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2011年1月21日金曜日

どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ



 先日のことだが、東京都内で行われた「シンプルプレゼンのテクニックセミナー」の公開収録に参加した。これから出版予定の本の付録となるの DVD の収録を兼ねたものである。

 セミナーは、ガー・レイノルズ氏による、アップル社のスティーブ・ジョブズ流のプレゼンテーションのテクニックと禅のシンプルさを癒合したということがウリである。レイノルズ氏は日本で日本企業に勤務した経験ももち、日本語も堪能であるが、この日はほぼすべて英語で行われた。

 プレゼンというよりも、ほとんどワンマンショーといってもいいような、構成がしっかりとした、よく練れたセミナーで、よく準備もされていた2時間のセミナーであった。セミナーもエンターテインメントの一種だなと感じさせるものであった。

 早口でよどみのない英語で終始していたが、プレゼン資料とのフィットも問題ない。途中何回か隣に座っているひととワークショップらしきものもセッションとして行う。2時間の長丁場とはいえ、最初から最後まで眠っているヒマはない。

 セミナーのなかでレイノズルズ氏が触れていたが、プレゼンにおいて次の 6つの法則が重要だという。

1.  単純明快である (Simple)
2.  意外性がある (Unexpected)
3. 具体的である (Concrete)
4. 信頼性がある (Credible)
5. 感情に訴える (Emotional)
6. 物語性 (Story)

 頭文字をつなげて 「SUCCESs(サクセス)の法則」というのだが、まあ、うまくできているといえばそのとおりだ。まったく異議はない。

 『アイデアのちから』(チップ・ハース/ ダン・ハース、飯岡美紀訳、日経BP社、2008)に紹介されているものだ。

 私はこの「法則」の存在そのものは知らなかったが、この「法則」を踏まえてプレゼンを行ってきた。今後はより意識してプレゼンを行いたいと思う。

 アップル社の創業者スティーブ・ジョブズ流のプレゼンは、まさにこの法則にあてはまるものだ。真の意味でカリスマ的なジョブズのプレゼンは、ほとんど神業(かみわざ)に近い。


スゴすぎるプレゼンも問題があるのではないか?

 だがちょっと待てよ、ふと冷静になって考えてみる。

 誰もがこんなすばらしいプレゼンができるわけないし、その場では興奮の渦に巻き込まれてしまうが、時間がたつとそのときの興奮は冷めてくるものだ。そのとき、立ち止まって考えてみることが必要だろう。

 何ごとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」という孔子のコトバが想起されてくる。
 「過ぎたるプレゼンは及ばざるがごとし」???

 テレビショッピングではなぜ「ジャパネットたかた」が売れるのかも同時に考えてみたい。

 高田(たかた)氏のしゃべりは、正直いって流暢とはほど遠い、むしろ訥弁に近い長崎弁まじりのしゃべりは、一見したところなぜこの人のしゃべりで人はものを買うのか、と思ってしまう。

 だが、見るからに誠実そうな印象を与えていることもまた確かである。

 テレビショピングがたかた氏とは反対に、情熱的に、饒舌にしゃべりすぎるものが多くて、ウサン臭いと本能的に感じてしまう視聴者が少なくないことを示しているのではないか?

 雄弁必ずしも金(キン)ならず、である。

 たかた氏の事例が示しているものは、セオリーに従うよりも、「自分」の個性をそのまま出したほうが訴求力があるということではなかろうか。

 よく言うじゃないですか、ほんとうにクルマを売っているセールスマンは、自分は饒舌(じょうぜつ)にしゃべることなく、ひたすらお客さんの言うことに耳を傾け、頷いている時間のほうが長い、と。

 全ての人がスティーブ・ジョブズになれるわけではない。また、なる必要もない。あなたは、あなたのままでいいのだ。ただし、最低限のルールを守る必要があるのことは言うまでもない。


どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ

 「自分」を全面的に出す。
 「自分」の体験をからめて話をする。

 これはけっして自慢話ではない。
 あくまでも「自分」というフィルターをつうじた話のほうが、相手につたわりやすいからだ。わたしといいう「自分」のフィルターを通過した話が、あなたという「自分」のフィルターを通過する。

 そこに「共感」があれば、話は伝わるし、「共感」がなければ、その話はスルー(=素通り)してしまうだけだ。

 「自分」を出す際には、自分のプロフィールもできるだけ公開したほうがいい。人前で話すときには当然おことながら「匿名」ということはないだろうが、ツイッターやブログでも「実名」を出して、簡単なプロフィールを明らかにしたほうが、文章を読む側の信用度は高い。

 また、「自分」が何者であるかを示すことによって、自分の話の「限界」も示すことができる。どんな話であれ、「自分」の話は主観的なものであり、同じ現象を見て叙述しても、ものの見方や表現力の違いによって、話す内容や書いた内容には当然のことながらバイアスが存在するからだ。

 すべてのケースにあてはまるかどうかは、話し手ではなく聞き手の側が、自分に照らし会わせて判断すべきことだからだ。聞き手の側に受け入れる素地があれば共感するし、そうでなかったら居眠りしてしまうかもしれない・・(ほんとうに眠いときもある)。

 ここに書いたことは、ブランド力のある有名人の発言にもあてはまる。すべては受け取り側の、話し手に対する「共感の度合い」で決まってくる。全面的に信用する人、発言ごとに共感する人、やや懐疑的に受け取る人、全面否定する人、無関心な人。受取側で反応はさまざまだ。

 またいわゆる「ポジショントーク」についても言えることだ。ポジショントークとは、ある特定の銘柄を推奨する投資評論家によく観察されるもので、自分の有利な方向に導こうとする姿勢があまりにもチラつく話のことである。

 だが、この場合も、誰の発言であるかは「実名」でわかるので、投資の判断はあくまでも、受け手がその発言をどう使うことにかかっている。よほど酷い内容でない限り、受け手の自己責任の要素は大きい。

 「自分」を出し過ぎると、聞く側が引いてしまったり、ウンザリしてしまうことは多々ある。ついついしゃべりすぎてしまいがちな人にありがちなミステークだ。 だが、どんな発言であれバイアスから逃れることはできないとはいえ、これまた「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。

 要は、なにごともバランスであろう。


「実名」 か 「匿名」か、それが問題だ!

 「実名」 か 「匿名」か、それが問題だ。これはネット世界ではきわめて重要な問題である。米国とくらべて匿名での書き込みの多い日本の状況について、よく言及されることである。
  
 しかし、答えはすでに出ている。

 「匿名」よりも「実名」のほうがいいのは、ここまで説明してきたことで明らかだろう。どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるからだ。

 ペンネームで活動している人は、ペンネーム自体がアイデンティティになっているので、ベストではないがセカンドベストとは言えるだろう。ここでいうペンネネームとは、ネット上のハンドルネームのことではない。

 もちろん「匿名」のメリットは大きいことは否定しない。この頃、日本全国で流行るタイガーマスクの贈り物ではないが、どうしても覆面(マスク)でなければでいない行為もある。
 売名行為と受け取られないためには「匿名」は必要だ。また、最近世の中をゆるがせているウィキリークスなども、情報提供者の安全が守られなければならないので、「匿名」は不可欠であろう。

 ただ、この国では、ネット世界での「匿名」による、やや責任を欠いた放言が多いような気がしなくもない。

 この点、最近日本でも参加者が増え始めた世界最大の SNS「フェイスブック」においては、「実名」が原則であり、プロフィールと顔写真の公開も強く推奨されている。

 日本語に直訳すれば「顔本」となるフェイスブックは、あくまでも「実名」によるコミュニケーションを推奨するものだ。「実名」で「自分」を出しているからこそ、社交(ソーシャル)においては、信頼度が増すわけだ。

