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2011年11月19日土曜日

ジャッキ-・チェン製作・監督の映画 『1911』 を見てきた-中国近現代史における 「辛亥革命」 のもつ意味を考えてみよう


 映画『1911』をやっと見てきた。

 ジャッキー・チェンの記念すべき映画100作目は、「辛亥革命」100年を記念する映画である。骨太の歴史ドラマであり、スペクタル大作である。

 この件については、すでにこのブログでは「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! に書いたので参照していただきたい。

 中国近現代史においてもっとも重要な歴史的事件である「辛亥革命」について知るためには、見る価値はあると言っておこう。

 中国近現代史とはまた日本近現代史でもある。この意味については、おいおい書いていくこととする。


■この映画で描かれる「辛亥革命」とは

 腐敗する王朝を倒し、漢民族によるあるべき世の中をビジョンとして描き、そのための手段として革命を行うというミッションを掲げたのが孫文であった。

 しかし、なんども試みても武装蜂起はことごとく失敗に終わり、革命烈士である若い命が次から次へと失われていくことになる。

 そして、中国近現代史を一変することになる「辛亥革命」 が始まったのが、ちょうど100年前の1911年10月11日のことだった。

 その後、約2ヶ月を経て、清朝最後の皇帝、いわゆる「ラストエンペラー」であった皇帝溥儀(ふぎ)は退位を余儀なくされる。といっても溥儀は幼児であったので、意志決定したのはその母である皇太后であったのだが。それとともに、清朝は倒れることになったが、それは皇帝退位と引き替えに命を選んだからである。

 そして、翌年1912年1月1日に孫文は中華民国の臨時大総統に就任する。これが「辛亥革命」であり、映画『1911』もここでほぼ終わりとなる。


 
■「アヘン戦争」以後の中国近現代史における「辛亥革命」の意味

 ジャキー・チェンは香港人なのに中国共産党寄りだという批判というか批評をされていたが、おそらくこの映画を完成させるのにはそれも必要だと判断したのだろう。実際問題、中国政府からの協力がなければこれだけの作品を製作するこことは不可能だ。きわめて戦略的な映画製作なのである。

 「国父・孫文」は、国民党だろうが共産党だろうがその立ち位置にかかわらず、中国人・華人であれば共通に抱いている尊敬の対象である。このことは、日本人はもっとよく知っておくべきことだろう。

 わたしが見たのは当然のことながら字幕版(・・音声は普通話と英語)だが、映画の冒頭に日本語による1分程度の背景解説が入っていた。オリジナル版にはないと思うが、この程度のことは最低限知っておきたいものだという内容である。

 日本版の宣伝には、『レッドクリフ』(赤壁)のスタッフが総動員とうたわれているが、『三国志』をテーマにした『レッドクリフ』と違って、「辛亥革命」をテーマにした『1911』は、日本人には難しいテーマかもしれないと、映画をみながら思ったのは正直なところだ。

 おそらく多くの日本人の認識では、「辛亥革命」は『三国志』ほど知られていない可能性がある。

 江戸時代以来、『三国志』は日本人の一般教養のなかに通俗的なかたちで存在してきただけでなく、基本的に合従連衡(がっしょうれんこう)の国盗り合戦であるから、RPGゲームとも親和性が高いし、これまでも小説に、マンガにと何度も何度も取り上げられてきた作品だ。

 これに対して、わずか100年前とはいえ、1911年の「辛亥革命」の意味は、1840年の「アヘン戦争」から、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立という「中国革命」の歴史の流れをある程度まで知っていないと理解しにくいのではないだろうか。

 全般的に、中国人や西洋人にくらべると歴史意識が低い日本人は、現代人として生きるうえでもっとも肝心な近現代史が、常識のなかから欠落しているという問題があるのではないかと思うのだ。日本史でも世界史でも高校の授業で触れられないまま終わってしまうことも、大きな原因のひとつだ。

 今回の映画は、『宋家の三姉妹』とは違って、日本や日本人はただ一人の例外を除いて出てこないので、日本近現代史との関係も見えにくいという難点がある。これはこの映画を日本で公開する際の致命的な欠陥であろう。「命」や「感動」といった、やや陳腐なコトバをちりばめなければならなかった日本版の宣伝コピーには苦労のあとが見える。

