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2011年4月21日木曜日

「プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか」― 白洲次郎の「プリンシプル」について



白洲次郎(1902年~1985年)の人気は依然として高どまりしている。下降する兆しも見えない。これはここ数年の現象だ。

 もともとは、白洲正子(1910年~1998年)の人気から始まったものだ。

 日本美の世界を精力的に紹介し続けた白洲正子。凛とした姿と言動には、とくに女性を中心にしたファンが多い。

 1990年代に入って再燃した白洲正子ブーム、わたしも何冊か白洲正子の書いたものを読んでいて俄然気になってきたのは、配偶者であった白洲次郎とは何者か(?)という、強い好奇心にもとづいた疑問であった。

 『白洲正子自伝』では「一目惚れして結婚した相手」だとあるが、何をしていた人かについては断片的な記述しかないので、正直なところよくわからないままだった。白洲正子の本で、白洲次郎がクチにしていた country gentleman(カントリー・ジェントルマン) や grumble(ブツブツいう) というイギリス英語とその意味を知ったことぐらいか。

 これは私だけの疑問ではなかったようだ。多くの人たちが白洲次郎という「謎の男」に関心をもつようになったことから、白洲次郎の再発見になっていったのだろう。



「風の男 白洲次郎」


 そんななかで出たのが 『風の男 白洲次郎』(青柳恵介、新潮社、1997)。この本を読んで、白洲正子よりもはるかに面白い日本人がいたのだということをはじめて知って、驚きに満ちた喜びを感じたものだ。現在は文庫化されて新潮文庫から版を重ねている。
 
 白洲次郎については、だんだんと全貌が明らかになり、その後ついには白洲正子人気を上回るほどの存在となったことは、あえて書くまでもないだろう。

 なんといっても、占領下の日本で政治家・吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男である。

 日本国憲法の草案作成にかかわった男である。

 米軍の高官に向かって「あなたの英語は下手だ」と言ってのけた男である。 夫婦のあいだの会話を英語でやっていた男である。白洲正子は米国仕込み、白洲次郎は英国仕込み。

 ケンブリッジ大学で西洋中世史を専攻し、のちに実業界で活躍することになりながら、トロツキイも熟読していた男である。

 この戦争に勝ち目はないとして、さっさと引退して東京郊外に土地を購入し、「武相荘」(=無愛想)なる和風の屋敷をつくって引きこもり、農作業に専念した男である。

 イネの品種「農林●●号」の発明者のことを誉めて、何かをインベント(invent:発明)することがえらいのだと断言していた男である。

 「葬式無用 戒名無用」と遺言を遺して、風のように去っていった男である。

 書いていればキリがない。あまりにもカッコ良すぎるのだ。長身で脚が長い、日本人離れしたその容姿と言動の数々。

 しかし、ほとんんど公的な発言を残さないまま、それこそ「風の男」として、さまざまな機密は墓のなかに持っていってしまった。



「プリンシプル」のある日本人・白洲次郎


 『プリンシプルのない日本-プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。-』(白洲 次郎、ワイアンドエフ、2001) は、そんな白洲次郎が自ら執筆した数少ない文章を編集して、一冊にまとめたものだ。ほぼ唯一の自著だといってよい。現在は新潮文庫に収められている。

 プリンシプル(principle)とは何か?

 思いつくままに、該当すると思われる日本語をあげていってみよう。

 原理原則、しっかりと伸びた背骨、バックボーン、ブレない軸、ゆるぎない座標軸、一本通ったスジ(筋)、コア・バリュー(価値観)。いいかえればインテグリティのことでもある。

 インテグリティ(integrity)とは日本語に訳しにくいが、一般に訳されている「誠実」という意味よりも、発言にブレのない、首尾一貫した姿勢をさしていると理解したい。つまり、白洲次郎の生き様そのものだ。

 先にあげた『プリンシプルのない日本』には収録されなかった文章や対談が、その後多数再発見されて収録されたのが、『総特集 白洲次郎-日本で一番カッコイイ男 (KAWADE夢ムック)』(河出書房新社、2002)である。白洲次郎が書いた文章、対談や鼎談などしゃべった内容は、この二冊でほぼカバーされている。

