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2021年2月8日月曜日

映画『裏切りのサーカス』(2011年、英国・ドイツ・フランス)― 渋い、じつに渋い。大人の映画だ

 

『裏切りのサーカス』(2011年、英独仏)を見た。渋い、じつに渋い。大人の映画だな。123分。  

映画の原題は、「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」(Tinker Tailor Soldier Spy)、昨年(2020年)12月に亡くなったジョン・ル・カレのスパイ小説である。原作は読んでない。 

舞台設定は、まさに冷戦まっただ中の1973年。ロンドン、当時は東側だったハンガリーの首都ブダペスト、東西世界の結節点にあって国際スパイ都市イスタンブール、そしてパリ。 

組織内で「サーカス」というスラングで呼ばれる「英国秘密情報部」(MI6)の情報漏洩や情報活動の失敗。その背景には、ソ連の二重スパイ「もぐら」(mole)が情報機関の上層部にいる。そう確信した情報部のトップの指示で、探索が始まる




暗号名は「ティンカー・テイラー・ソルジャー・・」。 日本語でいえば、修繕屋、仕立屋、兵隊。

タイトルにはでてこないが、貧乏人(Poorman)とあわせたこの4人と、主人公スマイリーをあわせた上層部の5人。この5人のうち少なくとも1人がスパイである。映画にはでてこないが、「第5列」(the fifth column)を示唆しているのだろう。第5列とはスパイを意味する表現だ。

『007』などスパイ映画にありがちな派手な活動も何もなく、ひたすら「二重スパイ」(double agent)の存在を追い詰めていくミステリースタイル。BGMも押さえながら、セリフの積み重ねで淡々と描いていくスタイル。

最後の最後の結論は? じつに渋い。渋すぎる。


この映画の原作は、「キム・フィルビー事件」という実際に発覚した事件をモデルにしたらしい。トップエリートであるケンブリッジ大学の学生たちの1人であったキム・フィルビー。共産主義に共鳴した1920年代。そしてかれらは、大義のためソ連のスパイとなる。




なぜトップエリートたちがソ連のスパイとなったのか? そのテーマを描いた青春映画『アナザー・カントリー』(1981年)という英国映画を思い起こしながら見ていた。

言うまでもなく「アナザー・カントリー」(Another Country)とはソビエトロシアのこと、ソ連に理想を見いだす土壌が形成された舞台はパブリック・スクールである。




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2018年8月5日日曜日

書評『ロシアと中国  反米の戦略』(廣瀬陽子、ちくま新書、2018)―「離婚なき便宜的結婚」というフレーズに見る「中ロ蜜月」のタテマエとホンネ



英米を中心に(・・トランプ大統領は別だが)ロシアとプーチンを非難する姿勢や論調が支配的だが、実際はどうなのか疑って見る必要はある。
 
逆にそういった論調がロシアを中国に追いやって、「反米」を国是とした「中ロ蜜月」状態を作り出しているのではないか、と。 たしかに、権威主義的な国家資本主義体制という点においては共通する中ロ両国ではあるが・・・。

そんな印象をもっているので、『ロシアと中国 反米の戦略』(廣瀬陽子、ちくま新書、2018)という出版されたばかりの新刊書をさっそく読んでみた。この著者の著作は、わたしはほとんど読んでいる。 

論旨が行ったり来たりして、やや重複感がなきにしもあらずだし、著者の専門が旧ソ連なので中国の分析がやや手薄で物足りなさを感じることは否定できないが、「中ロ蜜月」のタテマエとホンネを、さまざまな側面で検証しているので、ものを考えるための参考にはなる。

スパッと黒白で割り切れない、まどろっこしい叙述そのものが、「中ロ関係」にかんしてはホンネとタテマエが明確に区別できないあいまいなものであることを示唆しているともいえよう。

ロシアは中国を必要とし、中国もロシアを必要としている。こういうものの見方が「中ロ蜜月」論を生み出しているのだが、たしかにお互いが必要としあっていることは事実であるものの、呉越同舟とまでは言わなくても、双方の思惑にはどうやら少なからぬズレがあるようだ。 

というのも、ロシアは中国経済に期待しており、中国はロシアの資源と最新軍事技術に期待している。だが、中国の「一帯一路」は、ロシアの「影響圏」(sphere of influence)、とくに中央アジアの旧ソ連圏(カザフスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)においては食い込んでおり、ロシアの利害に抵触しかねない状況である。

しかし、ロシアは「忍の一字」のようだ。経済力の点ではますます中ロの格差が開く一方だし、中国と長い国境線を接しているロシアは、中国とは軍事的な衝突は回避したいのがホンネのようだ。 

