい。

 梅屋庄吉(うめや・しょうきち 1868~1934)とは日本の実業家でアジア主義者である。歴史の教科書にでてくる知名人ではないので、wikipedia の記述を引用させていただこう。内容は、2011年7月6日現在のキャッシュである。

略 歴 
 1868年、長崎に生まれる。幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主もあった貿易商・梅屋家に養子入りする。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港に貿易商として地位を築いた。
 中国革命を企図した孫文に多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与している。革命後も、孫文と宋慶齢との披露宴を主宰するなど、たびたび日本に亡命した孫文への援助を続けた。また、頭山満(とうやま・みつる)、犬養毅(いぬかい・たけし)、山田純三郎、宮崎滔天(みやざき・とうてん)らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与している。
 その後、映画事業に取り組んで白瀬中尉の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じている。
 晩年は、千葉県夷隅郡岬町の別荘にて静養した。日中関係の悪化の際に、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘近くの三門駅にて急死した。

その他
 孫文に対する革命への資金援助額については、現在の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。
 日比谷松本楼創業者・小坂梅吉と姻戚関係にある。また、日活の前身の一つであるM・パテー商会の起業家の1人でもある。
 孫文との交友を記した日記や書簡は、日中関係への配慮から1972年の日中国交正常化まで遺族は公開しなかった。
 孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている。


 梅屋庄吉の略歴にでてくる「頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者ら」は、そのままそっくり「孫文の日本の友人たち」の中核をなすメンバーであった。

 これに亡命先のロンドンで知り合った南方熊楠(みなかた・くまぐす)を加えれば、ほぼその中核はカバーしたことになる。



 現代人の感覚からいえば、アジア主義者は右翼というレッテル張りがなされそうだが、明治時代においては、自由民権運動の末裔の、いわゆる国権派とよばれた人たちが、同時にアジア主義者であったことに注意しなければならない。

 欧州とは異なる東洋(=東アジア)においては、とくに中国においては漢民族復興というスローガンが、そのまま孫文たちの革命のスローガンとなりえたのである。

 この間の消息については、志敗れた宮崎滔天(みやざき・とうてん)の『三十三年の夢』(島田虔次/近藤 秀樹=校注、岩波文庫、1993 原本出版は 1902)で知ることができる。

 「孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている」という記述が wikipedia にあるが、その銅像のひとつは広州の中山紀年堂にある。

 孫文は日本亡命中に孫中山(そん・ちゅうざん)と号することにしたので、中山紀年堂というネーミングとなったのである。たまたま目にした表札に中山(なかやま)とあったので拝借したということらしい。

(広州にて筆者撮影)

 これは、2008年秋の「広州交易会」のついでにいってみた、広州の中山紀年堂で撮影したもの。

 ことしは中国共産党結成から奇しくも90年、中華人民共和国においても孫文は中国革命の父として現在にいたるまで尊敬の対象であることは知っておきたいものだ。

 梅屋庄吉は、wiki の略歴にもあるように、来年2012年には創業百年を迎える現在の日活(にっかつ)の創業者の一人として成功した起業家である。日活は、旧社名を日本活動写真株式会社といった。梅屋庄吉は、映画事業の成功によって得た莫大な資産から、孫文の革命運動に巨額の資金援助を行った。

 なんと現在価値にして約1兆円にのぼる資金を孫文に援助したのである。現代ならさしづめ「赤い資本家」といったところだろうか。だが、東洋における革命は Revolution の訳語ではなく、漢語の「革命」であったことに注意しておきたい。

 梅屋庄吉は、孫文という男そのものに惚れ込んだのである。出会ってすぐに意気投合し、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と孫文にむかって宣言したという。うるわしき友情ではないか。これが遺言の一節、「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ孫文トノ盟約ニテ成セルナリ」が意味するところである。

 孫文をひそかに援助していた「陰徳」の持ち主であった、成功した実業家・梅屋庄吉。「陰徳」とはひらたくいえば「あしながおじさん」のことである。

 梅屋庄吉については、一昨年(2009年)に曾孫にあたる小坂文乃氏が、「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」という故人の遺志に反して(!)、『革命をプロデュースした日本人』(小坂文之、講談社、2009)を出版した結果、ようやくひろく世に知れ渡ることとなった。