 基本的に評論家ではなく、実業の世界に長くいた人だから、コトバよりも実践という姿勢が強かったのは当然だろう。

 だが、白洲次郎が残したコトバの断片は、あまりにも鮮やかで、魅力的だ。行動をともなっていたコトバだから、評論家の空疎な響きのコトバとはまったく違うのだ。

 反原発論者の広瀬隆は、東北電力会長としての白洲次郎は原発導入にかかわった人物だとして、『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社、2009)で非難糾弾(?)しているが、この件については、わたしにはよくわからない。

 日本国憲法草案の作成に大きく関与し、その後は通産省(通商産業省、現在の経済産業省)にも大きくかかわっていた白洲次郎である、エネルギー政策にも当然関与しているはずだろう。その結果の東北電力会長就任だろう。

 実業家としての白洲次郎については、東北電力会長時代、みずからジープ(?)を運転して、いきなりダム建設現場を訪れたりすることを好んでやっていたというエピソードがいい。当時を知る人が、分け隔てなく接する人だったと回想しているのを読むと、かくあるべしという気持ちになるのは私だけではないだろう。

 敗戦後の日本で、国の行く末に深く関与した経験をもつひとであったから、全体を見据える「上から目線」の持ち主であったのは当然だ。だがその一方で、「下から目線」の意味も熟知し実践もできる人であった。

 私はそのように理解している。そこにまた魅力を感じるのでもある。



リスペクトすべき日本人。日本人は日本人として生きればよい

 白洲次郎は、私が尊敬する日本人の一人である。

 もし 10代の頃にその存在を知っていたなら、間違いなくその生き様をロールモデルとして、真似て真似尽くしたはずだ。

 だが、30歳台も半ばをい過ぎてからその存在を知ったのにかかわらずリスペクトしているのは、外見はせておき、気質的には近いからだろう。

 国際人とかそういった存在というよりも、まず人間であり、そして日本人であったという人間存在のありかたが実にいい。

 職業は何かと問われて、「人間だ」と答えた岡本太郎にも通じるものがある。

 あるいは、明治時代の岡倉天心などの国際人にもつうじるものといってもいい。国際人は、真に愛国者でもある。その一つの典型が、白洲次郎である。

 だが、白洲次郎のような生き方を貫けば、孤独とは縁が深くなる。これは岡倉天心も、永井荷風も、岡本太郎も同じだったことだろう。日本的な世間というものから距離を置いた生き方だからだ。脇目をふらず、我が道を行く生き方。

 「とかくメダカは群れたがる」という辛辣な表現をした作家がいる。当時のいわゆる「文壇」をさして言ったものだが、いわゆる「文士」に代表される文筆を業とする知識階層の日本人も、一皮むけば日本人以外の何者でもないことを、見事なまでに表現しきったものだ。

 その意味では、西洋の個人主義にどっぷりと浸かった体験をもつ白洲次郎はまさにその対極の存在であったといえよう。

 何からかの特定の「場」に属していなければ「安心」できないのが大半の日本人だが、「安心」と「信頼」が根本的に異なるものであるということに気がつかねばならない。

 そして「安心」がすぐに「慢心」に変わりやすいのも、わたしも含めて、日本人の悪しき特性である。根本にあるのは「甘え」であろう。独立自尊の精神とは対極にある「甘え」。

 実業の世界にいたが、白洲次郎は財界とは距離を置いていた。どこか特定の「場」に帰属していないと安心できないというような精神の持ち主ではなかったようだ。「群れたがるメダカ」ではなかったということだ。

 それは、自らのなかに確固とした「プリンシプル」があったからに他ならない。

 しかし思うにつけ、政治の世界はいうに及ばず、ビジネスの世界においても「プリンシプル」(原理原則)どころか、「ディシプリン」(規律)も持ち合わせない人たちが多すぎる。

