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2011年1月21日金曜日

どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ



 先日のことだが、東京都内で行われた「シンプルプレゼンのテクニックセミナー」の公開収録に参加した。これから出版予定の本の付録となるの DVD の収録を兼ねたものである。

 セミナーは、ガー・レイノルズ氏による、アップル社のスティーブ・ジョブズ流のプレゼンテーションのテクニックと禅のシンプルさを癒合したということがウリである。レイノルズ氏は日本で日本企業に勤務した経験ももち、日本語も堪能であるが、この日はほぼすべて英語で行われた。

 プレゼンというよりも、ほとんどワンマンショーといってもいいような、構成がしっかりとした、よく練れたセミナーで、よく準備もされていた2時間のセミナーであった。セミナーもエンターテインメントの一種だなと感じさせるものであった。

 早口でよどみのない英語で終始していたが、プレゼン資料とのフィットも問題ない。途中何回か隣に座っているひととワークショップらしきものもセッションとして行う。2時間の長丁場とはいえ、最初から最後まで眠っているヒマはない。

 セミナーのなかでレイノズルズ氏が触れていたが、プレゼンにおいて次の 6つの法則が重要だという。

1.  単純明快である (Simple)
2.  意外性がある (Unexpected)
3. 具体的である (Concrete)
4. 信頼性がある (Credible)
5. 感情に訴える (Emotional)
6. 物語性 (Story)

 頭文字をつなげて 「SUCCESs(サクセス)の法則」というのだが、まあ、うまくできているといえばそのとおりだ。まったく異議はない。

 『アイデアのちから』(チップ・ハース/ ダン・ハース、飯岡美紀訳、日経BP社、2008)に紹介されているものだ。

 私はこの「法則」の存在そのものは知らなかったが、この「法則」を踏まえてプレゼンを行ってきた。今後はより意識してプレゼンを行いたいと思う。

 アップル社の創業者スティーブ・ジョブズ流のプレゼンは、まさにこの法則にあてはまるものだ。真の意味でカリスマ的なジョブズのプレゼンは、ほとんど神業(かみわざ)に近い。


スゴすぎるプレゼンも問題があるのではないか?

 だがちょっと待てよ、ふと冷静になって考えてみる。

 誰もがこんなすばらしいプレゼンができるわけないし、その場では興奮の渦に巻き込まれてしまうが、時間がたつとそのときの興奮は冷めてくるものだ。そのとき、立ち止まって考えてみることが必要だろう。

 何ごとも「過ぎたるは及ばざるがごとし」という孔子のコトバが想起されてくる。
 「過ぎたるプレゼンは及ばざるがごとし」???

 テレビショッピングではなぜ「ジャパネットたかた」が売れるのかも同時に考えてみたい。

 高田(たかた)氏のしゃべりは、正直いって流暢とはほど遠い、むしろ訥弁に近い長崎弁まじりのしゃべりは、一見したところなぜこの人のしゃべりで人はものを買うのか、と思ってしまう。

 だが、見るからに誠実そうな印象を与えていることもまた確かである。

 テレビショピングがたかた氏とは反対に、情熱的に、饒舌にしゃべりすぎるものが多くて、ウサン臭いと本能的に感じてしまう視聴者が少なくないことを示しているのではないか?

 雄弁必ずしも金(キン)ならず、である。

 たかた氏の事例が示しているものは、セオリーに従うよりも、「自分」の個性をそのまま出したほうが訴求力があるということではなかろうか。

 よく言うじゃないですか、ほんとうにクルマを売っているセールスマンは、自分は饒舌(じょうぜつ)にしゃべることなく、ひたすらお客さんの言うことに耳を傾け、頷いている時間のほうが長い、と。

 全ての人がスティーブ・ジョブズになれるわけではない。また、なる必要もない。あなたは、あなたのままでいいのだ。ただし、最低限のルールを守る必要があるのことは言うまでもない。


どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ

 「自分」を全面的に出す。
 「自分」の体験をからめて話をする。

 これはけっして自慢話ではない。
 あくまでも「自分」というフィルターをつうじた話のほうが、相手につたわりやすいからだ。わたしといいう「自分」のフィルターを通過した話が、あなたという「自分」のフィルターを通過する。

 そこに「共感」があれば、話は伝わるし、「共感」がなければ、その話はスルー(=素通り)してしまうだけだ。

 「自分」を出す際には、自分のプロフィールもできるだけ公開したほうがいい。人前で話すときには当然おことながら「匿名」ということはないだろうが、ツイッターやブログでも「実名」を出して、簡単なプロフィールを明らかにしたほうが、文章を読む側の信用度は高い。

 また、「自分」が何者であるかを示すことによって、自分の話の「限界」も示すことができる。どんな話であれ、「自分」の話は主観的なものであり、同じ現象を見て叙述しても、ものの見方や表現力の違いによって、話す内容や書いた内容には当然のことながらバイアスが存在するからだ。

 すべてのケースにあてはまるかどうかは、話し手ではなく聞き手の側が、自分に照らし会わせて判断すべきことだからだ。聞き手の側に受け入れる素地があれば共感するし、そうでなかったら居眠りしてしまうかもしれない・・(ほんとうに眠いときもある)。

 ここに書いたことは、ブランド力のある有名人の発言にもあてはまる。すべては受け取り側の、話し手に対する「共感の度合い」で決まってくる。全面的に信用する人、発言ごとに共感する人、やや懐疑的に受け取る人、全面否定する人、無関心な人。受取側で反応はさまざまだ。

 またいわゆる「ポジショントーク」についても言えることだ。ポジショントークとは、ある特定の銘柄を推奨する投資評論家によく観察されるもので、自分の有利な方向に導こうとする姿勢があまりにもチラつく話のことである。

 だが、この場合も、誰の発言であるかは「実名」でわかるので、投資の判断はあくまでも、受け手がその発言をどう使うことにかかっている。よほど酷い内容でない限り、受け手の自己責任の要素は大きい。

 「自分」を出し過ぎると、聞く側が引いてしまったり、ウンザリしてしまうことは多々ある。ついついしゃべりすぎてしまいがちな人にありがちなミステークだ。 だが、どんな発言であれバイアスから逃れることはできないとはいえ、これまた「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。

 要は、なにごともバランスであろう。


「実名」 か 「匿名」か、それが問題だ!