 わたしはこの本じたいは読んでいないが、小坂氏の講演会に参加する機会があって、小坂氏の経営する日比谷松本楼に保存されている貴重な写真の数々はスライドで拝見している。

 なお、小坂氏の出版以前にも、読売新聞関西版に連載された記事をまとめた『盟約ニテ成セル ー 梅屋庄吉と孫文』(読売新聞西部本社、海鳥社、2002)があり、わたしはこの本によって梅屋庄吉と、孫文との盟友関係については、はじめて知った。

 今回の特別展を見る機会のない方は、ぜひ写真が満載されたこの本で、梅屋庄吉をはじめとする「陰徳」をつんだ明治の日本人を回想していただきたいと思う。


(画像をクリック!)



<関連サイト>

日活の沿革

台北駐日経済文化代表処

日比谷松本楼の公式サイト
・・ここに「梅屋庄吉と孫文」というページがある


<ブログ内関連記事>

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?
・・戦前の創業経営者は「陰徳」の持ち主だった人が多い。サントリーの創業者・鳥井信治郎もまたそうであった。「陰徳」とはひらたくいえば「あしながおじさん」のことである。

「主権在民」!-日本国憲法発布から64年目にあたる本日(2011年5月3日)に思うこと
・・自由民権運動は、のちに民権派と国権派にわかれたが、源流は西郷隆盛にさかのぼるという重要な事実について言及



P.S. 東京国立博物館で開催されている「誰モ見テイナイ写真-100年前の中国と日本 特別展 孫文と梅屋庄吉」に立ち寄ってみた


 東京国立博物館で開催されている「誰モ見テイナイ写真-100年前の中国と日本 特別展 孫文と梅屋庄吉」に立ち寄ってみたが、正直いってたいへんガッカリした。

 時間のやりくりして、しかも 800円も払って入場したのに、展示会としての内容はさっぱり。どこがいったい「誰モ見テイナイ写真」なのか??

 特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」より、展示されている写真は多いのだが、ぜんぜんアピールするものがなかった。孫文と梅屋庄吉の関係を掘り下げた内容ではなく、ただ単にセピア色の写真をあつめただけに過ぎないからだ。

 せっかくなので、図録も精査してみたが、購入する価値はないと判断。この図録を買うなら、上掲の『盟約ニテ成セル-梅屋庄吉と孫文-』(読売新聞西部本社編、海鳥社、2002)のほうがはるかに資料性も高い。

 展示会では紫禁城を撮影した写真は興味深いものを感じたが、写真資料だけなら図録ではなくウェブサイトですべてまとめて公開すべきだろう。そのほうが閲覧性があってよい。  (2011年8月23日 記す)


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2010年2月2日火曜日

ひさびさに宋文洲さんの話をライブで聞いてきた!-中国人の「個人主義」について考えてみる

 久々に宋文洲(そう・ぶんしゅう)さんの話をライブで聞いてきた。先週木曜日、1月28日のことだ。会場は、東京・品川のプリンスホテル。講演タイトルは、「「NO.2経済大国」なんか捨てろ!」。

 宋文洲さんは、『やっぱり変だよ日本の営業』(日経BP社、2002)や『ここが変だよ日本の管理職』(東洋経済新報社、2005)など「ここが変だよ日本人」シリーズで有名になった経営者、本人は出版社がつけたタイトルなので自分は好きではないといっているが、本が売れて会社も儲かったのだから、まあそれはそれでいいではないか。本を出すというのは、究極のトップ営業である。

 自ら創業したソフトブレーンの経営者向けセミナーで、ゲストスピーカーとして呼ばれるのも何か変な感じもする、と自ら述べていたが。
 宋文洲さんは、大株主としてオーナーではあるが、すでに経営者は引退してマネジメント・アドバイザーとしての肩書きのみ残し、現在は北京に拠点を移して、月に一回日本と往復しているようだ。

 主催者であるソフトブレーンによる内容紹介にはこうある。

「大」には個性も理念もない。「経済大国NO.2」にこだわることは「副社長」や「業界No.2」にこだわるようなもので、日本人(社員)の幸せと関係が無い。 不況を克服したいならば、まず「大」へのこだわりを捨て去ることだ。 日本人に宋文洲が敢えていう。「NO.2経済大国」なんか捨てろ!

