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2026年9月22日火曜日

書評『新しい教養としてのポップカルチャー マンガ、アニメ、ゲーム』(内藤理恵子、日本実業出版社、2022)― 宗教学者が読み解くポップカルチャー論が面白い

 

『新しい教養としてのポップカルチャー マンガ、アニメ、ゲーム』(内藤理恵子、日本実業出版社、2022)という本を読んだ。宗教学者が読み解く「ポップカルチャー15回連続講義」が面白い。 

1979年生まれでオタクの著者が、ドストエフスキーの作品や『ドン・キホーテ』などの文学作品や哲学者の著作を引き合いに出し、自分史の語りを織り交ぜて、「教養」としてのマンガ、アニメ、ゲームがもつ意味を解読する。アニメやゲームの世界観を理解したいから大学で哲学を専攻し、最終的に宗教学に進んだ著者ならではのものだと言っていいだろう。 

これらの分野は当然のことながら、個人レベルの好き嫌いがはっきりしている分野なので、独断と偏見は避けられないことは言うまでもない。自分が好きな作品なら、著者とは違う見解もあって当然だ。だから自分史をからませた記述が必要になる。

現在は、ポップカルチャーとハイカルチャーは相互浸透する状況にある。日本発のポップカルチャーが世界中に浸透している現状では、これは世界的な現象だといっていいだろう。すでにハイカルチャーと対(つい)になるのはサブカルではないのだ。 

著者のいう「教養」とは、大上段に振りかぶったものではない。古典的な意味での「教養」でもない。 ポップカルチャーに身を浸してきた人それぞれが、それによって生き方を学ぶ材料であり、さらには知的探求の出発点となるものだと言っていいだろう。

1962年生まれで、物心ついた頃からTVアニメにどっぷり浸かって自己形成した「第一世代」であるわたしには、十分に納得のいく見解である。 「新人類」とレッテル貼りされた世代である。


■「異世界転生もの」アニメがなぜ流行るのか? 

1979年生まれということは、大学卒業時点でバブル崩壊後の1991年、就活がうまくいかずに大学院進学しても依然として就職状況は厳しかった世代である。

つまり、著者は「就職氷河期世代」世代であることを意味している。著者自身もそうとうな苦労を経てきたようだ。 

そんな著者だからこそ、「第2部/アニメ」の「第9回講義 就職氷河期の救済は異世界転生モノにしかない?」は説得力のあるものになっている。

わたし自身は「異世界転生もの」には食指が動かないのだが、なぜ「就職氷河期世代」がはまってしまうのか、ようやく理解できた。 

そうか、「救済」なのだな、と。現実世界(=現世)ではまったく報われることのない状況から脱するため、モニターの先の異世界(=来世)に転生して、楽園で報われることに希望をつなぐ。そんな心情の反映なのか。 

宗教学者の著者が指摘するように、マンガやアニメの作者が意識しているか無意識なのかは別にして、中世に爆発的に流行した「浄土思想」がベースにあるようだ。現世を「厭離穢土」(おんりえど)とみなす世界観である。現実世界があまりに過酷なので、汚れた現世からら脱出して空想世界に逃避したいという願望。

21世紀前後の日本では、バーチャルとしての「浄土」がリアリティをもつようになったのか?  もちろん、それは「浄土」というより「楽園」というべきかもしれない。西洋化した日本では、仏教の「浄土」にキリスト教の「天国」が上書きされているから。

著者は言及していないが、「異世界転生もの」が発信地である日本に限らず、世界中に熱烈なファンがいるということは、いまの若い世代が置かれている状況とかれらの心情が反映しているのかもしれない。 

このほか、さまざまな角度から解読が試みられたこの本は面白い。「コロナ時代」の2022年に出版されたものだけに、VRゲームに没入することでやり過ごした著者の考察はさらに深まったようだ。 


■「教養」のあり方が時代とともに進化していくのは当たり前

マンガ、アニメ、ゲームにかんしては、さまざまな論者が、さまざまな角度から分析を行ってきた。専門家でもない限り、あまりにも多すぎてとてもフォローしきれるものではない。

本書のような宗教学者によるアプローチが面白いのは、マンガ、アニメ、ゲームがメインストリームになった時代における「教養」のあり方が、それ以前とは変化していることへの理解があるからだ。

そもそも、バーチャルでフィクションな「虚構世界」とリアルで日常そのものの「現実世界」を往還することでライフを活性化してきたのが人類であり、それは全世界的に共通するものである。

そのあり方が、活字が「教養」の中心であった時代、つまりマンガ、アニメ、ゲームそれぞれの誕生以前、そしてマンガ、アニメ、ゲームそれぞれの生成発展から爆発的成長以降で異なるのである。それにともない「教養」のあり方も変化し、進化していくのも当然というべきなのだ。 

さらにいえば、日本が発信源であるマンガやアニメは、スピリチュアルなものとの親和性が高い。 大正時代から始まった「教養主義」が、1970年代に死に絶えたことは当然といえば当然だろう。1980年代以降は「精神世界」に取って代わられ、1995年の「オウム事件」以降はさらに混迷を深めていく。若者のあいだで「教養」への渇望が生じてきたが、先行世代はあるべき「教養」の姿を示し切れていない。

時代の変化は、テクノロジーの変化をともなう。「教養」のあり方が変化するのも当然であり、今後もさらに「変化」、いや「進化」していくと考えるべきなのだ。これは日本に限らず、世界的な現象と考えるべきである。

バーチャルでフィクションな「虚構世界」そのものであるマンガ、アニメ、ゲームとの接触が出発点となって、「活字」の世界に踏み分けていく。そしてフィクションとリアルの往還を行いながら知的探求を行っていく。そんなループを描く知的活動こそ、著者のいう「新・教養主義」ということなのだろう。

とはいえ、あえて「新・教養主義」を提唱する必要もないとは思うのだが・・・ それほど「旧・教養主義」論者たちが、いまだにアカデミアの世界には跋扈(ばっこ)しているということなのかな?



