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2012年2月1日水曜日

書評『伝説の灘校教師が教える ― 生役立つ学ぶ力』(橋本 武、日本実業出版社、2012)―「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」!


「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」! だからこそ、「一生役立つ学ぶ力」を身につけよう!

小説『銀の匙(さじ)』を3年間かけて読みこむ「スロー・リーディング」という「奇跡の授業」を実践してきた伝説の灘校教師・橋本武の初の語り下ろし。

さすが100歳も生きてきた教師の言うことは、ひとつひとつが納得です。

「まなび」=「あそび」、まさにこれですね!「遊ぶように学ぶ」ことができれば、おのずから知識は血肉となる。疑問をもって自分で調べるクセがつけば、考えるチカラがつく

「スロー・リーディング」で有名になった「奇跡の授業」ですが、同時並行的に一ヶ月に一冊の課題図書があったことも明かされています。つまるところは「熟読×多読」なわけですね。

そして、書くというアウトプットによって身につくのが、「判断力」、「構成力」、「集中力」。そして重要なのは「横道にそれる」こと!

たんなる国語教育法のワクを超えて、生き方の本になっているといっていいでしょう。しかも教訓じみたところがまったくないのは驚きです。すんなりとアタマとココロに沁みてくる内容です。この本を読めば、ほんとうの「まなび」の意味がわかるでしょう。

ああ、こんな先生に教わってみたかった!


<初出情報>

■bk1書評「「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」! だからこそ、「一生役立つ学ぶ力」を身につけよう!」投稿掲載(2012年1月31日)
■amazon書評「 「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」! だからこそ、「一生役立つ学ぶ力」を身につけよう!」投稿掲載(2012年1月31日)



目 次

はじめに 人は何歳でも学び続けることができる
第1章 「学ぶ」ことは遊ぶこと、「遊ぶ」ことは学ぶこと-再び生徒と向き合って感じた学びの基本
第2章 生きる力、学ぶ楽しさのもととなる国語力-「読む」と「書く」のバランスが肝心
第3章 教えることで見える学びの本質-個性を引き出す子どもたちとのぶつかり合い
第4章 日常にあふれる「学び」「気づき」への横道-未来の大人たちに知っておいてほしいこと
第5章 つまり人生とは学びの連続-100年間積み重ねてきた生きる力の軌跡
特別付録 対談 遠藤周作×橋本武

著者プロフィール  
 
橋本武(はしもと・たけし)  

1912(明治45)年京都府生まれ。2012年に100歳を迎える。1934(昭和9)年に東京高等師範学校(後の筑波大学)を卒業、旧制灘中学校の国語教師となる。小説『銀の匙』を中学3年間かけて読み込むという前代未聞の授業を行い、公立校のすべり止めに過ぎなかった灘校を名門進学校に導く。1984年に退職。退職後は文筆活動を続けながら、いまも地元のカルチャーセンターなどで現役講師として活躍する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの。



<書評への付記>

昨日(2012年1月31日)、この本を読んだことをフェイスブックに投稿したところ、ひじょうに多くの方々からコメントが寄せられた。

とくに子どもをもつ主婦の方々や教育にかかわっている方々が反応してくださった。なんといっても子ども教育問題ほど関心の高い分野はほかにはないだろう。

国語(=日本語)教育の教材としての『銀の匙』を選択したのは、本書によると、日本の敗戦によって教科書が黒く塗りつぶされて使い物にならなくなったので、いっそのことあたらしい教材をつかって実験してみようというのが動機だったらしい。いわゆる民主化教育とは関係ないようだ。

中高一貫で、いったん教科担任がきまると6年間ずっと変わらないという灘校の教育方針が、ある意味では英国のパブリックスクールのような教育を可能としたのであろう。その結果が、東大合格率ナンバーワンという実績を生み出したのであって、受験校だからというって詰込み教育をおこなっているわけではない。