著者は、こうした中ロ関係を「離婚なき便宜的結婚」というフレーズを使用して説明している。お互いが必要としあっているので離婚はしないが、あくまでも自己利益第一の関係であって、そこには愛情はないということだろう。別の箇所では「偽装蜜月」などという表現もでてくる。 

そもそもロシアは、はたして現在でも「大国」なのかどうかも疑ってみるべきだ。たしかに周辺の小国にとっては依然として大国であることは否定できないし、いまだに核弾頭を所有し、周辺諸国に軍事的圧力を掛けているロシアだが、もはやかつてのソ連のような圧倒的存在ではない。いまでは一隻しかない空母も、実質的に不稼働資産と化している。

いまのロシアは、「大国」イメージをうまく活用しているだけなのではないか? 冷戦時代のソ連の位置に、現在では中国が取って代わったというべきだろう。「米ソ冷戦」から「米中冷戦」へという流れは、まさに象徴的だ。

長い目で見れば、ユーラシア地域の歴史は、モンゴル帝国の後継者である中国とロシアのせめぎ合いの歴史である。ロシアが優勢なときは中国は劣勢であり、中国が優勢な現在はロシアは劣勢である。おそらく長期的には、ふたたび逆転現象が見られるかもしれない。とはいえ、今後数十年は中国が優勢の状態が覆されることはなさそうだ。

つまり、現在ではロシアと中国は対等な関係ではなく、著者によれば、ロシアはすでに中国の「ジュニアパートナー」(弟分)的存在だという見解もロシア人研究者のあいだでは少なくないらしい。わたしも同感だ。 

この本は、基本的に「ロシア側からみた中国」についてのものだが、逆に「中国側からみたロシア」についても考えてみたい。おそらく、中国にとっての最大関心マターは米国であって、ロシアはワン・ノブ・ゼムに過ぎないのかもしれないが・・・。 


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目  次  
序章 浮上する中露-米国一極支配の終焉  
第1章 中露関係の戦後史-警戒、対立、共闘  
第2章 ロシアの東進-ユーラシア連合構想とは何か  
第3章 中国の西進-一帯一路とAIIB  
第4章 ウクライナ危機と中露のジレンマ  
第5章 世界のリバランスと日本の進むべき道 
あとがき  注  主要参考文献

著者プロフィール 
廣瀬陽子(ひろせ・ようこ)  
1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了・同博士課程単位取得退学。政策メディア博士(慶應義塾大学)。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。著書には『コーカサス 国際関係の十字路』(集英社新書、アジア・太平洋賞特別賞受賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事> 

書評 『帝国自滅-プーチン vs 新興財閥-』(石川陽平、日本経済新聞出版社、2016)-ロシアを政治や軍事だけで判断するなかれ。基本は経済であり財政だ

書評 『ソ連史』(松戸清裕、ちくま新書、2011)-ソ連崩壊から20年! なぜ実験国家ソ連は失敗したのか?

書評 『米中戦争前夜-新旧両大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ-』(グレアム・アリソン、藤原朝子訳、ダイヤモンド社、2017)-「応用歴史学」で覇権交代の過去500年の事例に探った「トゥキディデスの罠」

書評 『モンゴル帝国と長いその後(興亡の世界史09)』(杉山正明、講談社、2008)-海洋文明国家・日本の独自性が「間接的に」あきらかに

書評 『「東洋的専制主義」論の今日性-還ってきたウィットフォーゲル-』(湯浅赳男、新評論、2007)-奇しくも同じ1957年に梅棹忠夫とほぼ同じ結論に達したウィットフォーゲルの理論が重要だ

JBPress連載コラム第22回目は、「日本は専制国家に戻るロシアを追い詰めてはいけない-「東洋的専制国家」の中国とロシア、その共通点と相違点」(2018年3月27日)

JBPress連載コラム16回目は、「「米中G2時代」の現実から目をそらしてはいけない-日本人が想像する以上に長くて深いアメリカと中国の関係」(2018年1月2日)

書評 『自由市場の終焉-国家資本主義とどう闘うか-』(イアン・ブレマー、有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011)-権威主義政治体制維持のため市場を利用する国家資本主義の実態


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2015年12月29日火曜日

映画『完全なるチェックメイト』(2014年、アメリカ)をみてきた(2015年12月27日)-米ソ冷戦時代を背景に世界チャンピオンとなったアメリカ人天才チェスプレイヤーの半生を描いたヒューマンドラマ


映画 『完全なるチェックメイト』(2014年、アメリカ)を東京・日比谷のTOHOシネマズ・シャンテでみてきた(2015年12月27日)。米ソ冷戦時代を背景に、チェスの世界チャンピオンとなったユダヤ系アメリカ人の天才(prodigy)の半生を描いたヒューマンドラマである。