 「実名」 か 「匿名」か、それが問題だ。これはネット世界ではきわめて重要な問題である。米国とくらべて匿名での書き込みの多い日本の状況について、よく言及されることである。
  
 しかし、答えはすでに出ている。

 「匿名」よりも「実名」のほうがいいのは、ここまで説明してきたことで明らかだろう。どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるからだ。

 ペンネームで活動している人は、ペンネーム自体がアイデンティティになっているので、ベストではないがセカンドベストとは言えるだろう。ここでいうペンネネームとは、ネット上のハンドルネームのことではない。

 もちろん「匿名」のメリットは大きいことは否定しない。この頃、日本全国で流行るタイガーマスクの贈り物ではないが、どうしても覆面(マスク)でなければでいない行為もある。
 売名行為と受け取られないためには「匿名」は必要だ。また、最近世の中をゆるがせているウィキリークスなども、情報提供者の安全が守られなければならないので、「匿名」は不可欠であろう。

 ただ、この国では、ネット世界での「匿名」による、やや責任を欠いた放言が多いような気がしなくもない。

 この点、最近日本でも参加者が増え始めた世界最大の SNS「フェイスブック」においては、「実名」が原則であり、プロフィールと顔写真の公開も強く推奨されている。

 日本語に直訳すれば「顔本」となるフェイスブックは、あくまでも「実名」によるコミュニケーションを推奨するものだ。「実名」で「自分」を出しているからこそ、社交(ソーシャル)においては、信頼度が増すわけだ。

 フェイスブックの発展は、「実名」公表をためらうマインドブロックをいかに破るかにある。期待しているのは就活の大学生、それに独立予備軍だ。日本が個人中心の社会になるためには「実名」化が大きなカギになる。

 日本も早く「実名」社会になることを望みたいものだ。自立して、自律した個人を基礎とする社会の実現には、「実名」化が不可欠だと思うからだ。ただし、プライバシー情報のセキュリティには十分工夫することが必要である。

 フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグは I'm trying to make the world a more open place. と言っている。日本が「より開かれた世界」になるためには「実名」化が不可欠だ。

 どんな話であれ「自分」を全面的に出したほうが、人はその話に耳を傾けるものだ。話が面白いかつまらないかは相手が決めるものだし、その相手との関係性で決まってくることでもある。自分が面白いと思ってもウケないこともあるし、その逆もまたある。

 だからこそ、できるだけ「実名」も「顔写真」も「プロフィール」も公開して、「自分」を全面に出したほうが、人と人との「つながり」も信頼性をもとにした実り多きものとなるだろう。さらに多くの人が発言に耳を傾けるようになるだろう。

 すべての人が、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのような超有名人ではないし、目指す必要もない。等身大の、身の丈にあった「自分」に「自信」をもって生きていけばよいのである。
 
 「自分」は「自信」と裏腹の関係にある。「自信」とは「自分」が「自分」を「信じる」ということだ。「自分」が「自分」を「信頼する」ということだ。英語でいうとセルフ・コンフィデンス。

 少しの「勇気」をもって「自分」を出すことで、同時に「自信」も深めていってほしいと思う。

 最初の一歩を踏み出すかどうかは、あなたという「自分」の「意識」次第である。



<関連サイト>

【セミナー維新 志縁塾】(1)研修はエンターテインメントだ・・志縁塾の大谷由里子氏の特集。吉本興業の大卒女子入社一期生。「研修には笑いが重要、講師は個性を消すなが持論」というのには「共感」する。


<ブログ内関連記事>

■「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

思考と行動の主体はあくまでも「自分」である。そして「自分」はつねに変化の相のもとにある

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

『サリンとおはぎ-扉は開くまで叩き続けろ-』(さかはら あつし、講談社、2010)-「自分史」で自分を発見するということ

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)

自分のアタマで考え抜いて、自分のコトバで語るということ-『エリック・ホッファー自伝-構想された真実-』(中本義彦訳、作品社、2002)





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end

2010年12月19日日曜日

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)―「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは



「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)が本になる前に聞いていたこと

 以前このブログでも紹介したが、大学時代の恩師である歴史学者・阿部謹也先生には『自分のなかに歴史を読む』(ちくまプリマーブックス、1988)というロングセラーの名著がある。現在は文庫化(2007)されて、ちくま文庫としても入手可能である。

 自分のなかを深掘りしていけば、かならず「一生かけてでも取り組むべきテーマ」が見つかるはずだ、というのが『自分のなかに歴史を読む』の趣旨である。逆に言うと、そうでないテーマ設定をしている学者があまりにも多いことへのアンチテーゼでもある。

 もちろん、「一生かけてでも取り組むべきテーマ」なんて簡単に見つかるわけではないが、自分の内部から発する、内発的な動機付けを欠いたテーマでは、たとえ学会で高い評価につながるものであったとしても、深い達成感はないだろう。

