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2024年4月20日土曜日

書評『戦争体験と経営者』(立石泰則、岩波新書、2018)ー 戦後日本の消費社会をビジネスで支えたのは過酷な戦場体験をもつ経営者たちだった

 
 

ダイエー創業者の中内さんなど、過酷な戦場体験を経て、戦後の日本で消費者向けビジネスを起業した経営者がいたことは、もう日本人の記憶から消えつつあるのかもしれない。そんな人たちがみな、すでに鬼籍に入って久しいからだ。 

『戦争体験と経営者』は、フィリピン戦線で生き残った中内氏や、職業軍人だったケーズデンキ創業者の加藤馨氏、それにインパール作戦の生き残りだったワコールの創業者・塚本幸一氏が取り上げられている。いずれも著者の立石氏の取材経験のなかで印象の深い人びとである。 

なかでも分量的に半分近くを占めている、塚本氏の戦争体験と復員後の起業、そして学校時代の同級生2人とのトロイカ体制による経営が、読んでいて感慨深いものがあった。ワコールの起業ストーリーについては、もっと知りたいと思う。 

ケーズデンキ創業者の加藤馨氏のことは、いままでまったく知らなかったが、ダイエーの中内さんやワコールの塚本さんと戦争の話は、かれらがまだ現役の経営者だった1980年代から1990年代にかけては、さまざまな媒体をつうじて見聞きしていた。当時は多くの人がある種の「常識」として知っていたことだ。 

だが、こういった過酷な戦争体験をもつ創業経営者たちの話も、誰かが語らないと、あっというまに風化してしまいかねない。著者のその危機感はよくわかる。 

帯にある「その使命感と「個」の尊重が戦後日本を支えた」というフレーズの意味を、あらためてよくかみしめて考えなくてはならないのだ。 


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目 次
はじめに 
第1章 戦地に赴くということ(堤清二と中内功) 
第2章 日本軍は兵士の命を軽く扱う(加藤馨) 
第3章 戦友の死が与えた「生かされている」人生(塚本幸一と2人のパートナー) 
第4章 終わらない戦争 
おわりにかえて
追記

著者プロフィール
立石泰則(たていし・やすのり)
1950年北九州市生まれ。ノンフィクション作家、ジャーナリスト。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。経済誌編集者、週刊誌記者等を経て、1988年に独立。『覇者の誤算 日米コンピュータ戦争の40年』(日本経済新聞社)により第15回講談社ノンフィクション賞を受賞。『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(文藝春秋)により第10回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


PS 『ふたつの轍(わだち)ー ワコール・塚本幸一を支えた男たち』(立石泰則、日本実業出版社、1991)

本文に書いたように、「塚本氏の戦争体験と復員後の起業、そして学校時代の同級生2人とのトロイカ体制による経営が、読んでいて感慨深いものがあった。ワコールの起業ストーリーについては、もっと知りたい」という思いは、『ふたつの轍(わだち)ー ワコール・塚本幸一を支えた男たち』(立石泰則、日本実業出版社、1991)を読んで解消した。




内容的には、「塚本氏の戦争体験と復員後の起業、そして学校時代の同級生2人とのトロイカ体制による経営」にかぶっている部分もあるが、起業後に「ナンバー2」となった財務担当の中村氏(東京商大卒)を口説き落とした経緯と、ベンチャー段階での資金繰りの苦労実質「ナンバー3」であった営業担当の川口氏の東京市場開拓の奮闘など、「ワコールの起業ストーリー」を複眼的に顧みることができたのは収穫だった。

三頭立ての「トロイカ経営」と立石氏は言うが、学友2人との協業は、すんなりといったわけではけっしてない。その点はヨイショ本ではない。

だが、過酷な戦場を生き残り、「生かされている」と真顔で語るカリスマ的な経営者・塚本氏を立て、それぞれ副社長として経営を支えたストーリーは、なかなかないのではないかという点には同感だ。
 
「親しむべし、馴れるべからず」という塚本氏のモットーは、渋沢栄一の「君子の交わりは淡きこと水のごとし」を想起させるものがある。学友であっても経営においては話は別であるという姿勢、この禁欲的ともいえる姿勢がワコールの成功をもたらしたことは間違いないだろう。
 
1991年刊であり、いまから30年以上前のものであるが、あわせて読むべきビジネス書である。

(2024年4月29日 記す)





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2021年2月28日日曜日

書評『パステルナーク事件と戦後日本 ー「ドクトル・ジバゴ」の苦難と栄光』(陶山幾朗、恵雅堂出版、2019)ー 1958年の日本の知識階層の精神風景を丹念に跡づけた好著

