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2013年10月5日土曜日

書評『現代オカルトの根源 ― 霊性進化論の光と闇』(大田俊寛、ちくま新書、2013)― 宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」



現代オカルトの根源である「霊性進化論」は、宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた「妄想の系譜」である。

その系譜が「進化」(?)した果てには、なんと「爬虫類人の陰謀」(!?)が登場するのである(笑)
 
「はあ?」な話でしょ(笑)。

そうはいっても、世の中には「マヤ暦によれば2012年に世界が終わる」など、オカルト的なお話を臆面もなく語る方々が多い。当然のことながら世界の終わりは来なかった(笑) 

その手の話題を耳にしたり書き込みを読んだ際は、けっしてあいづちも打たず反論もせず、「ああ、あれね・・」と、あくまでもココロのなかだけで思ってクチには出さず、ポーカーフェイスでやり過ごすのが大人の態度というものであろう。

とはいえ、組織内でこのような話題をクチにする場合、たんなる話題としての発言だけなら問題はないが、限りなく疑似科学的な話であることを知らないと問題は大きい。科学と疑似科学を見分けるのは簡単ではない。とくに「科学信仰が根強く残る日本のような風土では。

そのためにも本書に整理された「妄想の系譜」は、オカルトに対する「知的武装」として、あるいは「免疫」として、ひととおり目をとおしてアタマの片隅に入れておくことをすすめたい。

だが、これらの妄想系の知識そのものは、知っていたところでなんの役にたつのかよくわからないのが痛いところなのだ。おそらく著者もまた、執筆しながらそう思っているのではないかとひそかに推測する。

では、本書のテーマである「霊性進化論」という「妄想の系譜」を簡単に要約しておこう。


「妄想の系譜」はロシアに始まりオウム真理教に至る

19世紀後半、ロシア出身の霊媒ブラヴァツキー夫人が創始した「神智学」というオカルト思想から系譜がはじまる。

この流れはルドルフ・シュタイナーの「人智学」などゲルマン世界での隆盛を経て、ついには「反ユダヤ主義」にも至るのであるが、第二次大戦後は戦勝国のアメリカを中心としたアングロサクソン世界で花開き、そのアメリカから現代日本にも流れ込んでいる。

すべてはブラヴァツキー夫人に発しているわけだが、その主著である 『シークレット・ドクトリン』 において、ダーウィンの「生物学的進化論」に対抗して、「根幹人種論」という特異な進化論を提唱しているそうだ。この「進化」という概念がじつはキーワードなのである。宗教と科学とのあいだの亀裂を埋める試みとはそういうことだ。

ブラヴァツキー夫人の「根幹人種論」の主張は、生物種としての肉体的な進化をするだけでなく、霊性もまた進化するのだということらしい。

さらに人類には「神人」と「動物化する人間」の二種類があるという。霊性に目覚めた人間のなかには「進化」して「神人」になるものがある一方、霊性に背を向けた人間は「退化」して動物にも悪魔にもなるのだという。つまり「二元論」であるわけだ。

神のような人も、悪魔のような人も存在するのがこの世の中だから、受け入れる人が少なくないというのはわからなくはない。ただ、比喩としてはさておき、わたしはこの「二元論」を事実として受ける気にはならない。

著者は、「進化」という概念を媒介することによって、従来の二元論がより具体化され先鋭化されたところに現代オカルティズムの特色があるとしている。

その「妄想の系譜」の果てにあるのが、日本で無差別テロをおこしたオウム真理教だ。その妄想的世界観において「霊性進化論的な二元論」が根幹にあることが指摘されている。

ではなぜ日本のオウム真理教にまで「霊性進化論」が流れ込んでいるかというと、それがアメリカや英国などアングロサクソン世界で流通している思想だからなのだ。戦後アメリカの圧倒的影響を受けてきた日本には当然のように英語を介して入り込んできている。

プロテスタントが主流のアメリカにおいては、進化論をどう宗教に取り込むかがつねに課題となってきた。進化論の授業を禁止している学校もあることは日本でも知られているが、進化論はアメリカにおいては、科学的事実というよりもイデオロギーとして思想信条の領域にかかわる大問題なのだ。 

「第2章 米英のポップ・オカルティズム」に項目として挙げられている、「輪廻転生と超古代史」(エドガー・ケイシー)、「UFOと宇宙の哲学」(ジョージ・アダムスキー)、「マヤ暦が示す2012年の終末」(ホゼ・アグエイアス)、「爬虫類人陰謀論」(デーヴィッド・アイク)をみれば、アメリカや英国において「進化論」がどう取り込まれてきたかが事例として理解できる。

戦後の日本は、英語を介してアングロサクソン圏の思想の影響を圧倒的に受けてきたわけだが、それらをポピュラーサイエンスに現れた科学的思考というオモテの影響とするなら、米英ポップ・オカルティズムという疑似科学としてのウラの影響を受けてきたことになるわけだ。