この映画のハイライトは、なんといっても頂上対決となった1972年の世界チャンピオン決定戦。東側世界の代表であるソ連のチェス・チャンピオンのボリス・スパスキーと、西側世界の代表である米国のチェスチャンピオンのボビー・フィッシャーの、チェスボード上の死闘である。

頂上対決が行われたのはアイスランドの首都レイキャヴィク。頂上対決が行われた1972年は、ベトナム戦争末期。世の中は騒然としていたが、チェスプレイヤーには世の中の動きなど眼中にはない。ひたすら対決相手の棋譜を研究し、猛烈な演算スピードで自分の打ち手を考え抜くのみだ。


原題は、Pawn Sacrifice となっている。チェスには詳しくないとこれだけではピンとこないが、調べてみるとポーン(pawn)とは、チェスの駒のひとつで将棋でいえば「歩」(ふ)にあたるものだ。直訳すると、「ポーンの犠牲」となる。

『研究社英和辞典』には、以下のように説明されている。

【チェス】 ポーン,歩 《★ 1 ますずつ前に進む; ただし最初に動かす時は 2 ます進むこともできる; 斜め前の敵を捕獲する

(チェスの駒のひとつ「ポーン」 wikipedia掲載画像を筆者加工)


主人公のボビー・フィッシャーは、アメリカ生まれのユダヤ人。実際の人物がどうだったのかはさておき、映画の設定では両親は離婚し、母親はロシア出身のユダヤ系インテリで共産主義シンパとなっている。母子間の会話は英語だが、母親とその友人関係の会話はロシア語で行われている。

主人公ボビー・フィシャーのロシア嫌い、ソ連嫌い、共産主義嫌いのルーツがそこらへんにあることを暗示しているようだ。ボビーのチームに、チェス有段者の黒衣のカトリック司祭が同行しているのも、バチカンが反共姿勢をとっていた冷戦時代という時代背景を考えると不自然さはない。

そもそもチェス以外にはほとんど関心がないという天才肌の人物で、日本流にいうならチェスの神様に魅入られた男というべきだろう。つまるところパラノイア(=偏執的)で、限りなく狂気に近い天才ということだ。

日本公開版の公式サイトには、ボビー・フィッシャーは以下のように記述されている。

Bobby Fischer/ボビー・フィッシャー (1943年3月9日~2008年1月17日) アメリカ、シカゴ生まれ。チェスの世界チャンピオンになるも、あえてタイトルを放棄したり、事実上の国家反逆罪で国を追われ、長年にわたり世界を放浪するなど、その謎めいた行動をとり、数奇な人生を送った人物としても有名。2000年代初頭には日本の蒲田でも生活していた。晩年はスパスキーとの世界戦をおこなったレイキャビクで余生を送る。2008年、奇しくもチェス盤の目の数と同じ64歳で死去。

(米国版のポスター)

『ビューティフルマインド』の主人公の数学者ナッシュを髣髴(ほうふつ)とさせるものがある。おなじく米ソ冷戦時代の人物だが、最終的には回復してノーベル賞を受賞したナッシュと比べると、ボビー・フィッシャーは狂気の果てまで言ってしまったのか、とう気がしなくもない。

原題は、Pawn Sacrifice となっているが、犠牲にしたのはポーン(=歩)だけでなく、自らの人生だったのかもしれない。世界チャンピオン獲得の代償はあまりにも大きかったというべきか。

チェスに詳しくないわたしのような人間でも、手に汗握りながらおおいに楽しむことができた。





<関連サイト>

映画『完全なるチェックメイト』公式サイト PAWN SACRIFICE

トビー・マグワイア主演 映画『完全なるチェックメイト』予告編(YouTube)


Jew or Not Jew: Boris Spassky
・・母親がユダヤ系というウワサは本人が否定、とある

Jew or Not Jew: Bobby Fischer
・・母親がユダヤ系なのでユダヤ人なのだが、本人は反ユダヤ的な言動が多い、とある


<ブログ内関連記事>

■チェスと勝負事

書評 『謎のチェス指し人形「ターク」』(トム・スタンデージ、NTT出版、2011)-18世紀後半のオートマトンにコンピュータとロボットの原型をさぐる「知の考古学」

書評 『修羅場が人を磨く』(桜井章一、宝島社新書、2011)-修羅場を切り抜けるには、五感を研ぎ澄ませ!


冷戦時代の米ソ関係

書評 『ランド-世界を支配した研究所-』(アレックス・アペラ、牧野洋訳、文藝春秋、2008)-第二次大戦後の米国を設計したシンクタンクの実態を余すところなく描き切ったノンフィクション

書評 『ソ連史』(松戸清裕、ちくま新書、2011)-ソ連崩壊から20年! なぜ実験国家ソ連は失敗したのか?