 ただひとつの例外とは宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922)のことであるが、映画にでてくるのは名前だけでシーンとしてではない。



 孫文の盟友として、「中国革命」に全身全霊をもって身を投じたこの日本人は、若き日の毛澤東も中文版の著書を読んで感激し、直接ファンレターを日本に送ったという存在であるので、中国共産党も公認の日本人なのだろう。宮崎滔天についてはべつに記事を書くこととする。

 今年は、孫文に資金援助した陰徳の日本人実業家・梅屋庄吉(うめや・しょうきち)の存在がクローズアップされたが、中華民国(=台湾)政府は日本でも梅屋庄吉を顕彰する写真展を東京で開催したが、中国共産党の革命正史のなかではいまだ認められていないのは残念なことだ。

 「全面協力(?):朝日新聞社」という文字が画面にでてきたが、これは一部の日本人にとっては逆効果になりそうな気もしなくはない。


■「辛亥革命」の1911年は明治44年であった-その年まで清朝が存在したのだ!

 せめてこの映画をみる人は、1911年が明治44年であった(!)ことをアタマのなかにたたき込んでおいてほしい。

 映画では、米国人や欧州人がでてくるシーンがいくつもあり、清朝の高官たちの弁髪と礼服姿が、革命によって倒されるべき旧体制というイメージを際立たせるためにコントラストをもって描かれているが、すでにその時点の日本は明治44年、つまり「明治維新」から44年(!)もたっていたことに思いをはせるべきなのである。

 孫文は、「辛亥革命」から13年後の 1924年(大正13年)に神戸でおこなった最後の講演「大アジア主義」のなかで、「明治維新」と「日露戦争」が植民地支配で苦しむアジア人を覚醒させたことを取り上げて語っているいるが、「辛亥革命」からはじまった「中国革命」もまた、「明治維新」にインスパイアされたものであることはアタマのなかにいれておきたい。

 「大アジア主義」は、『孫文革命文集』(深町英夫編訳、岩波文庫、2011)で読むことができる。


■孫文と黄興の男の友情-もっとも重要なシーンがこの映画には出てこない

 さて映画そのものだが、前半は武装蜂起における激しい銃撃戦とそのあいつぐ失敗によって失われた若い命への慟哭によって見る者の胸を打つが、後半の革命成就による孫文の臨時大総統(・・大統領ではなく大総統!)就任のシーンでクライマックスを迎える。

 この映画は、シークエンスの数があまりにも多すぎて、しかも短い時間でつぎつぎと場面転換するので、正直言って目が疲れた。本来なら連続ドラマか、映画なら3時間超必要なテーマを、2時間20分に押さえているから仕方ないといえば仕方ない。

 この映画の人間ドラマとしては、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文の男の友情をメインに据えているのだが、この二人が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのが残念だ。

 黄興が宮崎滔天の『三十三年の夢』の中文訳を読んで感激し、来日して東京で宮崎滔天と知り合いになったのだが、その黄興に孫文を引き合わせたのが宮崎滔天だったのだ。せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。この点については、宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために に書いておいた。

 また舞台が、サンフランシスコ、ペナン島、デンバー、ロンドン、広東、香港と全球的に及んでいるが、孫文の活動は主に在外華僑に向けての革命の軍資金のファンドレイジング(資金調達)であったのだが、軍資金のうち多くが、日本の実業家であった梅原庄吉から出ていたことにはいっさい触れられていないのは不自然である。

 中国共産党の正史においては、梅原庄吉はいまだ公式に認められた存在ではないのだろう。

 
■この映画でもっとも興味深い登場人物は袁世凱(えん・せいがい)ではないか?

 映画『1911』の主人公は孫文、盟友の黄興が脇役(バイプレイヤー)と考えるのが自然なのだろうが、どうしても国際的知名度からいってもジャッキー・チェン(成龍)が演じる黄興のほうに目がいってしまうのではないだろうか?