そもそもスピリチュアルな傾向のつよい日本は、そうした米英ポップ・オカルティズムの影響を受け入れやすい素地がある。1973年のオイルショックによる高度成長の終焉もまたそれに拍車をかけたといえよう。戦前と戦後は断絶したように見えながら、じつは連続しているのである。


なぜ「妄想」は消えることがないのか

だが、著者が強調しているのは、なぜトンデモとして思えないような妄言や妄説に納得している人が多々いるのかということを考えなくてはならないということだ。

著者によれば、個々の人間の死に対して社会がどう向き合うのかというけっして避けて通ることができない問題にキチンとした答えてこなかったのが近代以降の世界であり、宗教と科学とのあいだの亀裂を埋めつづけてきた恣意的な霊魂観のひとつが「霊的進化論」なのだ、と。

つまり、世界解釈のひとつの方法なのである。真であるか偽であるかはさておいて。

そう捉えれば、「霊的進化論」もあながち「妄言」と片付けてしまえないわけだ。既存の宗教が個々の人間の死に対してキチンとした答えを与えることができなくなってしまった以上、答えをもとめる人たちの欲求に応じようとする思想がでてくるのは当然といえば当然だ。

その意味では、よくできたストーリー(=物語)として受け容れる人が少なくないことは、アタマで理解できないではない。ストーリーによる説明の重要性は、いまやビジネスの場でも語られるくらいだから。人はみな安心したいのである。あまり突き詰めて考えたくないのだ。思考の経済学という観点から、所与のストーリーとして受け取りたいのだ。

だから、そういうストーリーが存在し、必要とされるという事実そのものは否定はできない。わたし自身は受け入れれることはないが・・・。

近代以降の状況については、著者による前著 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』』(大田俊寛、春秋社、2011)本書とあわせて読むことをすすめたい。ロマン主義・全体主義・原理主義という近代精神の鬼子がオウム真理教を生み出したことが理解できる好著である。

自分たちの予言を成就させるためにテロを起こした日本のカルト集団が世界を震撼させたことを忘れるべきではない。これを予言の自己成就という。 

それにしても、何の役に立つかわからないようでありながら、しかし誰かがやっておかねばならない仕事をやっていただいた宗教学者の著者には敬意を表したいと思う次第だ。

ぜひ読んでほしい一冊である。


 (画像をクリック!


目 次 

はじめに
第1章 神智学の展開
 1. 神智学の秘密教義-ブラヴァツキー夫人
 2. 大師のハイアラーキー-チャールズ・リードビーター
 3. キリストとアーリマンの相克-ルドルフ・シュタイナー
 4. 神人としてのアーリア人種-アリオゾフィ
第2章 米英のポップ・オカルティズム
 1. 輪廻転生と超古代史-エドガー・ケイシー
 2. UFOと宇宙の哲学-ジョージ・アダムスキー
 3. マヤ暦が示す2012年の終末-ホゼ・アグエイアス
 4. 爬虫類人陰謀論-デーヴィッド・アイク
第3章 日本の新宗教
 1. 日本シャンバラ化計画-オウム真理教
 2. 九次元霊エル・カンターレの降臨-幸福の科学
おわりに
主要参考文献

著者プロフィール  

大田俊寛(おおた・としひろ)
1974年生。専攻は宗教学。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了。博士(文学)。現在、埼玉大学非常勤講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<関連サイト>

なぜ人間はオカルトにハマってしまうのか?『現代オカルトの根源』の著者、大田俊寛氏に聞く (東洋経済オンライン 2013年8月23日)
・・本書ではあまり触れられていないマンガやアニメなどのサブカルチャーへの影響についても語られている

オウム真理教事件の真の犯人は「思想」だった(大田俊寛、SYNODOS、2014年5月15日)
・・「私は昨年公刊した『現代オカルトの根源』において、霊性進化論の思想的系譜について具体的な考察を行ったのですが、それが原因でいくつかの宗教団体から抗議を受け、団体の広報担当者と長時間にわたって議論を交わすことになりました。(・・中略・・)オウムは、七〇年代以降に生じた「宗教ブーム」という大きな流れのなかから現れた存在であり、そうしたブームを同じくした他の教団が、完全に思想的責任を免れうるということにはならないはずです。(・・中略・・)
 麻原彰晃はオカルト雑誌『ムー』の愛読者であり、一時期はそのライターとしても活動していました。彼の思想は『ムー』によって育まれ、また初期のオウムの活動は、『ムー』によって広く認知されていった。
 2012年にオウム最後の逃亡犯として逮捕された高橋克也被告の所持品のなかには、中沢新一氏の『三万年の死の教え-チベット『死者の書』の世界』(角川書店)という書物が含まれていました。この書物は、NHKが一九九三年に放映した、「チベット死者の書」というスペシャル番組をもとに作られています。 番組の内容は、一言で言えば、チベットの寒村における素朴な葬式の様子を描いたものにすぎないのですが、派手なCGや音響を随所に用いることにより、「死後の世界」をリアルに実感させるような演出が施されている。 この番組は当時、オウムが布教の手段の一つとして使用していたことが知られています。地下鉄サリン事件以前は、こうした番組が公共放送でも流されていたのです。今でもDVDが販売されていますので、一度視聴してみれば、オウムが日本社会で受容され、成長していった当時の雰囲気を実感できるかもしれません。」

と学会公式HP
・・いわゆる「トンデモ本」というラベリング(=レッテル貼り)を果敢に行い、世の中を啓蒙してくれた20年間の功績(笑)をおおいにたたえるべし!

