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2023年10月18日水曜日

ヘルマン・ヘッセの最後の長編小説『ガラス玉遊戯』(1943年)をようやく読了 ー ヘッセ最後の長編小説は「音楽」と「瞑想」と「易経」の融合。「自分がほんとうの自分になること」がテーマの集大成

 
 

ヘルマン・ヘッセの最後の長編小説『ガラス玉遊戯』(1943年)をついに読了。今年の8月のことである。

「ようやく読了」というのは、ヘッセ好きでありながら、長きにわたって読まないままだったことを意味している。

ヘッセの『デミアン』と『シッダールタ』は、わたしの愛読書だが、なかなか『ガラス玉遊戯』を読むことはできなかった。

というのは、中編小説の多いヘッセにしては長編であること、タイトルから連想されるテーマがよくわからないというのが大きな理由であった。「ガラス玉遊戯」ってなんだ?


『ガラス玉遊戯』は「易経小説」である!

『ガラス玉遊戯』は「易経小説」である。これは『易経』関連文献を読んでいるうちに、『易の世界』(加地伸行編、中公文庫、1994)に収録されている「西洋人と易」(ジョン・イカム)という論文で見つけたものだ。


『ガラス玉遊戯』は「易経小説」でもある。それでは読まねばなるまいと決意した次第だ。

じつは『ガラス玉演戯』というタイトルの新潮文庫の高橋健二訳と、角川文庫リバイバルの『ガラス玉遊戯』というタイトルの井手賁夫(いで・あやお)訳の2種類をもっているのだが、いろいろ考えた末に角川文庫版で読むことにした。両者はいずれも絶版状態。




というのは、『ガラス玉遊戯』のほうが日本語のタイトルとしてすぐれているからだ。

ドイツ語の原題は Das Glasperlenspiel である。日本語なら『演戯』ではなく『遊戯』とすべきだろう。「遊戯」なら「遊戯王」でも使用されており、ゲームであることがわかる。実際、新訳でも『ガラス玉遊戯』となっている。

「ヘッセ研究会」の初代会長をつとめ、『ヘッセ(人と思想89)』(清水書院、1990)という評伝も書いている井出氏の訳だが、正直いって読みやすい訳ではない。だが、この長編小説を読み込んだ末に訳していることはあきらかである。

ドイツ文学界の大御所であった手塚富雄氏からすすめられて翻訳に取り組んだとある。井手賁夫の訳は1954年に初版がでて、1990年に復刊が再版(=第2刷)である。




■主人公クネヒトは『知と愛』の主人公ナルツィスの系譜

『ガラス玉遊戯』に取り組む前に、未読のままとなっていた『ナルツィスとゴルトムント』(1930年)を読んでおいた。高橋健二の訳で『知と愛』として知られている。

まずは、この長編を読んでおくことが前提条件であると思っていたのだが、それはまことにもって正解だった。じつはこの長編もまだ読んでなかったのだ。

読後感としては、「知と愛」よりも、むしろ「霊と肉」といったほうが、中世ヨーロッパのキリスト教のモチーフとしてふさわしいのだが、その件はここでは脇においておこう。


(『ナルツィスとゴルトムント』は2020年にドイツで映画化されている)


「25世紀のカスターニエン」を舞台にした『ガラス玉遊戯』の主人公のマギステル・ルーディことヨーゼフ・クネヒトは、「中世ドイツのマウルブロン修道院」を舞台にした『ナルツィスとゴルトムント』におけるナルツィスの類型だと思ったからだ。

あくまでも「知」の世界に生きる主人公クネヒト。けっして「情」の世界とは無縁ではないのだが、階梯をひとつひとつ螺旋的に上がっていく姿は、ナルツィスとよく似ている。そして、その最後に弟子に対して深い「情」を示したことにおいてもまた。

そして、『ガラス玉遊戯』には、ほとんど男性しか登場しない。『ナルツィスとゴルトムント』も『デミアン』もまたそうだ。

ヘッセ自身は3回結婚しておりホモセクシュアルではなかったが、作者自身を投影できる主人公は男性であり、男性と男性どうしの友愛であったからだろうか。

こういう性質をもった文学作品であるからこそ、ヘッセが日本の少女マンガに多大な影響を与えたという。そう主張するドイツ文化研究者の森貴史氏の『裸のヘッセ』に収録された「ヘッセと日本の特殊な関係」は説得力がある。


■『ガラス玉遊戯』というタイトル

正式名称は『ガラス玉遊戯 マギステル・ルーディ・ヨーゼフ・クネヒトの伝記的試みおよびクネヒトの遺稿』。凝ったつくりの構成である。


Glasperlenspiel というドイツ語を分解すれば、Glas-perlen-spiel となる。「ガラスのパール(真珠)」のプレイ、あるいはゲームである。ドイツ語の Spiel は英語の play よりも意味的な幅が広い。「ガラスでできたパール」とは「ビー玉」のようなものだろう。