むしろ、そもそもが潜在能力の高い生徒が入学してくるのだから、内発的動機に火をつけさえできれば、やれと命令しなくても自分たちが主体的に取り組むようになるわけだ。

そして、読んで書くという国語力(=日本語力)がつけば、数学でも理科でも問題を分析し、問題を解決するチカラは自ずからついてくる。英語力もまた同じだ。きわめてまっとうな論理である。

これが「一生役立つ学ぶチカラ」の基礎だというわけなのだ。これを身につけているからこそ、灘校出身者は東大などのトップ大学に進学するだけでなく、東大卒業後もそれぞれユニークな道を歩いて行くことになる。

まさに、「自分で考え、自分で行動し、世界中どこでも通用する人材」の基礎は、じっくりと精読する「スロー・リーディング」と多読とのかけ算にあることがわかる。

巻末に灘校出身の遠藤周作との1974年の対談が再録されているが、橋本先生の人柄がよく引き出された面白い読み物になっている。遠藤周作在学当時の灘校は、自由な校風は変わりないが、けっして進学校ではなかったことは、『落第坊主の履歴書』と題した日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」にも書かれていた。

あたらしい取り組みが実を結ぶには、なにごとであれ軌道に乗るには時間がかかるということだ。「スロー・リーディング」の実践もまた、自由な校風であたらしい取り組みがゆるされる環境があってこそのものだったのである。

ちなみに『銀の匙』(中 勘助、岩波文庫、1999改版 単行本初版は岩波書店 1926)は、岩波文庫の緑帯のロングセラーである。「岩波文庫解説」から、簡にして要を得た紹介文を引用させていただこう。

なかなか開かなかった茶箪笥の抽匣(ひきだし)からみつけた銀の匙。伯母さんの無限の愛情に包まれて過ごした日々。少年時代の思い出を中勘助(1885~1965)が自伝風に綴ったこの作品には、子ども自身の感情世界が、子どもが感じ体験したままに素直に描き出されている。漱石が未曾有の秀作として絶賛した名作。改版。(解説=和辻哲郎)

みなさんもぜひ、『銀の匙』を味読していただきたいと思う。







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・・紀伊国屋梅田本店(大阪)にて開催予定


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2011年9月5日月曜日

「学を為すには、人の之れを強うるを俟たず。必ずや感興する所有って之を為す」 (佐藤一斎)ー 外発的なキッカケを自発性と内発的動機でかならずモノにする!

(渡辺崋山による佐藤一斎の肖像画 wikipediaより)

学を為(な)すには、人の之れ強(し)うるをま俟(ま)たず。必ずや心に感興する所有って之を為し、躬(み)に持循(じじゅん)する所有って之れを執り、心に和楽する所有って之を成す

 江戸時代の儒者・佐藤一斎(1772~1859)のコトバである。佐藤一斎は、学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(=総長)を命じられ、広く崇められた大学者であった。

 先のコトバを現代語に訳せば以下のようになるだろうか。

学問をなすには、他人から強制されてするものではない。必ずやみずからの心に興味や関心が湧き上がってくるものを感じたらするべきなのだ。そういった気持ちをすなおに持ち続けて、楽しめるようになってはじめて大成するものだ。

 儒者のコトバであるから、当然ここでは『論語』を始めとする『四書五経』の学習について言っているわけだが、この発言は儒学にとどまらず普遍的なものであるといっていいだろう。何ごとも、自発的で内発的な動機付け(モチベーション)がなければ長続きしない。

 これは、俗な表現をつかえば「好きこそものの上手なれ」ということであり、現代の幼児教育のメインストリームの一つであるモンテッソーリ教育にもつうじるものがある。

 佐藤一斎といえば、西郷南洲(隆盛)の終生の愛読書だった『言志四録』が有名だ。佐藤一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録で、指導者のための指針の書とされ現在もひろく読み継がれているという。

 『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』の四書を総称して『言志四録』という。引用したコトバの出典は、『言志耋(てつ)録』第三七条である。

 そもそも儒教はあまり好きではなく、しかも儒教を修養の支えとしている時代に生きていないわたしは、もちろん一部にしか目を通していないが、佐藤一斎という名前と『言志四録』の存在くらいは知っている。ただし、わたしは佐藤一斎の縁者ではない(笑)。

