ヘルマン・ヘッセの最後の長編小説『ガラス玉遊戯』(1943年) をついに読了。今年の8月のことである。
「ようやく読了」というのは、ヘッセ好きでありながら、長きにわたって読まないままだったことを意味している。
ヘッセの『デミアン』と『シッダールタ』は、わたしの愛読書 だが、なかなか『ガラス玉遊戯』を読むことはできなかった。
というのは、中編小説の多いヘッセにしては長編である こと、タイトルから連想されるテーマがよくわからない というのが大きな理由であった。「ガラス玉遊戯」ってなんだ?
■『ガラス玉遊戯』は「易経小説」である!
『ガラス玉遊戯』は「易経小説」 でもある。それでは読まねばなるまいと決意 した次第だ。
じつは『ガラス玉演戯』というタイトルの新潮文庫の高橋健二訳 と、角川文庫リバイバルの『ガラス玉遊戯』というタイトルの井手賁夫(いで・あやお)訳 の2種類をもっているのだが、いろいろ考えた末に角川文庫版で読むことにした。両者はいずれも絶版状態。
というのは、『ガラス玉遊戯』のほうが日本語のタイトルとしてすぐれている からだ。
ドイツ語の原題は Das Glasperlenspiel である。
日本語なら『演戯』ではなく『遊戯』とすべき だろう。「遊戯」なら「遊戯王」でも使用されており、ゲームであることがわかる。実際、
新訳でも『ガラス玉遊戯』 となっている。
ドイツ文学界の大御所であった手塚富雄氏からすすめられて翻訳に取り組んだとある。井手賁夫の訳は1954年に初版がでて、1990年に復刊が再版(=第2刷) である。
■主人公クネヒトは『知と愛』の主人公ナルツィスの系譜
まずは、この長編を読んでおくことが前提条件であると思っていたのだが、それはまことにもって正解 だった。じつはこの長編もまだ読んでなかったのだ。
読後感としては、「知と愛」よりも、むしろ「霊と肉」といったほうが、中世ヨーロッパのキリスト教のモチーフとしてふさわしい のだが、その件はここでは脇においておこう。
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(『ナルツィスとゴルトムント』は2020年にドイツで映画化されている)
「25世紀のカスターニエン」を舞台にした『ガラス玉遊戯』の主人公のマギステル・ルーディことヨーゼフ・クネヒト は、「中世ドイツのマウルブロン修道院」を舞台にした『ナルツィスとゴルトムント』におけるナルツィスの類型 だと思ったからだ。
あくまでも「知」の世界に生きる主人公クネヒト 。けっして「情」の世界とは無縁ではないのだが、階梯をひとつひとつ螺旋的に上がっていく姿は、ナルツィスとよく似ている 。そして、その最後に弟子に対して深い「情」を示したこと においてもまた。
そして、『ガラス玉遊戯』には、ほとんど男性しか登場しない。『ナルツィスとゴルトムント』も『デミアン』もまた そうだ。
ヘッセ自身は3回結婚しておりホモセクシュアルではなかったが、作者自身を投影できる主人公は男性であり、男性と男性どうしの友愛 であったからだろうか。
■『ガラス玉遊戯』というタイトル
正式名称は『ガラス玉遊戯 マギステル・ルーディ・ヨーゼフ・クネヒトの伝記的試みおよびクネヒトの遺稿』 。凝ったつくりの構成である。
Glasperlenspiel というドイツ語を分解すれば、Glas-perlen-spiel となる。「ガラスのパール(真珠)」のプレイ、あるいはゲーム である。ドイツ語の Spiel は英語の play よりも意味的な幅が広い。「ガラスでできたパール」とは「ビー玉」のようなもの だろう。
哲学や数学と音楽を総合し、瞑想をつうじて宗教的な境地まで高める「遊戯」 であるとするが、最後の最後まで具体的に目に見える形で説明されることはない。
もともとは符号や数式のかわりに「ガラス玉」をつかっていたのでそうよばれたが、つかわれなくなったあとも名前だけが残ったとされる。
「ガラス玉遊戯」は、現代風にいえば、「VR」的なもの といっていいのかもしれない。「バーチャル・リアリティ(virtual reality) である。目に見えるガラス玉をつかわない、「目に見えない」ゲーム 。空中に数式や符号を書いて競いあう精神的なゲーム 。そんなイメージなのだろうか。
数学と音楽が親和性が高い ことは、「七自由学芸」ともいう「リベラルアーツ」の音楽は数学も意味している ことからもわかる。その意味では、この小説は「音楽小説」 でもある。
そもそも「25世紀の架空世界カスターリエン」が舞台なので、未来小説的でSF的であるし、あるいははるか過去の話 であるかのようにも思える。「はるかに遠い未来」から、「現在より先にある未来」を「回想」するという歴史書 という形をとっている。
SFは一般的にサイエンス・フィクション(Science Fiction)の略称として理解されているが、日本語で「思弁小説」と訳されている「スペキュラティブ・フィクション」(Speculative Fiction)の略称と考えれば、ヘッセの『ガラス玉遊戯』はそれそのもの だといっていい。
そして、ユートピアは失敗する運命にある 。主人公もまた、身をもってその兆しを感知 する。
それ自体が高貴な存在であっても、存続のための資金をみずから生み出さず、現実世界の資金で成り立っている、ユートピア的存在 である「カスターリエン」。そのあり方は、中世のシトー派修道院より後退しているというべきか。
砂上の楼閣である以上、失敗する運命は必然だというべきなのだ。
■「自分がほんとうの自分になる」ために歩むべき道がテーマ