 「経済二流、政治漂流」の日本が続く限り、白洲次郎の価値は衰えることはないだろう。

 しかし、いまは大東亜戦争の敗戦以来の「国難」のさなかにある。いまこそ、白洲次郎のような「プリンシプル」あるリーダーが求められているのではないか。

 いまは、日本が大転換する絶好のチャンスである。ピンチはチャンスである。

 だが、待望するだけでは未来は切り開けない。若い世代から「白洲次郎」たちが多く出てくることを切に願う。


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<ブログ内関連記事>

「武相荘」(ぶあいそう)にはじめていってきた(2014年9月6日)-東京にいまでも残る茅葺き屋根の古民家
・・白洲次郎の「終の棲家」(ついのすみか)


欧米社会におけるルールとプリンシプルの違い

書評 『増補改訂版 なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか-ルールメーキング論入門-』(青木高夫、ディスカヴァー携書、2013)-ルールは「つくる側」に回るべし!
・・「ルールは外的で他律的、プリンシプルは内的で自律的、となる(P.34)。わたし的にいえば、プリンシプルが個人の内面を律する原理原則であるとすれば、ルールはしょせん決め事に過ぎない」


英国と英国仕込みの白洲次郎

書評 『ジェームズ・ボンド 仕事の流儀』(田窪寿保、講談社+α新書、2011)-英国流の "渋い" 中年ビジネスマンを目指してみる

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?


白洲次郎についての言及があるもの

書評 『歴史に消えた参謀-吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一-』(湯浅 博、産経新聞出版、2011)-吉田茂にとってロンドン人脈の一人であった「影の参謀」=辰巳栄一陸軍中将の生涯
・・辰巳栄一もまた吉田茂の右腕だった

書評 『異端力のススメ-破天荒でセクシーな凄いこいつら-』(島地勝彦、光文社文庫、2012)-「常識に染まらず、己の道を行く」怪物たちの生き様
・・週刊プレイボーイの伝説の編集長による人物評伝

書評 『マネーの公理-スイスの銀行家に学ぶ儲けのルール-』(マックス・ギュンター、マックス・ギュンター、林 康史=監訳、石川由美子訳、日経BP社、2005)
・・スイスの銀行である UBS(当時は SBC)傘下に入っていたSBC ウォーバーグ(Warburg)にからめて、ウォーバーグの顧問を務めていた白洲次郎について触れている。実業家としての白洲次郎というのは、そもそもビジネスについては外に漏れる性格の話ではないので、よくわからないことも多い

書評 『失われた場を探して-ロストジェネレーションの社会学-』(メアリー・ブリントン、池村千秋訳、NTT出版、2008)
・・「特定の「場」に帰属しない関係、すなわち複数の「場」に横断的にかかわる存在も、日本では必然的に「孤独」を友とえざるをえない。たとえば、白洲次郎などの突出した、非日本的日本人がそれにあてはまるだろう。日本の大学を卒業せず、日本の会社には経営者としてしか働いたことはなく、財界とも政治家とも距離を置いていた人生だ。フツーの日本人にとっては、どこかの「場」に帰属していないことは、社会的に存在しないも同然とみなされるのである。この「孤独」に耐えられる者は少数派である」。


白洲次郎と同じ精神の持ち主たちのこと

岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・米国のボストンに長く滞在していた岡倉天心もまた「プリンシプルの人」であった

書評 『日本人は爆発しなければならない-復刻増補 日本列島文化論-』(対話 岡本太郎・泉 靖一、ミュゼ、2000)
・・若き日にフランスに長期留学して西欧に触れた岡本太郎もまた「プリンシプルの人」であった

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む
・・アメリカとフランスで西欧に触れた個人主義者の永井荷風もまた「プリンシプルの人」であった

書評 『折口信夫―-いきどほる心- (再発見 日本の哲学)』(木村純二、講談社、2008)
・・留学経験がなく、かならずしも西欧的個人主義者ではなかった折口信夫もまた「世間の外」に居続けた個人主義者であった

