ひさびさに井筒俊彦の『ロシア的人間』(中公文庫、1989)を読み返してみた。約四半世紀ぶりである。イスラーム哲学の研究者として著名な著者による異色の著作である。
中公文庫(旧版)で『ロシア的人間』を読んでからすでに四半世紀近い。弘文堂から初版がでたのは奥付によれば1953年(昭和28年)2月20日、独裁者スターリンは現役であった。
スターリンが急死したのは、その翌月の1953年3月5日のことだ。スターリンの急死の報を受けて、日本の株式市場では「スターリン暴落」が発生している。日ソ国交回復は1956年10月のことである。
単行本として復刊されたのち、中公文庫版として文庫化されたのは1989年1月、ソ連が末期的状況となっていたが、いまだ崩壊していなかった。井筒俊彦もまだ存命であった。ソ連が崩壊したのは1991年のことだ。
だがそんな状況にあった1953年においても、1989年においても、ソ連ではなく、あくまでもロシアと表記していたことに意味がある。
当時の日本では、ソ連をロシアと言い換える人は、きわめて少数派であった。だが、TIME誌など英文雑誌では USSR でも Soviet Union でもなく、つねに Russia と表記していた。英語圏の人間は本質を突いていたのだ。井筒俊彦もまた本質を見抜いていたわけである。
井筒俊彦といえば『イスラーム思想史』の著者であったが、古代ギリシア語を駆使して『神秘哲学』を書いているだけでなく(この本を入手して、読んでいたのも大学時代のことだ)、なんとロシア語を駆使して『ロシア的人間』なんて本まで書いているのか、と。驚異的としかいいようがないな、と。
大学の図書館で検索カードをめくって(・・かつて図書館には検索用のコンピューターなど導入されてなかったのだ!)、図書館の蔵書には『ロシア的人間』は何冊もあった。弘文堂による初版である。おそらく研究室単位で購入したものが、教員の退官とともに図書館に返却されたのだろう。
だから、はじめこの本に触れてから、すでに40年以上たっている。その後、初版の『ロシア的人間 ー 近代ロシア文学史 ー』(弘文堂、1953)は、ネットオークションで安価に手に入れることができた。基本的に中公文庫版と本文に違いはない。
■19世紀はロシア文学の全盛期
なぜ井筒俊彦が「19世紀ロシア文学」にのめり込んでいたのか?
もちろん、ロシア文学が現在よりはるかに多くの日本人に読まれていたという時代背景もあるだろう。だが、なによりも井筒氏がもっとも深入りしていたドストエフスキーを中核とする「19世紀ロシア文学」に、第2次大戦後に大流行した「実存主義」の先駆けを見ていたこともあるようだ。
「実存」というべきか、「存在」というべきか、『神秘哲学』の著者は、生涯にわたって人間存在の根底にうごめくカオスを凝視しつづけた人であった。
『ロシア的人間』は、もともと慶應義塾大学通信制のテキストとして2分冊で出版されていたらしい。慶應義塾大学文学部の英文科に席をおきながら、言語学だけでなくロシア文学まで講じていたという。
第5章から第14章までは「各論」ともいうべきもので、個々の文学者について取り上げられている。自分が好きな作家がどう扱われているか、そんな観点から読むのもいいだろう。
取り上げられた作家は、ロシア文学の開祖ともいうべきプーシキンからはじまり、 初期のレールモントフとゴーゴリ、最終的に無神論に行き着いた評論家のベリンスキー、象徴派詩人のチュツチェフ、きわめてロシア的な作家のゴンチャロフ、西欧派のトゥルゲーネフ、全盛期の大作家トルストイとドストエフスキー、そして帝政時代の最後をしめくくり、つぎの時代への橋渡しとなったチェーホフである。
著者としては、ほんとうは実存的な関心からドストエフスキーだけでまるまる1冊書きたかったのではないかと思う。全編にわたって通奏低音として流れているのがドストエフスキーである。
「マドンナの理想を抱きながら、ソドムの深淵に惑溺する」とは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にでてくる有名なフレーズである。井筒俊彦はこのフレーズ引用して、自分の父親はそんな人だったと『神秘哲学』に書いている。
そもそも人間とは矛盾に満ちた存在だが、ロシア人はとくにその傾向がつよいのかもしれない。ロシアという存在は、ある種の日本人に特有の単細胞な教条的思考や希望的観測をつねに裏切る存在である。
日本人読者にとって、ほとんどなじみがないのが象徴派詩人のチュッチェフだろう。おそらくいまだ一編も日本語訳されていないのではないか。