 フェイスブックの発展は、「実名」公表をためらうマインドブロックをいかに破るかにある。期待しているのは就活の大学生、それに独立予備軍だ。日本が個人中心の社会になるためには「実名」化が大きなカギになる。

 日本も早く「実名」社会になることを望みたいものだ。自立して、自律した個人を基礎とする社会の実現には、「実名」化が不可欠だと思うからだ。ただし、プライバシー情報のセキュリティには十分工夫することが必要である。

 フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグは I'm trying to make the world a more open place. と言っている。日本が「より開かれた世界」になるためには「実名」化が不可欠だ。

 どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ。話が面白いかつまらないかは相手が決めるものだし、その相手との関係性で決まってくることでもある。自分が面白いと思ってもウケないこともあるし、その逆もまたある。

 だからこそ、できるだけ「実名」も「顔写真」も「プロフィール」も公開して、「自分」を全面に出したほうが、人と人との「つながり」も信頼性をもとにした実り多きものとなるだろう。さらに多くの人が発言に耳を傾けるようになるだろう。

 すべての人が、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのような超有名人ではないし、目指す必要もない。等身大の、身の丈にあった「自分」に「自信」をもって生きていけばよいのである。
 
 「自分」は「自信」と裏腹の関係にある。「自信」とは「自分」が「自分」を「信じる」ということだ。「自分」が「自分」を「信頼する」ということだ。英語でいうとセルフ・コンフィデンス。

 少しの「勇気」をもって「自分」を出すことで、同時に「自信」も深めていってほしいと思う。

 最初の一歩を踏み出すかどうかは、あなたという「自分」の「意識」次第である。



<関連サイト>

【セミナー維新 志縁塾】(1)研修はエンターテインメントだ・・志縁塾の大谷由里子氏の特集。吉本興業の大卒女子入社一期生。「研修には笑いが重要、講師は個性を消すなが持論」というのには「共感」する。


<ブログ内関連記事>

■「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

思考と行動の主体はあくまでも「自分」である。そして「自分」はつねに変化の相のもとにある

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

『サリンとおはぎ-扉は開くまで叩き続けろ-』(さかはら あつし、講談社、2010)-「自分史」で自分を発見するということ

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)





(2012年7月3日発売の拙著です)






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2010年12月20日月曜日

『サリンとおはぎ-扉は開くまで叩き続けろ』(さかはら あつし、講談社、2010)-「自分史」で自分を発見するということ



「自分史」を書くことによって「自分」を発見し、これからの人生の道筋をつけるということ

 「自分史」なんて、語っている「自分」以外の「他者」にとっては、面白くもなんともないだろう、とは単純に思う必要はない。

 「自分」の体験をキチンと言語化し、「他者」と共有可能なコトバで語ったとき、それがまったく「他者」とは縁のない「自分」固有の経験であっても、不思議なことに共通性を見出した「他者」によって発見され、ある種の共感をもって読まれることがある。

 また、無名の人を対象にしたインタビュー記事や番組での語りに非常に惹きつけられることがあるが、これはなぜなのだろうか。
 それはおそらく、その人でしか語り得ないことを語っているからであろう。「自分」自身のフィルターを通した経験が、「自分」のコトバとして語られているからであろう。
 もちろん、腕のいいインタビュアーが、その無名人からうまく話を引き出しているということはある。

 まっくの無名人の「自分史」が、自費出版ではなく、商業出版されてことがある。読めば、得意な体験の持ち主とわかるが、ありふれた一人の男性の「自分史」であることには変わりない。
 もちろん、商業出版である以上、編集者がうまく著者の話を引き出して読むに耐えるものに編集している可能性はある。とはいえ、著者の体験そのものは、見せ方は別として原石としての存在感があることは否定できない。

 そういう不思議な内容の一冊があるので、ここで紹介しておきたい。


『サリンとおはぎ-扉は開くまで叩き続けろ-』(さかはら あつし、講談社、2010)


