■「社会史」研究における記念碑的名著。日本発の社会史はアナール派とイコールではない■
良知力と書いて、らち・ちから と読む。いまから25年前の1985年に世を去った思想史・社会史研究者である。
このたび(2010年)、ちくま学芸文庫から「復刊」されたのを機会に、著者の代表作であり、渾身の一冊である『向う岸からの世界史 ー 一つの四八年革命史論』を再び書架から取り出して読んでみた。
本書は、失敗に終わって挫折した「1848年革命」の真相を描いた作品である。フランスから始まった2月革命は、3月には分裂状態のドイツ諸国家を経て、ハプスブルク帝国の首都ウィーンにも飛び火し、メッテルニヒによる「1818年ウィーン体制」崩壊をもたらした。
ウィーンというと現在では「音楽の都」であり、かつてのハプスブルク帝国の首都というイメージが浮かぶことであろう。しかし、ウィーンも国際都市である以上、そこに住んでいるのは上流階級を頂点に、下層階級まで含めた多層で多様な人たちの集まりである。
しかも、かつて東西冷戦時代には国際諜報戦の主戦場であったことからもわかるように、ウィーンはゲルマン民族とスラヴ民族の接点という、地政学的な特徴をもった都市なのである。ゲルマン民族を頂点にいただきながら、ゲルマン民族とスラヴ民族が中層から下層をなす重層構造をもった都市である。これは現在のオーストリアでも変わらない。
実際に「1848年革命」の担い手は、ハプスブルク帝国内に居住するスラヴ系を中心とした少数民族や難民という、いわば都市下層民であったのだ。
歴史をつくるのは一般民衆、しかも中流層ではなく下層である。これが著者の信念であった。この問題意識が思想史研究から社会史研究へと、学問内容の進化が進んだ理由であろう。
マルクス研究の思想史家として出発した良知力は、自らの内側から発する問題意識に忠実たらんとし、思想史から社会史へと力点を移動していく。本書は、その転換期にあった著者による渾身の一冊である。
本書以後の著者晩年の著作は、叙述もやさしくなって読みやすい文体に変化しているが、本書はやや生硬な、論文調の文体であり、けっして読みやすいとはいえない。しかし、この一冊に、これ以降の仕事のすべてがエッセンスとして凝縮されているのであり、読者はこの機会にぜひ、じっくりと真っ正面から取り組んでほしいと思う。
この文庫版の価値はまた、歴史家・阿部謹也による解説にもある。
『社会史研究』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1982~1986)を立ち上げた同志で盟友であった歴史学者・阿部謹也による解説文は、良知力の志向していた方向を語って余すことがない追悼文となっている。
「自分のなかに歴史を読む」ことを実践した阿部謹也と同様、良知力もまた、自分の内側から発する問題意識に基づいて「社会史」への道へと大きく舵を切ったのである。
「良知(らち)さんが行かれて8年」と文庫版解説(1993年)に書いた阿部謹也自身、すでに世を去って4年、「社会史」を志向した歴史家たちのこころざしは引き継がれているのだろうか。
「社会史」=「アナール派歴史学」ではないこと、これはあらためて強調しておくべきことだ。対象を西欧社会としながらも、舶来の翻訳学問の器用な応用ではない、あくまでも自分自身を掘り下げることから発した問題意識と、これを徹底的に究明しようとした学問のあり方、そしてできあがった成果。それが本書である。
さまざま読み方が可能な、もはや古典といってもいい記念碑的名著である。
<初出情報>
■bk1書評「「社会史」研究における記念碑的名著。日本発の社会史はアナール派とイコールではない」投稿掲載(2010年11月16日)
■amazon書評「「社会史」研究における記念碑的名著。日本発の社会史はアナール派とイコールではない」投稿掲載(2010年11月16日)
*2ヶ月前に書いた文章をいまアップすることとした。
<書評への付記>
良知(らち)先生とはいわずに、良知(らち)さん、とわれわれは勝手に呼んでいたが、けっして気安い人ではなかったし、一度も直接会って話したことはなかった。
冗談のまったくない通じない、気むずかしい人という印象であった。
一部には「労務者風」などとけしからぬことを言うものもいたが、たしかに大学教授というよりも学校の用務員といった風情の人であった。インテリはインテリでも、ブルジョワ側ではなくプロレタリアート側の人。
授業は「社会思想史」。私は最初の一回に出席して以降、一度も授業には出なかったので、良知(らち)さんを見て、その声を聞いたのは、その一回切りである。同じく大塚金之助門下の社会思想史の俊才・都築忠七教授と半期づつの講義であった。
だが、「良知(らち)さん」にまつわる話は何度も何度も聞いている。『社会史研究』同人であった阿部謹也教授のゼミナールにいたからだ。
人間というのは不思議なもので、目で活字を読んだ知識よりも、耳から入ってきた話のほうが記憶に残りやすいようだ。話題といっても、研究テーマにかんするものというよりも、誰それさんが何とかといった類の話である。結局、後者の話のほうが人間の本質にはより近いということだろうか。
われわれは勝手に阿部謹也先生のことも「阿部さん」と呼んでいたが、その当時の阿部先生は、いまの私と同じくらいの年だったわけで、なんともいえない感慨をもつ。「良知(らち)さん」は、阿部さんより6歳年上だったことになる。
「良知(らち)さん」は、55歳で亡くなったので、在任中の逝去ということになる。すでに25年以上も昔のことだ。四半世紀前ということになる。
<関連サイト>
『社会史研究 1 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1982)
『社会史研究 2 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1983)
『社会史研究 3 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1983)
『社会史研究 4 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1983)
『社会史研究 5 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1982)
『社会史研究 6 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1985)
『社会史研究 7 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1986)-「良知力追悼号」
『社会史研究 8 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1988)-これをもって「休刊」。
<ブログ内関連記事>
「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む・・1848年革命と1991年のソ連崩壊、いずれも大転換期となった事件である
本日(2011年2月11日)は「イラン・イスラム革命」(1979年)から32年。そしてまた中東・北アフリカでは再び大激動が始まった
・・歴史変革の原動力は何であるか? 担い手はだれであったか?