(2017年8月31日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義-』(大田俊寛、春秋社、2011)-「近代の闇」は20世紀末の日本でオウム真理教というカルト集団に流れ込んだ
・・この本は同じ著者による『現代オカルトの根源』とぜひ一緒に読んでほしい


オカルト的世界観

「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(ワタリウム美術館)にいってきた(2014年4月10日)-「黒板絵」と「建築」に表現された「思考するアート」

書評 『ドアの向こうのカルト-九歳から三五歳まで過ごした、エホバの証人の記録-』(佐藤典雅、河出書房新社、2013)-閉鎖的な小集団で過ごした25年の人生とその決別の記録

スティーブ・ジョブズの「読書リスト」-ジョブズの「引き出し」の中身をのぞいてみよう!
・・1960年代から70年代にかけてのカリフォルニアという風土

グラフィック・ノベル 『スティーブ・ジョブズの座禅』 (The Zen of Steve Jobs) が電子書籍として発売予定

書評 『稲盛和夫流・意識改革 心は変えられる-自分、人、会社-全員で成し遂げた「JAL再生」40のフィロソフィー』(原 英次郎、ダイヤモンド社、2013)-メンバーの一人ひとりが「当事者意識」を持つことができれば組織は変わる
・・限りなくオカルト的な世界観

書評 『オーラの素顔 美輪明宏のいきかた』(豊田正義、講談社、2008)-「芸能界」と「霊能界」、そして法華経

『鉄人を創る肥田式強健術 (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)』(高木一行、学研、1986)-カラダを鍛えればココロもアタマも強くなる!


アングロサクソン特有の特異な思想

『エコ・テロリズム-過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ-』(浜野喬士、洋泉社新書y、2009)を手がかりに「シー・シェパード」について考えてみる
・・英米系アングロサクソン特有の特異な思想

書評 『2045年問題-コンピュータが人間を超える日-』(松田卓也、廣済堂新書、2013)-「特異点」を超えるとコンピュータの行く末を人間が予測できなくなる?
・・英米系アングロサクソン特有の特異な思想


宗教と科学-両者の葛藤と類似性

書評 『人間にとって科学とはなにか』(湯川秀樹・梅棹忠夫、中公クラシック、2012 初版 1967)-「問い」そのものに意味がある骨太の科学論

書評 『アメリカ精神の源-「神のもとにあるこの国」-』(ハロラン芙美子、中公新書、1998)-アメリカ人の精神の内部を探求したフィールドワークの記録
・・アメリカ人の精神「三重構造」の一番底にある、いわば「超自然意識」とでもいえる合理的、科学的でない神秘、超自然、夢、予感の世界に注目


■キリスト教と進化論

書評 『神父と頭蓋骨-北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展-』(アミール・アクゼル、林 大訳、早川書房、2010)-科学と信仰の両立をを生涯かけて追求した、科学者でかつイエズス会士の生涯
・・古生物学者で北京原人の発見者の一人でもあったイエズス会司祭は、キリスト教と進化論を融合させた思想ゆえにバチカンから破門された


「トンデモ系」な人たち

書評 『陰謀史観』(秦 郁彦、新潮新書、2012)-日本近現代史にはびこる「陰謀史観」をプロの歴史家が徹底解剖

書評 『ブリキ男』(秋山祐徳太子、晶文社、2007)
・・『泡沫桀人列伝-知られざる超前衛-』(二玄社、2002)という「トンデモ」なアーチストたちが笑える知られざる名編

おもしろ本の紹介 『偽書「東日流(つがる)外三郡誌」事件』(斉藤光政、新人物文庫、2009)

(2015年8月2日、2017年8月31日 情報追加)


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2013年5月11日土曜日

書評『教養の力 ー 東大駒場で学ぶこと』(斎藤兆史、集英社新書、2013)ー 新時代に必要な「教養」を情報リテラシーにおける「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)に見る


日本の大学で「教養学部」が残ったのは東京大学だけである。著者はその東京大学教養学部で英語を教えてきた人である。本書のタイトルには「東大駒場で学ぶこと」とあるが、駒場での授業を再現したものではないので念のため。

最初は、またぞろ古臭い手あかのついた「教養主義」かと、じつは途中で読むのをやめようと思ったが、著者の真意がそこにはないことを知って読み続けることにした。

「教養」というコトバにはどうしても違和感を感じてしまう。そんな人は少なくないと思う。大学の教養課程のつまらなさ、教養を鼻にかける俗物たちを連想するためだろう。

そんな状況があるので、わたくしごとではあるが、拙著『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』(こう書房、2012)では、あえて「教養」というコトバは排除し、「アタマの引き出し」や「雑学」で代替させることにした。「大人のための総合的学習」を意図したものである。

