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2013年10月16日水曜日

夢野久作の傑作伝記集『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い


夢野久作の快作 『近世怪人伝』(1935年)に登場する奈良原到(ならはら・いたる)と聖書の話がめっぽう面白い。

前半生を悔い改めた元暴力団員たちのキリスト教伝道団(!)が自らの反省を語った刺青クリスチャン 親分はイエス様』(ミッション・バラバ、講談社プラスアルファ文庫、2001)という抱腹絶倒だがえらくまじめな自伝集があるが、それよりもはるかに面白いのが『近世怪人伝』に登場する元福岡藩士の奈良原到(ならはら・いたる)という無名人の語りである。

「青空文庫」に全文がアップされているので、ぜひ読んでいただきたいが、「まえがき」と聖書にまつわる語りだけでも紹介しておこう。

夢野久作は、主人公による語りが特徴の独特な文体をもった作家であった。読みやすくするため改行を増やしておいた。かなり長い引用になるが、夢野久作については後述する。まずは引用文を読んでいただきたい。

まえがき

筆者の記憶に残っている変った人物を挙げよ……という当代一流の尖端雑誌新青年子の註文である。もちろん新青年の事だから、郵便切手に残るような英傑の立志談でもあるまいし、神経衰弱式な忠臣孝子の列伝でもあるまいと思って、なるべく若い人達のお手本になりそうにない、処世方針の参考になんか絶対になりっこない奇人快人の露店を披(ひら)く事にした。

とはいえ、何しろ相手が了簡(りょうけん)のわからない奇人快人揃いの事だからウッカリした事を発表したら何をされるかわからない。新青年子もコッチがなぐられるような事は書かないでくれという但書(ただしがき)を附けたものであるが、これは但書を附ける方が無理だ。奇行が相手の天性なら、それを書きたいのがこっちの生れ付きだから是非もない。サイドカーと広告球(アドバルン)を衝突させたがる人間の多い世の中である。お互いに運の尽きと諦めるさ。

・・(中略)・・

奈良原到

前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、両氏の親友で両氏以上の快人であった故奈良原到(ならはら・いたる)翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖(いえど)も、同翁の生涯を誹謗(ひぼう)し、侮蔑(ぶべつ)する人々が尠(すくな)くないのは、更に更に情ない事実である。

奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容(い)れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死(きゅうし)した志士である。つまり戦国時代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態(あしざま)に書かれる。劣敗者の死屍(しかばね)は土足にかけられ、唾(つばき)せられても致方(いたしかた)がないように考えられているようであるが、しかし斯様(かよう)な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。

・・(中略)・・

国府津(こうづ)に着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石(さすが)に翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々(らんらんけいけい)と輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えない中(うち)にソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何が倖(しあわせ)になるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭(ろうそく)の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。

翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。

「北海道の山の中では冬になると仕様がないけに毎日毎日聖書を読んだものじゃが、良(え)え本じゃのう聖書は …… アンタは読んだ事があるかの ……」

「あります …… 馬太(マタイ)伝と約翰(ヨハネ)伝の初めの方ぐらいのものです」

「わしは全部、数十回読んだのう。今の若い者は皆、聖書を読むがええ。あれ位、面白い本はない」

「第一高等学校では百人居る中で恋愛小説を読む者が五十人、聖書を読む者が五人、仏教の本を読む者が二人、論語を読む者が一人居ればいい方だそうです」

「恋愛小説を読む奴は直ぐに実行するじゃろう。ところが聖書を読む奴で断食をする奴は一匹も居るまい」

「アハハ。それあそうです。ナカナカ貴方(あなた)は通人ですなあ」

「ワシは通人じゃない。頭山や杉山はワシよりも遥かに通人じゃ。恋愛小説なぞいうものは見向きもせぬのに読んだ奴等が足下にも及ばぬ大通人じゃよ」

「アハハ。これあ驚いた」

「キリストは豪(えら)い奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪(えら)い。人触(ふ)るれば人を斬り、馬触(ふ)るれば馬を斬るじゃ、日本に生れても高山彦九郎ぐらいのネウチはある男じゃ」

「イエス様と彦九郎を一所(いっしょ)にしちゃ耶蘇(やそ)教信者が憤(おこ)りやしませんか」

「ナアニ。ソレ位のところじゃよ。彦九郎ぐらいの気概を持った奴が、猶太(ユダヤ)のような下等な国に生れれば基督(キリスト)以上に高潔な修業が出来るかも知れん。日本は国体が立派じゃけに、よほど豪い奴でないと光らん」