書評 『「空気」と「世間」』(鴻上尚史、講談社現代新書、2009)-日本人を無意識のうちに支配する「見えざる2つのチカラ」。日本人は 「空気」 と 「世間」 にどう対応して生きるべきか?)
・・「世間」を対象化した歴史学者・阿部謹也による「世間論」、「空気」の存在を
対象化した山本七平は、ともにキリスト教に深く関わった人たちであった

(2014年7月23日、8月11日、9月11日 情報追加)
(2015年12月30日 情報追加)


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end

2010年8月26日木曜日

クレド(Credo)とは


リッツ・カールトン・ホテルの「クレド」

 サービス業に従事する人なら、「クレド」のなんたるかを知らない人、耳にしたこともないという人は、まさかいないだろう。

 「クレド」とは、米国の高級ホテルチェーンのリッツ・カールトン・ホテルが、全従業員に配布し、徹底させている「理念や使命、サービス哲学を凝縮した不変の価値観」(高野登)のことである。

 『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』(高野登、かんき出版、2005)は、リッツ・カールトン・ホテルの日本支社長自らの言葉で語られた、ホスピタリティ(おもてなし)の心髄である。単なるビジネス書を越えた深い内容の一冊だ。

 サービス化が不可欠な先進国経済の日本では、すべてのビジネスパーソンはもとより、役所も病院もすべての人が読むべき必読書といってよい。サービスに直接携わっている人も、バックヤードで間接的に関わっている人も、みな読むべき、「ビジネス書を越えたビジネス書」なのである。

 本書には、リッツ・カールトンの「クレド」(日本語版)が紹介されている。Ritz-Carton の公式ウェブサイトから英語原文もあわせて紹介しておこう。

THE RITZ-CARLTON  クレド

リッツ・カールトンはお客様への心のこもったおもてなしと快適さを提供することをもっとも大切な使命とこころえています。

私たちは、お客様に心あたたまる、くつろいだそして洗練された雰囲気を常にお楽しみいただくために最高のパーソナル・サービスと施設を提供することをお約束します。

リッツ・カールトンでお客様が経験されるもの、それは、感覚を満たすここちよさ、満ち足りた幸福感そしてお客様が言葉にされない願望やニーズをも先読みしておこたえするサービスの心です。

The Credo

The Ritz-Carlton Hotel is a place where the genuine care and comfort of our guests is our highest mission.

We pledge to provide the finest personal service and facilities for our guests who will always enjoy a warm, relaxed, yet refined ambience.

The Ritz-Carlton experience enlivens the senses, instills well-being, and fulfills even the unexpressed wishes and needs of our guests.


 「クレド」に記された「モットー」がまた素晴らしい。従業員は、顧客である紳士淑女にサーブする、紳士淑女であるというモットーだ。これは本書では日本語に翻訳されずそのまま英語のまま掲載されている。

Motto

"We Are
  Ladies and Gentlemen
   Serving
  Ladies and Gentlemen”


 この「モットー」のもと、「従業員への約束」が明記されている。

従業員への約束

 リッツ・カールトンではお客様へお約束したサービスを提供する上で、紳士・淑女こそがもっとも大切な資源です。

 信頼、誠実、尊敬、高潔、決意を原則とし、私たちは、個人と会社のためになるよう、持てる才能を育成し、最大限に伸ばします。

 多様性を尊重し、充実した生活を深め、個人のこころざしを実現し、リッツ・カールトン・ミスティーク(神秘性)を高める‥
 リッツ・カールトンは、このような職場環境をはぐくみます。

The Employee Promise

At The Ritz-Carlton, our Ladies and Gentlemen are the most important resource in our service commitment to our guests.

By applying the principles of trust, honesty, respect, integrity and commitment, we nurture and maximize talent to the benefit of each individual and the company.

The Ritz-Carlton fosters a work environment where diversity is valued, quality of life is enhanced, individual aspirations are fulfilled, and The Ritz-Carlton Mystique is strengthened.


Three Steps Of Service

A warm and sincere greeting. Use the guest's name.
Anticipation and fulfillment of each guest's needs.
Fond farewell. Give a warm good-bye and use the guest's name.