なぜか最後まで読み進めてしまう、不思議な印象に充ち満ちた「自分史」物語

 まず最初に、ある二人の人物の経歴を並べてみよう。

 ●1966年京都府生まれ、京都大学経済学部卒業、電通を経てカリフォルニア大学バークレー校でM.B.A.取得・・・
 ●1962年京都府生まれ、一橋大学社会学部卒業、長銀総研を経てレンセラー工科大学でM.B.A.取得・・・

 前者は、この本の著者さかはらあつし氏の経歴。
 後者は、恥ずかしながら、不肖(ふしょう)私の経歴である。実は私も、カリフォルニア大学バークレー校にはM.B.A.取得前に夏期講習(サマー・エクステンション)参加のため滞在していたので、短期間ながら在学経験がある。

 この二人の経歴は、それぞれ本人の努力のたまものではあるが、経歴だけでものを見る人にとっての意味と、当事者である本人たちの認識とは大きく異なるものである。これは私の自意識においても同じである。見えないところで苦労をしている点は人後に落ちないはず。

 「履歴書」には現れてこない、人知れぬ苦労や失敗があるのだということ、これに気がつかねばならないのではないかということを、この本は教えてくれる。
 もちろん私の苦労は、さかはらあつし氏のものには、遠く及ばないのであるが。

 著者のさかはら氏が、なぜこの本を執筆したのか、いかにして出版に至ったのか、「まえがき」には何も記されておらず、「あとがき」も存在しないので、著者を直接知る人以外はまったく知ることができない。もしかすると、誰も聞かされていないのかもしれない。

 著者は、ある種の学習障害のため集中力と理解力を欠き、高校の成績はビリ。京大には4浪してやっと合格。さらに「サリン事件」際、サリンがまかれた車輌に乗り合わせたことで、さらなる後遺症に現在に至るまで苦しむことになる。

 本書の帯にはこう記されている。「起きていることに、「なぜ?」はない。それはただ起こったんだ。」
 そう、起こっていること、起こったことは、ありのままの事実として受け止めて、受け入れなくてはならないのだ。

 著者が、自殺した友人と交わした3つの約束のうち、京大とMBAは実現した。4浪して京大に入学しただけでなく、米国でM.B.A.という約束も実現。最後に残ったのが、映画でアカデミー賞を受賞するという約束である。 

 この本の執筆は脚本家(シナリオ・ライター)修業の一環なのだろうか。自らの半生を「自分史」としてさらけ出すことは、もちろん取捨選択というプロセスを経ているので語られていないこともあろうが、勇気のあることだ。

 シンクロニシティ。二度の交通事故に遭遇しても死ななかった経験。サリン事件の車輌に乗り合わせた経験。そしてなんと、知らずにオウムの加害者側にいた女性に引き寄せられて結婚し離婚したという経験。人生は「たまたま」なのか、それとも「引き寄せ」という宇宙の法則(?)が働いているのか・・・

 「叩き続ければ、扉は一瞬だけ開く」という人生の教えを実行していった、一人の男性の44歳の人生が、最後まで読ませてしまうのはなぜか?

 実に不思議な本だった。この人の人生を知ったからといって、何になるのかわからないのだが・・・。それだけ、無意識のうちに人を惹きつけるチカラをもった人なのだろうと思う。

 もうひとつの隠れたテーマは、ユダヤ人と映画産業である。これも何かの「導き」なのだろうか? 著者が学生時代に観光ガイドとして出会ったユダヤ教のラビとの交友から始まった見えない糸である。

 タイトルの「サリン」についてはいうまでもないが、「おはぎ」とは、著者の友人が製作した短編映画のことだ。

 本書には、著者の人生を導いた魅力的なコトバがいくつも引用されている。

 -入学後のガイダンスでの経済学部長の話(P.57)
 -「天才論」の授業での教授の話(P.68)
 -千葉敦子の『ニューヨークの24時間』(P.125)