 宋文洲さんの話をライブで聞くのは何年ぶりだろうか。

 非常に「元気のでる」内容の講演会であった。

 講演内容は、だいたい以下のとおりである。私の聞きたいことだけメモ書きしたものを再現してみよう。


 為替レート一つでGDPはすぐに数値が変わってしまう、こんな数値目標だけを目標に人生を生きていくのはバカバカしいじゃないか。(・・といきなりジャブを打ってきた。いいねー、もっとガンガン打ち込んできてくれー)。
 
 そもそも中国人は個人主義だから、国全体がどうのこうのなど、日頃は意識することなどない。中国自体が道州制みたいなものだから、一つの国として考えるのは意味がないのだ。

 まさにいま現在、高度成長期にある中国は、みなが起業して社長になりたがる国である。様々な問題を抱えているから、いずれ中国も成長は鈍化するだろう。しかし、成長が鈍化して久しい現在の日本のように、人をねたんだり、うらやましがたりしない。

 また、みなが社長になりたがるような国だ。そんななかに、いま頃日本人がのこのこ出ていって成功するのは難しいというものだ。簡単に儲かるところではないのだ。

 高級品と価値ある低価格品の二つに完全に二極分化しているのがいまの中国市場の実態、「日本製品」というコトバ自体に大きなブランド力があるが、高級品だけでは市場が限定される。

 資生堂は、中国では高級品としてのブランド力が大きいが、最初から富裕層相手の商売から始まったのではない。まだ所得水準も低かった頃から、下から勝ち上がってきたのである。

 日本国内だけを相手にしていては、もはや高収益は望めないだろう。ユニチャームもそうだが、国際的に展開している日本企業の業績が良い。

 日本はモノづくりでしか生きられない、なんていう思い込みは捨てることだ。

 たとえばユニクロは、(宋文洲さんが現在居住する)北京でも売れているが、けっしてモノづくり企業ではない。製造は中国企業、ユニクロがやっているのは企画とコーディネート機能である。

 情報はつねに現場にしかない。思い込みはダメだ、中国市場を知りたければ中国に行け、というのは当然のことだろう。

 日本にいては何も見えてこないのだ。現場に身を置いて、現場を見よ。固定観念を捨てよ。


 まあ、ざっとこんな内容だったろうか。
 
 キーワードは「個人主義」である。国がどうとかこうとかは関係ない、個人こそ重要である。一人一人が個人を中心に生きていくこと。
 個人で考えて、個人で行動し、個人で意志決定する、これこそ日本人に必要なのである。

 しかし、経営者向け講演会でこんな内容の話をしなければならないというのも、宋文洲さんの心の中は複雑なものがあるのではないかな、とも思う。

 個人主義が当たり前の中国人からみれば、日本人は歯がゆいに違いない。経営者ですら個人で動けない現実・・・関西人なら、こらあかんわ、とため息つきたくなるとこだろう。

 集団思考(Groupthink)が問題の根源であることは、HBS(ハーバード・ビジネス・スクール)のケーススタディで、ケネディ大統領時代の「ピッグス湾事件」を取り上げて議論の材料としているので、知っている人もいるだろう。意志決定は最終的に個人が行わねばならないのである。

 もちろん、自分が個人主義で生きるということは、相手も同じく個人主義であるということを前提にしなくてはならない。だから五分五分なのだ、という指摘も、が宋文洲さんは付け加えていた。
 日本人はすぐ誤解するが、個人主義は利己主義ではないのだ。

 私は、この講演会のメッセージは、ずばり「NO.2」なんか捨てろ!と受け取った。個人中心に生きることは、すでに当たり前だと思っているからだ。
 どんな狭い範囲の世界であっても、どんな小さな会社であっても、 「NO.1」になるべし! 強くそう思ったのである。

 英語でいえば my own boss、日本語でうまい表現がないものかなあ。
 「あんたが大将」、ということかな??