「教養」というコトバは、さいきんよく言及されるようになってきているが、アメリカ流の大学教育ならリベラル・アーツと表現してもいい。大学学部でヨーロッパ中世史を専攻したわたしは、むしろこの「七自由学芸」(Seven Liberal Arts)をつかい思うのだが、いかんせん一般語とまではなっていないのが現状だ。

だが、20歳代の若者に限定していえば、「教養」というコトバには違和感は感じなくなっていると、ある現役の大学教師から聞いた。わたし自身は、まだ違和感を捨てきれないのだが、以下カッコつきで「教養」というコトバはつかうことにしたいと思う。


英国流の「センス・オブ・プローポーション」(バランス感覚)こそ重要だ

情報リテラシーにおけるセンス・オブ・プローポーション(sense of proportion)、この英国流の「バランス感覚」という発想と実践こそ、新時代の日本人に必要なものだという著者の主張には同意を覚える。

「何らかの結論を理論からではなく日々の経験から、実践から導き出す傾向」(P.124)である。

膨大な情報の海のなかから必要な情報を選び出し、そこから自分なりの結論を導き出すのに重要なことは sense of proportion であり、かつ connect だという。この2つの組み合わせが重要だ。

「反証可能性」のない主張は一方通行のものであり、他人を説得できるものではない。「対話」をつうじて説得力ある見解を導き出していくことが大事だし、またそのためには説得の技術を向上させることも必要だ。これがコネクト(connect)の本質である。コネクトとは、「つなぎあわせる」ことを意味する。

「教養」が全人教育を目指すものであるならば、やはりかつて日本の社会科学教育を席巻していたゲルマン的な観念論ではなく、アングロサクソン流のプラクティカルな発想のほうが現代を生きる人間にとっては望ましいことは言うまでもない。

ひとまとめにしてアングロサクソン流思考と言ってもいいのだが、英国と米国とではまた相違点も少なからずあることには留意しておきたい。著者もいうように、行き過ぎた米国流よりも、英国流のほうは日本人にはフィットしているかもしれないと思う。

わたしとしては、数学こそ現代人の「教養」の根底にあるべきと考えているのだが、人文系の教師である著者にはその感覚はないようだ。これは仕方あるまい。「教養」の中身については、さらなる議論が活発になることを望みたい。

「教養」のマインドセット(心構え)についてはさておき、「センス・オブ・プロモーション」の実践に必要な実践そのものについてもであろう。膨大な情報の海のなかから必要な情報を選び出すのは、言うは易く行うのは難しい。

その意味では、著者が紹介している真贋の見分け方の授業は参考になる(P.102~104)。いいかえれば「目利き」になるための評価軸の持ち方ということだ。

狂言師の野村萬斎なら「型」と表現するものがそれに該当するだろう。お手本とすべきものは、かならずしも古典という本である必要はない。ロールモデルとなるべき人を見つけることでもある。

著者は英語の教師であり、いわゆる「文系」的な「教養」についてしか語っていないのが残念であるが、英国流の「センス・オブ・プロポーション」の意味を明らかにしてくれた点は大いに評価できることである。

現代人にとっての「教養」とは何か、今後もいろんな論者によって活発な議論が交わされることを期待したい。







目 次

まえがき
第1章 「教養」は変質しているか
第2章 学問/知識としての教養
第3章 教え授ける/修得する行為としての教養
第4章 身につくものとしての教養
第5章 新時代の教養
 情報処理/情報選別の基準その一: 情報提供源の信頼性
 情報提供源の信頼性/情報選別の基準その二: 主張の論理性
 情報選別の基準その三: 情報の「たたずまい」
あとがき
参考文献

著者プロフィール

斎藤兆史(さいとう・よしふみ)
1958年、栃木県出身。東京大学教育学部教授。 専門の英学史・英語教育の他、英文学の翻訳も数多く手がける。 英ノッティンガム大学英文科博士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科教授などを経て現職。 主な著書に『英語達人列伝 あっぱれ、日本人の英語』『英語達人塾 極めるための独習法指南』(中公新書)など。過去に出演したTV番組に「3か月トピック英会話」(NHK)など。


<関連サイト>

言語が同じでも、文化は違う(ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス 2014年03月27日 アンドリュー・L・モリンスキー ブランダイス大学インターナショナル・ビジネススクール准教授)
・・同じ英語といってもビジネスにおいての現れ方は英米で異なる。教養のありかたもまた 原文は Common Language Doesn't Equal Common Culture by Andy Molinsky | 10:00 AM April 3, 2013

<関連サイト>

「教養? 大学で教えるわけないよ」 英国名門大、教養教育の秘密【前】 (池上 彰他、日経ビジネスオンライン、2014年6月24日)
・・東工大における「教養教育」の実践者ったいが英国流の「教養」について語り合う