 

 先日のことだが、『パステルナーク事件と戦後日本-「ドクトル・ジバゴ」の苦難と栄光』(陶山幾朗、恵雅堂出版、2019)という本を読んで、たいへん充実した読後感を抱いた。  1958年の「パステルナーク事件」という知られざる事件にまつわる日本の知識階層の精神風景を描いたものだ。 

パステルナークはソ連時代に生きたロシアの詩人。ロシア革命とその後に続いた内戦を舞台にしたヒューマン・ドラマの映画『ドクトル・ジバゴ』(1965年)の原作者である(*現在に至るまで原作を読む機会がないのが残念だ。映画のほうはなんども繰り返し見ているのだが・・)
 



そのパステルナークが心血を注いで完成させたものの、当時のソ連では出版できなかった大河小説『ドクトルジバゴ』が、1957年にイタリアで出版されたことに始まるのが「パステルナーク事件」(1958年)だ。 当時すでに「ハンガリー動乱(あるいは革命)」(1956年)によって、ソ連と共産主義への支持に陰りが見え始めていた時期である。 

1958年度のノーベル文学賞が、パステルナークに授与されることが発表され詩人が受諾したにもかかわらず、わずか1週間で辞退するに至った。ソ連の体制側からの激しい誹謗中傷と圧力がかかったからである。ロシアにとどまりたかった詩人は、受賞を断念することを余儀なくされた。本書の記述を読めば、それはもう、すさまじいの一言に尽きる。これが第3章までの内容だ。 

このうような「パステルナーク事件」について、世界中の文学者たちから「表現の自由」を守れとして大きな非難が起こったのだが、日本のペンクラブではかならずしもそうではなかった。 

日本国内と日本以外では、温度差の違いと要約できるもの以上のものがあったこと、「1958年の日本の知識階層の精神風景」を綿密に描き出したのがこの著作である。 

戦前の挫折した社会主義運動という屈折した前史をもつ、この特殊ともいえる「1958年の日本の知識階層の精神風景」をあぶり出すことになったのが、日本ペンクラブの外国人会員であった米国人の日本文学研究者で『源氏物語』の英訳者である)エドワード・サイデンステッカーによる異議申し立てであり、ちょうどその頃に来日した著作家のアーサー・ケストラーであった。 

1958年は、「反米ナショナリズム」が燃えさかった「60年安保」の前夜であり、当時の日本ではアメリカの大衆文化が圧倒的な影響力をもちながらも、同時に反米意識がかなり強く存在した時代だ。そんな時代に、米国人からの異議申し立てに対して左翼的傾向の強い文学者たちが、どのような反応を示したかというと、現在では想像するのも難しい。 

さらにいえば、もともと熱心な共産党員であったが、その後共産党と縁を切った経験をもつケストラーにとって、日本の文学者たちの姿勢は当然容認できるようなものではなかったのである。ケストラーの『真昼の暗黒』(1940年)は、そんなソ連の体制を徹底批判して世界的ベストセラーになっている。 

冷戦時代のソ連、そして日本。獲得形質は遺伝するとしてソ連で公認されていたルイセンコ学説をめぐる興亡。せっかく著作家ケストラーとルイセンコ学説の双方を別個に取り上げながら、ケストラーの『サンバガエルの謎』(1971年)に触れなかったのは、画竜点睛を欠くというか、ちょっと残念だったような気もする。だが、こんな内容を400ページのボリュームでまとめたこの著作は、じつに充実した内容で読みごたえがあった。 


驚いたことに、著者の陶山幾朗氏は、なんと『パステルナーク事件と戦後日本-「ドクトル・ジバゴ」の苦難と栄光』の出版直前に78歳で急逝されていたらしい。「刊行への経緯」に記されている。だから。この本が文字通りの遺作となったことになる。 

それにしても、素晴らしい内容の著作を残していただいたものである。万人向けの本でないが、このテーマに関心のある人は、読んでけっして損のない本であると言っておきたい。 