哲学や数学と音楽を総合し、瞑想をつうじて宗教的な境地まで高める「遊戯」であるとするが、最後の最後まで具体的に目に見える形で説明されることはない。

もともとは符号や数式のかわりに「ガラス玉」をつかっていたのでそうよばれたが、つかわれなくなったあとも名前だけが残ったとされる。

「ガラス玉遊戯」は、現代風にいえば、「VR」的なものといっていいのかもしれない。「バーチャル・リアリティ(virtual reality)である。目に見えるガラス玉をつかわない、「目に見えない」ゲーム空中に数式や符号を書いて競いあう精神的なゲーム。そんなイメージなのだろうか。

数学と音楽が親和性が高いことは、「七自由学芸」ともいう「リベラルアーツ」の音楽は数学も意味していることからもわかる。その意味では、この小説は「音楽小説」でもある。

そもそも「25世紀の架空世界カスターリエン」が舞台なので、未来小説的でSF的であるし、あるいははるか過去の話であるかのようにも思える。「はるかに遠い未来」から、「現在より先にある未来」を「回想」するという歴史書という形をとっている。

SFは一般的にサイエンス・フィクション(Science Fiction)の略称として理解されているが、日本語で「思弁小説」と訳されている「スペキュラティブ・フィクション」(Speculative Fiction)の略称と考えれば、ヘッセの『ガラス玉遊戯』はそれそのものだといっていい。


そして、ユートピアは失敗する運命にある主人公もまた、身をもってその兆しを感知する。

それ自体が高貴な存在であっても、存続のための資金をみずから生み出さず、現実世界の資金で成り立っている、ユートピア的存在である「カスターリエン」。そのあり方は、中世のシトー派修道院より後退しているというべきか。

砂上の楼閣である以上、失敗する運命は必然だというべきなのだ。



■「自分がほんとうの自分になる」ために歩むべき道がテーマ


「教養小説」というよりも、むしろ「修養小説」としたほうが内容的にはふさわしいがいうべきだが、「人間形成」小説とか、「自分発見」小説といったほうがいいかもしれない。

「人間はいかにして真の自己となるか」がヘッセの一生のテーマであったから、『ガラス玉遊戯』はその集大成といっていいだろう。『デミアン』も『シッダールタ』もみな、おなじテーマを探求したものだ。

「自分がほんとうの自分になる」ということは、ユングにならって「自己実現の道」といってもいいだろう。

自我(エゴ)を超えて自己(セルフ)になるプロセス。究極的にはインド哲学のウパニシャッドでいう「梵我一如」や、中国哲学の儒学や道教の「天人合一」を目指す道。

『ガラス玉遊戯』の主人公クネヒトは(・・ドイツ語の Knecht は「下僕」という意味)は、自己探求のプロセスをへて、「ガラス玉遊戯名人」(マギステル・ルーディ)となる。最高位を極めたわけである。

ところが、頂点に達して見えてきた風景に違和感を感じることになる。違和感はふくらみつづけ、そこにとどまることをよしとはしない

「ガラス玉遊戯名人」というポジションは、「ほんとうの自分になる」ための最終到達点ではない。そのことに気づいてしまったのだ。

現実から遊離し、現実世界との接点を失った、それこそまさに「VR的な遊戯」となっていた「ガラス玉遊戯」の世界に違和感を疑問を感じた主人公は、用意周到な準備のうえ、最後の最後は「自分の道」に踏み出す。

そして、それこそが人生の完成であった。ことばではなく、行動によって唯一の弟子に道を教えた主人公。禅仏教でいう「不立文字」である。ほんとうに大事なことは、ことばでは伝えられない。行動で、態度で示すしかないのだ。

そして、冷たい湖水を泳ぎ始めた主人公は心臓麻痺をおこし、湖底へと沈んでいく。

死によって人生は完成する。ほんとうの自分になるということは、そういうことなのだ。人間はそれを目指して、死に向かって生きていくのだ。

主人公の最期を読んでいて、詩人でシンガーソングライターのレナード・コーエンの世界観に近いなと思うところがあった。そこでネットで調べてみたら、その直観はまったく正解だった。


初期のアルバム "The best Of"  に収録された曲の数々は、確証はないが、わたしには『ガラス玉遊戯』の世界観が反映されているように思われたのだ。レナード・コーエンに影響を与えたのは、禅仏教やチベット仏教だけではない。