「伊藤: 専門外の人に自分の専門をアピールするためには、単に分かりやすく伝えるだけではなくて、自分の専門が私たちの生きる社会とどのように結びついているか、その部分について相手に実感してもらう必要があります。なぜ、そういった会話が自然にできるのか。それは、イギリスの大学では、社会との関係を常にイメージしながら専門教育を進めているからです。そしてまさにこの部分をイメージする力が教養なのです。イギリスでは、教養は「専門外の知識」ではありません。「専門を活かすための知識」が教養なのです。
池上: なるほど。
伊藤:こうしたイギリスの教養観をひとことで表すのが「transferable skill」という言葉です。
理系、恋愛音痴、コミュ障を「教養豊か」に変えるには英国名門大、教養教育の秘密【後】 (池上 彰他、日経ビジネスオンライン、2014年7月1日)


<ブログ内関連記事>

英国流の「教養」のあり方

日本語の本で知る英国の名門大学 "オックス・ブリッジ" (Ox-bridge)

書評 『イギリスの大学・ニッポンの大学-カレッジ、チュートリアル、エリート教育-(グローバル化時代の大学論 ②)』(苅谷剛彦、中公新書ラクレ、2012)-東大の "ベストティーチャー" がオックスフォード大学で体験し、思考した大学改革のゆくえ

ファラデー『ロウソクの科学』の 「クリスマス講演」から150年、子どもが科学精神をもつことの重要性について考えてみる

"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと
・・英国の思想家 J.S.ミルのコトバとされているもの


米国流の「教養」のあり方

「ハーバード白熱教室」(NHK ETV)・・・自分のアタマでものを考えさせるための授業とは

書評 『私が「白熱教室」で学んだこと-ボーディングスクールからハーバード・ビジネススクールまで-』(石角友愛、阪急コミュニケーションズ、2012)-「ハウツー」よりも「自分で考えるチカラ」こそ重要だ!

「バークレー白熱教室」が面白い!-UCバークレーの物理学者による高校生にもわかるリベラルアーツ教育としてのエネルギー問題入門


その他、日本型の「教養」など

書評 『キュレーションの時代-「つながり」の情報革命が始まる-』(佐々木俊尚、ちくま新書、2011)

「アート・スタンダード検定®」って、知ってますか?-ジャンル横断型でアートのリベラルアーツを身につける

書評 『「紙の本」はかく語りき』(古田博司、ちくま文庫、2013)-すでに「近代」が終わった時代に生きるわれわれは「近代」の遺産をどう活用するべきか


(2014年3月27日 情報追加&再編集)


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2011年3月24日木曜日

Cool Head but Warm Heart 「アタマはクールだが、ココロは暖かい」


 経済学には Cool Head but Warm Heart (アタマはクールだが、ココロは暖かい)というコトバがあります。これは19世紀英国の経済学者アルフレッド・マーシャル(1842~1924)が遺した有名なコトバです。

 ところで、こんな記事があることを、ツイッターでフォローしあっている方から教えていただきました。

 「日本の真の色が光るように 外国メディアも混乱しまくった大惨事のその先で」(加藤祐子、2011年3月22日) http://news.goo.ne.jp/article/newsengw/world/newsengw-20110322-01.html?pageIndex=1 たいへん面白い内容なので、ぜひ一読することをお薦めします。

 日本人のニュース編集者が、きわめて冷静に、英語による海外の 「日本関連情報」を、日本語で整理した文章です。

 あたりまえのことですが、海外メディアによる報道がかならずしも「客観的」ではないことは、わたしたち日本人自身と日本そのものが取材対象となっているので、よく実感できることと思います。

 あくまでも、記者個人が、取材対象の外側からみた、事実にかんする「主観」に過ぎないわけです。これは逆もまた然りですね。日本人が書いた海外情報も同じく、ある種の解釈の歪みが生じてしまうのは仕方ありません。

 テレビや新聞だけでなく、ツイッターやフェイスブックなどSNS上に出回っている情報も、ときには疑ってみることも必要でしょう。

 すべての記事について、「事実」と「解釈」(感想やコメント)の違いを十分に区分することです。たとえ、同じ「事実」をみていたとしても、その人のもつ情報量や知識量、さらには経験の豊富さの有無によって、「解釈」は大きく異なってきます。

 Cool Head but Warm Heart (アタマはクールだが、ココロは暖かい」

 冷静な分析と、共感という暖かい思いやり。二律背反の印象をうけるこの2つのマインドセットは、ぜひ身につけたいものです。どちらが欠けても、現代に生きる知的人間としては失格といっても言い過ぎではないと思います。

 今回の「東北関東大震災」と「原発事故」を、「地震列島に住む運命共同体の一員」としてかかわる以上、犠牲者と被災者の方々へのいたわりの気持ちとともに、「日本復興」のために専門能力をもって貢献することの必要を強く感じています。

