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2011年11月20日日曜日

宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために


 映画『1911』は、オリジナルの中文バージョンでは『1911 辛亥革命』となっている。1911年の「辛亥革命」とは、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立にいたる「中国革命」の第一歩となった重要な歴史的事件である。

 その「中国革命」に人生をかけた日本人がいた。宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922年)である。

 宮崎滔天といえば、その半生の自叙伝である『三十三年の夢』(1902年刊)が有名であるが、残念ながらその記述は「辛亥革命」成功に至る十年前で終わっている。

 『三十三年の夢』で書かれなかったが、もちろん孫文は革命運動を継続し、全世界を飛び回って(・・いや、まだ飛行機のなかった時代だ、船で移動を続けていたのだ!)、革命のための軍資金調達に奔走していた

 さが、もちろんその後日談はある。それがこの『支那革命軍談』(1912年)である。

 1967年に法政大学出版会から復刊された『支那革命軍談』は、もともと辛亥革命の翌年1912年に東京で出版されたものである。いまだ「文化大革命」の最中にあって、中国を美化する言説があたりまえであった時代の復刊なので、その時代の匂いのつよい解説文であるが・・・

 これが読むとめっぽう面白いのだ。残念ながらそれ以後は版を重ねていないようですでに絶版状態だが、どこか文庫本で復刊してくれないものだろうか。

 文語体の『三十三年の夢』よりも読みやすく面白いし、「辛亥革命」に至までの孫文を知る上でも、宮崎滔天が当事者であっただけに、臨場感あふれた内容なのだ。

 「目次」を掲載しておこう。なお、孫逸仙とは孫文のことである。中国では孫中山先生と呼ばれることが多い。

1. 孫逸仙生ひ立ちの事
2. 一味の志士結社の車
3. 鄭頭目快撃を促す車
4. 孫逸仙欺かれて倫敦(ロンドン)の公使館に捕るゝ事
5. 公使舘の窓から命の綱の投文の車
6. 孫逸仙、公使館を脱け出さんと図る事
7. 両博士、孫の救助に苦心の事
8. 英政府の談判成功して孫 引渡しの事
9. 犬養毅 斡旋の事
10. 滔天、革命党員を尋ねて澳門(マカオ)行の事
11. 香港の革命党と秘密室に相語る事
12. 孫の入京を聞き、小村寿太郎吃驚(びっくり)の事
13. 壮士相会して対露清事業を約する事
14. 康有為、計策破綻して逃鼠の事
15. 亡命の康有為、梁啓超相抱いて泣く事
16. 比律賓(フィリピン)の志士、孫に大事を頼む事
17. 比律賓(フィリピン)志士の為に弾薬調達の事
18. 福州にて布引丸(ぬのびきまる)の沈没を聞く事
19. 布引丸の沈没に味方大損害の事
20. 革命党の頭目等、香港に会合の事
21. 三派連合の秘密会、意外の妨害に会ふ事
22. 滔天、同志の吃驚(びっくり)を鎮むる事
23. 三派愈々(いよいよ)合同して孫を首領とする事
24. 孫の一党、愈々(いよいよ)革命の大連動に着手する事
25. 康有為、滔天等を刺客と誤る事
26. 滔天、英国の警官に取調べらるゝ事
27. 滔天等、拘禁に先(さきだ)つて大酔する事
28. 滔天、新嘉坡(シンガポール)監獄に入牢の事
29. 英国官憲の命により新嘉披(シンガポール)追放の事
30. 孫等、又た香港を追放さるゝ事
31. 革命旗撃決行の事
32. 革命の挙、遂(つい)に敗るゝ事
33. 孫逸仙、黄興と初対面の事
34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事
35. 革命党、鎮南関攻撃の事
36. 鎮南関攻撃準備の事
37. 孫、黄 鎮南関の天険を陥るゝ事
38. 弾薬窮乏して鎮南関退陣の事
39. 革命軍再起して雲南河口を取る事
40. 汪兆銘、北京宮廷に撮政王を覗ふ事
41. 黄興、広東総督衛門焼打の事
42. 革命新政府樹立の事