 佐藤一斎の門下生は三千人といわれるほど多い。これは「白髪三千丈」に代表される漢文特有のレトリックではないようだ。

 なかでも著名人としては、財政家で陽明学者であった山田方谷(やまだ・ほうこく)、洋学者で開国派であった佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠など、幕末に大活躍した人材たちが佐藤一斎のもとから育っている。なお、上掲の肖像画は渡辺崋山によるものである。

 佐藤一斎のコトバでもっとも有名なものといえば、『言志晩録』に収められたものであろう。

少而學 則壮而有為
壮而學 則老而不衰
老而學 則死而不朽

少にして学べば 則ち壮にして 為すことあり
壮にして学べば 則ち老いて 衰えず
老にして学べば 則ち死して 朽ちず

 あえて現代語訳はつける必要はなかろう。学び始めるのに遅いということはまったくない(!)という、晩学者への暖かいエールにもなっているとともに、死ぬまで勉強(!)という叱咤激励のコトバでもある。

 「少年老い易く学成り難し」と似たような内容の漢詩である。国学者の本居宣長の『うひやまふみ』とともに、かつてはよく知られていたものだが、現在ではいかがだろうか?

 必要に迫られて学ぶということは、いっけん外発性のように見える。だが、必要な迫られたときにイヤイヤではなく、ぜひ取り組んでみようという強い意志がうまれるとき、必ずやモノにすることができるはずである。

 自らの意思で取り組むことによって真に自分のものとなすことができるのだ。その意味では、モノを言うのは取り組み姿勢そのものだ。

 おそらく多くの人が高校大学の受験勉強や各種試験勉強をイヤイヤながら取り組んだことだろう。受験勉強など実社会では役にたたない時間のムダだとうそぶく大人も多い。しかし、わたしに言わせれば、そんなのはイヌの遠吠えに過ぎない。

 そうじゃなくても受験に時間を取られるのだから、受験目的だけに時間を使うのはあまりにももったいないではないか! だから何ごともツーインワン、オールインワンで時間を2倍、3倍にしてフル活用するのだ。これは外発的なキッカケを内発的な動機によって転換させる方法である。

 外発性の出来事をありがたいチャンスと捉え、内発性を大いに発揮して全力で取り組む。社会人の学びとはこういった性格を多分にもったものであろう。何ごともポジティブに捉えることの重要性がそこにある。

 佐藤一斎のコトバを思い出せば、これはむかしから変わらぬ真理であることが理解されるだろう。

 「学を為すには、人の之れを強うるを俟たず。必ずや感興する所有って之を為す」。そう、気持ちの持ち方次第なのだ。

  
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2010年12月27日月曜日

ファラデー『ロウソクの科学』の 「クリスマス講演」から150年、子どもが科学精神をもつことの重要性について考えてみる




 いまからちょうど150年前の本日、すなわち1860年12月27日から翌年1月8日までの全6回、「クリスマス講演」と題して行われた、英国の化学者マイケル・ファラデーが 69歳の年の『ロウソクの科学』

 これはその翌年、一冊の本としてまとめられ、それ以後、科学教育史上における名著として現在に至るまで読み継がれてきた。
 
 今年2010年9月に、岩波文庫から『ロウソクの科学』の新訳が出版されたので、今回ここでとりあげたいと思う。


新訳『ロウソクの科学』に目を通してみる

 以前の岩波文庫の翻訳が、ドイツ語版からの重訳であったというのは、いくらなんでもひどい話だ。原文は言うまでもなく英語である。原題は、Michael Faraday, A Course of Six Lectures on the Chemical History of a Candle, 1861 である。直訳すれば「ロウソクの化学史の六回の講演コース」。

