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2011年1月18日火曜日

「ログブック」をつける ー「事実」と「感想」を区分する努力が日本人には必要だ

(PADIのログブックより)


 「ログブック」をご存じだろうか? 
 ブックという名前がついていても、パソコンのことではありませんよ(笑)。

 MBAで米国に留学していたとき、「戦略実行論」の授業で、ある日突然、教授が「ログブックをつけているか?」とクラス全員に問うたことがあった。

 たまたま、それ以前からスキューバ・ダイビングをやっていた私には「ログブック」のなんたるかは即座に理解できたが、いかんせん「授業のログブック」はつけていなかった。クラス全体でもほとんどいなかったようだ。

 「せっかく高いカネ払って、しかも貴重な時間を使って授業にでていても、単位をとることだけに終始しているのではまったく意味がない。授業で学んだことはキチンとログブックにつけて反省の機会をつくっておかなければダメだ」と、ピシャリとおっしゃった。

 魔法使いのお婆さんのような風格をもった教授の一言一言が、その当時28歳であった私には刻み込まれた。卒業してから一度もお会いしていないし、おそらくもう亡くなられていると思うが、人生の師としてココロのなかに生きている。
 
 まだまだ女性がトップマネジメントの世界で活躍するのが珍しかった時代に、「Fottune 500 企業」に入る大企業でエグゼクティブを歴任した、豊富な実業体験をもつ教授であった。

 この先生については、Winning is NOT everything, but Losing is NOTHING. と題してブログに書いているので参照していただけると幸いである。


スキューバ・ダイビングの世界でのログブック

 ダイビングをやたことのある人はご存じだろうが、ダイビングでもっとも重要なことは、私の理解では、バディシステム」(buddy system) と 「ログブック」(log book)にあると考えている。


 「バディシステム」とは、どんなときでもかならず二人一組になって、装備の装着の点検から始まって、ダイビング中も水中で行動をともにし、水上にあがってからも装備をはずして整理整頓するまでをともに行うシステムのことである。英語のバディ(buddy)とは、スラングで友達のことだ。

 「ログブック」も実はこのバディシステムと密接にかかわっている。ダイビングのすべての工程が終了後、その日に潜った記録をつけるための小冊子をログブックという。

 ログブックには、活動記録(activity)と感想(comment)の欄があって記入するようになっている。

 つまり事実関係と感想は区分して書くことになっているのである。

 事実関係の記入は、野球でもゴルフでもボーリングでもスコアブックに記入するが、ダイビングのログブックが違うのは、スコアラーが別に存在するのではなく、バディシステムによってクロスチェックを行うことにある。潜水という、人間の生死にかかわる危険な行為である以上、正確な記録を残すことが何よりも求められるわけだ。


 ダイビングのログブック(log book)のログ(log)とは、実はウェブログ(Weblog)のログでもある。

 「ウェブ上に残した記録」という意味で作られた簡易ウェブサイトがウェブログと命名されたわけだが、このウェブログが略されてブログ(Blog)になった

 ブログって、実はウェブログの略なんですが、みなさんこのことを知っていましたか?

 英語の意味は広いので、ログには「丸太」という意味がある。ログハウスとかログキャビン。また、数学で使う「対数」という意味もある。対数で使うlog は実は logarithm の略なので、丸太と意味するlog とは出自が異なるがつづりは同じである。

 行動記録である「ジャーナル」にも似ているが、「ログブック」はフォーマットが決まっており、手順にしたがって記入すればいい。右上にダイビング界では最大手のライセンス発行団体である米国の PADI のログブック(英語版)の写真をスキャンしておいたので、こんなもんだと思ってもらうといい。

 このログブックには何も記入されていないが、これは友人がライセンスを取得した際に、ついでに一冊もらったものだからだ。場所はカリブ海のケイマン。私自身は、ライセンスは PADI ではなく、日本にいるときに、米海軍系の NAUI から取得した。NAUI は PADI とくらべるとややマイナーである。

 ジャーナルは「航海日誌」のこと。journal は、フランス語の jour(日)からきている。船長がつける日誌のことだ。この「日誌」の意味が拡張されて、「日報」としても使われるようになった。ジャーナルを紙名にもつ新聞は世界中に多い。

 日誌としてのジャーナルについていえば、南極点到達の先陣争いをノルウェーのアムンゼンと競い合ったが、志半ばで倒れた英国人スコットを思い出す。

 遭難による無念の死の後も、彼が最後までつけていた日誌によって、現在でもスコット隊の軌跡をたどることができるのだ。日誌は遭難後に発見された。


「事実」と「感想」を区分することの重要性

 日本人は日記をつけることが好きだということは世界的にも有名なようだ。
 
 『かげろふ日記』や『更級日記』など、平安時代の王朝の女流文学からはじまって、「をんなのすなる日記といふものを・・・」ではじまる『土佐日記』まで生み出した、日記文学の長い伝統をもつ、まさに日本人の DNA がなさしめるクセであろう。
 