附録 革命事情

湖北革命の発端
黄興の変装
孫及び黄等の砲台奪取事件
黎元洪(れいげんこう)の人物
支那の革命婦人
 革命の先駆者秋瑾(しゅうきん)
 男装剣を横ふる王夫人
 怪女優錦芝蘭

 映画『1911』に描かれているのは、本書の 41. 黄興、広東総督衛門焼打の事 と 42. 革命新政府樹立の事 が中心である。

 映画冒頭に出てくる女性革命家・秋瑾(しゅうきん)の処刑シーンについては、支那の革命婦人 革命の先駆者 秋瑾(しゅうきん) で触れられている。

 冒頭のシーンをみて、すぐにピンとこなければ、中国近現代史をもう一度、勉強し直したほうがいい。


■映画『1911』にない、孫文とその盟友・黄興との出会いのシーンがこの本には臨場感たっぷりに活写されている

 映画『1911』は、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文との男の友情がメインテーマでもあるが、肝心要の二人の出会いのシーンがない。

 孫文と黄興が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのは、じつに残念なことだ。

 孫文の盟友の一人として、多額の資金援助を行った陰徳の日本人実業家・梅原庄吉の名は知る人も増えてきたが、逆に宮崎滔天の名前が忘れ去られているのはじつに残念至極。

 事の次第はこのようなものだ。

 黄興が、宮崎滔天の「中国革命」奔走記である『三十三年の夢』の中文抜粋訳を読んで感激し、亡命目的で来日した東京で宮崎滔天と知り合いになった。その黄興に、来日した孫文を引き合わせたのが宮崎滔天であった。

 だから、映画『1911』では、せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。宮崎滔天は中国共産党もお墨付きの日本人なのであるから。

 では、『支那革命軍談』から引用しておこう。33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 から。まさに、そこに居合わせているかのような臨場感あふれるシーンである。なぜなら、この一節を語った宮崎滔天(・・下の写真)自身がそこに居合わせているからだ。



33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 

(前略)超えて三十八年(注:明治38年=1905年)春、孫逸仙(=孫文)は欧米の漫遊を終へて日本へ帰り、僕の茅屋を訪ひ僅僅(きんきん)一三年の間に非常に留学生の殖えた事より留学生中変わつた人物がないかと云ふ問であるから、僕は黄興と謂ふ偉い人のある事を話すと孫は、『夫(それ)ぢゃ是から其(その)人を訪問しやう』と云ふから、僕は黄興の処へ行つて黄興を迎へて来やうと云ふと『其様(そのよう)な面倒な事は要らぬ、是から一人で訪問しやう』と云ふので相携へて神楽坂附近の黄興の寓所を訪ふた、当時僕と寝食を共にして居た末永は此時(このとき)黄興と同棲して居た故、孫を表へ立たして置いて格子を潜(くぐ)つて『黄さん』と声を掛ると末永と黄は一緒に顔を出して表に立つて居つた孫の顔を見るや『イヤ孫さん』と叫ばんとすると、黄興は直ちに其れと心付き大勢の学生が来て居るので、手真似で孫の家内へ入ることを差止めた。僕もそれと察したから、直ちに戸外へ出て、其まゝ待つて居ると、間もなく黄興、末永、張継の三人が出て来て鳳楽園と云ふ支那料理屋へ案内した、彼等は初対面の挨拶もそこそこに既に、見旧知の如く互いに添加革命の大問題に向かつて話を始める、僕等は支那語は十分に解する力が無いので如何なる話をして居るか分らぬが兎に角支那の豪傑が茲(ここ)に一堂に相集まつて手を握ることの嬉しさに、末永と二人で頻(しき)りに盃を傾けて居ると稍々(やや)二時間ばかりと云ふもの孫と黄の両人は酒にも肴にも口を着けず議論を上下して居つたが、終に萬歳(バンザイ)を唱へて祝杯を挙げたのであつた。

34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事

 此(この)黄、孫二人の握手が革命運動に対して非常なる発展の動機となつた、・・(以下略)・・

(出典:『支那革命軍談』(西田勝編・解説、法政大学出版会、1967) 引用は P.71~72。ただし、旧字体の漢字は新字体に直し、引用者(=わたし)の判断で( )内に読み仮名を補足した)