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目 次
はじめに 
第1部/マンガ 第1講~第5講 
第2部/アニメ  第6講~第10講
第3部/ゲーム 第11講~第15講 
おわりに 
参考文献と作品

著者プロフィール
内藤理恵子(ないとう・りえこ) 
1979年、愛知県に生まれる。宗教学者、ゲーム開発者、イラストレーター。南山大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了、博士 (宗教思想)。南山大学客員研究員(宗教文化研究所非常勤研究員)。善通寺勧学院専門研究員。日本ペンクラブ会員。著書多数。(Wikipedia情報を編集)



<ブログ内関連記事>


・・「教養主義」は1970年代に消滅、1980年代以降は「精神世界」がそれにとって変わった

・・日本のマンガやアニメに体現されたスピリチュアルな心性に世界中が惹かれるようになってきた



・・なぜ自分が「異世界転生もの」になじめないか、その答えのひとつがそこにある。なぜ「異世界転生もの」が米国でも人気があるかも同様だ。とはいえ、依然として浄土真宗が日本最大の仏教宗派である理由はなぜか?

・・ポップカルチャーとハイカルチャーの垣根は低くなってきた



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2020年5月2日土曜日

葬儀は究極のサービス業である(2020年5月2日)-4月25日に永眠した父の葬儀一式にかかわって思うこと


■【謹告】

去る2020年4月25日(土曜日)早朝、父が永眠いたしました。5月3日の誕生日を目前に控えての旅立ちでした。享年83。外出自粛が要請される時節柄、家族葬で浄土への旅立ちを見送りました。初七日が終わったいま、ここにご報告いたします。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。合掌。

「願わくば 光となりて 世をば照らさん」


■葬儀は究極のサービス業

父親が亡くなって、葬儀の一式にかかわることになったわけだが、いろいろ思うことがあったので、この機会に記しておきたいと思う。内容が内容だけに、関心のない人は無視してください。

***

まずは、やはり葬儀は絶対に重要だということ。冠婚葬祭はすべて人生の節目にかかわるものだが、生まれてきたものは、すべて死ぬ。これは宿命であって、宇宙の法則というべきものだろう。だからこそ、誕生とともに葬儀は、きわめて大事な儀式なのだ。

母の話によれば、父は宅で死にたいと希望していたが、病状が悪化したため急遽入院することになった。残念ながら臨終には立ち会えなかった(・・コロナウイルス感染防止のため、病院からは見舞いができないと言われていたのだ)。思うに、自宅で死ぬということは、じつはすごく難しことなのだとだな、と。

病院で亡くなってからは、病院で死に顔はみることができた。手を握ることもできた。病院から葬儀会社までの搬送には霊柩車に同乗し、納棺と告別式、そして火葬には立ち会うことができた。

そのすべてのプロセスに参加することで、死者を見送るということの意味、その重要性をあらためて認識した。儀式は、手順にのっとって粛々と行うことが大事であり、そしてそれこそ意味があることなのだ。

ちなみに故人は浄土宗だったので、浄土にいくことになる。告別式を執り行う導師(僧侶)の読経を聞くともなしに聞いていて、つむっていた目の奥で光が見えたような気がした。浄土は光に満ちた空間なのだ。

話を戻すが、納棺の儀にも立ち会った。映画『おくりびと』の世界そのものだ。映画を企画し、みずから主演を務めたのは元木雅弘だったが、今回の納棺師の方も、30歳台前半という感じの若い方だった。遺体を丁重に扱う専門技能と心遣い。これぞ、まさに究極のサービス業なのだな、と。

火葬場で焼いて、遺骨を骨壺に入れるわけだが、そのときの担当者も20歳台の若い女性だった。納棺師の方もそうだったが、全体的に若い人が多いことが印象に残った。そういえば、タレントの壇蜜もまた、若い頃には葬儀の仕事も体験していたのだなと思い出す。

家族葬で送ったのだが、葬儀いっさいを担当していただいた葬儀会社の葬祭ディレクターもまた、30歳台後半と思われる若い方だった。

映画『おくりびと』には、ほんとうに心から感動したが、あの映画の影響はすごく大きいのだなあと思う。高齢化社会にあって、死ぬ人は、これからどんどん増えていくわけだが、そういう世界に若い人たちが多いということに、心強い強い印象を受けた。

葬儀は、冠婚葬祭のなかでも、きわめつけのサービス業だ。こういう世界に若い人たちが多いということは、ほんとうに心強い。業界じたいは成長しているからだろうか。

いかなる動機からこの業界に入るのか、人それぞれで違いがあるだろうが、若い頃から死について考えることは、ほんとうに重要なことなのだ。

父親を見送るという機会に、いろいろ思ったことの一端を記してみた。


PS 明日5月3日は父の誕生日だった。誕生日を前にして逝った父の無念さを想う。


<ブログ内関連記事>

善光寺御開帳 2009 体験記
・・導師(僧侶)による読経を聞くとのなしに聞いていて、想起したのは善光寺のこと