本日(3月10日)は、「チベット蜂起」から52年目にあたる。チベット人はこの日を「チベット民族蜂起記念日」(Tibetan Uprising Day)として各国で記念行事を行っているようだ。
52年前の 1959年3月10日、中国共産党の人民解放軍が進駐するチベットで発生した事件である。ダライラマが誘拐されるのではないかという懸念を抱いたチベット人たちがラサの宮殿を取り囲んだのであった。
この日をもって反中国・反共産主義の「チベット蜂起」が始まったとされている。この蜂起からはじまった動乱で、総計 8万6千人が死亡したとチベット亡命政府は主張しているが、中国とは頑なに認めていない。
1949年に中国全土を制圧した中国共産党政権は、その余勢を駆って翌年の1950年にはチベットを制圧、以後、人民解放軍が進駐していたのであった。現在でも、実質的に(デファクトで)、チベットは中国による実効支配が続いている。中国の主張は、清朝においてもこの地域が版図に入っていたことが根拠としているようだ。
「チベット蜂起」のあと、身辺の危険のため、ダライラマ一行は 1952年3月30日にラサのノルブリンカ宮殿からひそかに脱出し、ヒマーラヤを馬で越えてインドに亡命した。以後、現在に至るまで「チベット亡命政府」の長として、ダラムラサで亡命生活を送っている。人生の大半を亡命者として過ごしていることになる。
■ダライラマ14世は政治からの引退を表明-率先垂範のリーダーシップについて
「チベット蜂起」 から 52年目にあたる本日、ダライラマ14世は、政治から引退する旨の意思表示を行った。ダライラマの発言については、詳しくは、チベット民族蜂起52周年記念日におけるダライ・ラマ法王の声明(ダライラマ法王日本代表事務所)を参照されたい。以下に該当部分を引用しておこう。
私は1960年代から「チベット人には、チベット人民によって選挙で選ばれ、私が権限を移譲することのできるリーダーが必要である」と繰り返し主張してまいりました。今、これを実行に移す時が来たことは明らかです。まもなく2011年3月14日から始まる第14回亡命チベット議会第11期において、私は、亡命チベット人憲章の改正を正式に発議し、選挙で選ばれたリーダーに私の公的権限を移譲するという私の決意を亡命チベット人憲章に反映させていくつもりです。
この意向を明確にして以来、政治的指導者としての立場を続けてほしいというチベット内外からの真摯な要請を何度も受けてまいりました。権限を移譲したいということと、責任を小さくしたいということとはまったく異なります。長い目で見れば、私が権限を移譲することがチベット人にとっての利益となるのです。やる気をなくしたから権限を移譲するのではありません。チベット人は私を信奉し、信頼してくれています。ゆえに私は、チベット人のひとりとして、チベット問題のために私の役割を果たせるよう取り組んでいるのです。私は、この意向が徐々に理解され、決意が支持され、その実現に向けて努力がなされることと信じています。
チベット仏教の最高指導者であるダライラマはすでに75歳であり、スピリチュアル・リーダーとしての死生観については達観したものがあろうが、やはりチベットの行く末については、心配事も多かろうと忖度(そんたく)している。
チベットには、ダライラマに次ぐナンバー2にあるパンチェンラマという存在がある。ダライラマと同じく、「活仏」であるパンチェンラマの継承も、転生による生まれ変わりの児童を探し出してきて認証するという形が取られている。
パンチェンラマ10世が遷化(せんげ)したのち、チベットでは独自に転生した児童を選び出しパンチェンラマ11世としたが、中国政府はこれを拒否したうえで、まったく別の子どもを指名しただけでなく、チベット側が選び出した子どもが行方不明になったままとなっている。
こういうことを考えると、次のダライラマ15世についても同様の事態が発生するであろうことは、十分に予想されることだ。
このため、機先を制して、政治的実権は別の人間に譲り渡すことによって、「聖俗分離」の形態を事前に確立しようという深謀遠慮(?)があるのではないだろうか、と私は推測している。
もちろん、とくに旧世代のチベット人たちが受け入れるには、そうとうな抵抗があると思われる。なにせ1960年代から50年以上も言っていても、受け入れられてないということに端的に表れている。人間というものは、なかなか変化を受け入れられない存在だからだ。とくに思想や、心情というものは、40歳台以降は変えるのはきわめて難しい。
インドの山中ダラムサラにあるチベット亡命政を拠点にしながらも、ダライラマ14世は頻繁(ひんぱん)に海外を飛び回り、チベット仏教の布教だけでなく、西洋を代表するような知性との対話を続けている。ダライラマの思考は、そうでなくてもチベット仏教の最高位の学者であり、チベットの一般民衆よりも、はるかに先をゆくものであるといえよう。
アジアでは、チベット仏教を国教とするブータン王国があるが、前国王の雷龍王4世ジグミ・シンゲ・ワンチュクは、西洋史でいえば、いわば「啓蒙専制君主」として、上からの「民主化改革」を断行して、国王の権限を大幅に縮小する改革を反対を押し切って実行している。率先垂範のリーダーシップである。
ブータンでも同様に、ブータン前国王の突然の退位と皇太子への譲位は、国民からは即座に受け入れられなかったようだ。だが、現在では下からの草の根のリーダーシップとあいまって、ブータン国民が自分で考えて自分で行動するマインドセットが定着しつつあると聞いている。
ダライラマによる政治からの引退表明に、私はブータン前国王の率先垂範のリーダーシップと同じものを感じた。アジアでは、きわめて希有な事例と言わねばならないからだ。