 孫文と黄興は、東京・神楽坂(かぐらざか)の中国料理店ではじめて胸襟(きょうきん)を開いて革命について熱く語り合ったのである。宮崎滔天は当事者としてそこに立ち会っていたというわけだ。

 『三十三年の夢』を書いたあと、革命の志やぶれて浪花節語りの桃中軒雲右衛門に弟子入りして、桃中軒牛右衛門と名乗っていた宮崎滔天の語りである。

 自由民権運動と浪花節は密接な関係にあったが、宮崎滔天の本意がどこにあったのかはうかがい知ることは難しい。

 しかし、苦労は報われたのだ。

 西田勝氏による解説は「文化大革命」の渦中に書かれたものだけに、現在からみると違和感を感じるトーンがあるが、「辛亥革命」成功を知って、孫文に会いに行くことになった宮崎滔天のことを長男が回想した文章が引用されているので、孫引きさせていただこう。

「・・・この年の秋(明治44年)になって俄然四川省に変乱か起り、それから武昌の義挙となり、革命運動はそのドン底の苦しみから一時(いっとき)に成功の火の手を見ることが出来るやうになりました。革命の烽火(のろし)が上がった時、孫(文)さんはフランスにをられました。滔天等も急いで行かなければならなかったのですが、何しろこの上ないの貧乏ですから、おいそれとはたてません。その内幾分か工面のよかった菅野(長知)氏は、加納清蔵、杉浦和介、金子克巳、亀井一郎、三原千尋等の諸氏を連れて先発されました。
 滔天は折よく駆けつけて来られた石丸鶴吉、島田経一両氏の心尽しを得て出発する事になりました。中でも永年の貧乏時代を見捨てもせず出入りしてくれた江戸ッ子紺屋の川城七太郎氏は
 『旦那! 私が見込んだ眼に狂ひはねえや、ポッチリですが気は心、あんまり少なくて旅費の足しにもなりますめえが、船ん中で煙(煙草)にして下さい』
 と心からの餞別を贈ってくれました。滔天は盃に一杯傾け、
 『二十五年の苦しみがやっと報いられた。空想だ、夢想だと笑はれた革命が、どうやら出来た。これからが大変だ』
 と哄笑しながら、旅装も簡単に大きな身体をのそりと旅立ちました。滔天は上海に直行し、フランスから帰る孫さんを迎へに香港に転航しました。上海に着いた孫さんは同志と共に南京に入り、臨時大総統に就任されて、いよいよ革命の基礎が築かれたのです。」(昭和十八年四月三十日、文藝春秋社刊『三十三年の夢』所収の宮崎龍介『父滔天のことども』による)


 宮崎滔天は 1922年に亡くなっている。その 3年後の 1925年には孫文も亡くなった。「辛亥革命」後、意見対立から孫文とは袂を分かった黄興は「辛亥革命」から3年後の1915年には病死している。






<関連サイト>

■『1911』の予告編比較

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)



<ブログ内関連記事>

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!
・・大陸浪人を多く生み出したのは維新の負け組となった福岡藩であった

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い
・・大陸浪人を多く生み出したのは維新の負け組となった福岡藩であった

書評 『恋の華・白蓮事件』(永畑道子、文春文庫、1990)-大正時代を代表する事件の一つ「白蓮事件」の主人公・柳原白蓮を描いたノンフィクション作品
・・柳原白蓮の不倫の恋の相手となり、のち結婚した宮崎龍介は宮崎滔天の長男であった

(2014年8月21日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)








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2011年8月23日火曜日

書評『松井石根と南京事件の真実』(早坂 隆、文春新書、2011)―「B級戦犯」として東京裁判で死刑を宣告された「悲劇の将軍」は、じつは帝国陸軍きっての中国通で日中友好論者だった


■「B級戦犯」として東京裁判で死刑を宣告された「悲劇の将軍」は、じつは帝国陸軍きっての中国通で日中友好論者だった■

 松井石根と書いて、まつい・いわね、と読む。「B級戦犯」として極東軍事裁判(東京裁判)で死刑を宣告され絞首刑となった 7人の一人だ。現在では知っているひとはそう多くはないのではかもしれない。

 本書は、心ならずも「南京事件」における「虐殺」の責任者とされた「悲劇の将軍」を正面きってとりあげた評伝である。そしてまた、「南京事件」を中心に、松井石根という一人の中国通の情報将校の目をとおして描いた日中関係史でもある。

