(米国の挿絵作家ミロ・ウィンターによるもの Wikipediaより)
田舎のネズミが都会のネズミから招待されて都会に行くことにする。都会にはご馳走が一杯で食べ放題だ、というのを聞いたからだ。
ところが、のんびりした田舎と違って都会はせわしない。人間が食べるご馳走はたっぷりあるのだが、落ち着いて食べるヒマなどありはしない。身の危険もいっぱいだ。実際、命からがら逃げのびた始末だ。
そして、田舎のネズミは悟る。もうこりごりだ、自分には都会は合わないのだ、と。田舎はご馳走は豊富ではなくても安心して暮らせるからね、と都会のネズミに告げて田舎に戻ることにした。おしまい。
(フランスのギュスターヴ・ドレによる挿絵)
この寓話のキモは、「身の丈」とはなにか、というところにある。
昨年2019年には、ときの文部科学大臣の発言で「身の丈」という日本語が一気に拡がったが、大学の英語入試試験にかんする改革の延期についてのものだったが、大臣はもっぱら経済的な意味において「身の丈」と語ったのであった。言い換えれば、経済的状況に応じて、という意味である。
(英国の挿絵作家アーサー・ラッカムによるもの Wikipediaより)
イソップ寓話では、「身の丈」は経済的状況というよりも、好き嫌い、得意不得意などの価値観を踏まえた人間存在全体にかかわる状態を指しているのだろう。趣味嗜好まで含めて、状況が自分にフィットしているかどうか、よく確認するために「身の丈」という概念が重要になる。
無理して背伸びしても続かないよ、背伸びしなければ成長しないけど、無理しすぎは禁物だ。「身の丈」を知ることは、生活、いや人生の知恵である。
(米国の挿絵作家ミロ・ウィンターによるもの Wikipediaより)
文部科学大臣の発言にあった「身の丈」は、経済的弱者への恫喝と受け取られたのだろう。カネのないヤツはないなりに努力せよ、と聞こえたのだろう。だから、激しいバッシングを招くことになったのだ。
発言内容はもっともなのだが、機会均等に反する内容であることは否定できない。こと教育にかんしては機会均等は絶対に必要だ。機会均等は、結果平等とはまったく異なる。機会均等であってこそ、勉強する努力の差が結果に表れる。これは自業自得であり、ある意味では仕方がないことだ。
イソップ寓話にでてくる田舎のネズミは、「身の丈」を考えて背伸びしないことにした。これはこれで、まっとうな結論であり、処世術である。生まれ育った環境によって「身の丈」は規定される。これも仕方ないことだ。
とはいえ、都会に出てくる田舎のネズミがいてもいいのではないか? そんな感想ももってみたりもする。
いや、すでに日本の都会には田舎のクマネズミが進出して電線など囓る被害が続出している。田舎のネズミのほうが強いのだ。
イソップ寓話は、はたして現代社会に適応可能かどうか、よくよく考えてみる必要がありそうだ。
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