 『ニューヨークの24時間』(千葉敦子、文春文庫、1990)は、私の愛読書でもあって、米国留学には持参したくらいだ。『ニューヨークでがんと生きる』の著者は、すでに1987年に亡くなってから23年もたっているから忘却されてしまっているのか、現在は、絶版であるのが残念。


 本書に引用されたコトバは、著者自身の感受性のフィルターを濾過したものばかりだが、ほぼ同世代の私もつよく共感するものばかりである。

 私の世代以外の人にとっても響くコトバであるといいと思う。




目 次 

第1章 やりたかったらやってみるしかない
 - 共通一次 150点からの京大受験
第2章 いま起きていることを見逃すな
 - 就活、電通入社からサリン事件遭遇
第3章 夢に向かって前進できる仕掛けを作れ
 - 人の夢のアシストをする 生き延びるための熾烈な戦い
第4章 「なぜ?」はない。それはただ起こったんだ
 - どこまでもつきまとうオウム真理教の影


著者プロフィール

さかはら あつし

1966年、京都府生まれ。4浪して京都大学経済学部に入学。1993年に卒業後、電通に入社。1995年3月20日、通勤途上で地下鉄サリン事件に遭遇。サリンが撒かれた車両に乗車したが、奇跡的に重篤な被害を免れた。事件後、電通を退社。1996年渡米しMBA取得。帰国後、2002年、かつてオウム真理教側にいた女性とめぐり会い結婚する。2003年、離婚。2009年、アカデミー賞の招待客としてレッドカーペットの上を歩くという経験をする。現在、アカデミー賞獲得を目指し、サリンの後遺症と闘いながら人生を歩み続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。




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2010年11月16日火曜日

書評 『仕事ができる人の心得』(小山昇、阪急コミュニケーションズ、2001)-空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「実践経営語録」




空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「実践経営語録」

 自社の社員向けに作られた「経営用語解説」を、著者自ら編集したものだという。

 著者は現役の中小企業オーナー経営者、中小企業の経営者教育の分野でも有名な実践派である。いわば「小山昇経営語録」を、辞書のように「あいうえお順」に並べ替えたものだ。

 ただ、タイトルはもっと工夫したほうが、さらに多くの人が手にとるのではないか、とも思う。おそらく研修用テキストだから、書店で手にとって購入する人はそう多くないからかもしれない。

 この本を、もし私が新入社員の頃に上司や経営者から読めといわれても、「読んでも意味がよくわからないし、あまり面白くない本だ」と思って、うち捨てたままにしておいただろう。20歳台のビジネスパーソンにとっては、この本は「自己啓発本」ではないかもしれない。地味な装丁で、内容も地味な小型の本で、これといったキャッチがいっさいないからだ。

 ビジネスマンになってからすでに25年、中小企業の経営にも携わった経験をもつ私からみれば、「当たり前のことが当たり前にかいてある」と思いながらも、「いや、これだけ含蓄のある、しかもストレートなコトバを吐ける社長って、なかなかいないんじゃないか?」とも思うのである。

 「当たり前のことを当たり前にやる」ことの難しさと、しかもそれを実行したときにあらわれるスゴイ効果については、私自身も自分のビジネス上の実体験からも断言できる。

 実は、この本の存在はまったく知らなかたのだが、最初のページから最後のページまで、すべて通読してみて思ったのは、「しまった、もっと早く知っていれば、自社内の社員研修に使えたのに・・・」という後悔とも、賞賛ともつかない思いだった。

 何気ないコトバは著者の体験から生み出されてものばかりであり、読んでいてハッとしたり、ギクっとすることも多い。机上の空論がいっさいない、すべて著者の実践から生まれたコトバばかりである。一つ一つナルホドとうなづきながら読んでいたら、けっこう時間がかかってしまった。