 学者の場合は研究テーマであり、仕事人の場合であれば達成すべき目標や夢となる。目標や夢には、もちろん長期のものも短期のものもある。


 私が大学生のとき、阿部ゼミではこいういう課題が課されていた。いままでの人生のなかで、最も影響を受けた本、インパクトを受けた本を一冊選んで、ゼミ合宿で報告せよ、と。
 
 大学二年生の「前期ゼミ」で私が選んだのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』という長編小説。精神病棟と法医学教室を舞台に、「心理遺伝」というテーマを展開した小説で、おどろおどろしい表紙画の文庫本である。
 高校時代いつもこの文庫本を本屋で眺めてはいつか読みたいと思っていたのだが、大学に入学してやっと読むことができた。この小説を超える作品はないというほどインパクトのある小説である。

 『ドグラ・マグラ』は、探偵小説・幻想小説作家の夢野久作が、10年の歳月をかけて完成した長編小説で、作者はこの一作を書くために生きてきたと述懐した作品。その発言の数ヶ月後、作家は脳溢血で死去。文字通りの代表作となった。
 夢野久作は、福岡藩出身の玄洋社系国家主義者・杉山茂丸の長男。夢野久作自身、子どもの頃から頭山満などの右翼界の大物たちにかわいがられてきたこともあり、『近世怪人伝』という、幕末の志士たちや右翼人士たちを描いた、たいへん貴重な伝記オムニバスも遺している。
 夢野久作の作品は、評論やエッセイもふくめて、ほとんど全部読んでしまったが、こういう作家を20歳になる前に読むということがいかなる意味をもつのか自分にはよくわからない。
 個人的には、満洲物である 『氷の涯(はて)』が、夢野久作の最高傑作だと思っている。

 三年生になって本格的に「後期ゼミ」になってからは(・・二年から通算3年間、阿部謹也ゼミナールに在籍したことになる)、「ゼミ合宿」では河口慧海(かわぐち・えかい)の『チベット旅行記』を取り上げて報告した。西洋中世史のゼミだが、「自分」自身それほどヨーロッパには強い思い入れがなかったことがあるのかもしれない。ただし、チベットを取り上げたのは、その当時流行っていた「ニューアカ」(・・ニューアカデミズムの略)の旗手の一人であった中沢新一とは関係ない。
 ちなみに『チベット旅行記』は、高校時代のワンゲル(=ワンダーフォ-ゲル)の部室に積んであった雑誌「山と渓谷」のバックナンバーで紹介されていて初めて知った。日本を出発する際の河口慧海を描いた挿絵が、画像記憶として私のなかにある。

********

 話がそれてしまったが、19歳(?)くらいの時点で、こういう本を選択したということは、自分にはよく説明できないながらも、問わず語りに自分を語ってしまっていることになるのだろう。

 「~が好き」と表明することは、間接的な仕方による「自分発見」ということになる。そして、そのことがゼミでの課題の意味であったのだろう。

 『自分のなかに歴史を読む』として一冊にまとめられたのは 1988年、私が卒業した後のことである。在学中から卒論テーマの設定にあたって、上原専禄先生から言われた話などエピソードとして何度も聞いていたが、ゼミ合宿での課題とは、まさに「自分のなかに卒論テーマを見つける」ための誘導であったのだと、いまになってからは理解できる。

 なお、卒論として選んだテーマと、なぜそのテーマを選んだかについては、『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・ において、25年後に振り返って書いてみた。

 結局、私の場合も、卒論テーマ自体はは卒論執筆後はとくに継続的に探求してはいないものの、そのテーマを選択したということの意味は、その後の人生を暗示しているような気がしないでもない。

*******

 その後、私が卒業した後は、ゼミにおいての問いかけの様式が変わったらしい。学長に選出されて多忙ななか、学生たちの求めに応じて開いた自主ゼミでは、以下のようなことが行われたようだ。

 『日本人はいかに生きるべきか』(阿部謹也、朝日新聞社、2001)という本に収録された「大学で何を学ぶか」という講演録で以下のように述べられている。


 まず最初に、一年生の学生に、自分のこれまでの18歳くらいまでの人生を、とくに両親との関係、兄弟・友人との関係、高校の教師との関係を中心にして、400字詰め20枚くらい書いてもらった。そしてそれをみんなの前で話してもらうのです。それが厭な人は、自分が好きな絵とか音楽とか小説を紹介する、ということにして始めたわけです。
 私のゼミでは20年前からそういうことをやっているんですが、(・・・中略・・・)その小説家は20歳までの体験で作品が40まで生きられるぐら書けるといっている。(・・・中略・・・)
 まあ、そういう例は稀としても、私たちは、20歳までの体験というものを大事にする必要がある。それはなぜかというと、20歳までの体験で別に小説・詩を書かなくてもいいんですけれど、自分がどんな人間関係のなかにいたかを知ることが大事なんです。
 最近はしばしば雑誌とか新聞でよく「自分を発見する」とか「自己発見」とか「自分を見つける」とかいうんですが、これはほとんど言葉だけですね。「自分を見つける」とはどういうことか。自分というのはわかっているわけです。顔も知っているし、名前も知っているし、自分というものを知らない人はひとりもいない。それを改めて発見するとはどういうことかというと、結局他の人との、つまり親とか兄弟とか友人とか先生とか、その関係のなかに自分の身を置いてみること、その関係のなかで自分が育ってきたその過程をもう一回たどってみるということなんですね。それはもうひとつ進めて言えば、そのなかで自分の根が生まれてきていると言うことを確かめる、そこで自分が見えてくるという手続きなんですね、これをやってみる必要がある。(P.85~86)。