チュッチェフだけではないが、『ロシア的人間』には井筒俊彦自身による日本語訳が掲載されている。『神秘哲学』の著者であり、ロシア語でロシア文学を読み込みんだ井筒俊彦だからこそなせるわざというべきだ。そして、間違いなく井筒氏の好みの詩人なのである。
ドストエフスキーのフレーズに先行するのが、チュッチェフの有名なフレーズ「ロシアはアタマでは理解できない」(Умом Россию не понять:ウモーム・ラシーユ・ニェ・パニャーチ)である。このフレーズは、すでに誰が作者かわからないほど一般化している。
まったく相矛盾する自己認識が同時に両立しているのがロシア人のメンタリティーなのである。われわれの尺度でロシアを理解しようとしても、どだい無理な相談なのである。
■「文学に現れたるロシア思想の研究」とでもいうべき古典的名著
歴史家で思想史の研究者でもあった津田左右吉のライフワークに、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』という著作がある。岩波文庫で8分冊のこの本は、わたしはこの長大な日本文学史を大学時代に通読している。
井筒俊彦の『ロシア的人間』は、津田左右吉の著書をもじっていえば、『文学に現われたるロシア思想の研究』とでもいうべき内容である。「ロシア的人間」の「ロシア思想」、さらにいえば「ロシア神秘主義思想」というべきか。
ロシア語には精通していたが、この本を書いたときもそれ以後も、著者にはソ連(=ロシア)への渡航経験はないのである。あくまでも「19世紀ロシア文学」をロシア語の原文で読み解くことで、「ロシア的人間」を探求してみせた内容なのである。
全編をつうじてキーワードとなる概念は、以下のようなものだ。
ロシア文学、ロシア人、ロシア神秘主義、キリスト教、東方正教会、キリスト教、カオス、ディオニュソス的、黙示録、終末論、無神論、第三のローマ、奴隷の宗教、などなど。
総論ともいうべき「最初の4章」で上記の概念が繰り出されている。「総論」こそ繰り返し読むに値する。
第1章 永遠のロシア第2章 ロシアの十字架第3章 モスコウの夜第4章 幻影の都
ロシアを考えるにあたって重要なことは、13世紀から約240年にわたってモンゴルの支配下にあったこと、いわゆる「タタールのくびき」といわれているものだ。
だが、異民族支配から脱したあとも、1861年に解放されるまで「農奴制」がつづいていたことを忘れてはならない。諸外国とは違ってロシアの場合、モスクワにいる一握りのロシア人が、支配者として圧倒的多数のロシア人を奴隷化していた時代が、約2世紀にわたってつづいたのである。そういえば、チェーホフの祖父も農奴であった。
モンゴルの支配をあわせると、約5世紀にわたって奴隷時代がつづいたことになる。この意味を過小評価することなどできはしない。国民性、あるいは民族性に大きな刻印を記しているといっても過言ではないだろう。
首都をモスクワから、「西欧の窓」とよばれたサンクトペテルブルクに強引に移転したピョートル大帝の存在なくして、「19世紀ロシア文学」は生まれなかったのである。プーシキンからチェーホフにいたる「19世紀ロシア文学」は、「サンクトペテルブルク文学」でもある。
■じつはきわめてアクチュアルなテーマを語っている
17世紀後半から18世紀前半にかけて生きたピョートル大帝は、積極的に西欧化を推進した天才的政治家であったが、その一方できわめてロシア的な専制君主でもあった。「第4章 幻影の都」から引用しておこう。
彼はあくまでもロシアの天才、ロシアの英雄であった。中庸の徳なるものを絶えて知らぬロシア魂の象徴的顕現としてのみ初めて正当に理解できる人物。すなわち彼は最もロシア的な暴力革命の権化(ごんげ)なのである。
1953年の時点でこう断言しているのである。ソ連礼賛があたりまえであった日本の知識人のなかでは、きわめて例外的な姿勢といえるかもしれない。引用をつづけよう。(*太字ゴチックは引用者=さとう)
事実、ピョートル大帝は生まれながらの革命家、徹頭徹尾ロシア的な天成の革命家であった。彼はテロリズムの積極的建設的意義を認めて、これをロシアの政治史に実践導入した最初の人物である。彼にはロシアの運命に関する遠大な計画があり、人類の未来について真に予言的な見通しがあった。(・・・中略・・・) テロリズムの仮借なき行使が、必然的に無辜(むこ)の人民の血を流し、無数の人々からその個人的幸福を奪わずには済まないにしても、全ロシアの未来のために、この人道的悪は偉大なる「善」となる。(・・・中略・・・)まぎれもなく、この道を行くピョートル大帝はレーニンの先駆者、18世紀のレーニンであり、彼の決行した暴力的な国政改革は、コミュニズムの暴力革命の原型であった。