 この本は、オーナー経営者自身が、日頃なにを思っているかを、エッセンスをすべてさらけだした本であり、また経営者自身が自らを戒める本でもある。

 そして、著者自身が「正しい使用法」として推奨しているように、社内研修で使用すべきテキストである。仕事経験の短い若者には、かつての私ではないが、おそらく読んでもピンとこないだろうし、一人でひそかに読んで効果がでてくるような内容の本でもない。

 コトバの意味を、浅い深いはあろうが、それぞれの仕事上の具体的な経験、シチュエーションに会わせて、複数の人間のあいだで読み合わせていくことが、一番の近道であるはずだ。

 もちろん自分用に一冊手元において、折に触れパラパラとめくったページにでてきたコトバをじっくり読んでみることも大きな効果がある。かならずや、「気づき」と「自戒」の思いを抱くはずだろう。そしてその地道な一歩一歩の積み重ねの結果、「仕事ができる人」になっていくのである。

 「仕事ができる人」は成長しつづける人のことでもある。あくまでも仕事をつうじてPDCAのサイクルをまわしていくことだ。このC(=チェック)において、この本が役にたつことだろう。

 「仕事ができる人」になりたい人は、どの年齢層の、どの階層の人でも、かならず一冊手元においておきたい本だ。とくに中堅中小のオーナー企業に勤務する人にとっては必携だろう。

 これで一冊で1,000円(+消費税)とは驚きの価格設定だ。それだけ中身の濃い本である。



<初出情報>

■bk1書評「空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「経営語録」」投稿掲載(2010年4月20日)
■amazon書評「空理空論がいっさいない、著者の実践から生まれた「経営語録」」投稿掲載(2010年4月20日)

*再録にあたって一部加筆修正。


増補改訂版が2012年に出版された



著者プロフィール

小山昇(こやま・のぼる)

1948年、山梨県出身。株式会社武蔵野代表取締役社長。情報ツールを活用した独自の経営革命によって飛躍的な業績向上を実現、経営者・管理職を中心に注目を集めている。1999年「日本メッセージング協議会会長賞」、2000年「経営品質賞」受賞。『強い会社をつくりなさい』(阪急コミュニケーションズ、2006)、『社長儲けたいなら数字はココを見なくっちゃ!』(すばる舎、2007)など著書多数。



<内容の一部抜粋>

【経営】 環境適応業です。変わらなければ失敗する。
【給料】 社長からもらうものではありません。お客様が支払ってくださるものです。
時間の管理】 仕事に時間を割り振るのではなく、時間に仕事を振り分けることです。
【自己育成】 今のあなたを、あなたが喜んで自分の部下として使えるようにすることです。
【働く】 会社に出勤してくることではありません。粗利益額を上げることです。
ビジネス】 天才はいらない。才覚よりも、努力が認められる世界です。
【市場】 お客様とライバルしかいない。わが社のお客様から注文が来なくなったら、それはライバルのところに行っているということです。
【猫に小判】 この本のことです。持っているだけで実行しない人のことです。

(2013年10月22日 追加)


<ブログ内関連記事>

PDCA (きょうのコトバ)

書評 『経営管理』(野中郁次郎、日経文庫、1985)-日本の経営学を世界レベルにした経営学者・野中郁次郎の知られざるロングセラーの名著

書評 『経営の教科書-社長が押さえておくべき30の基礎科目-』(新 将命、ダイヤモンド社、2009)-経営者が書いた「経営の教科書」

(2014年2月24日 情報追加)




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2010年6月28日月曜日

「知識が先か、経験が先か・・」-人生の「棚卸し」をつうじて考えてみる


                    

 「知識が先か、経験が先か・・・」

 なんだか「ニワトリが先か、タマゴが先か」みたいな話だが、最近の若い人たちがなかなか行動をしないいい訳として、「だってやったことがないから・・・」というのが多いらしい。これは、ある記事を読んで知った。