 18歳や19歳の人間にとっても、いままでの人生のなかでいかなる関係を他者ともってきたかをたどることは、自分の根っこを確認することになるわけなのだ。そしてその根っこを確認することなしには、自分の内側からテーマは生まれてこない、テーマを見つけることができないというわけなのだ。

 20歳までにその人の人生の大まかなところは決まってしまうと言ったのは、私の記憶ではたしか『長距離走者の孤独』を書いた英国の作家アラン・シリトーのことだったようだ。

 現代では平均寿命も延びているので、もう少し長めにとってもいいのかもしれないが、そうはいってもやはり 18歳くらいの時期でこの作業を行うことの意味はきわめて大きい。



「自分史」をつくるとは

 「自分史」をつくる作業とは、つまるところ、過去の振り返ることによって、未来に向けて生きる「自分」を再発見する作業のことだ。自分がかかわってきた人間関係のなかに身を置くことで、「自分」が現時点まで何であったのかということが再確認される。

 「自分史」とはパーソナル・ヒストリー、「人に歴史あり」というではないか。

 人間存在は歴史のなかで連続的なものである以上、これまでの「自分」を完全に断ち切ったり、まったく別の次元に飛躍したりすることなどできるはずがないのだ。だからこそ、現時点に至までの「自分」を再発見する行為は、未来に向けての「自分」をつくっていく作業ともなる。歴史というものは、個人のものであれ、組織のものであれ、民族や国家のものであれ、連続的で重層的な構造をもつ。

 自分の過去の軌跡をたどり直し、そこで得た成功体験も失敗体験もすべて含めた経験から学び直すこと。体験とはすべて実践の結果である。実践とはあくまでも自分というフィルターをとおして思考し、行動し、体験する行為のことである。

 一次情報、二次情報、三次情報という考え方があるが、「自分史」においてもっとも大事な情報とは、一次情報のことだ。自分が直接体験したことによって得た情報が、一次情報の最たるものである。
 マスコミの情報でも、人の話であっても、「自分のフィルター」をとおして、自分なりの感想やコメントをつけたものは付加価値のついた 1.5次情報であるといってもよいが、やはり中心になるのは一次情報である。

 自分がかかわった出来事を、自分の主観的な選択のもとに、自分にとっては「外部環境」である社会全体の出来事とリンクさせながら、自分自身の年表を作る。
 具体的な作業は、そのようなものになる。

 「自分史」とは、自分が生きてきた軌跡を、自分が生きてきた時代の向き合って、一次情報をしっかりと整理し、歴史のなかに位置づける作業である。

 さきにも書いたように、仕事人にとっての「履歴書」は、それだけでは「自分史」ではないが、実は「自分史」の一構成要素となりうるものである。

 ほんとうは、つねにアクション(=行動)とリフレクション(=省察)の往復運動を日々行うことが望ましい。だが極度に多忙であると、流されてしまって「自分」についてリクレクションを行うヒマがないし、またたとえできたとしても浅いものになりがちだ。

 その意味でも、リストラや転職、定年退職という節目は、「自分史」を振り返るには適しているといえる。

 私がこのブログで、「自分」を全面に出して書いているのは理由がある。

 書くことによって、自分を徹底的に掘り、そこであらたな発見を見出す喜びがあるからであり、また完全な客観性というものは実のところ存在しないと考えているからでもある。

 あくまでも「自分」というフィルターを通ったものが文字として記されているのであり、同じ事象をみても見る人によって異なる見解をもつのは当然のことだからだ。だから、読む人はバイアスがかかっていることを前提にして、読者自身の「自分のフィルター」で判断していただきたい。



歴史には、飛躍も断絶もない。現在は過去の堆積の上にある。未来は現在の延長線上にあるが、確率論的にしか捉えることはできない
 
 企業で行う理念つくりにおいても、まずなすべきことは「社史」の作成だ。「自分」と対比させれば「自社」。その歴史は「自分史」と対比させれば、「自社史」というのが正確なところうか。

 「温故知新」というわけではないが、現時点にいたるまでの組織の過去をたどることなく、未来について考えたり語ったりすることはできない。これを踏まえて、将来に向けてのビジョンや、理念があらたに再構築されることになる。

 歴史には、飛躍も断絶もない。いっけんそう見えたとしても、歴史はあくでも時間的には連続的(シーケンシャル)で、かつ重層的な積み重なっていくという構造をもっている。

 現在は過去の堆積の上にあり、未来は現在の延長線上にある。原因と結果の無限連鎖であるといってもいいだろう。ただし、未来がどうなるかは、現時点では決定論的にではなく、確率的に捉えることしかできない。原因と結果は一対一の関係にあるが、一つの結果は、無数の原因に対応しているので、決定論とは根本的に異なるからだ。

 「自分」も「自社」も、そのまわりを取り囲む「外部環境」と自らの内なる「内部環境」が交差する点にうえに存在する。「外部環境」も「内部環境」も、ともに時々刻々と変化する。したがって、未来は二つ以上の複数の変数の掛け算によって表現されることになる。現在より先の時点の姿は、確率論的にしか捉えることができないのである。

 「現時点までの自分」が変化した結果が「未来の自分」である。だから重要なことは、過ぎ来し方、すなわち現時点以前の過去を知ることなしに、未来も含めた「自分」を知ることができないのである。

 いずれにせよ、「自分史」をつくることは、現時点から先の未来について考えるための重要な基礎作業となるといってよい。


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<ブログ内関連記事>

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・
・・卒論として選んだテーマ、なぜそのテーマを選んだかについて、25年後に振り返って書いてみた