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目 次
序章 発端-1958年10月23日
第1章 祝福から迫害へ-1958年10月23日~11月6日
第2章 「事件」前史-1956~58年
第3章 日本語版『ドクトル・ジバゴ』狂騒曲
第4章 糾弾者エドワード・サイデンステッカー
第5章 「文士」と政治-高見順(1)
第6章 「怖れ」と「美化」と-高見順(2)
第7章 「モスクワ芸術座」という事件
第8章 《害虫》のポリティクス
第9章  “ワルプルギスの夜” の闇
第10章 『真昼の暗黒』の来日-アーサー・ケストラー(1)
第11章 「目に見えぬ文字」への道程-アーサー・ケストラー(2)
第12章 “勝利” の儀式?-第3回ソビエト作家大会(1)
第13章 クレムリン宮殿の中野重治-第3回ソビエト作家大会(2)
第14章 「事件」の終わり-かくて人びとは去り…
補遺
わが国メディアに現れた「パステルナーク事件」関連論評(1958~1967)
「パステルナーク事件」関連年表
跋 天上のことばを、地上にあって 工藤正廣
あとがき
刊行までの経緯


著者プロフィール
陶山幾朗(すやま・いくろう)
1940年生まれ。1965年早稲田大学第一文学部卒。著書に『シベリアの思想家ー内村剛介とソルジェニーツィン』(風琳堂)、『内村剛介ロングインタビュー』(恵雅堂出版)、『現代思潮社という閃光』(現代思潮社)、編集『内村剛介著作集』全七巻(恵雅堂出版)。 雑誌『VAV』同人。 2018年11月2日 急逝(78歳)。



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2013年6月7日金曜日

「移動図書館」-これもまたぜひ後世に遺したい戦後日本の「昭和遺産」だ!


先日のことですが、用事があって訪問した先からもよりの駅まで歩いて戻っているとき、千葉県船橋市の住宅街のなかで停車している「移動図書館」を見ました。

ああ、いまでも移動図書館ってあるんだな~、と。

都心だと昼食の移動販売車や献血車はよく見ますが、移動図書館は見ないですねえ。移動図書館はいまでは地方都市や図書館へのアクセスがむずかしい地域などでは見られるようです。

この日も小さな子どもと一緒のお母さん方がたくさん集まってました。読み聞かせ用の絵本を借りるのかな?

移動図書館って、なんだか日本の戦後民主主義を象徴するようなシステムのような気がする。子どもの頃、東京都三鷹市に住んでいましたが、教育内容で有名だった明星学園や移動図書館の存在が、わたしの場合、「戦後民主主義」という連想と結びついて記憶されているのかもしれません。

wikipedia などで調べてみると、移動図書館(bookmobile あるいは mobile library)は19世紀なかばの英国だそうだ。その頃はもちろん馬車であったらしい。その後、米国やドイツなどでも定着したのだと。

そういえば移動図書館ではないが、リヤカーに本をたくさんつんで移動販売する行商人のシーンが、アイザク・バシェヴィス・シンガー原作でバーブラ・ストライサンド主演監督製作の映画『愛のイエントル』(1983年)に登場していたことを思い出しました。舞台設定は20世紀初頭、ポーランドのユダヤ人居住区でありました。

移動図書館が日本で普及が始まったのは敗戦後の1948年(昭和23年)、やはり「戦後」だったのですね。自動車の普及がはじまったのは戦後になってからですからね。

移動販売車については、ホットドッグやクレープなど都市部の飲食関連と除けば、ほかの国では見た記憶がありません。日本ではいまでもよくみる野菜の移動販売車は、タイのバンコクの路地裏で見たことがありますが・・・。

日本でも移動図書館はあまり見なくなりましたが、その理由は、電子図書化が進んでいるという理由よりも、wikipedia情報によれば、地方財政問題が背景にあるようです。また、ディーゼル規制に対応できないため廃車となり、移動図書館そのものもなくなっているケースも少なくないのだとか。

だが、発展途上国ではまだまだニーズが高く、日本の移動図書館はそういった国々では活躍しているらしい。よろこばしいことですね。海外で、日本でつかわれていた中古自動車や中古の鉄道車両が現役で活躍しているのに出合うとうれしいものですよね。

日本でも「3-11」の大津波の被害にあった地域では、移動図書館が活躍しているという話を聞いたこともあります。

こういういい制度はまだまだ長生きしてほしいものだと思います。やはり、本は本の形をしているほうがいい。とくに子どもたちのためには。



PS 東日本大震災の被災地で復興に貢献する「移動図書館」!

『走れ!移動図書館-本でよりそう復興支援-』(鎌倉幸子、ちくまプリマー新書、2014)

形ある本をつうじての復興支援! (2014年3月17日 記す)





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これがバキュームカーだ!-下水道が整備される以前の「昭和遺産」である

電気をつかわないシンプルな機械(マシン)は美しい-手動式ポンプをひさびさに発見して思うこと

本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)・・映画『愛のイエントル』について書いてある





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