 最近の新入社員は、「できない理由を知識として知っているが、実際に自分が体験したことがないので行動するのが怖い」らしい。

 これではまるで「前例がないからできません」という役人の答弁と同じではないか。できない理由は、いままでに前例がないからといういい訳であるが、「怖い」という感情は同じである。


 その記事の執筆者によれば、最近の若者たちは「知識が多すぎて行動できない」らしい。知識過剰のため、身動きできなくなってしまっているという。ここまできたらほとんどビョーキだね。

 おそらくその「知識」とは、本であれ、TVであれ、インターネットであれ、自分が経験したことによって得た知識ではなく、他人の経験をもとに知識化された知識のことななおだろう。リアルな知識ではなく、バーチャルな知識。

 この文脈においては、知識は行動の阻害要因となっているわけだ。知識は行動を促すだけではなく、行動を阻害するという側面ももつということである。

 知識が過剰になると、経験していなくても知っているような気になって行動に結びつかないということだけではないのではないだろう。しかし、それは生きた知識ではない。

 喩えとしては適切かどうかわからないが、操作マニュアルを隅から隅まで読み込まないと情報機器をいじれない機械オンチな人のようでもある。

 若い人たちの大半は、マニュアルをみないでいきなり使い始めることができているハズだともうのだが・・・これが仕事になると怖じ気づいてできなくなってしまうのはなぜだろうか。


 「知識が先か、経験が先か・・・」

 ところで、いきなり話題がかわるが、「人生の棚卸し」について少し考えてみたい。

 ネット上の交流サイトの一つに、米国発の Facebook(フェースブック) というものがあるが、最近は日本語の機能が充実してきたこともあって、いま日本でも爆発的に参加者が増加中のようだ。
 先日、リタイア後に「自分史」講座開いている方と知り合いになったのだが、ネット上で会話をしていて、いろいろと気づかされることがあった。会話を再現してみよう。



(私)
 30歳台の方が受講者にいるというのは、正直いってオドロキです。まだまだ歴史をつくる世代だと思うんですが・・・

(自分史さん)
 「自分史」は仕事をリタイアした人がつくるものというのは固定概念だと思います。教職でクラス担任をやっていた時、夏休みの課題として「自分史」を出題したことがあります。

(私)
 私こそ、固定観念のかたまりだったわけですね・・・反省です。「自分史」は「履歴書」みたいに、書き換えていけばいい、ということですね。勉強になりました。

(自分史さん)
 一次情報、二次情報といいますが、一番大切な情報は第一次情報ではないでしょうか? マスコミの情報でも、人の話でもなく、自分の感覚で得た情報です。
 自分史は、自分が生きてきた時代と向き合って一次情報をしっかりと整理する作業である、と言えるのではないでしょうか?

(私)
 おっしゃるとおりですね。そういった一次情報を、社会的背景のもとにキチンと客観的に位置づけてみること、これが「自分史」である。こういう理解でよろしいでしょうか?

(自分史さん)
 その通りです。「自分史」を作りながら、「人生の棚卸し」をしてみようということなんです。


 
 そう、重要なのは一次情報であって、他人から仕入れた二次情報ではない。一次情報とは、何よりも自分が経験したこと、体験することによって得た情報のことである。

 経験情報といってもいいし、体験情報といってもいいかもしれない。他人にとっては意味をみたないかもしれないが、たとえ主観的なものであったとしても、ある意味ではかけがいのない情報である。

 この情報が自分のなかで咀嚼(そしゃく)されることによって知識になることもあるし、たんなる情報としてとどまっていることもある。

 「自分史」執筆という作業をつうじて、自分の経験や体験の意味をあらためて考えてみるというのは、非常にに意味のあることのようだ。


 私自身はいまだ自分史執筆は行っていないが、未遂も含めて転職経験が多数あるので、その都度、履歴書の作成と書き換えを行ってきた。

 履歴書(resume)は、主に求職の際に作成されるものだが、この作業には自分の仕事を中心にした軌跡だけでなく、人生の過ぎ来し方を顧みるという行為が含まれる。

 そもそも、履歴書に書ける実績をつくるためには、行動しなくてはならないではないか。そして自分が仕事の上で経験したしたことを、客観的な形で相手にもわかるようなコトバで整理することことは、実はかなり知的な作業である。