書評 『エジプト革命-軍とムスリム同胞団、そして若者たち-』(鈴木恵美、中公新書、2013)-「革命」から3年、その意味を内在的に理解するために ・・失敗に終わった点にかんして「1848年革命」のアナロジーで語られることもある「エジプト革命」
「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・ウィーン南駅近くの公園で撮影したシュタイナー(1861~1925)を記念するプレートの写真
書評 『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009 単行本初版 2005)
・・1909年ウィーンに生まれたドラッカーは、第一次大戦に敗戦し帝国が崩壊した都市ウィーンの状況に嫌気がさして17歳のとき(1926年)、商都ハンブルクに移っている
書評 『ヒトラーのウィーン』(中島義道、新潮社、2012)-独裁者ヒトラーにとっての「ウィーン愛憎」
(2014年5月29日、8月21日 情報追加)
良知力と書いて、らち・ちから と読む。いまから25年前の1985年に世を去った思想史・社会史研究者である。
このたび(2010年)、ちくま学芸文庫から「復刊」されたのを機会に、著者の代表作であり、渾身の一冊である『向う岸からの世界史 ー 一つの四八年革命史論』を再び書架から取り出して読んでみた。
本書は、失敗に終わって挫折した「1848年革命」の真相を描いた作品である。フランスから始まった2月革命は、3月には分裂状態のドイツ諸国家を経て、ハプスブルク帝国の首都ウィーンにも飛び火し、メッテルニヒによる「1818年ウィーン体制」崩壊をもたらした。
ウィーンというと現在では「音楽の都」であり、かつてのハプスブルク帝国の首都というイメージが浮かぶことであろう。しかし、ウィーンも国際都市である以上、そこに住んでいるのは上流階級を頂点に、下層階級まで含めた多層で多様な人たちの集まりである。
しかも、かつて東西冷戦時代には国際諜報戦の主戦場であったことからもわかるように、ウィーンはゲルマン民族とスラヴ民族の接点という、地政学的な特徴をもった都市なのである。ゲルマン民族を頂点にいただきながら、ゲルマン民族とスラヴ民族が中層から下層をなす重層構造をもった都市である。これは現在のオーストリアでも変わらない。
実際に「1848年革命」の担い手は、ハプスブルク帝国内に居住するスラヴ系を中心とした少数民族や難民という、いわば都市下層民であったのだ。
歴史をつくるのは一般民衆、しかも中流層ではなく下層である。これが著者の信念であった。この問題意識が思想史研究から社会史研究へと、学問内容の進化が進んだ理由であろう。
マルクス研究の思想史家として出発した良知力は、自らの内側から発する問題意識に忠実たらんとし、思想史から社会史へと力点を移動していく。本書は、その転換期にあった著者による渾身の一冊である。
本書以後の著者晩年の著作は、叙述もやさしくなって読みやすい文体に変化しているが、本書はやや生硬な、論文調の文体であり、けっして読みやすいとはいえない。しかし、この一冊に、これ以降の仕事のすべてがエッセンスとして凝縮されているのであり、読者はこの機会にぜひ、じっくりと真っ正面から取り組んでほしいと思う。
この文庫版の価値はまた、歴史家・阿部謹也による解説にもある。
『社会史研究』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1982~1986)を立ち上げた同志で盟友であった歴史学者・阿部謹也による解説文は、良知力の志向していた方向を語って余すことがない追悼文となっている。
「自分のなかに歴史を読む」ことを実践した阿部謹也と同様、良知力もまた、自分の内側から発する問題意識に基づいて「社会史」への道へと大きく舵を切ったのである。
「良知(らち)さんが行かれて8年」と文庫版解説(1993年)に書いた阿部謹也自身、すでに世を去って4年、「社会史」を志向した歴史家たちのこころざしは引き継がれているのだろうか。
「社会史」=「アナール派歴史学」ではないこと、これはあらためて強調しておくべきことだ。対象を西欧社会としながらも、舶来の翻訳学問の器用な応用ではない、あくまでも自分自身を掘り下げることから発した問題意識と、これを徹底的に究明しようとした学問のあり方、そしてできあがった成果。それが本書である。
さまざま読み方が可能な、もはや古典といってもいい記念碑的名著である。
<初出情報>
■bk1書評「「社会史」研究における記念碑的名著。日本発の社会史はアナール派とイコールではない」投稿掲載(2010年11月16日)
■amazon書評「「社会史」研究における記念碑的名著。日本発の社会史はアナール派とイコールではない」投稿掲載(2010年11月16日)
*2ヶ月前に書いた文章をいまアップすることとした。
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目 次
Ⅰ
向う岸からの世界史-ヘーゲル左派とロシア
四八年革命における歴史なき民によせて
Ⅱ
1848年にとってプロレタリアートとは何か
ウィーン革命と労働者階級
Ⅲ