 ではなぜ松井中将が「悲劇の将軍」となったのか? 松井将軍が心の底から中国を愛し、日中友好こそがアジア安定の要であるという固い信念をもっていたにもかかわらず、日中関係が悪化の一方をたどった時代に生きた職業軍人であったことが、その原因の一つである。松井将軍は、59歳で予備役から戻されて、上海攻略戦の総司令官となったのであった。

 しかも、1937年(昭和12年)の「南京事件」は、松井将軍の意に反して行われたものであった。「上海事変」で中国側の激しい抵抗にあった日本軍は、からくも勝利を収めたあと、一部の司令官がなしくずしで開始した南京攻略戦を追認せざるをえなくなる。軍隊にあっては絶対にあってはいけないはずの「指揮命令系統の混乱」が生じたのは、そもそも戦争目的があいまいであったこと、戦争の「出口戦略」が見失われたことも大きい。

 捕虜の虐待や民間人に被害を与えないよう、上海と南京の攻略戦をつうじて、松井将軍が何度も「戦時国際法」に基づいて軍紀を守るよう、くどいほど念を押していることが本書を読むと確認できる。

 とはいえ、軍紀に厳しい理想肌の松井将軍の下にいたのは、内心ではそんな松井将軍をせせら笑っていた下克上的風潮のつよい将校たちであった。

 南京事件は、「カリスマなき誠実な理想主義者」がリーダーとして現場でトップに立ったときに引き起こされた悲劇というべきかもしれない。そして、その後の松井将軍の生涯は、この南京攻略戦が原因となった東京裁判での死刑判決と絞首刑によって完結することになる。

 終生、親中国の姿勢を変えることのなかった松井将軍。みずから意図したものとは正反対の結果を生み出し、死後もなお誤解が解けることがない「悲劇」の人生。日本側がみて良かれと思ったことが、けっして現地住民が心から歓迎するものではないことに思い至らなかったイマジネーションの欠如、認識ギャップが存在したことが否定できないのもまた事実である。この点もまた、軍人としては優秀であっても、政治への洞察力に欠けるものがあったというべきだろうか。

 松井将軍にまつわる中国側の誤解が解ける日は、残念ながら半永久的に来ることはないだろう。だが、せめて日本側においての評価が「正常化」し、「名誉回復」がなされることを望みたい。そのためにも、本書には一読の価値がある。



<初出情報>

■bk1書評「「B戦犯」として東京裁判で死刑を宣告された「悲劇の将軍」は、じつは帝国陸軍きっての中国通で日中友好論者だった」投稿掲載(2011年8月21日)
■amazon書評「「B級戦犯」として東京裁判で死刑を宣告された「悲劇の将軍」は、じつは陸軍きっての中国通で日中友好論者だった」投稿掲載(2011年8月21日)




目 次

序章
第1章 日中友好論者への道
第2章 大亜細亜協会の台頭
第3章 上海戦
第4章 南京戦
第5章 占領後の南京
第6章 興亜観音
第7章 東京裁判
最終章 歿後
あとがき
主要参考文献


著者プロフィール

早坂 隆(はやさか・たかし)


1973年、愛知県出身。ルポライター。『昭和十七年の夏 幻の甲子園-戦時下の球児たち-』(文藝春秋)で「第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞」及び「第2回サムライジャパン野球文学賞ベストナイン賞」を受賞。日本文藝家協会会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<書評への付記>

 むかし『東京裁判』というドキュメンタリー映画を見たが、そのなかに陥落後の南京に入城する馬上の松井石根(まつい・いわね)将軍のシーンがでてくたような記憶がある。

 けっして偉丈夫というのではない、枯れた感じの風貌。かの「南京事件」の司令官にしては意外な感じがしたのが印象に残っている。このときの写真は、本書第5章の扉に掲載されている。

 松井石根がそもそも陸軍士官学校では、その当時の多数派であったドイツ語でもロシア語でもなく中国語で通した人であり、陸軍大学では成績優秀のため恩賜の軍刀を賜り、参謀本部第二部長として中国通の情報将校としての輝かしいキャリアをつんだ人であったことは記憶しておきたい。