 行動の軌跡は経験の集積であり、いいかえれば一次情報収集の蓄積である。この行動の軌跡を振り返り、内面的対話や転職カウンセラーとの対話によってその意味に気づき、自分の経験してきたことを知識として整理する。

 このプロセスは、履歴書を作成する際には顕在化するが、自分が経験して得た一次情報を知識化するうえで、きわめて有効な方法でわるといえるだろう。


 大学2年のときに大学生協で「棚卸し」のアルバイトをしたことがある。
 商学部の学生でない私は、「棚卸し」の意味を当時はまったく知らず、生協の職員の指示のままに、棚にある商品の名前を読み上げて個数を数えては、フォーマットに記入していった。そのときは、ただたんにアルバイトの一つとして作業を行っただけで、会計学を知らない私にとって、棚卸しの意味はカラダを使った作業の段階にとどまったままだった。
 棚卸しの意味を本当にアタマで理解したのは、就職して会計学についても勉強せざるをえなくなって、「棚卸資産」の意味を知ってからである。しかし、体験を先にやっていたおかげで、棚卸しというとリアルにイメージすることができるのだ。
 私にとって「棚卸し」とは、なんといっても、大学生協の店舗のなかで二人一組になって、腰をかがめながら、シャンプーを手にとって商品名を読み上げ、個数を記入していったという、具体的な画像記憶と結びついたコトバなのである。


 「知識が先か、経験が先か・・・」

 こんなことを書いてくると、それは経験の方が先に決まっているじゃないか、といってしまいたいところだが、本当のことをいうと、知識と経験がうまい具合に相互作用しているのが理想型だろう。

 私のように何も考えずにいきなり行動を始めてしまうというのでは、自分のやっていることの意味がわからないし、ときには危険なことであることも否定はできない。


 英語に A little Learning is a Dangerous Thing. という格言がある。日本語では「生兵法は怪我のもと」に該当するが、少しぐらいの怪我ならなんともないだろう。同じ失敗は二度繰り返さなければいいのであって、そのためには切り傷程度の怪我なら多少はしても致命的ではない。

 もちろん、ときには、「あたって砕けろ」Go for Broke. ということも重要だが、これは万人におすすめできることではない。


 毛澤東の「泳ぎながら、泳ぎを覚える」というコトバで締めておこうか。「畳のうえの水練」ではなく、水のなかでもがきながら泳ぎを覚える。スパルタ教育のような印象がなくもないが、『実践論』の著者ならではの発言ではないか。私は毛澤東のこのコトバが好きである。



 「要はバランスだ」、といってしまいたい誘惑にかられるのだが、「知識が先か、経験が先か・・・」というテーマについては、もう少し考えてみたいと思っている。



<ブログ内関連記事>
働くということの意味

コンラッド『闇の奥』(Heart of Darkness)より、「仕事」について・・・そして「地獄の黙示録」、旧「ベルギー領コンゴ」(ザイール)
・・・「なにも僕が仕事好きだというわけじゃない。・・(中略)・・ただ僕にはね、仕事のなかにあるもの--つまり、自分というものを発見するチャンスだな、それが好きなんだよ。ほんとうの自分、--他人のためじゃなくて、自分のための自分、--いいかえれば、他人にはついにわかりっこないほんとうの自分だね。世間が見るのは外面(うわべ)だけ、しかもそれさえ本当の意味は、決してわかりゃしないのだ (中野好夫訳、岩波文庫、1958 引用は P.58-59)



(2012年7月3日発売の拙著です)


・・「自分史」についての考察は、この本でより深めています。











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