書評 『新・学問のすすめ-人と人間の学びかた-』(阿部謹也・日高敏隆、青土社、2014)-自分自身の問題関心から出発した「学び」は「文理融合」になる


自分史

「知識が先か、経験が先か・・」-人生の「棚卸し」をつうじて考えてみる


「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

思考と行動の主体はあくまでも「自分」である。そして「自分」はつねに変化の相のもとにある

(2014年3月20日 情報追加)


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思考と行動の主体はあくまでも「自分」である。そして「自分」はつねに変化の相のもとにある



思考と行動の主体はあくまでも「自分」である

 「自分」を中心に置くことが重要だヒクソン・グレイシーはいう。

 「自分にとって何が最も重要だと思うかと聞かれて、「自分自身だ」と答えた人以外はみんな間違っている」と言っている。書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくるにすでに書いたとおりだ。

 ヒクソン・グレイシーとは、日本の柔術にルーツをもつ「グレイシー柔術」最高の使い手、いわゆる「400戦無敗の男」というキャッチフレーズをもった男である。

 「自分」を中心に置くとは、「自分」を一番に置くとはどういうことだろうか。

 いわゆる「自己中心」を意味する「自己チュー」のことか?
 利己主義を意味するエゴイズムのことか?

 こういったレスポンスがすぐさま帰ってくるのではないだろうか。

 いや、そうではない。ヒクソンが言いたいのは、「自分」を思考と行動の中心、すなわち出発点に置くことによって、「自分」が「自分」にかかわる人たちに責任をもち、自ら主体的に考えて行動するということを言いたいのだろうと推察する。

 そういう意味であれば、「自分」を中心に置くということはきわめて重要な人生哲学ではないだろうか。

 利己主義というコトバの対語は利他主義である。
 利己主義に対して利他主義、自分ではなく、他者を中心に置く考え方。美しい響きである。

 しかし、実際問題、「自分」なくして「他者」を思いやることができるだろうか。生きる目的を利他主義に置いたとしても、その考えを思考し、行動する主体はあくまでも「自分」である。食べて排泄することによって自分の肉体を維持することなくして、その美しい思想を実践することもできない。

 儒教の徳目の中心に「修身斉家治国平天下」(礼記) というものがある。「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということですでに取り上げたとおりだ。

 まず何よりも「修身」、すなわちセルフコントロールからすべてが始まることを断言している思想のコトバだ。


「顧客中心」を行動原理とする企業も、思考と行動の主体はあくまでも「自社」である

 企業経営についても同じことだ。
 
 企業の存在目的は「顧客創造」にある、と喝破したのは経営学者ドラッカーだ。そして企業活動のエッセンスはマーケティングとイノベーションである、と。

 したがって、企業の行動原理において「顧客中心」というのはまったく正しい。利益というものは、正しい企業活動の結果、タイムラグをおいて発生する派生物であるからだ。だから「利益至上主義」は短期的にはさておき、長い目でみると続かないのである。

 しかしこの「顧客中心」という行動原理を採用し、これに基づいて行動する主体は、あくまでも「自社」である。顧客という他者ではない。

 この意味において、思考と行動の主体が「自社」が中心であるという姿勢に間違いはない。行動原理としての「顧客中心」とはまったく矛楯しない。これは実践というものの性格だ。

 そして、企業という組織体もまた、企業を取り巻く「外部環境」と、企業という組織体の「内部環境」の変数である。企業という存在は、つねに変化する相のもとにある。

 企業にとっての「外部環境」とは端的にいって市場環境であり、マクロ経済の状況であり、法規制などである。「自社」のチカラで変えていくことのできるものと、一企業のチカラではいかんともしがたいものの二つに区分できる。

 企業にとっての「内部環境」とは、一言でいってしまえば「自社」のもつ内部資源のこと、究極的には神座的資源(人材)のことである。個々の人間が集まって組織を形成している以上、個々のメンバーについても「自社」のチカラで変えられる側面とそうでない側面がある。

 「自社」は、その「外部環境」と「内部環境」が交差する点のうえに存在するといってよい。だからつねに変化する「外部環境」と「内部環境」という二つの変数によって、時々刻々と変化する存在であるといえる。


「自分」は不変の存在ではない。「外部環境」と「内部環境」の交差する点である「自分」は、時々刻々と変化する相のもとにある

 「自社」と同様、「自分」という存在も、不変の存在ではない。「自分」を取り巻く「外部環境」は時々刻々と変化しているし、「自分」という肉体をもった存在の「内部環境」も同じく時々刻々と変化している。

 生物学的にいえば成長や発展とは新陳代謝の繰り返しによるものであり、1年前はおろか、1日前でも1分前でも1秒前ですら同じ「自分」ではない。諸行無常。一切合切は常ならず。すべては変化の相のもとにある。細胞は分裂によって生成と消滅を繰り返す。

 だから「自分」といっても、そこに確固としたアイデンティティ(同一性)など存在するわけではないことは、『バカの壁』などの本において、解剖学者の養老猛司が喝破したとおりである。生物学の研究成果は、仏教の知見に合致する。運転免許証やパスポートなどで、氏名や生年月日などで同一人物であるとアイデンティファイしているのは、社会的な決めごとにすぎないのである。

 つまり「自分」というものは、生きている限り、とくに成長や発展とは言わないまでも、つねに生成途上にあるわけなのだ。人間は生物である以上、死ぬまで細胞レベルでの新陳代謝は続いている。いや、死んでからもしばらくはヒゲが伸びるから、細胞分裂自体はすぐに終わるわけではない。

 時間軸の幅を広く取ってみても、10代の頃の「自分」と、20代の頃の「自分」、30代の頃の「自分」・・・それぞれが同じとは思えないほど違う存在であることは、誰でも納得のいくことだろう。
 「自分」自身は変化したつもりはなくても、「自分」が外部環境と内部環境の二つの環境の交差する存在である以上、自ら望まなくても変化は避けられない。