 早坂隆氏は、昨年は樋口季一郎をとりあげている。書評 『指揮官の決断-満州とアッツの将軍 樋口季一郎-』(早坂 隆、文春新書、2010)。 彼もまた、ドイツ語畑でロシア語を独習で完璧に身につけた情報将校であった。意図的に取り上げているのかどうかわからないが、どうも昭和期の陸軍軍人では、作戦参謀よりも情報参謀のほうが、緻密で冷静な印象を受ける。

 これは「情報」(インテリジェンス)というものがもつ性格からくるのだろうか。ここでいう「情報」には、「諜報」も「謀略」も含まれる。「戦術」重視の作戦参謀の問題は、すでにさんざん指摘されてきたことではあるが、さらに検討を加える必要があろう。日本の軍人は、「情報」を軽視した「作戦」(!)という、部外者からみたらナンセンスとしか思えないことを平気でやっていたのだ。

 孫文の「中国革命」成就までは、ほぼ完全に一致していた日中双方の中国感が、かくも乖離していったのはなぜか。日本近現代史の「不幸」は、まさに「日中関係悪化」が止められなかった歴史にあるといっても過言ではない。

 松井石根が推進した「大亜細亜協会」に端的にあらわれているのだが、日本側が良かれと思ったことは、けっして現地住民が心から歓迎するものではないことに思い至らないのは、イマジネーションの欠如と言わねばなるまい。やはり、ある種の固定観念や予断がつきまとっていることに無自覚であったということだろう。善意にもとづく日中友好論であっただけに、この認識ギャップが致命的な過ちを招いたのではないかと思われる。軍人としてのイマジネーションの限界だろうか。

 上海事変の戦死者が日本側でも一万人!以上に及んだこと。この戦いはいったい何であったのか。問い直すのであれば、南京事件だけでなく、上海事変も見直さねばならないだろう。

 とにかく国民党の蒋介石を排除すべしという、松井将軍の信念は、もしうかすると愛憎関係が逆転したものか。当時の近衛文麿首相の「蒋介石を相手にせず」と同じ認識をもっていた松井将軍の認識についても、正直なところ、あまりにも軍人的な発想であるように思うのだが・・・。

 まだまだ、簡単に評価を下しがたいのが松井石根という一軍人の生涯である。


<関連サイト>

東京裁判名場面(YouTube 映像)


<ブログ内関連記事>

書評 『指揮官の決断-満州とアッツの将軍 樋口季一郎-』(早坂 隆、文春新書、2010)
・・同じ著者による帝国陸軍の情報将校の評伝

「海軍神話」の崩壊-"サイレント・ネイビー"とは"やましき沈黙"のことだったのか・・・
・・「A級戦犯」で死刑宣告され絞首刑となった7人のリストを掲載してある

『大本営参謀の情報戦記-情報なき国家の悲劇-』(堀 栄三、文藝春秋社、1989 文春文庫版 1996)で原爆投下「情報」について確認してみる
・・大本営「情報」参謀が書いた「失敗から学ぶ」回想録。必読書!


<読書ガイド>

 本文で触れた、大東亜戦争(太平洋戦争)の将軍たちの伝記を、絶版も含めて紹介する。現在もっとも入手しやすいエディションを掲載しておく。

『山下奉文-昭和の悲劇-』(福田和也、文春文庫、2008)
・・文芸評論家・福田和也による山下奉文大将

『責任-ラバウルの将軍 今村均-』(角田房子、ちくま文庫、2006)
『一死、大罪を謝す-陸軍大臣阿南惟幾-』(角田房子、PHP文庫、2004)
『いっさい夢にござ候-本間雅晴中将伝-』(角田房子、中公文庫、1975)
・・ノンフィクション作家・角田房子による今村均大将、阿南惟幾大将、本間雅晴中将の伝記

『散るぞ悲しき-硫黄島総指揮官・栗林忠道-』(梯久美子、新潮文庫、2008)
・・梯(かけはし)久美子による栗林忠道中将、


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2011年7月8日金曜日

特別展「孫文と日本の友人たち ー 革命を支援した梅屋庄吉たち」にいってきた。 日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし


 中華民国(台湾)建国百周年記念特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」が、東京・白金台の台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」で開催されている。

