韓国文学に熱い視線が向けられているという話は、よく目にするようになった。
『82年生まれ、キム・ジヨン』という本が日本でベストセラーとなり、女性読者のあいだでで大きな話題になっていることも知っている。最近は早くも文庫化された。
また、「Z世代」とよばれる若年層のあいだでは韓国文化への関心が高いようだ。韓国の若年層もまた日本文化への関心が高いようだ。「Z世代」(Gen Z)とは、1990年代後半から2010年生まれの世代をさしている。
若い世代どうしで相互理解が進むのはたいへんよいことだ。好き嫌いは別にして、まずは知ることが大事だからだ。
かれら自身は意識することもないだろうが、中高年層の男性を中心とした「嫌韓」とは一線を画している。というより、過去をよく知らないから偏見なく接することができるのかもしれない。
そんな熱視線を浴びている「韓国文学」について解説された本があるということをネットで知った。『韓国文学の中心にあるもの』(斎藤真理子、イーストプレス、2022)がそれだ。著者は、『82年生まれ、キム・ジヨン』の翻訳者である。
■「逆回し」で「過ぎ去らない過去」を意識させる構成
なぜ韓国文学がいま熱いのか、その理由を知りたくてこの本を読んでみることにした。
桜色というか、薄いピンク色のカバーの表紙のこの本は、女性読者を意識したものなのだろう。書店でも海外文学か女性エッセイのコーナーに置かれていた。
読み始めたら、ぐいぐいと引き込まれていくのを感じた。どんどん先を読みたくなってくるのだ。たんなる解説書を超えた、深い洞察に満ちた本である。この本じたいがひとつの作品として捉えるべきだ。
思ったよりも中身の濃い、重厚な内容であった。韓国文学がもつ倫理性、韓国哲学研究者の小倉紀蔵氏のことばを借りたら「道徳志向性」にそうさせるものがあるのだろうが、著者の文体にもあるのだろう。「ですます調」はいっさいつかわない、ある種の硬質な文体である。
きわめて知的で、深い考察をつづる文体。語彙の選択の適切さ。対象が対象であるだけに、内省的で、慎重にならざるをえないという面もあるだろう。つまりこのテーマを扱うには、知的にならざるをえないのである。
まずは話題になった『82年生まれ、キム・ジヨン』から話が始まる。著者のチョ・ナムジュ自身が1982年生まれ、小説が発表されたのは2016年、日本語訳がでたのが2019年である。韓国での映画化2019年でその翌年には日本公開されている。導入としては最適だろう。
この本が読ませるのは、「現在」から始まって、どんどん「過去」にさかのぼっていく構成となっていることだ。
「現在」は「過去」の集積のうえに存在するからだけではない。韓国の現在には、「過ぎ去らない過去」が見え隠れしているからだ。「過去」が「過去」になっていないのが韓国社会なのである。重層的な構造になっているのである。
現在から過去にさかのぼっていく構成は、本書でも取り上げられている『ペパーミント・キャンディー』(2000年)とおなじだ。
「IMFショック」(1997年)で壊滅的打撃を受けた韓国で猛威を振るった「新自由主義」のなか、起業するが夢破れ、人生に挫折していくある青年の物語である。
「20年間の韓国現代史を背景に、ひとりの男が絶望の淵から人生の最も美しい時期までをさかのぼっていくという手法」と、DVDの解説にある。男性としては、どうしても感情移入してしまう内容なのだ。
現代女性の生きづらさを描いた『82年生まれ、キム・ジヨン』に匹敵するといっていいかもしれない。
わたしはこの映画はDVDで何度も繰り返しみているが、原作は読んでいないので正確なことは言えない。おそらく原作もその構成をとっているのだろうとしておく。
わたしは、それを「逆回し」と称して、現在から過去にさかのぼる形式の歴史書を執筆している。『ビジネスパーソンのための近現代史の読み方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017)がそれだ。リーマンショックから始まり、アメリカ独立と同年に出版されたアダム・スミスの『国富論』までさかのぼった試みだ。
じつはこの構成は、『ペパーミント・キャンディ』をヒントにしていることを、ここに告白しておこう。