 この結果、主人公が孫文と黄興の二人になって希薄化してしまった結果、むしろ袁世凱(えん・せいがい)の存在感が、この映画でもきわめて大きく浮上してくるのを感じてしまう。

 プロレスでいえば、「ヒール」の魅力といったものだろう。いわゆる悪役レスラーのことだ。ずいぶん昔だが、似たような体型のアブドラ・ザ・ブッチャーを思い出した。

 この映画でも、袁世凱はでっぷりと太った、権謀術数を駆使する古狸(ふるだぬき)として登場しているが、この駆け引きの才能と交渉力、政治家としての演技力と遊泳術はなかなかのものだ。

 袁世凱を演じた役者の演技力ももちろんあすかって大きいが、わたしとしてはぜひ、袁世凱を主人公にした映画を見てみたいものだと思った。「皇帝になれなかった男」なんてタイトルでいかがか?

 「革命は銃口から生まれる」(毛澤東)という有名なセリフがあるが、軍を握っている者が、革命の行方を左右するもの。これは古今東西まったく変わらない事実である。

 袁世凱もまた、清朝の軍の近代化の推進役として権力の座に上り詰めた人物であった。

 
■ 「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)

 じつは、この映画のあとの歴史がまた激動の連続であった。

 この映画のヒールである袁世凱は、孫文から大総統の地位を譲り受け、その後、革命を後退させる役割を演じることになる。皇帝になりたいがために、日本からの「対華21ヵ条要求」も含め、列強の要求を受け入れた袁世凱は、国内外からの激しい反発をうけ皇帝になるのは断念、その後急死してしまう。

 臨時大総統の地位を袁世凱に譲ったのち、孫文はその後も革命指導者として、共和制の理念を定着させるために国内外を奔走することになる。その間、日本にも亡命している。

 そして、「辛亥革命」成就から 14年後の 1925年(民国14年、奇しくも日本は大正14年)3月12日、肝臓がんのため北京で死去。享年59歳であった。

 そして、翌年12月12月25日、大正天皇崩御にともない昭和天皇が即位、孫文が危惧したように、日中関係は激動の時代へと突き進むことになる。

 孫文は 「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)というコトバを残して亡くなった。

 中国共産党の正史では、1949年の中華人民共和国成立をもって「中国革命」は完結したといいいたいのだろうが、やはりいまでも「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)と言わねばならないのではないか?中国の現状を見る限り、そう思わざるを得ない。

 「三民主義」は、民族主義、民権主義、民生主義の三つから成るとしたが、いまだ民権主義が貫徹しているとは言い難いのが大陸の現状なのだ。

 その意味でも、「革命就尚未成功」(=革命いまだ成らす)。いまだ孫文は過去の人ではない。







<関連サイト>

宗家の三姉妹(宗家皇朝 The Soong Sisters)
SOONG SISTERS_Trailer


■『1911』の予告編比較

◆日本版予告編(YouTube映像)

◆外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

◆香港版(中文字幕)(YouTube映像)



<ブログ内関連記事>

「辛亥革命」(1911年10月10日)から100年-ジャッキー・チェン製作・監督の映画 『1911』 が待ち遠しい! 

特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」にいってきた-日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし・・「革命」を資金で助けた「陰徳」の人・梅屋庄吉と孫文の友情
 
宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために

書評 『明治維新 1858 - 1881』(坂野潤治/大野健一、講談社現代新書、2010)





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2011年7月8日金曜日

特別展「孫文と日本の友人たち ー 革命を支援した梅屋庄吉たち」にいってきた。 日活の創業者の一人でもあった実業家・梅屋庄吉の「陰徳」を知るべし


 中華民国(台湾)建国百周年記念特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」が、東京・白金台の台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」で開催されている。

【開催期間】2011年6月17日(金)~7月14日(木)
【会場】台北駐日経済文化代表処公邸「芸文サロン」
    東京都港区白金台 5-20-2  TEL:03-3280-9717
     http://www.roc-taiwan.org/JP/
【開館時間】10:00~16:00(入場は15:30まで)
【休館日】無休  
【入場料】無料
【主催】台北駐日経済文化代表処
【共催】台湾孫文紀念館/國民党党史館
【後援】財団法人 交流協会/日華親善協会全国連合会/日本中華聯合総会
【協力】愛知大学東亜同文書院大学記念センター/梅屋庄吉の曾孫 小坂文乃/株式会社ムラヤマ