 そして「自分」が主体であるということは、「自分」の意思で環境を変えることが可能であることも意味している。

 まず理解するということ、思考するということにおいて。「わかる」ことは「変わる」ことだと言ったのは歴史学者の上原専禄だが、何か物事を理解した瞬間、わかる以前の「自分」から、わかった以後の「自分」に変化しているのである。これは主体としての「自分」そのものの変化である。

 また行動することにおいて、主体である「自分」は「環境」に働きかけることができる。

 「内部環境」は、トレーニングや正しい生活習慣によって、能動的に変えてゆくことができる。

 「外部環境」は、変えることのできる外部環境と、変えることのできない外部環境の二つに区分して考えればよい。 
 
 変えることのできる外部環境については、「自分」がリーダーシップを発揮してまわりの人たちの意識を変えるなどの形で、変化を与えることは可能であるし、「自分」が行動する「場」を変えることで、自分を取り巻く外部環境を異なるものにしてしまうことも可能である。


「ありのまま自分」とは変化し続ける存在である。だからこそ、唯一無二(オンリーワン)の存在なのだ

 そう、「ありのままの自分」とは、変化し続ける存在なのだ。
 変わりたくなくても変わってゆく存在、変わろうと思えば変わりうる存在。

 そういう「自分」を虚心坦懐に見ることができれば、少なくとも近似値にまで接近することができれば、その「自分」を受け入れるしかないのであり、そこから出発するしかないのである。

 そして、変化しつづけるからこそ、どんな人でも唯一無二、すなわちオンリーワンの存在であることがわかる。個々の人間に、優劣は存在しない。それぞれが違う存在として生成発展しているからだ。

 「ありのままの自分」を掘っていけば、かならず泉がでてくる。宝がでてくる。たとえ人に誇るようなものではなくても、かならず何かがあることに気がつくはずだ。そしてそれは、他の誰のものでもない、掛け買いのないものだ。

 「自分」というものをそう捉えてこそ、思考と行動の主体である「自分」を中心に置く意味がわかってくるのではないだろうか。
 そういう存在であるからこそ、「自分」を思考と行動の主体に置くことによって、「自分」のまわりの人間関係に影響を与えていくことによって、人生を切り拓いてゆくことができるのである。

 「自分」を中心に置いた生き方は、だから利己主義とは無縁な生き方である。



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■「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ





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2010年12月18日土曜日

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ



自分が「地頭がいいかどうか」、いかんせん、これは「自分」ではわかりにくい

 基本的には、「地頭が良い」かどうかは、他人の評価にまつしかない。自分はアタマがいいなどと思っている人間は、正しい自己認識をともなわない、単なるうぬぼれに過ぎないことが多い。

 しかも、「地頭の良さ」は点数で評価できる正確のものではない。実社会(リアルワールド)においては正解は一つではないからだ。これはビジネスだけでなく、人間がかかわるすべての活動についてあてはまる。定量的に把握できるのは、計測可能なものに限られる。

 「地頭が良い」かどうかは、しょせん相対評価に過ぎない。絶対的で、客観的な指標があるわけではない。計測のしようがないからだ。「地頭の良さ」は知能指数の高さとイコールではない。知能指数が高くても、実際の生きるチカラに乏しい人間はいくらでもいる。

 「あの人は学校の成績はいいのに、なんであんなにバカなのか」という評価を下されている人がいる。いわゆる学校秀才は、残念ながら「地頭が良い」とはいえないのである。
 おそらく、誰もが「あの人はほんとうにアタマが良い」という評価を起こっている場合、「地頭の良さ」があるとみてもあながち間違いではなかろう。

 他人の評価自体は主観的なものであるが、複数の人の評価を集めると、客観性を帯びてくるからだ。

 しかし、自分が「地頭の良い」人間になろうと努力については、むしろ推奨したい。
 ただし、ここでいう「地頭」とは外資系のコンサルタントがいう「フェルミ検定」なるものとはいっさい関係ない。「フェルミ検定」など日本人全体の 97%には縁のない話である。しょせん、机上の勉強に過ぎない。


「アタマのゴミ」を取るには勉強し過ぎないことも重要だ

 「地頭の良さ」とは、人間が本来もっているはずのアタマの良さのことである。
 だから「地頭の良さ」を回復するためには、余計な知識をそぎ落とすことから始めるべきだ。

 世の中には不幸なことに、いわゆる「勉強ブーム」にあおられている人たちが少なからずいるようだが、勉強すればするほど不要な知識が増えて、比喩的に言えばメタボ体質のバカになっていくだけでなく、自分の勉強が足りないという意識のみ肥大化して、不安にかられてしまう人もいる。

 こんなことは、まったく意味のないことではないか。「アタマのゴミを取る」という本来やるべきことの真逆のことをひたすらやっているのではないか? 不要な知識で曇ったアタマを回転させることが必要なのに。

 重要なことは、こうした「メンタルブロック」を解除して「自信」を取り戻すことである。
 とかく人間は、自分はできない、人に誇るべきようなものは持ち合わせていない、などと劣等感にもとづく勝手な自己規定をしがちである。こういった「メンタルブロック」を解除して、「ありのままの自分」を洗い出してみることが必要なのだ。

 「勉強」によって曇らされたアタマから、余分なゴミやホコリを取り払い、自分自身を虚心坦懐に見つめてみることである。人間本来がもつアタマの良さを回復するとは、動物的なカンを取り戻すことである。

 さらにいえば、野生動物のもつアタマの良さに、人間の知性を掛け合わせたものが「地頭の良さ」であるといってもいいだろうか。ほんとうの知性とは知識そのものではない。いかにアタマを働かせるかということが、知性の本質である。

 まずは、「ありのままの自分を知る」という気持ちをもつことが何よりも重要だ。


正しい自己認識をもつということ・・・「汝自身を知れ」(ソクラテス)といっても簡単ではない。ではどうするか?