■あまりにも過酷な韓国現代史と、そこから生み出されてきた韓国文学
『韓国文学の中心にあるもの』も、「逆回し」の手法で現在から、「セウォル号事件」と「キャンドル革命」、「IMF危機」、「光州事件」、「朴正熙(パク・チョンヒ)時代」、「朝鮮戦争」、「植民地支配からの解放時代」へとさかのぼっていく。
近過去が現在に大きな影響を及ぼしているのは当然だが、すでに70年以上前の過去も過去になっていないのが韓国社会である。
韓国現代史は、近過去もその前の過去も、あまりにも過酷で、さかのぼれば、さかのぼるほど過酷になっていく。
韓国へのコミットの度合いは大きく異なるものの、わたしは1960年生まれの著者とはほぼ同世代なので、ある種の共通経験と共通感覚をもっている。
「朴正熙時代」の末期から韓国を意識しだしたわたしは、「光州事件」もまたリアルタイムで知っている。しかも、それらは他人事としてではない。当事者の体験として韓国人自身から軍隊時代の体験として聞いていた。だが、それ以前の歴史はあくまでも映画その他をつうじて知っているに過ぎない。
イデオロギー戦争であった朝鮮戦争がもたらした不幸、その前史となる日本からの解放時代がすでに分断状況が激化していたことなど、「過ぎ去らない過去」を意識することが日本の読者には必要なのだ。韓国を知ることは、日本について知ることにもつながるのである。
いわゆる「恨」(はん)など手垢のついた概念をつかわずに、現代日本に生きる読者を念頭に考えるという姿勢がいい。あくまでも日本語訳をつうじて接する読者にとっての意味を考えるためだ。
ここで取り上げられた小説は、映画化された映画は別にして、はるか昔の金素雲によって書かれた日本語の著作以外はほとんど読んでいない。だが、作品ごとに適切な解説がなされているので、たとえ読んでいなくても、その作品とその背景にある世界観を手に取るように理解できる気分になってくる。
読んでいてひじょうに印象に残ったのが、チョ・セヒによる『こびとが打ち上げた小さなボール』という小説だ。
「維新時代」すなわち朴正熙時代に戒厳令が敷かれていた時代に書かれた奇跡のような連作は、韓国では現在も読み継がれていて「ステディ・セラー」なのだという。日本語でいうロングセラーよりもアクチュアリティの高い表現である。
この小説も著者である斎藤氏によって日本語訳され、しかもつい最近になって文庫化されたようだ。ぜひ読んでみたいと思う。
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目 次まえがき第1章 キム・ジヨンが私たちにくれたもの第2章 セウォル号以後文学とキャンドル革命第3章 IMF危機という未曾有の体験第4章 光州事件は生きている第5章 維新の時代と『こびとが打ち上げた小さなボール』第6章 「分断文学」の代表『広場』第7章 朝鮮戦争は韓国文学の背骨である第8章 「解放空間」を生きた文学者たち終章 ある日本の小説を読み直しながらあとがき本書関連年表本書で取り上げた文学作品主要参考文献
著者プロフィール斎藤真理子(さいとう・まりこ)翻訳者、ライター。1960年新潟市生まれ。明治大学考古学科卒業。1980年から大学のサークルで韓国語を勉強、91年からソウル延世大学語学堂に留学。92年から96年まで沖縄で暮らす。訳書に『カステラ』(パク・ミンギュ著、ヒョン・ジェフンとの共訳、クレイン)、『こびとが打ち上げた小さなボール』(チョ・セヒ著、河出書房新社)、『ピンポン』(パク・ミンギュ著、白水社)など。『カステラ』で第一回日本翻訳大賞受賞。2020年、『ヒョンナムオッパへ』(チョ・ナムジュ他、白水社)で韓国文学翻訳大賞(韓国文学翻訳院主催)受賞。(斎藤真理子 かみのたね(フィルムアート社 ウェブマガジン)に掲載されているもの)
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・・こちらもまた読ませる文章。日本語の文章力の高さが、名翻訳を生む力になっているのだろう
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