■「宗教的権威」と「世俗の政治的権力」の「聖俗分離」は近代化に不可欠
ダライラマという「活仏」(生き仏)が宗教的な権威が求心力をもつのは、チベット社会がチベット仏教と密接不可分な関係にあるためだ。
だが、ダライラマ自身はすでにチベット民族のスピリチュアル・リーダーとしてだけでなく、チベット仏教のワクを越えて世界のスピリチュアル・リーダーとして認知されている。
チベット人が亡命を余儀なくされ、チベット以外の地で生きて行かねばならない現実のなか、転生によって選出されるダライラマという制度の枠組みのなかではない、世俗的なリーダーが必要であることは、ものを考える人間であれば、うすうすは感じているはずだろう。
いちはやく西欧欧州が近代化したのは、「聖俗分離」を徹底して世俗化したからであるというのは、ある意味では常識的な理解ではある。中世ヨーロッパは、カトリック教会のの支配のもと、世俗の王の権威はローマ教皇の権威のもとと拮抗しながらも、逆らうことはできなかった。これと対極的な存在がビザンツの末裔であるロシアである。
非西欧世界において、西欧世界のチカラや影響とはまったく関係なく、世俗化と近代化を自力でなしとげたのは、おそらく日本だけだろう。宗教的権威である天皇が、世俗の政治権力を奪取しようとしたが短期間で失敗に終わったのが、後醍醐天皇による「建武の新政」であった。
南朝が滅亡後は、宗教的権威は、世俗的権力にお墨付きを与えるだけの存在となった。しかも、織田信長が比叡山を焼き討ちし、石山本願寺を屈服させてから、宗教的権力は完全に世俗的権力に対抗するチカラを失うことになって現在に至る。
本来は宗教的権威である天皇と、世俗的な政治権力である幕府と将軍、日本は織田信長によって徹底した世俗化政策が断行されて以降、宗教的権威が世俗的権威を兼ねることは基本的にない。
明治時代以降、近代化を推進するなかで、国民教化の観点から西洋社会におけるキリスト教にかわる精神的権威として天皇の神格化が行われたのだが、これはあくまでも世俗の政治権力が設計して構築した「近代の産物」であり、「創られた伝統」である。
「神格化された天皇」像は、大東亜戦争の敗北によって完全に潰えるに至る。その後の、日本人の精神的空洞はこれに起因すると主張する論者は少なくはない。
だが、たとえそうであっても、日本人は生き続けているではないか?! 「高度成長」という大きな物語が終わったあとは、迷走を続けているというものの、この500年の日本史においては「聖俗分離」の歴史のほうが長いから、ある意味では元に戻っただけといえるかもしれない。
チベット人も、ダライラマ14世の遷化(せんげ)という「Xデイ」に備えて、心の準備をしなくてはならない。精神的な空洞が発生するであろうが、人間はそれに耐えて生きていかねばならないのである。もちろん、日本人よりもたいへんかもしれないが。
おそらく、ダライラマ自身は、さまざまなレベルの人たちとの活発なディスカッションと徹底的な思考によって、最終的に政治からの引退を決意し一方的に表明するに至ったのではないだろうかと、私は想像している。
ダライラマの政治引退表明は、いろんな意味でさまざまなインプリケーションをもっている話であるが、買い出すと際限がないので、今回はとりあえずここで終わりにしておきたい。
<関連サイト>
チベット民族蜂起52周年記念日におけるダライ・ラマ法王の声明(ダライラマ法王日本代表事務所)
ダライラマのコトバ・・Twitter においてスタッフが毎日、英語で配信
<関連映画>
『クンドゥン』(Kundun 1997)
・・中国人民"解放"軍によって武力侵攻されたチベットから、ヒマラヤを越えて命からがら脱出し、インドに亡命するまでの若き日のダライラマを描いた、米国の世界的映画監督マーティン・スコセッシによる作品。この映画は、東京の恵比寿でロードショー公開された際にみた。
Trailer(英語版)はこちら
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(Seven Years in Tibet 1997)
・・第二次大戦中、英国領インドで逮捕され脱走してラサに入った、ドイツの世界的登山家ハインリヒ・ハーラーと少年ダライラマとの友情を描いた原作の映画化。主演はブラピ(=ブラッド・ピット)、ロケは南米。この映画は、出張先のシドニーでみた。
Trailer(英語版)はこちら
1989年のノーベル賞受賞後、さらに1997年に公開されたこの2本の映画で、ダライラマは世界的なスーパースターの地位を確固たるものとしたのである。
<ブログ内関連記事>
書評 『目覚めよ仏教!-ダライ・ラマとの対話-』 (上田紀行、NHKブックス、2007. 文庫版 2010)
・・ここでは日本人の文化人類学者との熱い討論の記録
「雷龍の国ブータンに学ぶ」に「学ぶ」こと-第3回 日経GSRシンポジウム「GSR と Social Business 企業が動けば、世界が変わる」に参加して
・・とくにブータンの前国王の率先垂範のリーダーシップについて
チベット・スピリチュアル・フェスティバル 2009
・・「チベット密教僧による「チャム」牛と鹿の舞」と題して、YouTube にビデオ映像を私がアップしているのでご覧あれ
「500年単位」で歴史を考える-『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり)を読む
・・「聖俗分離」が完成する前の戦国時代末期
(2012年7月3日発売の拙著です)
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