さらにテロリズムにかんするトロツキーの発言を引きながら、つぎのように議論を展開している。
つまり人を惨殺することそれ自体に善悪があるのではなく、ただ何のために殺すかという目的の如何(いかん)によって殺人の善悪が決まると言うのである。だから、その目指す目的が正義と真理である以上は、目的実現を阻害しようとする一切の敵に対してどんな種類の暴力を振るっても正しいのだ。(・・・中略・・・)トルストイとは反対に、ドストイェフスキーは、良きにつけ悪しきにつけ、ピョートル大帝とその事業の深刻な結果を生涯の最後まで最大の関心事として考え続けた。
きわめてアクチュアルな発言であると言えるのではないだろうか。ソ連崩壊後の21世紀のロシアを考えるにあたっても、説得力のある指摘というべきである。
しかしながら、スターリンへの言及がまったくない。現在の日本人なら、まずはレーニンよりもスターリンを想起するだろう。だが、スターリンはレーニンの思想の忠実な継承者であったので、あえてその名前を出す必要はなかったのかもしれない。
先に見たように、この本が出版された1953年2月時点ではスターリンはいまだ健在であった。フルシチョフによる「スターリン批判」は、スターリンが急死した翌月から3年たった1956年のことである。この年の10月には「ハンガリー動乱」が発生している。
レーニンやトロツキーへの言及はあるが、スターリンについて言及していないのは、存命中の人物ゆえ出版社サイドからの要請があったのかもしれない。
とはいえ、井筒俊彦のこの記述から、なによりもソ連体制の開祖はレーニンであり、レーニンの方針がすべての原点であったこと、そしてさらにその原型がピョートル大帝であることがわかる。あえてスターリンについて言及しなくても、スターリンがレーニンの直系であることは自明の理としているのであろう。
アジア主義者の大川周明の要請のもと、戦前からアラビア語によるイスラーム研究に従事していた井筒俊彦である。いわゆる「転向」とはいっさい無縁であった。そもそも、共産主義的世界観とキリスト教的終末観の共通性を見ている井筒氏である。当然といえば当然だろう。
戦前から戦後にかけて、その姿勢にブレはないようだ。というよりも、自分の関心事が最優先で、それ以外のことは基本的に無関心だというべきかもしれない。天才の天才たるゆえんである。
■「語学の天才」であった井筒俊彦だが、なぜロシア語なのか?
『井筒俊彦とイスラーム 回想と書評』(坂本勉/松原秀一編、慶應義塾大学出版会、2012)の編者である坂本勉氏の「序 イスラーム学事始めの頃の井筒俊彦」に興味深い記述がある。
この時期(1937年~1945年)に先生は起きてから寝るまで一日中、アラビア語の生活に明け暮れたということを後になっていろいろなところで回想しています。しかし、それと並んでロシア語にもこの時期に打ち込んでいます。想像するに、これはムーサーといっしょに勉強していくのに、英語が通じないということもあったのでしょうか。(・・・中略・・・)私自身はムーサーとの実践的な会話という必要性こそが、先生をロシア語の学習に駆り立てたのではないかと推測しています。
アラビア語とイスラームの師であった、ロシアはロストフ州生まれのタタール人学者ムーサー・ジャールッラーと会話するため、実用的な目的からロシア語に専念したという推測。これは大いに説得力がある。そのロシア語を駆使して読み込んだロシア文学に、ロシア神秘主義思想の発見と共感と没入が生じたと考えれば納得がいくのである。
メソディスト派のミッションスクールである青山学院中学出身の井筒俊彦にとって、アメリカ英語は得意中の得意だった。
チュッチェフを軸に『ロシア的人間』をとりあげているのが、ソロヴィヨフ研究者の谷寿美氏による「『ロシア的人間』ー 全一的双面性の洞察者」である。上掲の『井筒俊彦とイスラーム 回想と書評』(坂本勉/松原秀一編、慶應義塾大学出版会、2012)に収録されている。
■『ロシア的人間』の原型である『露西亜文学』
『ロシア的人間』は、もともと慶應義塾大学通信制(?)のテキストとして2分冊で出版されていたらしい。『露西亜文学』が慶應義塾大学出版会から2011年に復刻されている。
それぞれの章ごとに、受講する学生向けの「研究課題」が設問の形で掲載されている。この設問を読むと、なにを読み取るべきか、井筒俊彦がロシア文学になにを見ていたかがわかるのである。参考のために引用しておこう。