【開催期間】2011年6月17日(金)~7月14日(木)
【会場】台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」
    東京都港区白金台 5-20-2  TEL:03-3280-9717
     http://www.roc-taiwan.org/JP/
【開館時間】10:00~16:00(入場は15:30まで)
【休館日】無休  
【入場料】無料
【主催】台北駐日経済文化代表処
【共催】台湾孫文紀念館/國民党党史館
【後援】財団法人 交流協会/日華親善協会全国連合会/日本中華聯合総会
【協力】愛知大学東亜同文書院大学記念センター/梅屋庄吉の曾孫 小坂文乃/株式会社ムラヤマ



 今週月曜日(7月5日)、いまだ梅雨明けとはならぬものの、かんかん照りの太陽が照るつけるなか、台北駐日経済文化代表処に立ち寄ってみた。

 訪問するのは今回がはじめて。受付で慣れない筆ペン書きで記帳している際に聞いてみたら、だいたい毎日100人くらいが来場しているようだ。「写真はどんどん撮ってくさい」ということなので、遠慮なく撮影させていただいた。

 孫文(1866~1925)についてはあえて説明するまでもあるまい。ことしで100周年をむかえる中華民国(=台湾)の建国の父でもあり、広い意味の「中国革命」の父でもある。

 歴史用語としては「辛亥革命」が正しいのだろうが、わたしは 1911年の革命こそ「中国革命」とよぶにふさわしいと考えている。したがって、「中国革命」とは「辛亥革命」のことを指していると思って、以下の文章を読んでいただきたい。

 梅屋庄吉(うめや・しょうきち 1868~1934)とは日本の実業家でアジア主義者である。歴史の教科書にでてくる知名人ではないので、wikipedia の記述を引用させていただこう。内容は、2011年7月6日現在のキャッシュである。

略 歴 
 1868年、長崎に生まれる。幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主もあった貿易商・梅屋家に養子入りする。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港に貿易商として地位を築いた。
 中国革命を企図した孫文に多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与している。革命後も、孫文と宋慶齢との披露宴を主宰するなど、たびたび日本に亡命した孫文への援助を続けた。また、頭山満(とうやま・みつる)、犬養毅(いぬかい・たけし)、山田純三郎、宮崎滔天(みやざき・とうてん)らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与している。
 その後、映画事業に取り組んで白瀬中尉の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じている。
 晩年は、千葉県夷隅郡岬町の別荘にて静養した。日中関係の悪化の際に、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘近くの三門駅にて急死した。

その他
 孫文に対する革命への資金援助額については、現在の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。
 日比谷松本楼創業者・小坂梅吉と姻戚関係にある。また、日活の前身の一つであるM・パテー商会の起業家の1人でもある。
 孫文との交友を記した日記や書簡は、日中関係への配慮から1972年の日中国交正常化まで遺族は公開しなかった。
 孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている。


 梅屋庄吉の略歴にでてくる「頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者ら」は、そのままそっくり「孫文の日本の友人たち」の中核をなすメンバーであった。

 これに亡命先のロンドンで知り合った南方熊楠(みなかた・くまぐす)を加えれば、ほぼその中核はカバーしたことになる。



 現代人の感覚からいえば、アジア主義者は右翼というレッテル張りがなされそうだが、明治時代においては、自由民権運動の末裔の、いわゆる国権派とよばれた人たちが、同時にアジア主義者であったことに注意しなければならない。

 欧州とは異なる東洋(=東アジア)においては、とくに中国においては漢民族復興というスローガンが、そのまま孫文たちの革命のスローガンとなりえたのである。

 この間の消息については、志敗れた宮崎滔天(みやざき・とうてん)の『三十三年の夢』(島田虔次/近藤 秀樹=校注、岩波文庫、1993 原本出版は 1902)で知ることができる。

 「孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている」という記述が wikipedia にあるが、その銅像のひとつは広州の中山紀年堂にある。

 孫文は日本亡命中に孫中山(そん・ちゅうざん)と号することにしたので、中山紀年堂というネーミングとなったのである。たまたま目にした表札に中山(なかやま)とあったので拝借したということらしい。

(広州にて筆者撮影)