 今週月曜日(7月5日)、いまだ梅雨明けとはならぬものの、かんかん照りの太陽が照るつけるなか、台北駐日経済文化代表処に立ち寄ってみた。

 訪問するのは今回がはじめて。受付で慣れない筆ペン書きで記帳している際に聞いてみたら、だいたい毎日100人くらいが来場しているようだ。「写真はどんどん撮ってくさい」ということなので、遠慮なく撮影させていただいた。

 孫文(1866~1925)についてはあえて説明するまでもあるまい。ことしで100周年をむかえる中華民国(=台湾)の建国の父でもあり、広い意味の「中国革命」の父でもある。

 歴史用語としては「辛亥革命」が正しいのだろうが、わたしは 1911年の革命こそ「中国革命」とよぶにふさわしいと考えている。したがって、「中国革命」とは「辛亥革命」のことを指していると思って、以下の文章を読んでいただきたい。

 梅屋庄吉(うめや・しょうきち 1868~1934)とは日本の実業家でアジア主義者である。歴史の教科書にでてくる知名人ではないので、wikipedia の記述を引用させていただこう。内容は、2011年7月6日現在のキャッシュである。

略 歴 
 1868年、長崎に生まれる。幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主もあった貿易商・梅屋家に養子入りする。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転したが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港に貿易商として地位を築いた。
 中国革命を企図した孫文に多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与している。革命後も、孫文と宋慶齢との披露宴を主宰するなど、たびたび日本に亡命した孫文への援助を続けた。また、頭山満(とうやま・みつる)、犬養毅(いぬかい・たけし)、山田純三郎、宮崎滔天(みやざき・とうてん)らアジア主義者らと集い、フィリピンの独立運動にも関与している。
 その後、映画事業に取り組んで白瀬中尉の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じている。
 晩年は、千葉県夷隅郡岬町の別荘にて静養した。日中関係の悪化の際に、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘近くの三門駅にて急死した。

その他
 孫文に対する革命への資金援助額については、現在の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。
 日比谷松本楼創業者・小坂梅吉と姻戚関係にある。また、日活の前身の一つであるM・パテー商会の起業家の1人でもある。
 孫文との交友を記した日記や書簡は、日中関係への配慮から1972年の日中国交正常化まで遺族は公開しなかった。
 孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている。


 梅屋庄吉の略歴にでてくる「頭山満、犬養毅、山田純三郎、宮崎滔天らアジア主義者ら」は、そのままそっくり「孫文の日本の友人たち」の中核をなすメンバーであった。

 これに亡命先のロンドンで知り合った南方熊楠(みなかた・くまぐす)を加えれば、ほぼその中核はカバーしたことになる。



 現代人の感覚からいえば、アジア主義者は右翼というレッテル張りがなされそうだが、明治時代においては、自由民権運動の末裔の、いわゆる国権派とよばれた人たちが、同時にアジア主義者であったことに注意しなければならない。

 欧州とは異なる東洋(=東アジア)においては、とくに中国においては漢民族復興というスローガンが、そのまま孫文たちの革命のスローガンとなりえたのである。

 この間の消息については、志敗れた宮崎滔天(みやざき・とうてん)の『三十三年の夢』(島田虔次/近藤 秀樹=校注、岩波文庫、1993 原本出版は 1902)で知ることができる。

 「孫文の死後、4つの銅像を広州、黄甫、南京、マカオに建立した。銅像は文化大革命期に撤去される危機に見舞われたが、周恩来の尽力で守られている」という記述が wikipedia にあるが、その銅像のひとつは広州の中山紀年堂にある。

 孫文は日本亡命中に孫中山(そん・ちゅうざん)と号することにしたので、中山紀年堂というネーミングとなったのである。たまたま目にした表札に中山(なかやま)とあったので拝借したということらしい。

(広州にて筆者撮影)