P.S. 中国人の個人主義などなど 

 宋文洲さんのメールマガジンのバックナンバーはここ。
 購読は無料でここからできる。
 なお、メルマガのコンセプトは、本人がこう書いている。   

「宋メール」のコンセプト
「宋メール」は宋自身が読者のご参考のため提供する個人の考えです。
「宋メール」は正論や結論ではなく、独自な視線を提供します。
「宋メール」は個性的なゲスト・オピニオンを用意します。
「宋メール」の読者は自立心が強く、世間に流されたくない方々です。
           宋 文洲

 このステートメントには、私は完全に同意するので、メルマガを購読している。

 宋文洲さんは1963年生まれで山東省出身。山東省出身者の気質は、どんなものか。孔子が生まれた曲阜をもつ山東省は、学問志向の高い気質をもっているが、その点は北海道大学に国費留学した宋文洲さんにも当てはまるだろう。

 それぞれの出身地による気質については、ジャーナリストによる 『出身地でわかる中国人』(宮崎正弘、PHP新書、2006)のほか、上海出身のジャーナリスト莫邦富(もー・ばんふ)氏による『中国全省を読む地図-22省・4直轄市・5自治区・香港・マカオ・台湾-』(莫邦富、新潮文庫、2001)など。

 中国革命の立役者であった孫文は、その主著である『三民主義』(安藤彦太郎訳、岩波文庫、1957)のなかで、「中国人はひとにぎりのバラバラな砂だ」(下巻 p.170)と嘆いている。"個人"主義の最たるものであるが、これはおそらく、孫文が非常に深い関係をもっていた日本人と対比しての発言だろう。
 
 中国人の個人主義の本質に知りたければ、『小室直樹の中国原論』(小室直樹、徳間書房、1996)が必読書である。中国人の人間集団は、個人を中心に幇(パン)、情誼(チンイー)、関係(グワンシ)、知り合い(友人)という「同心円構造」の「多重世界」である。

 幇(パン)から順番に、関係の度合いが薄くなってゆく。幇の内側は絶対の世界、幇の外側は相対の世界。

 そして地縁を越えた血縁集団としての「宗族」(そうぞく)が存在する。

 この幇と宗族の二つが、中国人の人間関係を理解するカギである、と小室直樹は結論している。幇の外、宗族の外の人間は、中国人であってもソト側の人、日本人のいう外人といっても構わないような存在であるが、宗族でなくても情誼(チンイー)、関係(グワンシ)、知り合いとなれば、ウチ側の人間となる。



 この点に関しては、『友をえらばば中国人!?』(篠原 令、阿部出版、2002)が非常に参考になる。中国人の人間関係は、義侠心が大きな意味をもつ「三国志」の世界そのものである、と。ついでに篠原氏による『妻をめとらば韓国人!?』(文春文庫、2004)も面白い。

 しかし、『小室直樹の中国原論』も『中国人!?』も『韓国人!?』も、ともに品切れで在庫なし、というのは残念だ。

 本当に読んで意味のある本が売れずに、どうでもいいような本ばかり粗製濫造されて忘れ去られてゆく現状は、なんとかできないものだろうか・・・











<ブログ内関連記事>

書評 『英語だけできる残念な人々-日本人だけが知らない「世界基準」の仕事術-』(宋文洲、中経出版、2013)-英語はできたほうがいいが、英語ができればいいというものではない

NHKスペシャル 「“中国人ボス”がやってきた-密着 レナウンの400日」(2011年10月23日) を見ましたか?

「個人と組織」の関係-「西欧型個人主義」 ではない 「アジア型個人主義」 をまずは理解することが重要!



PS 政治と経済の関係

宋文洲さんの経済やビジネスにかんする話はいいが、政治にかんする話には鼻白むものがある。『二枚舌の隣人』宋文洲と尖閣諸島の踏み絵(やまもと いちろう BLOG 2013年12月2日)を読んで、宋文洲さんには、はなはだ失望した。しかし、これまた中国人研究の一材料とすべきであろう。好き嫌いは別にして外科医のように冷静に。

 (2013年12月13日 記す)





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