 現代でも、ウェブやブログの量では英語に続いて世界二位と聞いたことがる。

 ただし日本人が書く日記は、事実関係と感想がごっちゃになっているものが多いのではないだろうか? 日本人はとかく事実と感想を混同しがちである。これは私の長年の観察だ。

 これは英語の essay と日本語のエッセイが似て非なるものであることにも似ている。

 日本語に定着したエッセイは随筆の意味で使われているが、自分がおりおりに観察して気づいた、日常の細々とした事実と感想をないまぜにして語って、読者にちょっとだけ考えさせて、うなづかさせるという文章のことだが、これが文章の味わいを出しているわけで、純粋な記録とは異なるものだ。

 これに対して英語の essay とは、基本的に論文のことである。

 日本では、おそらくモンテーニュの『エセー』が随筆のような作品なので、そのまま随筆のことをエッセイというようになったのだろう。

 主観的な感想混じりの日記ではなく、事実関係をたんたんと列挙するアングロサクソン的な、とくに英国的なジャーナル、あるいは米国的なログブックの記入が重要だと、私は考えている。

 私は、企業向けの社内研修で、研修終了後の課題として、議事録と感想文をわけて書かせる訓練を行ってきた。個々人に研修内容をまとめてもらうのだが、そこには時系列で事実のみを記入する。報告書スタイルの簡潔な短い文書である。A4で1枚、長くても2枚以内。感想文は長さ制限なしで、A4で最低1枚以上は書いてもらう。

 この訓練を行う事で、事実(ファクト)と感想(コメント)をわけて記録させることを意図している。
  
 事実のみを記す「議事録」は数回でまともな内容になってくる。ただし、コピー&ペーストは認めない。議事録がキチンと作れるようになると、文書でも口頭でも簡潔に的確にまとめるクセが培われることになる。

 「感想」については、個々人の感想であるから、その内容については最大限に尊重する。ただし、日本語の文章やテニヲハについてはクチうるさく注意するのは、こうした基本的なことが高校や大学でキチンと指導されていないからだ。「感想」も何度も書いているうちに、少なくとも形式面では問題はなくなってくる。
 
 要は、事実の報告は明瞭簡潔に無個性でよし、感想は個々人の個性を大いに発揮すべし、ということだ。

 「事実」の報告では、漏れなく、ミスなく記述することがが重要。「感想」は、その個々人のものの見方や取り組み姿勢が、書いたものをつうじて明瞭にうかびあがってくるのが面白い。感想を書かせると、研修内容がほんとうに理解できているかどうか、てきめんにわかってしまうものだ。

 このメソッドについては、東大の教育学部のある先生に話したら、「手間はかかるが重要な訓練だ」とお墨付きをいただいている。さすがに東大生はこの程度のことで苦労することはないだろうが、学校と仕事はまったく別物なので油断は禁物である。

 「情報メモ」、「営業日報」、「議事録」と名称はさまざまだろうが、日頃から、組織内の文書は、5WIHを明確にして事実の正確な再現と情報共有を行うことは、組織運営にとってはきわめて重要である。

 一次情報は自分の体験や見聞だからいいが、二次情報は出所を明記し、かならず事実関係に誤りがないかどうかをインターネットを使って問題ないので確認する。

 経営者というものは多忙で気の短い(?)ものである。要領の得ない報告は、なによりもキライなものだ。事実を簡潔明瞭に説明し、そのうえで個人的な見解ととるべきアクションと自分のコミットメントについて述べることができれば、間違いなく「デキルやつ」という評価がもらえるはずだろう。

 ただし、実績はかならず出すことが重要である。

 最近の日本人は、以前に比べたら本を読む量は減っているが、活字を読む量は減っていないといわれる。また、メールやツイッター、ブログなど含めて書く量は、間違いなく増えている。書く際には、事実と感想は区分して書くことをつねに意識しておくべきだろう。
 
 とくにツイッターは気楽につぶやけてしまうので注意が必要だ。「140字以内にまとめよ」という設問に解答するつもりで取り組んでみるのも、事実と感想を区分する訓練のためには有効なツールとなりうるものだ。

 私もこの点については、いつも気をつけているつもりである。文学者ではないので(笑)。
 

「自分史」も事実関係を列挙することがすべての出発点。感想や解釈は自ずから立ち上がってくるものだ

 「自分史」は、「ログブック」あるいは「ジャーナル」の延長線上にあるといっていいだろう。

 日記や備忘録に書いていった記録は、書いた時点で過去となり、歴史となる。ブログもまたウェブログである以上、そういった性格をもっている。ライフログというのもその延長線上にある。
 