「そんなもんですかねえ」

「そうとも …… 日本の基督教は皆(みな)間違うとる。どんな宗教でも日本の国体に捲込まれると去勢されるらしい。愛とか何とか云うて睾丸(きんたま)の無いような奴が大勢寄集まって、涙をボロボロこぼしおるが、本家の耶蘇はチャンと睾丸(きんたま)を持っておった。猶太(ユダヤ)でも羅馬(ロウマ)でも屁とも思わぬ爆弾演説を平気で遣(や)りつづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう。日本の耶蘇教信者は殴られても泣笑いをしてペコペコしている。まるで宿引きか男めかけのような奴ばっかりじゃ。耶蘇教は日本まで渡って来るうちに印度洋かどこかで睾丸(きんたま)を落いて来たらしいな」

「アハハハハ。基督の十字架像に大きな睾丸(きんたま)を書添えておく必要がありますな」

「その通りじゃ。元来、西洋人が日本へ耶蘇教を持込んだのは日本人を去勢する目的じゃった。それじゃけに本家本元の耶蘇からして去勢して来たものじゃ。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸(きんたま)、保存令じゃという事を忘れちゃイカン」

筆者はイヨイヨ驚いた。下等列車の中(うち)で殺人英傑、奈良原到翁から基督教と睾丸(きんたま)の講釈を聞くという事は、一生の思い出と気が付いたのでスッカリ眼が冴えてしまった。

奈良原到翁の逸話はまだイクラでもある。筆者自身が酔うた翁に抜刀で追っかけられた話。その刀をアトで翁から拝領した話など数限りもないが、右の通(とおり)、翁の性格を最適切にあらわしているものだけを挙げてアトは略する。

因(ちなみ)に奈良原翁は嘗(かつ)て明治流血史というものを書いて出版した事があるという。これはこの頃聞いた初耳の話であるが、一度見たいものである。


どうだ、まいったか!?(笑) 

野卑で下品でグロテスクなまでの表現に満ち満ちていますが、それは奈良原翁本人の語りであるので悪しからずご了承いただきたく。

ちなみに上記の文章に登場する高山彦九郎(1747~1793)とは、江戸時代中期の熱烈な尊王思想家。戦前の修身の教科書に登場していた人物だそうですが、現在ではまったく知名度がありません。京都の三条大橋のそばに、ひざまずいて皇居(・・当時は京都)を望拝する銅像があります。

しかしまあ、イエス・キリストを「奇人」として知られていた高山彦九郎になぞらえるとは・・・

(京都の三条大橋そばの高山彦九郎像 筆者撮影)


奈良原翁の述懐は、幕末維新の白刃のもとを駆け抜けた武士のキリスト教と聖書との出会いの一例でありますね。

旧士族、とくに負け組となった旧士族のなかにはキリスト教徒になった者が多々ありますが、いずれもまじめくさったものが多いなか、新撰組出身の結城無二三(ゆうき・むにぞう)や、この奈良原到のようなテロリストのなれの果てのような例もあったことは記憶の片隅にでもおいておきたいものではありませんか?(・・ただし、奈良原到がキリスト教徒になったかどうかは、わたしにはわかりません)。

イエス・キリストを、「キリストは豪(えら)い奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪い」。また、「猶太でも羅馬(ロウマ)でも屁とも思わぬ爆弾演説を平気で遣やりつづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう」と、心の奥底から共感しているのは、みずからも前半生を重ね合わせているのでしょうか。

なぜ武士が明治になってからキリスト教に出会って惚れこんだのか、その一つの解答にはなっているのではありますまいか?


「クリスチャン」という表現にまとりつくステレオタイプなイメージを壊すべき

この文章をあえて長々と引用したのは、わたしは「クリスチャン」という日本語が嫌いだからです。

英語の christian をそのままカタカナにしたのがクリスチャンですが、英語の christian とは違い、日本語でクリスチャンというと、どうしてもまじめだが融通の利かない人というイメージが固定化しているように思えてなりません。

わたし自身はキリスト教徒ではありませんが、わたしの知っているキリスト教徒の日本人は、かならずしもステレオタイプな「クリスチャン」ばかりではありません。いや、むしろそうでない人のほうが多いでしょう。

だからわたしは、「クリスチャン」ではなく「キリスト教徒」とという表現をいつもつかっているのです。仏教徒といえば千差万別であることはこの日本では自明なのに、クリスチャンというとイメージが固定していしまうのは避けるべきではないか、と。