このほか Service Values: I Am Proud To Be Ritz-Carlton もあるが長いので、直接ウェブサイトを見ていただければいいと思う。 http://corporate.ritzcarlton.com/en/About/GoldStandards.htm



ビジネスの現場で使われる「クレド」とは

 「クレド」はマニュアルではなく、顧客とのすべてのコンタクト・ポイントにおいて適用される心構えであり、まさに日本語でいう「信条」なのである。
 リッツ・カールトンの従業員になるということは、この「信条」を日々唱え、徹底的に内面化することにある。自分の行動規範となるまで浸透し、内面化しないかぎり、ただ単なるカードに終わってしまう。

 顧客とのすべてのコンタクト・ポイントは、サービス業の世界では常識の「真実の瞬間」である。「真実の瞬間」は英語では "Moment of Truth" というが、ほんとうは「決定的瞬間」と訳すべき表現のようだ。スペイン語で Momento de Verdad は、闘牛士が牛にとどめの一撃を刺す一瞬を意味するらしい。

 顧客との対面での接触だけでなく、電話やネットをつうじての接触、目に見えないが重要なバックヤードや管理部門も含めて、すべての従業員がこの「クレド」を自分のものとしていれば、ホスピタリティ産業においては無敵の存在となるだろう。

 もちろんサービス業に限らず、それ以外の産業もいかに「ホスピタリティ」の要素を取り入れるか考えるべきだ。繰り返しになるが、「サービス化」が不可欠な「先進国経済」では、すべてのビジネスパーソンはもとより、役所も病院もすべての人が読むべき必読書といってよい。サービスに直接携わっている人も、バックヤードで間接的に関わっている人も、意識するべきなのである。

 私も一度だけリッツカールトンホテル大阪に宿泊したことがある。大阪城を目の前にした眺望が素晴らしいロケーションのホテルで、日本にいながら外資系ホテルの素晴らしさを味わえる。
 しかし、一回宿泊したぐらいでは、ホスピタリティのほんとうの意味はわからないのだろう。リッツ・カールトン大阪では、フランス料理をいただきながらの「接遇研修」も受けたのだが、あの研修は非常に勉強になった。

 リッツ・カールトンは、企業としては1983年創業と、意外と歴史は長くない。そうであるだけに、極めて明確な理念のもとに創業した企業であり、企業として設立する時点で、経営理念を明確に設計していたわけである。


目 次

第1章 感謝されながら、成長できる仕事術
第2章 感動を生み出す「クレド」とは
第3章 リッツ・カールトンを支える七つの仕事の基本
 PRIDE & JOY
 Don't think. Feel
 Let's have fun !
 CELEBRATION
 Chicken Soup for the Soul
 PASSION
 EMPOWERMENT
第4章 サービスは科学だ
第5章 リッツ・カールトン流「人材の育て方」
第6章 リピーターをつくるリッツ・カールトンのブランド戦略
第7章 いますぐ実践したい“本当のサービス”とは?



著者プロフィール

高野 登(たかの・のぼる)

1953年、長野県戸隠生まれ。プリンス・ホテル・スクール(現日本ホテルスクール)第一期生。卒業後、ニューヨークに渡る。ホテルキタノ、NYスタットラー・ヒルトンなどを経て、1982年、目標のNYプラザホテルに勤務。その後、LAボナベンチャー、SFフェアモントホテルなどでマネジメントを経験し、1990年にザ・リッツ・カールトン・サンフランシスコの開業に携わった後、リッツ・カールトンLAオフィスに転勤。その間、マリナ・デル・レイ、ハンティントン、シドニーの開業をサポートし、同時に日本支社を立ち上げる。1993年にホノルルオフィスを開設した後、翌1994年、日本支社長として転勤。リッツ・カールトンの日本における営業・マーケティング活動をしながら、ザ・リッツ・カールトン大阪の開業準備に参画。現在は、ザ・リッツ・カールトン東京の開業を見据えながら、ブランディング活動を中心とした、メディア・パブリシティ戦略に積極的に取り組む。リッツ・カールトンの成功事例を中心に、企業活性化、人材育成、社内教育などの講演依頼が後を断たない(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