 これは、2008年秋の「広州交易会」のついでにいってみた、広州の中山紀年堂で撮影したもの。

 ことしは中国共産党結成から奇しくも90年、中華人民共和国においても孫文は中国革命の父として現在にいたるまで尊敬の対象であることは知っておきたいものだ。

 梅屋庄吉は、wiki の略歴にもあるように、来年2012年には創業百年を迎える現在の日活(にっかつ)の創業者の一人として成功した起業家である。日活は、旧社名を日本活動写真株式会社といった。梅屋庄吉は、映画事業の成功によって得た莫大な資産から、孫文の革命運動に巨額の資金援助を行った。

 なんと現在価値にして約1兆円にのぼる資金を孫文に援助したのである。現代ならさしづめ「赤い資本家」といったところだろうか。だが、東洋における革命は Revolution の訳語ではなく、漢語の「革命」であったことに注意しておきたい。

 梅屋庄吉は、孫文という男そのものに惚れ込んだのである。出会ってすぐに意気投合し、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と孫文にむかって宣言したという。うるわしき友情ではないか。これが遺言の一節、「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ孫文トノ盟約ニテ成セルナリ」が意味するところである。

 孫文をひそかに援助していた「陰徳」の持ち主であった、成功した実業家・梅屋庄吉。「陰徳」とはひらたくいえば「あしながおじさん」のことである。

 梅屋庄吉については、一昨年(2009年)に曾孫にあたる小坂文乃氏が、「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」という故人の遺志に反して(!)、『革命をプロデュースした日本人』(小坂文之、講談社、2009)を出版した結果、ようやくひろく世に知れ渡ることとなった。

 わたしはこの本じたいは読んでいないが、小坂氏の講演会に参加する機会があって、小坂氏の経営する日比谷松本楼に保存されている貴重な写真の数々はスライドで拝見している。

 なお、小坂氏の出版以前にも、読売新聞関西版に連載された記事をまとめた『盟約ニテ成セル ー 梅屋庄吉と孫文』(読売新聞西部本社、海鳥社、2002)があり、わたしはこの本によって梅屋庄吉と、孫文との盟友関係については、はじめて知った。

 今回の特別展を見る機会のない方は、ぜひ写真が満載されたこの本で、梅屋庄吉をはじめとする「陰徳」をつんだ明治の日本人を回想していただきたいと思う。


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<関連サイト>

日活の沿革

台北駐日経済文化代表処

日比谷松本楼の公式サイト
・・ここに「梅屋庄吉と孫文」というページがある


<ブログ内関連記事>

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?
・・戦前の創業経営者は「陰徳」の持ち主だった人が多い。サントリーの創業者・鳥井信治郎もまたそうであった。「陰徳」とはひらたくいえば「あしながおじさん」のことである。

「主権在民」!-日本国憲法発布から64年目にあたる本日(2011年5月3日)に思うこと
・・自由民権運動は、のちに民権派と国権派にわかれたが、源流は西郷隆盛にさかのぼるという重要な事実について言及



P.S. 東京国立博物館で開催されている「誰モ見テイナイ写真-100年前の中国と日本 特別展 孫文と梅屋庄吉」に立ち寄ってみた


 東京国立博物館で開催されている「誰モ見テイナイ写真-100年前の中国と日本 特別展 孫文と梅屋庄吉」に立ち寄ってみたが、正直いってたいへんガッカリした。

 時間のやりくりして、しかも 800円も払って入場したのに、展示会としての内容はさっぱり。どこがいったい「誰モ見テイナイ写真」なのか??

 特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」より、展示されている写真は多いのだが、ぜんぜんアピールするものがなかった。孫文と梅屋庄吉の関係を掘り下げた内容ではなく、ただ単にセピア色の写真をあつめただけに過ぎないからだ。

 せっかくなので、図録も精査してみたが、購入する価値はないと判断。この図録を買うなら、上掲の『盟約ニテ成セル-梅屋庄吉と孫文-』(読売新聞西部本社編、海鳥社、2002)のほうがはるかに資料性も高い。

 展示会では紫禁城を撮影した写真は興味深いものを感じたが、写真資料だけなら図録ではなくウェブサイトですべてまとめて公開すべきだろう。そのほうが閲覧性があってよい。  (2011年8月23日 記す)


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