第1章 露西亜文学の性格研究課題⑴ 露西亜文学は何故ひとに沈鬱な印象を与えるのか。⑵ 露西亜的人間の性格がディオニュソス的であるとはどういうことか⑶ 露西亜の自然と露西亜的魂の関聯を説明せよ。⑷ 露西亜文学はどのような意味で哲学的人間学なのか。第2章 露西亜の十字架研究課題⑴ 韃靼人侵入の精神史的意味を述べよ。⑵ 「露西亜の黙示録」とは何か。⑶ 共産主義的世界観は基督教的終末観と如何なる関係にあるか。第3章 ピョートル大帝の精神研究課題⑴ ピョートル大帝の精神史的意味を説明せよ。⑵ 「第三のローマ」とは何か。
慶應義塾大学出版会から復刻された『露西亜文学』には、あらたに発見されたという「附録 ロシアの内面的生活 ― 十九世紀文学の精神史的展望」が収録されている。
また、ドストエフスキーの新訳で話題になった亀山郁夫氏による「解題」は本書にはふさわしい。なぜなら、井筒俊彦のロシア文学理解の根底にはドストエフスキーがあるからだ。
すでに言及しているが、自分の父親の複雑な性格について、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』から「マドンナの理想を抱きながら、ソドムの深淵に惑溺する」というフレーズを引いてくるくらいだから。
■経済学でいう「経路依存性」はロシアについても当てはまる
1953年に初版が出版された『ロシア的人間』は、すでに70年前の著作である。先に述べたように、『文学に現れたるロシア思想の研究』とでもいうべき古典的名著だといってよい。
「19世紀ロシア文学」の作家論として、あるいはロシアという複雑な存在について考えるため、さまざまな読み方が可能な著作として、今後も読み返される価値のある本である。
1989年の中公文庫(旧版)の「後記」で、井筒氏はこう記している。
ペレストロイカという新しい文化理念の導入によって、今、ロシアはその面貌を変えつつある。おそらくこれからのロシアは、新しい文化パターンの創出に向かって大きく旋回していくことだろう。だが私が本書で描き出そうとした。ロシア人の魂の奥底にひそむ根源的人間性だけは、そうたやすく変わらないだろう。
時代はさらに旋回し、1991年にソ連が崩壊してロシアが復活し、さらに旋回してプーチンの独裁体制がつづいている。つまりロシアの地肌がふたたび露出するようになっているのである。
1993年に亡くなった井筒俊彦が、ロシアの行く末まで見通していたかどうかはわからない。だが、いずれにせよロシアという存在が、ロシア以外の尺度で測ろうとしても困難なことには変わりない。
経済学でいう「経路依存性」(path dependency)は、当然のことながらロシアについても当てはまるのである。なぜならロシアは、ロシア人によって構成されているからだ。
1917年のロシア革命によって誕生したソ連は、1991年に崩壊した。約70年にわたってつづいたのある。ソ連時代を払拭するのには最低でも70年はかかるであろう。2023年の現在はいまだ30年を経過したに過ぎない。
いや、「タタールのくびき」から始まる5世紀にわたる「奴隷時代」を考慮に入れれば、ロシアは変わらないというべきかもしれないのである。
目 次 (中公文庫の旧版)序第1章 永遠のロシア第2章 ロシアの十字架第3章 モスコウの夜第4章 幻影の都第5章 プーシキン第6章 レールモントフ第7章 ゴーゴリ第8章 ベリンスキー第9章 チュッチェフ第10章 ゴンチャロフ第11章 トゥルゲーネフ第12章 トルストイ第13章 ドストイェフスキー第14章 チェホフ後記『ロシア文学的人間』と読み替えて(袴田茂樹)
著者プロフィール井筒俊彦(いづつ・としひこ)1914~1993年。東京都生まれ。1931年、慶應義塾大学経済学部予科に入学。のち、西脇順三郎が教鞭をとる英文科へ転進。1937年、慶應義塾大学文学部英文科助手、1950年、同大学文学部助教授を経て、1954年、同大学文学部教授に就任。1969年、カナダのマギル大学教授、1975年、イラン王立哲学研究所教授を歴任。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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・・原作はニコライ・ゴーゴリ。ウクライナ出身だがロシア語で書いた作家であった
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