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<ブログ内関連記事>

書評 『わたしはコンシェルジュ-けっして NO とは言えない職業-』(阿部 佳、講談社文庫、2010 単行本初版 2001)

「ブルータス、お前もか!」-立派な「クレド」もきちんと実践されなければ「ブランド毀損」(きそん)につながる(2013年10月29日)



 
     

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 さて、まだこの続きがある。
 関心がない人は、飛ばしていただいてもまったく構わない。


クレド(credo)とは-その原義をさかのぼる

 『リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間』を読んでも、イマイチ腑に落ちない人も少なくないのではなか。なぜ一枚のカードに書かれた「クレド」が従業員に浸透し、内面化されるまでに至っているのか、と。
 「クレド」の解説も書かれている、浸透させる方法論についても書かれている、しかし・・・

 「クレド」についてだが、日本では「信条」であると書いておいた。
 そこからさらに遡っておくと、知識はより深いものとなる。なぜ「クレド」が、その会社の従業員に浸透するのか、浸透可能なのかのヒントが得られると思う。
 
 「クレド」とはラテン語の credo からきている。英語だと creed になる。リッツ・カールトンがなぜ creed ではなく、あえて credo というコトバにしたのかは知らないが、特別のものであることを示すためにあえてラテン語を使ったのだろうか。

 「クレド」はもともと、キリスト教の「信徒信条」のことである。
 使徒信条(しとしんじょう)は、カトリック教会とプロテスタント諸派が重んじる、基本信条のひとつだ。カトリックでは、使徒信経ともいう。
 この「信徒信条」を唱えて、内面化することこそ、キリスト教徒として生きるということなのである。逆にいうと、この「信徒信条」を受け入れない者は、キリスト教徒ではないということになる。
  
 参考のために、カトリック司教協議会が公認した「信徒信条」(日本語口語版)を紹介しておこう。リッツ・カールトンの「クレド」と比較してみるとよいだろう。

信徒信条

天地の創造主、全能の父である神を信じます
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪のゆるし、
からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

(出所:カトリック中央協議会の公式ウェブサイト より)

 英語では Apostles' Creed という。

 ラテン語では以下のようになっている。同じくカトリックが使用しているもの。意味は日本語版を参照。

Credo in Deum Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,
et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum,
qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine,
passus sub Pontio Pilato, crucifixus, mortuus, et sepultus,
descendit ad ínferos, tertia die resurrexit a mortuis,
ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis,
inde venturus est iudicare vivos et mortuos.
Credo in Spiritum Sanctum,
sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem,
remissionem peccatorum,
carnis resurrectionem,
vitam aeternam. Amen

(太字ゴチックは引用者=私によるもの)



 「クレド」の唱え方については具体的な方法がある。これについては、歴史学者の阿部謹也が、『世間を読み、人を読む-私の読書術-』(阿部謹也、日経ビジネス人文庫、2001)に収録された「補論 私と図書館」(1999)という国立公文書館での講演のなかで言及しているので、少し長くなるが紹介しておこう。
 『読書力をつける(知のノウハウ)』(日本経済新聞社、1997)の改題文庫版であるが、「補論 私と図書館」は単行本のほうには収録されていない。