 新訳は全体的に非常にわかりやすい訳文になっており、これなら中学生でも読めるの文章になっているのではないかと思う。
 燃焼のなんたるかについて、そのメカニズムにかんする知識をもっている、すでに大人である私から見れば、なんだかまどろっこしい説明であるような感じがしなくもないのだが、知識のない子どもに対して、燃焼や化学反応を実験をつうじて一から理解させるためには、このような形で順をおって、無理なくロジカルに説明していく手法が大切なことが理解される。
 おそらく、文字で読むからそう感じるのであって、目の前で実験しながらお話を聞くのであれば、大人でも実に興味深く聞き入るレクチャーなのだと思う。

 とはいえ、大人であっても、たとえばクリーンエネルギーである燃料電池(fuel cell)のメカニズムを知るためには、ファラデーが説明するように、水素と酸素を結合させる際に発生するエネルギーにかんする基本的な原理を知っておくことが不可欠である。これは水を電気分解すると、水素と酸素が得られることの反対にあたる。

 ファラデーのレクチャーは、燃焼を論じて、二酸化炭素排出にかんして、人間と植物の問題にまで及ぶ。化学と電気をつうじて、科学的思考精神を大きく広げてくれる内容になっている。


科学教育(≒理科教育)の重要性は、ただ単に実用知識の習得だけにあるのではない

 ファラデーのように、科学をわかりやすく語る行為は、なによりも現在の日本で求められていることだと痛感している。日本でも米村でんじろう氏のような科学の伝道師が一人でも増えることを願うものである。

 とくに実験をつうじて、目に見える形で科学のもつオドロキに触れることは、センス・オブ・ワンダー(sense of wonder)感覚を養ううえで実に重要だ。日本語には訳しにくいが、自然界の不思議を感じ取る感覚といったらいいのだろうか。
 受験科目にないという理由で、理科から遠ざかっている子どもが少なくないようだが、これはおかしな話である。

 ビジネスの世界では、何よりも「仮説-検証」感覚といったものが求められるのだが、これは日常生活をただ単に送っているのでは身につかない感覚である。仮説をもとに自分で実験を計画し、実験によってその仮説が正しいかどうかを検証する。
 実験そのものは、あくまでも手技(てわざ)であり、自分のアタマで考え、自分の手を使って実験道具を組み立てて実験を行い、それをまた自分のアタマで判断して、結論を導いていくという一連のプロセスのなかで養われるものだ。
 「仮説-検証」感覚は、勉強本を読んで一朝一夕に身につくマインドセットではない。きちんと中学生と高校生のときに理科を勉強して、知らず識らずのうちに身につくものだ。

 訳者解説に引かれたコトバで、ファラデーは科学教育の目的について次のように言っている。

教育の目的は、心を訓練して、前提から結論を導き、虚偽を見いだし、不適切な一般化を正し、推論に際しての誤りが大きくなるのをくい止められるようにすることです。(P.227)

 小学校や中学校レベルで感じたセンス・オブ・ワンダー感覚、たとえ自然科学を専攻しなくても、この感覚は大人になっても持ち続けたいものである。そしてこれが「仮説-検証」感覚の基礎となる。

 でないと、日本人の将来は実に暗いといわざるを得ない。


ロウソクをつうじたファラデーと日本との縁(ゆかり)

 ところで、1860年12月27日に行われた第1講には、こういうフレーズがでてくる。(*太字ゴチックは引用者=さとう 以下同様)。

また、これは私たちが開国をうながした、はるか遠くの異国、日本からもたらされた物質です。これは一種のワックスで、親切な友達が送ってくださったものです。これもロウソク製造用の新しい材料ですね。(P.25)

 訳者注によれば、以下のものである。

いわゆる「和ロウ」。ハゼノキやウルシなどのウルシ科の実を砕き、蒸し、しぼりとった固体脂肪を原料とした。脂肪、つまり脂肪酸のグリセリンエステルだが、パルミチン酸 CH3(CH2)14COOH が多く含まれている。(P.182)