「音楽」と「瞑想」と「易経」の融合

「音楽」と「瞑想」と「易経」。この3つの要素が融合した世界が『ガラス玉遊戯』である。そんな言い方をしても間違いでないだろう。

「音楽」はクラシック音楽に代表される「音楽の国ドイツ」を。「瞑想」は「瞑想の国インド」を。「易経」は「古代中国文明」を意味している。

しかも、古代中国の儒学と音楽が密接な関係にあったことも、ヘッセはこの小説の「序文 ガラス玉遊戯」のなかで『春秋』の「音楽編」からの引用を行って指摘している。宇宙の秩序を表現するのが音楽である。それは西洋も東洋もおなじなのだ。

母方の祖父は、敬虔派のプロテスタントで、インドで宣教活動を行っていた。その祖父の娘として、母もまたインドで過ごしている。そんな家庭に育ったヘッセは、子どもの頃から毎週1回はカレーを食べていたという。

インド世界への親近感に加えて、中国文明への親近感もまた、ヘッセの人間関係のなかで生じてきたものだ。この件については後述する。

「インド文明」と「中国文明」に代表される「東洋文明」によって、生命力を失い衰退しつつあった西洋文明を「再活性化」する。ヘッセによるこの試みは、21世紀の現在では当たり前のものとなった。その意味ではヘッセは時代に先駆けた存在であるといえよう。

ただし重要なことは、東洋文明のエッセンスを取り入れたからといって、西洋人が東洋化したわけではない。逆もまたしかりだ。日本人を筆頭に西洋化した東洋人は、けっして西洋人になったわけではない

それほど、現在でも「東洋」と「西洋」は依然として別個の存在である。これは東洋人である日本人がみずからを徹底的に考えてみれば、わかることだ。表層的には西洋化した日本人だが、その深層は東洋人である。日本につづいて西洋化していった、その他の東洋人もまた同様であろう。




リヒャルト・ヴィルヘルムには、ドイツ帰国後に心理学者C. G. ユングとの共著で出版した『黄金の華の秘密』という、道教の瞑想法についての翻訳と解説の本がある。

人格が「東洋と西洋に引き裂かれていた」というのは、ユングの表現である。



■『ガラス玉遊戯』に登場する『易経』

『ガラス玉遊戯』に登場する、「竹林」に住む中国の賢者のような人物は、おそらくヘッセ自身もよく知っていたリヒャルト・ヴィルヘルムだろう。

かれがドイツ語訳した『易経』は「変化の書」として ドイツで "I Ging: Das Buch der Wandlungen" として出版されているだけでなく、そのドイツ語版から英語に重訳された "I-Ching or Book Of Change" が英語圏でも広く読まれてきた。
 
(リヒャルト・ヴィルヘルム訳の『易経』)


『易経』は「四書五経」のうちのひとつで、儒学では重視されてきたと同時に、道教においても重視されてきた経典である。

易占とその解釈について解説された実用書であるとともに、「宇宙の法則」、すなわち「変化の法則」と「循環の法則」に影響される人間の運命について説いた哲学書でもある。

その『易経』をドイツ語訳したのがリヒャルト・ヴィルヘルム(1873~1930)である。

宣教師としてドイツの植民地であった青島(チンタオ)に赴任しながら、約25年間の中国滞在中、誰一人も改宗させなかったことを誇りにしていたほど、中国文明に魅せられ、のめり込んだ人であった。

(リヒャルト・ヴィルヘルム Wikipediaより)


宣教師の一家に生まれ育ったヘッセと、宣教師であったリヒャルト・ヴィルヘルムは、おなじ精神の持ち主であったと考えていいのではないか。

先にも触れた「西洋人と易」には、以下の文章がある。

ノーベル文学賞受賞者、そしてR.ヴィルヘルムの知人であるH.ヘッセの書いた『ガラス玉演戯』(1943年)という小説は、『易』から広い影響を受けている。この小説の構想展開、主人公がたどった一生の段階は、乾卦の六爻(こう)に即しているとみなすことができる。すなわち、並んでいる6本の爻(こう)において、下から上へ向かって変化する易の展開に沿っているといえるからである。 


全12章で構成されたこの小説は、6本の爻(こう)が2つで構成されているというわけか。

ヘッセが理想とした最終的な境地は「易経」に代表される古代中国文明であるといっていいだろう。

旅を前にして、その道を進むかどうか迷ったとき、主人公クネヒトは易を立てている。「第4章 二つの教団」に、その具体的な易占のシーンがある。(*訳文には一部変更を加えてある)

クネヒトが旅にのぼる前に、セイヨウノコギリソウの茎*で易を占うと、「旅」(Lü)という漢字にあたった。これは「旅人」(Der Wanderer)をあらわし、「乏しきに安んずれば成る。旅人はただ、みずから守ること貞正なれば、すなわち吉なり」(Durch Kleinheit Gelingen. Dem Wnderer ist Beharrlichkeit von Heil)という判断であった。彼は六二(ろくじ)**を見いだして、その書の解釈を追った
 
  旅行して宿舎に安着し 
  充分なる旅費を懐中にし 
  召使いの童僕もきわめて忠実なり 
 
Der Wanderer kommt zur Herberge. 
Er hat seinen Besitz bei sich.
Er erlangt jungen Dieners Beharrlichkeit.
 