 たとえ一人のチカラは小さくても、一人一人の貢献が「日本復興」につながっていくのです。



<ブログ内関連記事>

「ログブック」をつける-「事実」と「感想」を区分する努力が日本人には必要だ・・どうやら、必要なのは日本人だけではないような

書評 『脳の可塑性と記憶』(塚原仲晃、岩波現代文庫、2010 単行本初版 1985)
・・「記録」されたものは、事実と感想が混同しているのが普通であり、その内容についてはきわめて主観的と」いわざるをえないだろう。

We're in the same boat. 「わたしたちは同じ船に乗っている」
・・4つのプレートがぶつかる「地震列島に住む運命共同体の一員」である日本人






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2011年1月18日火曜日

「ログブック」をつける ー「事実」と「感想」を区分する努力が日本人には必要だ

(PADIのログブックより)


 「ログブック」をご存じだろうか? 
 ブックという名前がついていても、パソコンのことではありませんよ(笑)。

 MBAで米国に留学していたとき、「戦略実行論」の授業で、ある日突然、教授が「ログブックをつけているか?」とクラス全員に問うたことがあった。

 たまたま、それ以前からスキューバ・ダイビングをやっていた私には「ログブック」のなんたるかは即座に理解できたが、いかんせん「授業のログブック」はつけていなかった。クラス全体でもほとんどいなかったようだ。

 「せっかく高いカネ払って、しかも貴重な時間を使って授業にでていても、単位をとることだけに終始しているのではまったく意味がない。授業で学んだことはキチンとログブックにつけて反省の機会をつくっておかなければダメだ」と、ピシャリとおっしゃった。

 魔法使いのお婆さんのような風格をもった教授の一言一言が、その当時28歳であった私には刻み込まれた。卒業してから一度もお会いしていないし、おそらくもう亡くなられていると思うが、人生の師としてココロのなかに生きている。
 
 まだまだ女性がトップマネジメントの世界で活躍するのが珍しかった時代に、「Fottune 500 企業」に入る大企業でエグゼクティブを歴任した、豊富な実業体験をもつ教授であった。

 この先生については、Winning is NOT everything, but Losing is NOTHING. と題してブログに書いているので参照していただけると幸いである。


スキューバ・ダイビングの世界でのログブック

 ダイビングをやたことのある人はご存じだろうが、ダイビングでもっとも重要なことは、私の理解では、バディシステム」(buddy system) と 「ログブック」(log book)にあると考えている。


 「バディシステム」とは、どんなときでもかならず二人一組になって、装備の装着の点検から始まって、ダイビング中も水中で行動をともにし、水上にあがってからも装備をはずして整理整頓するまでをともに行うシステムのことである。英語のバディ(buddy)とは、スラングで友達のことだ。

 「ログブック」も実はこのバディシステムと密接にかかわっている。ダイビングのすべての工程が終了後、その日に潜った記録をつけるための小冊子をログブックという。

 ログブックには、活動記録(activity)と感想(comment)の欄があって記入するようになっている。

 つまり事実関係と感想は区分して書くことになっているのである。

 事実関係の記入は、野球でもゴルフでもボーリングでもスコアブックに記入するが、ダイビングのログブックが違うのは、スコアラーが別に存在するのではなく、バディシステムによってクロスチェックを行うことにある。潜水という、人間の生死にかかわる危険な行為である以上、正確な記録を残すことが何よりも求められるわけだ。


 ダイビングのログブック(log book)のログ(log)とは、実はウェブログ(Weblog)のログでもある。

 「ウェブ上に残した記録」という意味で作られた簡易ウェブサイトがウェブログと命名されたわけだが、このウェブログが略されてブログ(Blog)になった

 ブログって、実はウェブログの略なんですが、みなさんこのことを知っていましたか?

 英語の意味は広いので、ログには「丸太」という意味がある。ログハウスとかログキャビン。また、数学で使う「対数」という意味もある。対数で使うlog は実は logarithm の略なので、丸太と意味するlog とは出自が異なるがつづりは同じである。

 行動記録である「ジャーナル」にも似ているが、「ログブック」はフォーマットが決まっており、手順にしたがって記入すればいい。右上にダイビング界では最大手のライセンス発行団体である米国の PADI のログブック(英語版)の写真をスキャンしておいたので、こんなもんだと思ってもらうといい。

 このログブックには何も記入されていないが、これは友人がライセンスを取得した際に、ついでに一冊もらったものだからだ。場所はカリブ海のケイマン。私自身は、ライセンスは PADI ではなく、日本にいるときに、米海軍系の NAUI から取得した。NAUI は PADI とくらべるとややマイナーである。

 ジャーナルは「航海日誌」のこと。journal は、フランス語の jour(日)からきている。船長がつける日誌のことだ。この「日誌」の意味が拡張されて、「日報」としても使われるようになった。ジャーナルを紙名にもつ新聞は世界中に多い。