「教養小説」というよりも、むしろ「修養小説」としたほうが内容的にはふさわしいがいうべきだが、「人間形成」小説とか、「自分発見」小説 といったほうがいいかもしれない。
「人間はいかにして真の自己となるか」がヘッセの一生のテーマ であったから、『ガラス玉遊戯』はその集大成 といっていいだろう。『デミアン』も『シッダールタ』もみな、おなじテーマを探求 したものだ。
「自分がほんとうの自分になる」 ということは、ユングにならって「自己実現の道」 といってもいいだろう。
自我(エゴ)を超えて自己(セルフ)になるプロセス 。究極的にはインド哲学のウパニシャッドでいう「梵我一如」 や、中国哲学の儒学や道教の「天人合一」 を目指す道。
『ガラス玉遊戯』の主人公クネヒトは(・・ドイツ語の Knecht は「下僕」という意味)は、自己探求のプロセスをへて、「ガラス玉遊戯名人」(マギステル・ルーディ)となる。最高位を極めたわけである。
ところが、頂点に達して見えてきた風景に違和感を感じることになる。違和感はふくらみつづけ、そこにとどまることをよしとはしない 。
「ガラス玉遊戯名人」というポジションは、「ほんとうの自分になる」ための最終到達点ではない。 そのことに気づいてしまったのだ。
現実から遊離し、現実世界との接点を失った、それこそまさに「VR的な遊戯」となっていた「ガラス玉遊戯」の世界に違和感を疑問を感じた主人公 は、用意周到な準備のうえ、最後の最後は「自分の道」に踏み出す。
そして、それこそが人生の完 成であった。ことばではなく、行動によって唯一の弟子に道を教えた主人公 。禅仏教でいう「不立文字」 である。ほんとうに大事なことは、ことばでは伝えられない。行動で、態度で示すしかない のだ。
そして、冷たい湖水を泳ぎ始めた主人公は心臓麻痺をおこし、湖底へと沈んでいく。
死によって人生は完成する。ほんとうの自分になるということは、そういうこと なのだ。人間はそれを目指して、死に向かって生きていく のだ。
■ 「音楽」と「瞑想」と「易経」の融合
「音楽」と「瞑想」と「易経」。この3つの要素が融合した世界が『ガラス玉遊戯』 である。そんな言い方をしても間違いでないだろう。
「音楽」はクラシック音楽に代表される「音楽の国ドイツ」 を。「瞑想」は「瞑想の国インド」 を。「易経」は「古代中国文明」 を意味している。
しかも、古代中国の儒学と音楽が密接な関係にあった ことも、ヘッセはこの小説の「序文 ガラス玉遊戯」のなかで『春秋』の「音楽編」からの引用を行って指摘 している。宇宙の秩序を表現するのが音楽である。それは西洋も東洋もおなじなのだ。
母方の祖父は、敬虔派のプロテスタントで、インドで宣教活動 を行っていた。その祖父の娘として、母もまたインドで過ごしている 。そんな家庭に育ったヘッセは、子どもの頃から毎週1回はカレーを食べていたという。
インド世界への親近感に加えて、中国文明への親近感もまた、ヘッセの人間関係のなかで生じてきたものだ。この件については後述する。
「インド文明」と「中国文明」に代表される「東洋文明」によって、生命力を失い衰退しつつあった西洋文明を「再活性化」 する。ヘッセによるこの試みは、21世紀の現在では当たり前のもの となった。その意味ではヘッセは時代に先駆けた存在 であるといえよう。
ただし重要なことは、東洋文明のエッセンスを取り入れたからといって、西洋人が東洋化したわけではない 。逆もまたしかりだ。日本人を筆頭に西洋化した東洋人は、けっして西洋人になったわけではない 。
それほど、現在でも「東洋」と「西洋」は依然として別個の存在 である。これは東洋人である日本人がみずからを徹底的に考えてみれば、わかることだ。表層的には西洋化した日本人だが、その深層は東洋人である。日本につづいて西洋化していった、その他の東洋人もまた同様であろう。
人格が「東洋と西洋に引き裂かれていた」というのは、ユングの表現である。
■『ガラス玉遊戯』に登場する『易経』
『ガラス玉遊戯』に登場する、「竹林」に住む中国の賢者のような人物は、おそらくヘッセ自身もよく知っていたリヒャルト・ヴィルヘルム だろう。
『易経』は「四書五経」のうちのひとつで、儒学では重視 されてきたと同時に、道教においても重視されてきた経典 である。
易占とその解釈について解説された実用書 であるとともに、「宇宙の法則」、すなわち「変化の法則」と「循環の法則」に影響される人間の運命について説いた哲学書 でもある。
(リヒャルト・ヴィルヘルム Wikipediaより)
宣教師の一家に生まれ育ったヘッセと、宣教師であったリヒャルト・ヴィルヘルムは、おなじ精神の持ち主であったと考えていいのではないか。
先にも触れた「西洋人と易」 には、以下の文章がある。
ノーベル文学賞受賞者、そしてR.ヴィルヘルムの知人であるH.ヘッセの書いた『ガラス玉演戯』(1943年)という小説は、『易』から広い影響 を受けている。この小説の構想展開、主人公がたどった一生の段階は、乾卦の六爻(こう)に即しているとみなすことができる。すなわち、並んでいる6本の爻(こう)において、下から上へ向かって変化する易の展開に沿っている といえるからである。
全12章で構成されたこの小説 は、6本の爻(こう)が2つで構成されているというわけか。
ヘッセが理想とした最終的な境地は「易経」に代表される古代中国文明 であるといっていいだろう。
旅を前にして、その道を進むかどうか迷ったとき、主人公クネヒトは易を立てている。「第4章 二つの教団」に、その具体的な易占のシーン がある。(*訳文には一部変更を加えてある)