 「日本のロウソク」は最終日の第6講の冒頭にもでてくる。

光栄にもこの連続講演を聞きに来てくださったご婦人が、私にこの二本のロウソクをくださいました。重ね重ねのご親切に感謝します。このロウソクは日本から来たもので、おそらく前に申し上げた物質からできているのでしょう。・・(中略)・・このロウソクは驚くべき特性を備えています。すなわち中空の芯で、この見事な特性は、アルガンがランプに採用して価値を高めたものです。・・(中略)・・また、日本の鋳型ロウソクは、イギリス製の鋳型ロウソクに比べて、上の部分がより広い円錐形になっています。(P.151~152)

 日本とも見えない糸でつながっていたファラデー発明王エジソンが電球のフィラメントに京都の竹を使用したというエピソードとあわせて、日本人として、その当時のメイド・イン・ジャパンの工芸品のレベルの高さを知るのは、なんだかうれしくなってくるエピソードではないか。

 こんなことからファラデーに親しみを感じるのもいいことだろう。

 ファラデーはもともと製本工から実験助手を経て、自らの意思のチカラでつかみとった幸運を活かしきり、独学で科学者として身を立てた人である。偉大な科学者である前に、手技(てわざ)の人であったのだ。職人のマインドを持ち続けた人であった。

 ファラデーこそまさに「地頭のよい人」であったといえるだろう。


 ファラデー『ロウソクの科学』の新訳にざっと目をとおして、こんなことを考えてみた。


画像をクリック!

目 次

『ロウソクの科学』ができるまで-訳者前書きに代えて-
序文
第1講 ロウソク 炎とそのもと‐構造‐動きやすさ‐明るさ
第2講 ロウソク 炎の明るさ‐燃焼に必要な空気‐水の生成
第3講 生成物 燃焼によって生じる水‐水の性質‐化合物‐水素
第4講 ロウソクの中の水素‐燃えて水になる‐水の他の部分‐酸素
第5講 空気中の酸素‐大気の性質‐ロウソクからの他の生成物‐炭酸とその性質
第6講 炭素つまり木炭‐石炭ガス‐呼吸‐呼吸とロウソクの燃焼との類似‐結論
訳注
ファラデー 人と生涯
文献・資料
訳者後書き


著者プロフィール

マイケル・ファラデー(Michael Faraday)

1791年、ロンドンで鍛冶屋の三男として生まれる。両親とともにロンドンに移住、製本工から実験助手に志願して、独学で夢を叶えて科学者となり、1825年には英国王立研究所の研究所長となる。数々の科学上の特筆すべき業績を残しただけでなく、1826年から「少年少女のためのクリスマス講演」を開始、この講演は現在まで続くものとなった。1860年の『ロウソクの科学』講演の2年後の最後の講演後、研究所を引退、1867年に眠るような大往生を遂げた(訳者解説から作成)。

竹内敬人(たけうち・よしと)

1934年東京生まれ。1960年東京大学教養学部教養学科卒業。理学博士。東京大学名誉教授、神奈川大学名誉教授。専攻は有機化学、化学教育(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



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2010年11月6日土曜日

「人間の本質は学びにある」ー モンテッソーリ教育について考えてみる


       
子どもの個性を尊重したシュタイナー教育とモンテッソーリ教育

 子ども一人一人の個性を引き出し、伸ばしていく教育といえば、シュタイナー教育モンテッソーリ教育の二つがあげられるだろう。この二つはともに欧州発の教育方法である。

 シュタイナー教育とは、クロアチア(・・当時ハプスブルク帝国内)生まれの人智学者、哲学者で思想家のルドルフ・シュタイナー(1861~1925)が提唱し、実践してきた、ドイツ語圏を中心に世界中に広まっている教育方法。

 幼児から高校レベルまでの独自の一貫教育を行っているもの。『モモ』や『ネバー・エンディング・ストーリー』の作者である、ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデがここで学んだといえば、おおよその想像はつくはずだ。

 モンテッソーリ教育は、イタリアの医師であったマリア・モンテッソーリ(1870~1952)が、自然な子どもを観察を基礎に、心理学、医学、生理学などから得た「発達理論」をもとに組み立てた幼児教育。日本では小学校課程以上は文部科学省の指導に従わねばならないが、欧米ではモンテッソーリ教育による大学課程まであるという。