 自分の過ぎ来し方を、事実関係のみ想起して列挙していくという行為は、事実の選択には主観が入るとはいえ、とくに解釈を行うことなくても、自ずからその意味が感じられるという仕組みである。感想は解釈はむりに分析するものではなく、感慨という形で自ずから立ち上がってくるものだ。

 「自分史」をつくるプロセスで、「自己発見」が行われるのだ。過去を振り返り、自分にかんする歴史的事実を掘り起こすことじたいに意味があるのである。
 
 だから、「自分史」をつくる際に、ムリに自己分析や解釈を行う必要はない

 20代はじめの「自己分析」と、30代、40代の「自己分析」は内容が大きく変わっている。そもそも、いまだに私は自分自身を知り尽くしているとはいえない「発展途上」人だ。

 そもそも10代のときの経験の記憶であっても、その時点での思いと、10年後、20年後、さらには50年もたったら、同じ事実であっても受け止め方は大幅に異なっていることも多いのではないか。人間は過去のつらい話も、あの経験があったからこそ苦難を乗り切れたとか、とかく自分の都合のいいように解釈しがちだ。だから、事実関係のみを想起して、取り出したいのである

 「自己分析」の問題点、とくに「就活」における「自己分析」の問題点が指摘されるようになっている。「自己分析」をやり抜いて、就活戦線の勝ち組になった若者たいが、大企業では使い物にならないとして脱落していく現象である。『就活エリートの迷走』(豊田義博、ちくま新書、2010)で指摘されている現象だ。

 私が思うに、就活生の「自己分析」は、未熟な「解釈」が「事実」として自分のなかに内面化されてしまうことにあるのだろう。いわゆる思い込みのもたらす悲喜劇である。

 「自己分析」は、そもそもが明確な結論のでないものであるから、やり過ぎるとどうしても煮詰まってしまいがちである。袋小路にはまってしまい、抜け出せなくなって、しまいにはノイローゼになってしまうこともあるだろう。とくにネガティブな自己分析結果は、取り扱いは要注意である。

 自己啓発セミナーではないのだから、自己否定や懺悔は不要であるだけでなく危険である。
 とにかく自己肯定、自己肯定。なにがあっても自分を信じて自己肯定。これが重要だ。

 もう亡くなったが、一世を風靡した仏教学者の紀野一義に『ええなあ! という人生-肯定、肯定、絶対肯定して生きる-』と(佼成出版社、1993)という本がある。この本のなかで紀野氏は、『法華経』の絶対的自己肯定について語っているのだが、まことにもって、「ええなあ」というのは、生きるスタンスとしてすばらしいと思う。「ええなあ」というのは、関西風のアクセントで発音してほしい。

 自己分析は、ある意味では血液型分類みたいなものだから、ほどほどにしておくのがよい。人間の性格など、仕事に本格的に取り組み始めれば大幅に変化するものである。


 さて、「自己分析」ではなく、歴史的事実としての「自分史」である。「自分史」も歴史であるから、重要なのは解釈よりも事実である。しかし、この二つをもちろん完全に区分するのは難しい。

 さきにも書いたように、日誌や日記は、自分史のためには事実確認にための重要な記録文書となっている。

 私じしんについては、日誌には、たんたんと日々の事実関係を記すのみだ。事実関係というより活動記録といったらいいだろうか。

 たまに感想を書くことがあるぐらいで、ふだんは書いているのは、起床時間、体重と体脂肪率、三食の内容(・・ただし昨年より「半日断食」なので朝食は抜き)がマストで、あとは読み終えた本、見た映画、参加したイベントについて記述する程度である。あとはその日の天気などの事実関係のみだ。

 もちろん目標達成のための「夢手帳」として活用される方は、手帳をそのように使うのもいいだろう。大いに活用すべきである。願望と現実とのギャップを努力で埋めることが、目標達成のための行為である。

 いずれにせよ、事実と感想の区分はつけておきたいものだ。日本人がアングロサクソン的思考法になじむためには不可欠なことである。これは英語ができるとか、できないとかは関係ないことだ。
 
 

<ブログ内関連記事>

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点
・・「日本人が一般的に、事実と感想を区別しないで語る傾向があるのは日本語にその原因があるのではないか、もしかしたら同じ言語とはいっても、英語と日本語の違いは想像以上に大きいのではないか。言語学の専門家はけっして語らない、このような疑問に対する考察も、解剖学者ならではのものであるといっていい。」➡ 日本で重視される「自白」、西洋で重視される「証拠」。

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ

(2015年10月24日、2016年1月14日 情報追加)


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