 同時に、もっと重要なことは一人ひとりの生活の一番大事な部分、これを規定として教えるということ。それはどういうことかというと、日本にはこれが全くないので、日本人にはなかなか想像がつきませんけれども、例えば今でもカトリック教徒は全員が、本来なら週に一度は教会に行って、教会で自分がこの一週間に犯した罪を司祭の前で告白する。そして、その赦しを得るわけです。
 赦し方は、私自身がカトリック教会にいたことがあるので多少知っていますが、祈りですね。一つは「天にまします我らの父よ・・・」いう主祷文、天使祝詞という「めでたし聖寵満ちみてるマリア」というところから始まる比較的短い二つの祈りを三回唱え、ちょっと重い罪になれば主祷文を十回、天使祝詞を十回。もっと重い罪だと司祭が判断すればロザリオを一回。ロザリオというのは十字架が付いている日本で言えば数珠です。その数珠に大きい玉というか、離れた玉が一つ、ロザリオには三つ玉が付いていて、そこから丸い輪ができていて、その丸い輪は孤立した玉が一個、その次に十個の玉、次に孤立した玉が一個、それから十個の玉で、全部で五十ぐらいの玉が付いている。
 この十字架を手に持って、それで使徒信経を唱えるのです。使徒の信ずるお経と書いて使徒信経。これはラテン語ではクレドと言いまして、皆さんがもし音楽が好きであれば、例えばバッハですね。ロ短調ミサ曲とか、あるいはカンタータにもありますが、キリエというのがありますね、キリエエレイソン、クリステーエレイソン、その中にクレドというのがあるんです。クレドというのはラテン語で、私は信じますという意味です。
 クレドイン・ウヌム・デウム(*注)、一つの主を信ずる。このインは存在ですが、一人の主が存在していることを信ずる。そして、その主は地上に降り来って、十字架につけられて死んで、三日後には復活して、というイエス・キリストの生涯を数行の文字で綴ったものがクレド、信徒信経といいまして、これを十字架を手にもって声を上げて、 あるいは口の中でつぶやくわけです。そして、次に一つの玉のところに来たときに主祷文を唱えるのです。その玉が三つ並んでいるとき、これは天使祝詞という、「めでたし聖寵満ちみてるマリア、主御身とともにまします」という、全部で五行か六行の短いものですが、それを読み上げ、次に主祷文、「天にまします我らの父よ」、これを全部で天使祝詞を五十回、主祷文を十回ぐらい唱えるのです。

(*引用者注:credo in unum deum)

(出典:「補論 私と図書館」(1999)P.229-230 太字は引用者=私による)


 「たまたま小さいときに修道院に入れられてそこで暮らしたことがあって、そのことは本に書いてありますが、そういう生活の中でたまたまヨーロッパの中世の勉強をするようになったという経過があるわけです」(P.230)という著者の話だが、著者が洗礼を受けて修道院にいた時期は、敗戦後間もない頃の「第二バチカン公会議」以前のことであり、現在とは状況が異なるかもしれない。

 このように、「クレド」の反復朗誦をとおして、信者はキリスト教しての自覚を深め、キリスト教徒として生きることの意味を確認するわけである。
 
 このように、「クレド」というものは、キリスト教の文脈のなかで使われる意味を知っていると、より深く理解できるはずである。だからといって、キリスト教徒になる必要はない。
 ただ、知っているのと知らないのとでは、理解の深さが異なるということなわけだ。


キリスト教以外の「クレド」(信徒信条)

 ちなみに、イスラームでは、「シャハーダ」とよばれる信仰告白がある。六信五行のうち、宗教的実践の五行の一番重要な項目である。

 「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒(ラスール)である。」という定型句をアラビア語で唱える。 カタカナで記せば、「ラー・イラーハ イッラッラー ムハンマド ラスールッラー」

 
 仏教では「帰依」があるが、一神教で言う「信仰」とは区別される。

 「仏法僧の三宝に帰依します」に該当するパーリ語の文言を唱えるだけなので、きわめてシンプルである。

BuddhaM saraNaM gacchaami(ブッダン・サラナン・ガチャーミー)
DhammaM saraNaM gacchaami(ダンマン・サラナン・ガチャーミー)
SamghaM saraNaM gacchaami(サンカン・サラナン・ガチャーミー)




企業組織以外での「クレド」

 さて米国には、リッツ・カールトン・ホテルの「クレド」以前から、徹底的にたたき込まれてきた「クリード」がある。

 すなわち、米海兵隊(US Marine Corps)である。
 スタンリー・キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』にもでてくるので、知っている人もいるだろう。
 海兵隊は世界最強の軍隊といわれいるが、基本は「ライフルマンであること」に置いている。
 海兵隊の「モットー」は、Semper Fidelis というラテン語である。意味は Always faithful(つねに忠実に)というものだが、なぜか「クレド」にかんしては、Creed という英語で Credo というラテン語は使用していない。理由はよくわからないが。

 以下に、英語全文を掲載していこう。

The Rifleman's Creed (ライフルマン信条)

THIS IS MY RIFLE.
There are many like it but this one is mine.
My rifle is my best friend.
It is my life.
I must master it as I master my life.