 モンテッソーリ教育は 1907年に世界中から注目を浴びたが、二度の世界大戦を挟んで忘れ去られていた。1960年代の米国で再発見され、リバイバルがブームとなって世界中に普及したらしい。直接のキッカケは、宇宙開発競争においてソ連に敗れたことである。創造性の高い子どもを育てるにはどうしたらいいかという問題意識が背景にあった。

 私自身は大学時代、教員免許の取得を考えて、そのための必修である「教育心理学」という講義を受講したが一回しか出席しなかったくらいなので、教育学の歴史について精通しているわけではない。ジャン・ピアジェ(・・構造主義の元祖でしたね)などがでてきた記憶があるが・・・。結局、教職は取らずじまい。ほとほと資格とは縁のない人生である。

 したがって、確かなことはいえないのだが、集団行動を過度に強調する近代日本の教育とは違って、個性を重視する教育メソッドとして、シュタイナー教育とモンテッソーリ教育が注目を集めてきたことは知っている。

 ただ、この場でシュタイナー教育とモンテッソーリ教育の優劣を論じるだけの知識も体験も持ち合わせていない。シュタイナー教育もモンテッソーリ教育も自分が受けた教育ではないし、詳しく研究したことも、実践したこともないからだ。


モンテッソーリ教育とは?


とりあえず、モンテッソーリ教育とは何かを見ておくこととしよう。

 『子供の潜在能力を 101% 引き出すモンテッソーリ教育』(佐々木信一郎、講談社+α新書、2006)という本がある。

 著者の要約を使えば、モンテッソーリ教育とは、「自分の興味から始めて、やればやるほど楽しくなり、なおかつ心の傷が癒え、最後にはきちんと力がついているような教育」である。

 これがけっして誇張でないことは、この本を読むと十分に納得される。著者自身による二十数年にわたる豊富な幼児教育体験をもとに執筆されたので説得力が強いからだ。この本に登場する子どもたちの事例をみていくと納得できる。

 教え込まなくても、子どもの自発性と主体性にまかせておけば、自分の興味と関心をつうじて学ぶべきものはきちんと身につけて、その後の人生にとって不可欠な「生きるチカラ」が自ずから身につくという教育法だ。

 極端な話、動物としての人間も幼児の段階においては、ある意味ではイヌやネコみたいなものだから、当然といえば当然だろう。人間の本性は本能として、初期段階においてはプログラムが書き込まれているわけだから、子どもの興味を最優先するのは当然といえば当然なのだ。

 親の愛情さえあれば、親子の信頼関係のなかで、子どもはのびのびと好きなことに集中して、生きるために必要な基礎はほぼすべて学ぶことになる。

 教え込まなくても、自然と興味をもって行うようになる「一人総合学習」、こういう表現も著者は使っている。これは的確な表現だ。これが身についている人間は、ほっておいても自分の道は自分で探すことができるようになるわけだ。

 まさに「好きこそものの上手なれ」であり、「急がば回れ」とはこのことだ。
 
 ところで、本書の著者は、ドイツのミュンヘンでモンテッソーリ教育の免状を取得したという。先にあげたミヒャエル・エンデもそうだが、ミュンヘンといえば、むしろ日本ではシュタイナー教育の拠点として有名だ。著者がミュンヘンのモンテッソーリ・シューレに学んで免状をもらったというのが興味深い。

 さて本題に戻って、モンテッソーリ教育のエッセンスは、第4章の「子どもが学び、育つスパイラル」で説明されている。

 「子ども」を中心に、子どもを取り囲む「適切な環境」が必要である。「適切な環境」とは、「人的環境」と「物的環境」の2つになる。前者は、子どもの周囲の大人、家族、友達など自由と規律のカギを握る人たち。後者は、子どもの周囲にある環境のことで、日常生活のさまざまなものや自然、教具教材など。

 「子どもが学び、育つスパイラル」は、「子どもの興味・関心」から始まるループとして説明される。

(佐々木信一郎氏の記述にしたがって筆者作成)