 日誌としてのジャーナルについていえば、南極点到達の先陣争いをノルウェーのアムンゼンと競い合ったが、志半ばで倒れた英国人スコットを思い出す。

 遭難による無念の死の後も、彼が最後までつけていた日誌によって、現在でもスコット隊の軌跡をたどることができるのだ。日誌は遭難後に発見された。


「事実」と「感想」を区分することの重要性

 日本人は日記をつけることが好きだということは世界的にも有名なようだ。
 
 『かげろふ日記』や『更級日記』など、平安時代の王朝の女流文学からはじまって、「をんなのすなる日記といふものを・・・」ではじまる『土佐日記』まで生み出した、日記文学の長い伝統をもつ、まさに日本人の DNA がなさしめるクセであろう。
 
 現代でも、ウェブやブログの量では英語に続いて世界二位と聞いたことがる。

 ただし日本人が書く日記は、事実関係と感想がごっちゃになっているものが多いのではないだろうか? 日本人はとかく事実と感想を混同しがちである。これは私の長年の観察だ。

 これは英語の essay と日本語のエッセイが似て非なるものであることにも似ている。

 日本語に定着したエッセイは随筆の意味で使われているが、自分がおりおりに観察して気づいた、日常の細々とした事実と感想をないまぜにして語って、読者にちょっとだけ考えさせて、うなづかさせるという文章のことだが、これが文章の味わいを出しているわけで、純粋な記録とは異なるものだ。

 これに対して英語の essay とは、基本的に論文のことである。

 日本では、おそらくモンテーニュの『エセー』が随筆のような作品なので、そのまま随筆のことをエッセイというようになったのだろう。

 主観的な感想混じりの日記ではなく、事実関係をたんたんと列挙するアングロサクソン的な、とくに英国的なジャーナル、あるいは米国的なログブックの記入が重要だと、私は考えている。

 私は、企業向けの社内研修で、研修終了後の課題として、議事録と感想文をわけて書かせる訓練を行ってきた。個々人に研修内容をまとめてもらうのだが、そこには時系列で事実のみを記入する。報告書スタイルの簡潔な短い文書である。A4で1枚、長くても2枚以内。感想文は長さ制限なしで、A4で最低1枚以上は書いてもらう。

 この訓練を行う事で、事実(ファクト)と感想(コメント)をわけて記録させることを意図している。
  
 事実のみを記す「議事録」は数回でまともな内容になってくる。ただし、コピー&ペーストは認めない。議事録がキチンと作れるようになると、文書でも口頭でも簡潔に的確にまとめるクセが培われることになる。

 「感想」については、個々人の感想であるから、その内容については最大限に尊重する。ただし、日本語の文章やテニヲハについてはクチうるさく注意するのは、こうした基本的なことが高校や大学でキチンと指導されていないからだ。「感想」も何度も書いているうちに、少なくとも形式面では問題はなくなってくる。
 
 要は、事実の報告は明瞭簡潔に無個性でよし、感想は個々人の個性を大いに発揮すべし、ということだ。

 「事実」の報告では、漏れなく、ミスなく記述することがが重要。「感想」は、その個々人のものの見方や取り組み姿勢が、書いたものをつうじて明瞭にうかびあがってくるのが面白い。感想を書かせると、研修内容がほんとうに理解できているかどうか、てきめんにわかってしまうものだ。

 このメソッドについては、東大の教育学部のある先生に話したら、「手間はかかるが重要な訓練だ」とお墨付きをいただいている。さすがに東大生はこの程度のことで苦労することはないだろうが、学校と仕事はまったく別物なので油断は禁物である。

 「情報メモ」、「営業日報」、「議事録」と名称はさまざまだろうが、日頃から、組織内の文書は、5WIHを明確にして事実の正確な再現と情報共有を行うことは、組織運営にとってはきわめて重要である。

 一次情報は自分の体験や見聞だからいいが、二次情報は出所を明記し、かならず事実関係に誤りがないかどうかをインターネットを使って問題ないので確認する。

 経営者というものは多忙で気の短い(?)ものである。要領の得ない報告は、なによりもキライなものだ。事実を簡潔明瞭に説明し、そのうえで個人的な見解ととるべきアクションと自分のコミットメントについて述べることができれば、間違いなく「デキルやつ」という評価がもらえるはずだろう。

 ただし、実績はかならず出すことが重要である。

 最近の日本人は、以前に比べたら本を読む量は減っているが、活字を読む量は減っていないといわれる。また、メールやツイッター、ブログなど含めて書く量は、間違いなく増えている。書く際には、事実と感想は区分して書くことをつねに意識しておくべきだろう。
 
 とくにツイッターは気楽につぶやけてしまうので注意が必要だ。「140字以内にまとめよ」という設問に解答するつもりで取り組んでみるのも、事実と感想を区分する訓練のためには有効なツールとなりうるものだ。

 私もこの点については、いつも気をつけているつもりである。文学者ではないので(笑)。
 

「自分史」も事実関係を列挙することがすべての出発点。感想や解釈は自ずから立ち上がってくるものだ

 「自分史」は、「ログブック」あるいは「ジャーナル」の延長線上にあるといっていいだろう。

 日記や備忘録に書いていった記録は、書いた時点で過去となり、歴史となる。ブログもまたウェブログである以上、そういった性格をもっている。ライフログというのもその延長線上にある。
 