 もちろん、「ありのままの自分」を知ることは実はそう簡単ではない。

 だが、少なくとも自分がどういう人間で、長所と短所が何で、得意と不得意が何で、好き嫌いが何か、ぐらいがわかっていれば、無茶な高望みもしないし、虚勢を張ることもないし、逆に自己卑下して自虐的になることもない。

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスの名言に「汝自身を知れ」というのがある。ギリシア語では γνῶθι σεαυτόν (gnothi sauton)。これはソクラテスが、託宣で有名なデルポイの洞窟に籠もった際に聴いた天の声である。
 
 「汝自身を知れ」というお告げのコトバは、我が身に引きつけて考えれば、「自分自身を知れ」ということになる。


「履歴書」を書き直すことは、働く人間にとっては、いますぐにでもできる「自分発見の方法」だ

 では「自分」を知るためにはどうするべきか?

 もし、あなたが現役で仕事をしているなら、あるいは仕事を探している状態なら、「履歴書」を書き直してみることを薦めたい。「就活」活動が終わったあと、私から見ると意外なことなのだが、「履歴書」の更新作業をしていない人が多いようだ。だが、それはもったいない。

 就活生はいうまでもなく、転職を考えていればなおさらのこと、もし転職を考えていなくても、現時点での「履歴書」を書き直すことは、自分発見と自分再発見にとっては、きわめて有用なツールであることがわかるはずだ。

 「履歴書」の作成と書き直しは、いわば自分の「キャリアの棚卸し」といってもいいだろう。「棚卸し」の目的は、現時点における仕事人としての自分の現在位置を確認する意味でも、自分という資産のビジネス界いおける時価評価である。
 キャリアの途上において、仕事以外の自分史をキチンと振り返って自己認識しておくことは、キャリア開発の意味からいってもきわめて得るところの大きな作業となる。

 私自身、転職経験もあるし、リストラされたこともあるし、ヘッドハンターから声がかかったことも何度かあるので、その都度、「履歴書」を書き直してアップデートしてきた。
 「履歴書」を書き直してアップデートすることによって、節目節目で自分を見つめ直すことができることは体験上よく知っている。何を達成し、何が欠けているか、強みを活かすためにはさらにどう強化すべきかが、書くという行為をつうじて明らかになってくる。


 もしあなたが、すでに仕事人生から足を洗ってリタイアした立場なら、いわゆる「自分史」に取り組んでみるのもいいだろう。

 自分の人生の過ぎ来し方を振り返り、これを年表と照らし合わせながら現代史ののなかに位置づける作業は、自分が生きてきたことの意味を再確認し、さらに今後の人生を考え、あるいは関係する家族や友人たちへのアドバイスにみちたメッセージともなる。

 リタイアしていなくても「自分史」に取り組んでみるべきだろう。

 なぜなら、自分の過ぎ来し方を振り返るのは、けっして後ろ向きの作業ではないからだ。自分の過ぎ来し方とは自分の「人生の軌跡」であり、仕事に限定していえばキャリアのことでもある。

 自分がやってきたことを具体的に書き出して行くという行為は、自ずから「ありのままの自分」について書くことと同じなのだ。書き出して行くことによって、「ありのままの自分」が見えてくる。「自分史」を書くということは、「ありのままの自分」を発見するための、きわめて有効なツールである。

 だから、人生の節々で「自分史」に取り組んでみることは、非常に意味のあることなのだ。
 たとえ、あなたが18歳であっても、すでに十分な「自分史」をもっているのだ。他のだれでもない「自分」の軌跡、「自分」の歴史。

 最近では「就活」対策として「自分史」に取り組むケースもあるようなので、若い人でも一度は耳にしたことはあるだろう。

 私自身、かつては「自分史」なんて、日経新聞の名物連載「私の履歴書」ではないが、有名でなくてもリタイアした老人のすることだと思っていた。

 だが、それではあまりにももったいない。20歳台の人も、30歳台の人も、40歳台の人も、50歳台の人も、それぞれの年代で節目節目ごとに「自分史」に取り組んでみるべきだ。

 私自身、大学を卒業して四半世紀、すなわち 25年たったいま、過ぎ来し方をいろいろと振り返っているのは、けっして回顧にふけるのが目的ではない。これからの人生をより実り豊かにするために、この時点で振り返り作業を行っているのだ。



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「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ





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2010年12月17日金曜日

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)―「自分」を軸に据えて思考し行動するということ





「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)に共通するものとは?