 このループが、何度も何度も、子ども自身の興味・関心のある対象を換えながら、スパイラル状(らせん状)にさまざまな方向に拡がり、大きく育っていくのである。これが、「子どもが学び、育つスパイラル」ということだ。

 そしてこれが、実は一生涯のあいだ死ぬまで続くのである。歳を取っても意欲的に生きている人は、このルプが永遠に続いているということなわけだ。やらされ感のない、自発的・主体的な人生である。

 キーワードは、興味と関心、自発性、主体性、集中力、社会性・・・である。

 最後の社会性について説明しておこう。自発的で主体的な「学び」に取り組んで得られた満足感が非常に大きいので、ココロが満たされた状態においては他者に対して攻撃的になることはまったくなくなる。だから、幼児の段階で、このループを体験しておくと、社会性のある人間に育つわけなのである。そして自己肯定感の強い人間に育つ。

 子どもは、人間は、環境もバックグラウンド含めて、一人一人異なる存在である(!)という、当たり前といえばまったくもって当たり前な認識を出発点にした教育法である。

 たとえモンテッソーリ教育を受けていなくても、同様の教育を受けていれば、成熟した人間に育つのは当然であろう。人から強いられて「勉強」するのではない、自らの興味・関心が出発点にある「学び」の人生。

 かつてのように子どもの数が多くて、自然環境のなかで遊ぶのが当たり前であった時代は、意図しなくてもできていた教育ではないかと思う。親や教師が過保護に過干渉しなければ、子どもというものは「親がなくても育つ」ものなのだ。

 教え込まなくても、人間は学ぶ。それは人間が生きるために不可欠の機能であるからだ。

 「学び」とは、人間存在の本質に根ざしているのである。



(* Kindle化されてます。電子書籍版もあります)


目 次

序章 子供の真実
第1章 モンテッソーリと学校教育の関係
第2章 楽しみながら成長する子供
第3章 敏感期とは何か
第4章 子供に与えられたエネルギー
第5章 二種類の興味・関心
第6章 家庭でできることは何か
第7章 潜在能力を 101%発揮する方法

著者プロフィール

佐々木信一郎(ささき・しんいちろう)

1958年、福島県に生まれる。南山大学文学部哲学科中退後、東北福祉大学社会福祉学部福祉心理学科を卒業。1998~1999年、ドイツにあるミュンヘン小児センターにてモンテッソーリ教育の免状を取得。発達支援センターうめだ・あけぼの学園、日本モンテッソーリ教育綜合研究所附属「子どもの家」副園長、しもさかべ幼稚園、こじか保育園副園長を経て、こじか「子どもの家」発達支援センター園長。日本モンテッソーリ教育綜合研究所附属教師養成センター実践講師。モンテッソーリ教育の障害児への適用で、日本愛護協会ほほえみ奨励賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


米国で "再発見" されたモンテッソーリ教育

 『子供の潜在能力を 101% 引き出すモンテッソーリ教育』の著者・佐々木氏は、「はじめに」のなかで、モンテッソーリ教育が米国で再発見された事情について書いている。

 この本には、米国での普及状況については書かれていないので、よくわからないが、wikipedia の記述によれば、モンテッソーリ教育を受けた著名人には、アマゾンの創業経営者ジェフ・ベゾス、グーグルの共同創業者セルゲイ・ブリンとラリー・ページ、wikipedia 創設者ジミー・ウェールズ、経営学者のピーター・ドラッカーなどの名前があがっている。

 こういう例をあげていくと、突出した人たちの基礎に、なにがあるのかがわかってくる。

 ピーター・ドラッカーについては、戦前のウィーンでの経験である。私立学校に転校して経験した「学ぶ」楽しさ、喜びの目覚めについては、『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009)に語られているが、それがモンテッソーリ教育に基づくものであるかどうかまではわからない。

 グーグルの共同創業経営者のセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジは、ともにユダヤ系米国人で、モンテッソーリ教育を受けたという共通点をもっていることは確かである。ブリンは子どもの頃、両親とともにソ連から米国に移民している。
 『グーグル秘録』(ケン・オーレッタ、土方奈美訳、文藝春秋、2010)には、こういう記述がある。