 自分の過ぎ来し方を、事実関係のみ想起して列挙していくという行為は、事実の選択には主観が入るとはいえ、とくに解釈を行うことなくても、自ずからその意味が感じられるという仕組みである。感想は解釈はむりに分析するものではなく、感慨という形で自ずから立ち上がってくるものだ。

 「自分史」をつくるプロセスで、「自己発見」が行われるのだ。過去を振り返り、自分にかんする歴史的事実を掘り起こすことじたいに意味があるのである。
 
 だから、「自分史」をつくる際に、ムリに自己分析や解釈を行う必要はない

 20代はじめの「自己分析」と、30代、40代の「自己分析」は内容が大きく変わっている。そもそも、いまだに私は自分自身を知り尽くしているとはいえない「発展途上」人だ。

 そもそも10代のときの経験の記憶であっても、その時点での思いと、10年後、20年後、さらには50年もたったら、同じ事実であっても受け止め方は大幅に異なっていることも多いのではないか。人間は過去のつらい話も、あの経験があったからこそ苦難を乗り切れたとか、とかく自分の都合のいいように解釈しがちだ。だから、事実関係のみを想起して、取り出したいのである

 「自己分析」の問題点、とくに「就活」における「自己分析」の問題点が指摘されるようになっている。「自己分析」をやり抜いて、就活戦線の勝ち組になった若者たいが、大企業では使い物にならないとして脱落していく現象である。『就活エリートの迷走』(豊田義博、ちくま新書、2010)で指摘されている現象だ。

 私が思うに、就活生の「自己分析」は、未熟な「解釈」が「事実」として自分のなかに内面化されてしまうことにあるのだろう。いわゆる思い込みのもたらす悲喜劇である。

 「自己分析」は、そもそもが明確な結論のでないものであるから、やり過ぎるとどうしても煮詰まってしまいがちである。袋小路にはまってしまい、抜け出せなくなって、しまいにはノイローゼになってしまうこともあるだろう。とくにネガティブな自己分析結果は、取り扱いは要注意である。

 自己啓発セミナーではないのだから、自己否定や懺悔は不要であるだけでなく危険である。
 とにかく自己肯定、自己肯定。なにがあっても自分を信じて自己肯定。これが重要だ。

 もう亡くなったが、一世を風靡した仏教学者の紀野一義に『ええなあ! という人生-肯定、肯定、絶対肯定して生きる-』と(佼成出版社、1993)という本がある。この本のなかで紀野氏は、『法華経』の絶対的自己肯定について語っているのだが、まことにもって、「ええなあ」というのは、生きるスタンスとしてすばらしいと思う。「ええなあ」というのは、関西風のアクセントで発音してほしい。

 自己分析は、ある意味では血液型分類みたいなものだから、ほどほどにしておくのがよい。人間の性格など、仕事に本格的に取り組み始めれば大幅に変化するものである。


 さて、「自己分析」ではなく、歴史的事実としての「自分史」である。「自分史」も歴史であるから、重要なのは解釈よりも事実である。しかし、この二つをもちろん完全に区分するのは難しい。

 さきにも書いたように、日誌や日記は、自分史のためには事実確認にための重要な記録文書となっている。

 私じしんについては、日誌には、たんたんと日々の事実関係を記すのみだ。事実関係というより活動記録といったらいいだろうか。

 たまに感想を書くことがあるぐらいで、ふだんは書いているのは、起床時間、体重と体脂肪率、三食の内容(・・ただし昨年より「半日断食」なので朝食は抜き)がマストで、あとは読み終えた本、見た映画、参加したイベントについて記述する程度である。あとはその日の天気などの事実関係のみだ。

 もちろん目標達成のための「夢手帳」として活用される方は、手帳をそのように使うのもいいだろう。大いに活用すべきである。願望と現実とのギャップを努力で埋めることが、目標達成のための行為である。

 いずれにせよ、事実と感想の区分はつけておきたいものだ。日本人がアングロサクソン的思考法になじむためには不可欠なことである。これは英語ができるとか、できないとかは関係ないことだ。
 
 

<ブログ内関連記事>

『形を読む-生物の形態をめぐって-』(養老孟司、培風館、1986)は、「見える形」から「見えないもの」をあぶり出す解剖学者・養老孟司の思想の原点
・・「日本人が一般的に、事実と感想を区別しないで語る傾向があるのは日本語にその原因があるのではないか、もしかしたら同じ言語とはいっても、英語と日本語の違いは想像以上に大きいのではないか。言語学の専門家はけっして語らない、このような疑問に対する考察も、解剖学者ならではのものであるといっていい。」➡ 日本で重視される「自白」、西洋で重視される「証拠」。

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)-「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

「是々非々」(ぜぜひひ)という態度は是(ぜ)か非(ひ)か?-「それとこれとは別問題だ」という冷静な態度をもつ「勇気」が必要だ

(2015年10月24日、2016年1月14日 情報追加)


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