 これは、2008年秋の「広州交易会」のついでにいってみた、広州の中山紀年堂で撮影したもの。

 ことしは中国共産党結成から奇しくも90年、中華人民共和国においても孫文は中国革命の父として現在にいたるまで尊敬の対象であることは知っておきたいものだ。

 梅屋庄吉は、wiki の略歴にもあるように、来年2012年には創業百年を迎える現在の日活(にっかつ)の創業者の一人として成功した起業家である。日活は、旧社名を日本活動写真株式会社といった。梅屋庄吉は、映画事業の成功によって得た莫大な資産から、孫文の革命運動に巨額の資金援助を行った。

 なんと現在価値にして約1兆円にのぼる資金を孫文に援助したのである。現代ならさしづめ「赤い資本家」といったところだろうか。だが、東洋における革命は Revolution の訳語ではなく、漢語の「革命」であったことに注意しておきたい。

 梅屋庄吉は、孫文という男そのものに惚れ込んだのである。出会ってすぐに意気投合し、「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と孫文にむかって宣言したという。うるわしき友情ではないか。これが遺言の一節、「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ孫文トノ盟約ニテ成セルナリ」が意味するところである。

 孫文をひそかに援助していた「陰徳」の持ち主であった、成功した実業家・梅屋庄吉。「陰徳」とはひらたくいえば「あしながおじさん」のことである。

 梅屋庄吉については、一昨年(2009年)に曾孫にあたる小坂文乃氏が、「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」という故人の遺志に反して(!)、『革命をプロデュースした日本人』(小坂文之、講談社、2009)を出版した結果、ようやくひろく世に知れ渡ることとなった。

 わたしはこの本じたいは読んでいないが、小坂氏の講演会に参加する機会があって、小坂氏の経営する日比谷松本楼に保存されている貴重な写真の数々はスライドで拝見している。

 なお、小坂氏の出版以前にも、読売新聞関西版に連載された記事をまとめた『盟約ニテ成セル ー 梅屋庄吉と孫文』(読売新聞西部本社、海鳥社、2002)があり、わたしはこの本によって梅屋庄吉と、孫文との盟友関係については、はじめて知った。

 今回の特別展を見る機会のない方は、ぜひ写真が満載されたこの本で、梅屋庄吉をはじめとする「陰徳」をつんだ明治の日本人を回想していただきたいと思う。


(画像をクリック!)



<関連サイト>

日活の沿革

台北駐日経済文化代表処

日比谷松本楼の公式サイト
・・ここに「梅屋庄吉と孫文」というページがある


<ブログ内関連記事>

「やってみなはれ」 と 「みとくんなはれ」 -いまの日本人に必要なのはこの精神なのとちゃうか?
・・戦前の創業経営者は「陰徳」の持ち主だった人が多い。サントリーの創業者・鳥井信治郎もまたそうであった。「陰徳」とはひらたくいえば「あしながおじさん」のことである。

「主権在民」!-日本国憲法発布から64年目にあたる本日(2011年5月3日)に思うこと
・・自由民権運動は、のちに民権派と国権派にわかれたが、源流は西郷隆盛にさかのぼるという重要な事実について言及



P.S. 東京国立博物館で開催されている「誰モ見テイナイ写真-100年前の中国と日本 特別展 孫文と梅屋庄吉」に立ち寄ってみた


 東京国立博物館で開催されている「誰モ見テイナイ写真-100年前の中国と日本 特別展 孫文と梅屋庄吉」に立ち寄ってみたが、正直いってたいへんガッカリした。

 時間のやりくりして、しかも 800円も払って入場したのに、展示会としての内容はさっぱり。どこがいったい「誰モ見テイナイ写真」なのか??

 特別展「孫文と日本の友人たち-革命を支援した梅屋庄吉たち-」より、展示されている写真は多いのだが、ぜんぜんアピールするものがなかった。孫文と梅屋庄吉の関係を掘り下げた内容ではなく、ただ単にセピア色の写真をあつめただけに過ぎないからだ。

 せっかくなので、図録も精査してみたが、購入する価値はないと判断。この図録を買うなら、上掲の『盟約ニテ成セル-梅屋庄吉と孫文-』(読売新聞西部本社編、海鳥社、2002)のほうがはるかに資料性も高い。

 展示会では紫禁城を撮影した写真は興味深いものを感じたが、写真資料だけなら図録ではなくウェブサイトですべてまとめて公開すべきだろう。そのほうが閲覧性があってよい。  (2011年8月23日 記す)


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