My rifle, without me is useless.
Without my rifle, I am useless.
I must fire my rifle true.
I must shoot straighter than any enemy who is trying to kill me.
I must shoot him before he shoots me. I will....

My rifle and myself know that what counts in this war is not
the rounds we fire, the noise of or burst, nor the smoke we make.
We know that it is the hits that count. We will hit...

My rifle is human, even as I, because it is my life.
Thus, I will learn it as a brother. I will learn its weakness, its strength,
its parts, its accessories, its sights and its barrel.
I will keep my rifle clean and ready, even as I am clean and ready.
We will become part of each other.

We will...

Before God I swear this creed.
My rifle and myself are the defenders of my country.
We are the masters of our enemy.
We are the saviors of my life.

So be it, until victory is America's and there is no enemy, but Peace.

(出所:http://en.wikipedia.org/wiki/Rifleman's_Creed


 YouTube に Full Metal Jacket - Rifleman's Creed のシーンがアップされているので、参考まで。
 教官はかなり品のないスラングでしゃべっているので、日本語訳はつけないでおく。

 海兵隊では、この Creed を毎日唱えさせて、徹底的にたたき込むのである。



「クレド」を浸透、定着させるためには身体技法をつうじた「仕掛け」が不可欠だ

 ある意味では洗脳といえばそのとおりだが、「教化」(indoctorination)というのは宗教であれ、それ以外の組織であれ、多かれ少なかれ「洗脳」的な要素をもっているものだ。

 「教義」(doctorine)を反復によってたたき込むための方法論、これはカトリック教会が長い年月にわたって開発してきたもの。
 
 組織論を勉強した人間には常識であるが、士官教育はかつては修道院のなかで行われていたものであり、近代の軍隊組織は、先行する多国籍巨大組織であるカトリック教会の組織を参考にしたものである。
 そしてまた、企業組織が軍事組織をモデルに設計されてきたことはいうまでもない。

 「クレド」もまた、カトリック教会 ⇒ 軍隊 ⇒ 企業 の流れの延長線上にあることは、これまで書いてきたことをみれば容易に理解されるはずである。

 「クレド」を真に定着させるためには、まず「信者」の自主性が前提になること、そのうえでさらに反復朗誦して、身体技法をつうじて、カラダを使ってアタマにたたき込むという方法論を踏まえることが、きわめて重要である。

 まあひらたくいえば、定着させ内面化させるためには「仕掛け」が必要だということだ。
 そしてそれを無意識レベルでの「生活習慣」化してしまうこと。

 もちろん、「言うは易く行うは難し」ではあるが・・・・




<関連サイト>

ヨーロッパでのプレゼン、勝利の秘訣 養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2) (日経ビジネスオンライン 2014年3月25日)
・・「「肉体」を規律で縛って「精神」の自由を担保する」  近代精神の主導者であるイエズス会系の栄光学園という男子校出身者の三人が語りあう記事



なお、上記の対談は『日本人はどう死ぬべきか?』というタイトルで日経BP社から単行本化されている(2014年11月28日 記す)





<ブログ内関連記事>

カラダで覚えるということ-「型」の習得は創造プロセスの第一フェーズである・・イエズス会で使用される「霊操」についてふれている

書評 『ラテン語宗教音楽 キーワード事典』(志田英泉子、春秋社、2013)-カトリック教会で使用されてきたラテン語で西欧を知的に把握する
・・「クレド」についても解説されている

(2014年3月25日 情報追加)


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