* 西洋鋸草。筮竹(ぜいちく)の素材は、キク科の多年草であるノコギリソウ 
 ** 6本線のうち一番下から2番目の爻(こう)を「二爻」といい、「陰/陽」の「陰」である場合、それを「六二」という


(セイヨウノコギリソウの茎を乾燥させた筮竹 Wikipediaより)


(セイヨウノコギリソウ Wikipediaより)


(ヴィルヘルム訳からの英語重訳版 Book1 Text より「56 旅」)



『易経』に表現された秩序については、「第7章 職務にて」につぎのような文章がある。


クネヒトは、ガラス玉遊戯のある着想を心に持ち回っていたので、マギステルとしての最初の祭典遊戯に使用したいと思ったのである。
この遊戯の(これはよい思いつきであった)構造と次元の基礎をなすものは、支那人の家の建築の、孔子の教えによる古い儀式的な図式であって、方位づけは天の方角にしたがい、門、鬼門よけの壁、建築物と中庭の割合と規定、それらの星辰、暦、家族生活への順応、さらに庭園の象徴と様式規定がある。
かつて彼が易経の注釈を研究したさい、この法則のもつ神話的秩序と意義は、宇宙の、また世界のなかへの人類の配列として、とくに心をひく好ましい譬喩と思われたのであった。


日本とのかかわりも深いが、やはり古代インドと古代中国こそ、ヘッセにとっては母語としてのドイツ語圏とならんで「精神的な祖国」であるというべきなのだろう。

インド文明は『シッダールタ』に、そのうえでさらにインド文明と中国文明が『ガラス玉遊戯』に結晶している。『世界文学をどう読むか』(高橋健二訳、新潮文庫、1951 原書は1929年初版)には、インドや中国の古典が多数紹介されている。

下記に示したページには、「わが愛読書」から、リヒャルト・ヴィルヘルム訳の『易経』や、『ガラス玉遊戯』の「序文」にも引用されている『(呂氏)春秋』があげられている。

(赤い傍線部分がヴィルヘルム訳『易経』 筆者所蔵本より)

だからこそ、西欧の精神世界を描いて、インドの瞑想と中国の易経の精神で補完したこの作品は、ヘッセの集大成となるのだろう。

ヘッセは集大成ともいうべき、この最後の長編小説でノーベル文学賞を受賞していることを付記しておこう。西洋文明の再活性化を試みたことが評価されたのであろうか。

行替えが極端に少ないので読みにくく、内容的にもやや難解なところのある長編小説だが、さまざまな切り口でアプローチしてみることが可能だ。ここではその一環を示したに過ぎない。本は、自分が好きなように読めばいいのである。


 
 



目 次
序文 ガラス玉遊戯 ー 遊戯の歴史を一般の人びとにわかりやすく説明しようとする試み
マギステル・ルーディ・ヨーゼフ・クネヒトの伝記
第1章 召命
第2章 ヴァルトツェル(森の僧坊)
第3章 研究時代
第4章 二つの教団
第5章 使節
第6章 マギステル・ルーディ
第7章 職務にて
第8章 二つの極
第9章 一つの対話
第10章 準備
第11章 回章
第12章 伝説
ヨーゼフ・クネヒトの遺稿
生徒時代および研究生時代の詩
三つの履歴
 雨乞い祈祷師
 聴罪師
 インドの履歴
訳注(上・下にそれぞれ収録)
解説(上巻に収録)


日本語訳者プロフィール
井手賁夫(いで・あやお)
1910(明治43)年岡山県に生まれる。慶応義塾大学文学部卒業。東海大学教授総代・学長代理、北海道大学教授・教養部長、北海道薬科大学教授、北里学園大学教授を歴任。北海道大学名誉教授。全国日独協会・日本自然保護協会評議員を歴任。「ヘッセ研究会」の初代会長。勲三等・ドイツ功労勲章受章。1995年逝去。(本データは『ヘッセ(人と思想89)』が刊行された当時に掲載されていたものに補足)



<ブログ内関連記事>


・・リヒャルト・ヴィルヘルムと『易経』



・・『易経』の易占の日本的展開が陰陽師の呪術性につながっていく

・・もちろん易経(I-Ching)は取り上げられている

・・ヘッセの『ナルツィスとゴルトムント』のテーマにも重なる。「俗世の泥や塵にまみれるなかで、修行を積む。 寺院のなかで修行するだけが、仏道修行ではない」のは、宗教は異なり、性は異なるが、ゴルトムントの軌跡とおなじである。ちなみに「ゴルトムント」(Goldmund)はドイツ語で「金の口」。聖クリュソストモスのことである。


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