まず二人とも、きちんとモノを考えさせる学者の家庭で育った。曖昧な発言は許されなかった。次にマリッサ・メイヤーの言葉を借りれば、二人は、"典型的なモンテッソーリ育ち" だった。「二人はルールなど無視して、やりたいことをやっていたわ。権威を疑い、自分の頭で考えるよう鍛えられていた。二人は基本的に、人間はそれぞれ自分にとって何が最適かわかっていると考える。絵を描きたいときに描く、モンテッソーリの子どものようにね。ペイジ自身、モンテッソーリから「あらゆることに疑問をもつ姿勢」を学んだと語っている。(P.177)(*太字ゴチックは引用者=私によりもの)

 なるほど、世界をすべて、数式によって解明し、アルゴリズムで記述しようという欲望の持ち主である二人は、すべての興味と関心がそこに集中しており、その他のことにはあまり関心がないようだ。

 絵に描いたようなエンジニア体質の二人は、世界中をすべて検索できるようにするという壮大なビジョンをもった、突出した才能をもったある種の天才だが、一方では一般常識に欠けるという欠点も持ち合わせている。

 一般的な日本人のように「ほどほど」には満足せず、好きなことだけに集中することが天才を生み出しているのだが、自分が好きでないことにはまったく興味関心がないという欠点は、モンテッソーリ教育のもつ反面といえるかもしれない。
 もちろん、かれらの行動の原因をモンテッソーリ教育だけに帰することはできないが。


幼児期にすべてが決まってしまうのか?!・・しかし、「気づく」のに遅すぎることはない

 私自身、子どもの頃から「勉強」は嫌いだが、好きなことに集中して自分で調べたり、観察するのが何よりも大好きな人間だ。つまり自ずから「学ぶ」生活習慣を身につけてしまっている人間だ。

 なぜそうなったのかはよくわからないが、「勉強」は好きではないが「研究」は好きという人間だ。理科少年であった。自然観察少年であった。すべてに「なぜ?なぜ?」という疑問をもち、自分で仮説を立てて、自分で調べて、自分で検証するというマインドセットが、子どもの頃から自然に身についてクセになっている。

 世界すべてを知り尽くしたいという欲望はきわめて強い。生きているあいだには間違いなく不可能な欲望であるのだが。役に立つかどかはあまり関心ない。カネになるかどかも二の次だ。結果として役に立つこともあるし、カネになることもある。

 こういうことを書いていると、しょせん幼児期にすべてが決まってしまうのか(・・)という嘆きともため息ともつかない声も聞こえてきそうだ。
 だが、私自身もモンテッソーリ教育を受けたわけではないので、それは絶対条件ではないといっていいと思う。

 とはいえ、大人からダメだといわれようが、何といわれようが、自分の好きなことは万難を排してでもやるといった、私のような強い意志をもった子どもは少数派かもしれない。

 だが、気づくのに遅すぎるということはない。

 ある年齢以上を過ぎていると、自分の好きなことに集中するということに対するメンタル・ブロックができあがってしまっていることも多いようだ。このメンタル・ブロックはきわめて強固なものだが、人間にはもともと「学び」たいという欲望が備わっているのだから心配することはない。意識的に、好きなことに思いきり集中してみたらいい。幼児にもどって、身近な小さなことから始めてみたらいいのだ。そして「学び」のループを回していくことだ。さらにそれをスパイラルに展開していく。

 もともと日本でも、明治以前、近代以前の寺子屋教育は、子ども一人一人の個性と発達具合に応じて、文字通りの One to One あるいは One on One の教育を行っていたことは知っておくべきだろう。現代のミャンマーの僧院と同様だ。

 要は、子どもが興味を持って集中して取り組んでいることを禁止したり、邪魔しないということだ。反社会的なことであれば禁止しなくてはいけないが、そうでなければ飽きるまでやらせたらいい。

 大人だって同じじゃないのかな?



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