もう一つの十月革命-歴史家とプロレタリアの対話として
ウィーン便り
ガストアルバイターとしての社会主義
あとがき
解説・阿部謹也
著者プロフィール
良知力(らち・ちから)
1930年生まれ。東京商科大学卒業。専攻、社会思想史。一橋大学教授在任中の 1985年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<書評への付記>
良知(らち)先生とはいわずに、良知(らち)さん、とわれわれは勝手に呼んでいたが、けっして気安い人ではなかったし、一度も直接会って話したことはなかった。
冗談のまったくない通じない、気むずかしい人という印象であった。
一部には「労務者風」などとけしからぬことを言うものもいたが、たしかに大学教授というよりも学校の用務員といった風情の人であった。インテリはインテリでも、ブルジョワ側ではなくプロレタリアート側の人。
授業は「社会思想史」。私は最初の一回に出席して以降、一度も授業には出なかったので、良知(らち)さんを見て、その声を聞いたのは、その一回切りである。同じく大塚金之助門下の社会思想史の俊才・都築忠七教授と半期づつの講義であった。
だが、「良知(らち)さん」にまつわる話は何度も何度も聞いている。『社会史研究』同人であった阿部謹也教授のゼミナールにいたからだ。
人間というのは不思議なもので、目で活字を読んだ知識よりも、耳から入ってきた話のほうが記憶に残りやすいようだ。話題といっても、研究テーマにかんするものというよりも、誰それさんが何とかといった類の話である。結局、後者の話のほうが人間の本質にはより近いということだろうか。
われわれは勝手に阿部謹也先生のことも「阿部さん」と呼んでいたが、その当時の阿部先生は、いまの私と同じくらいの年だったわけで、なんともいえない感慨をもつ。「良知(らち)さん」は、阿部さんより6歳年上だったことになる。
「良知(らち)さん」は、55歳で亡くなったので、在任中の逝去ということになる。すでに25年以上も昔のことだ。四半世紀前ということになる。
<関連サイト>
『社会史研究 1 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1982)
『社会史研究 2 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1983)
『社会史研究 3 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1983)
『社会史研究 4 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1983)
『社会史研究 5 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1982)
『社会史研究 6 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1985)
『社会史研究 7 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1986)-「良知力追悼号」
『社会史研究 8 』(阿部謹也・川田順造・二宮宏之・良知力=編、日本エディタースクール刊、1988)-これをもって「休刊」。
<ブログ内関連記事>
「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは
『ソビエト帝国の崩壊』の登場から30年、1991年のソ連崩壊から20年目の本日、この場を借りて今年逝去された小室直樹氏の死をあらためて悼む・・1848年革命と1991年のソ連崩壊、いずれも大転換期となった事件である
本日(2011年2月11日)は「イラン・イスラム革命」(1979年)から32年。そしてまた中東・北アフリカでは再び大激動が始まった
・・歴史変革の原動力は何であるか? 担い手はだれであったか?
書評 『エジプト革命-軍とムスリム同胞団、そして若者たち-』(鈴木恵美、中公新書、2013)-「革命」から3年、その意味を内在的に理解するために ・・失敗に終わった点にかんして「1848年革命」のアナロジーで語られることもある「エジプト革命」
・・第一次大戦後の1923年から1925年までウィーンに留学した西洋史家・上原専禄
「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる
・ウィーン南駅近くの公園で撮影したシュタイナー(1861~1925)を記念するプレートの写真
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・・1909年ウィーンに生まれたドラッカーは、第一次大戦に敗戦し帝国が崩壊した都市ウィーンの状況に嫌気がさして17歳のとき(1926年)、商都ハンブルクに移っている
書評 『ヒトラーのウィーン』(中島義道、新潮社、2012)-独裁者ヒトラーにとっての「ウィーン愛憎」
(2014年5月29日、8月21日 情報追加)
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end