カトリックには作家の遠藤周作のようにシリアスな純文学を書く一方で、ユーモア小説を量産していた人もいますが、それは個人的特性だと言って片づけられてしまう恐れがあるのではないでしょうか。

どう捉えるもその人の自由。わたしも奈良原翁と同様、イエス・キリストはかなり暴力的な人であったという印象をもっております。


夢野久作について

この文章が江戸川乱歩も連載をもっていた探偵小説の雑誌『新青年』に発表されたのは1935年(昭和10年)、その時代もまた幕末と同様にテロが横行した時代でありました。

翌年の1936年2月26日には日本を震撼させた二二六事件が勃発していますが、その直後の3月11日に夢野久作は急逝しています。享年48歳でした。

(夢野久作 wikipedia より)

「この本を書くために生きてきた」という述懐の 『ドグラマグラ』(1936年)という巨編を残して世を去った夢野久作は、右翼の巨頭であった杉山茂丸(すぎやま・しげまる)の長男でありました。

杉山茂丸や、その盟友で右翼結社・玄洋社の社長であった頭山満については、このブログでも 『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし! で取り上げてあります。いずれも明治維新に際して藩主の優柔不断のために苦杯をなめることになった旧福岡藩士です。

 『近世怪人伝』(1935年)は上掲の奈良原到は言うまでもなく、頭山満と杉山茂丸といた両巨頭から無名人に至るまで、最初から最後までとおして読んでいただきたい傑作なのであります。

冒頭に掲載したのは福岡の葦書房が創業25年記念として非売品として配ったものを古書店で購入したもの。わたしが読んできたのは、『夢野久作全集11』(ちくま文庫、1992)です。いずれも入手困難ですが、さいわいにもネット上の「青空文庫」で無料で読むことができます。

わたしは、この本を手にとってしまったが最後、そのたびについつい読みふけってしまうのであります。それほど面白いのです。抱腹絶倒しながら読めば、なぜか不思議な元気がでてくる内容です。

ぜひこの文章の前もふくめた全文をお読みいただきたいと思う次第です。




PS 2015年6月19日に文春学藝ライブラリーより、『近世怪人伝』が久々に復刊されます。青空文庫でも無料で読めますが、書籍の形で読みたい人はぜひ! (2015年6月17日 記す)






<ブログ内関連記事>

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!
・・「夢野久作といえば『ドグラマグラ』という小説で知られているが、その父は杉山茂丸という右翼の巨頭であった。茂丸の交友関係のなかに登場する最重要人物が頭山満であり、その姿は『百魔』(講談社学術文庫、)に活写されているだけでなく、息子の夢野久作(・・本名・杉山泰道)の『近世怪人伝』(昭和10年)に愛情をこめて描かれていることは知る人ぞ知ることだ。わたしの愛読書の一冊でもある。現在は、ちくま文庫に収録されているので、興味のある方はぜひお読みいただきたい」(・・ちくま文庫版は現在は入手困難。本文中に書いたように青空文庫で)

書評 『霊園から見た近代日本』(浦辺登、弦書房、2011)-「近代日本」の裏面史がそこにある

書評 『ナショナリズム-名著でたどる日本思想入門-』(浅羽通明、ちくま文庫、2013 新書版初版 2004)-バランスのとれた「日本ナショナリズム」入門 ・・まずはこの一冊というべきナショナリズム入門

書評 『聖書を読んだサムライたち-もうひとつの幕末維新史-』(守部喜雄、いのちのことば社、2010)-精神のよりどころを求めていた旧武士階級にとってキリスト教は「干天の慈雨」であった

書評 『武士道とキリスト教』(笹森建美、新潮新書、2013)-じつはこの両者には深く共通するものがある

書評 『聖書の日本語-翻訳の歴史-』(鈴木範久、岩波書店、2006)
・・まず日本に入ってきたのは漢訳聖書であった

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに

「旧江戸川乱歩邸」にいってみた(2013年6月12日)-「幻影城」という名の「土蔵=書庫」という小宇宙

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
・・夢野久作の傑作『ドグラ・マグラ』などについて触れてある

書評 『彦九郎山河』(吉村昭、文藝春秋、1995)-「戦前」は賞賛され「戦後」は否定され忘却された高山彦九郎という人物を現代に蘇らせる

(2019年12月17日 情報追加)


 
 (2020年12月18日発売の拙著です)


(2020年5月28日発売の拙著です)


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)


   
(2012年7月3日発売の拙著です)

 





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