 「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)。

 のっけから漢字の羅列で辟易(へきえき)されるかも知れない。

 儒教の徳目として原理原則にもあたる「修身斉家治国平天下」。「しゅうしん せいか ちこく へいてんか」と読む。出典は『論語』ではなく、四書五経の一つ『礼記』の「大学」である。

 ネット上で無料で公開している「デジタル大辞泉」の解説を引けば、「修身斉家治国平天下」とは、天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」とある。

 これが一般的な理解であろう。
 
 一方、戦略論としても著名な孫子の名言 「知彼知己者百戦不殆」は読み下すと、「彼を知りて己を知れば、百戦して殆うからず」となる。これに続いて、「彼を知らずして己を知れば、一戦一勝す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとにかならず殆うし」。

 俗にいう「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という格言として知られている内容に同じである。意味はあえて書くまでもないと思うが、「敵についてよく知り、自分についてもよく知っていれば、百回戦ってもまったく危ういことない」となろう。

 軍事戦略のみならず、経営戦略でも、人生戦略についても当てはまる至言である。

 さて、一方は儒教の徳目、他方は道教の影響も受けている孫子の戦略論である。いったい何が共通するのか、という問いが当然のことながら出てくるであろう。

 結論から先に言っておこう。

 両者に共通するのは、何よりも「自分」を思考と行動の中心に置いていることだ。


「修身斉家治国平天下」とは、「自分」を軸に置いたマネジメント論のことである

 孫子の「知彼知己者百戦不殆」については「己を知る」という表現にあらわれているように、「己」(おのれ)とは「自己」の「己」である。これは「自分」といいかえても問題はないだろう。

 「修身斉家治国平天下」と書いて、「しゅうしん せいか ちこく へいてんか」と読む。その心は、何よりも「自分」のセルフマネジメント(=自己管理)を軸において、マネジメントの範囲を同心円状に広げていくということだ。

 「自分」のマネジメント(=修身)から「家庭」のマネジメント(=斉家)、そして「国」のマネジメント(=治国)、そして最終的には「天下」のマネジメント(=平天下)と、量的な規模拡大に応じて質的な意味も変化していく。それぞれの段階ごとに、マネジメントの技術レベルを向上させなければならないことはいうまでもないが、その基礎。その核心においてセルフマネジメントがなければ、誰も人はついてこないというわけなのだ。

 儒教の徳目だからといって、あまり倫理道徳的に捉えすぎるべきではない。これは精神論を語っているのではなく、マネジメントの階層と技術について語っているのだ。
 
 「修身」と書くと、明治以降の教育について話をするのかといわれそうだが、私はそもそも儒教は好きではないし、いわゆる「修身」なるものには明確に距離を置きたいと考えている。
 儒教が浸透し始めて以来、とくに明治以降は「修身」を国民道徳の基礎に据えたのは、政府の立場からみた国民統治にとって都合がよかったからである。
 つまり governable people としての臣民(subject)を作り出すための「修身」強調であったわけだ。このことを忘れて、昔が良かったとノスタルジーめいた口調で語るのはナンセンスきわまりない。

 私の独断と偏見による解釈では、「修身斉家治国平天下」とは、セルフマネジメントを基礎としたマネジメント技術の階層構造についての発言だとみなしている。
 つまり究極的には、「自分」を中核に置いた思考と行動なのであると。
 「修身斉家治国平天下」においていう「身を修める」とは、抽象的な精神ではなく、具体的な身体を備えた「自己」、あるいは「自分」について語っているのである。


「自分」とは何か?「自分」を知るための方法論の一つとは?

 ではその「自分」とは何か、という問いが次に来ることになる。

 「自分」とは何か、しかしその答えは「自分探し」からは得ることはできない。
 「自分探し」などしても、まず絶対に「自分」など見つかることはない。探さなくても「自分」はいまそこにいるではないか。

 要は、「自分」について気がついていない、十分に自分を掘り下げていないから気づいていないに過ぎないのだ。

 「自分」とは何かと考えるとき、ふたたび孫子の「知彼知己者百戦不殆」に戻ってくることになる。「自分」だけを見つめていても「自分」は見えてこないからだ。

 孫子が言う「知彼」(彼を知る)に注目してみよう。

 孫子の文言だけを見ていると、「彼」と「己」は対概念であって、まったく関係のない存在であるかのように感じるかも知れない。

 ドイツの政治学者カール・シュミットが打ち出した有名な概念「友-敵」理論に代表されるように、「自分」を軸にして、「友」と「敵」を区分する思考は西洋的であるといっていいだろう。ここにおいては、「友」と「敵」は厳しく峻別される。

 しかし、孫子の言う「彼」は、必ずしも「敵」を意味しているわけではないのではないか。むしろ「己」が「自分」であれば、「彼」は「他者」というべきであろう。しかも、まったく無縁の「他者」ではなく、対立関係であるとすれば「敵」、友好関係であれば「友」となりうる「他者」である。

 実世界では、「昨日の敵は今日の友」といったことはよくあることだし、ビジネスの現場においても「競争と協調」は日常茶飯事である。

 「己」と「彼」とのあいだにあるのは、まさに関係である。関係性といってもいいだろう。
 
 つまり、「彼を知る」ことは、他者との関係性のなかにある「己」にとっても、「己を知る」一つの重要なキッカケになるわけだ。

 「彼」を鏡にして「己」を見る。「彼」を知る、その知り方に「己」の思考のクセがすべて反映される。「己」あってこその「彼」。「己」と「彼」という二者は、すでに無縁な存在ではない。

 「彼」の存在によって変化を被る「己」がいる。
 ただし、あくまでもこれは間接的な方法によって知る「自分」である。
  
 「自分」自身を掘り下げることによって「自分」を知るという方法がある。重要なのは、あくまでも「自分」を知ることであって、「自分」をむりに理想型に向けて変えることではない。ある意味では正確な「自己認識」が必要だといっていいだろうか。

 これについては引き続き書いていく事としたい。





PS 今回あらたに「修身斉家治国平天下」を図解して示すことにした。(2014年8月26日 記す)


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「初めは処女の如く、後は脱兎の如し」(孫子)


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P.S. 本年度 350本目の投稿。あと15本で本数だけみれば、1年365日「毎日更新」達成することになる。まあ、いつものことながら、「追い込まれなければ火がつかない自分」であることよ。

(2014年8月26日 情報追加)


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