書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える
・・「反共」の立場から、バチカンと米国は同床異夢のタッグを組んでいた

⇒ 映画のなかにでてくるチェスプレイヤーの黒衣の司祭の存在は・・

「JFK-その生涯と遺産」展(国立公文書館)に行ってきた(2015年3月25日)-すでに「歴史」となった「熱い時代」を機密解除された公文書などでたどる
・・ケネディ時代にキューバをめぐって米ソは一触即発の危機を体験した


ロシア系ユダヤ人

書評 『グーグル秘録-完全なる破壊-』(ケン・オーレッタ、土方奈美訳、文藝春秋、2010)-単なる一企業の存在を超えて社会変革に向けて突き進むグーグルとはいったい何か?
・・創業経営者の一人セルゲイ・ブリンはソ連から米国に移住した数学者の息子

資本主義のオルタナティブ (3) -『完全なる証明-100万ドルを拒否した天才数学者-』(マーシャ・ガッセン、青木 薫訳、文藝春秋、2009) の主人公であるユダヤ系ロシア人数学者ペレリマン
・・「数学をつうじて神に近づこうとする姿勢」

書評 『ロシア革命で活躍したユダヤ人たち-帝政転覆の主役を演じた背景を探る-』(中澤孝之、角川学芸出版、2011)-ユダヤ人と社会変革は古くて新しいテーマである

本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987) 
・・プログラミング能力と『タルムード』の議論で培われたユダヤ的発想との親和性


天才の運命

映画 『イミテーション・ゲーム』(英国・米国、2014年)をみてきた(2015年3月14日)- 天才数学者チューリングの生涯をドイツの暗号機エニグマ解読を軸に描いたヒューマンドラマ

最近ふたたび復活した世界的大数学者・岡潔(おか・きよし)を文庫本で読んで、数学について考えてみる
『ビューティフルマインド』の数学者ナッシュのような・・



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2012年3月24日土曜日

映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(The Iron Lady Never Compromise)を見てきた



映画 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を見てきた。英国史上初の女性首相で、11年間の在任中に、衰退する英国に荒療治を施して再生させた政治家を扱った映画だ。

原題:The Iron Lady Never Compromise(鉄の女に妥協なし)
製作: 2011年、英国。
上映時間: 105分
主演:メリル・ストリープ
監督:フィリダ・ロイド
公式サイト: http://ironlady.gaga.ne.jp/

さすが、名女優メリル・ストリープ。完全にマーガレット・サッチャーになりきっている。当時は一般的にサッチャー夫人ないしはサッチャー女史と呼んでいたので、以下サッチャー夫人と書くことにする。

姿形だけでなく、クイーンズイングリッシュによるしゃべりもまた、役作りにかける情熱、プロ意識にはまったく脱帽である。エンターテインメント作品として、大いに楽しませてもらっただけでなく、1980年代そのものであったサッチャー時代を思い出しながら最後まで観た。




夫のデニスがすでに亡くなったこともわからないほどの認知症になった晩年のサッチャー夫人に、さまざまなキッカケで過去の記憶が想起され、いい思い出も悪い思い出も、ともによみがえってくるという形式で、サッチャー夫人そのものを描いた内容である。主人公の存命中にこういう映画をつくってしまうというのも、ある意味では驚くべきことだ。

この映画は、音楽のチョイスがひじょうによい。

ユル・ブリンナー主演のブロードウェイのミュージカル『王様と私』から、オスカー・ハマーシュタイン作曲の「Shall We Dance ?」 (シャル・ウィ・ダンス?) は、若き日のサッチャー夫妻のロマンティックな日々の回想シーンとあわせて、なんども流される。

そして政治の場面では、ベッリーニのオペラ『ノルマ』から、マリア・カラスの独唱で「Casta Diva」(清らかな女神よ)。オペラ音楽はよく映画に使用されるが、この点においてもこの映画は特筆に値するといっていいだろう。これから観る人はぜひ、なぜ政治の場面でこの曲が流れるのかアタマに入れておくといいと思う。

以下は、映画の内容そのものではなく、サッチャー夫人について、より理解を深めるために書いたものである。


1980年代そのものであったサッチャー時代

サッチャー夫人が、英国史上初の女性首相に選出された1979年から退任した1990年までの11年間は、わたしにとっては、高校から大学、そして社会人にかけての時期とピッタリ重なる。だから、わたし(の世代の人間)にとっては、マーガレット・サッチャーはけっして過去の人ではない。

日本では1980年代の後半は「バブル時代」というレッテルを張られて総括されてしまっているが、まさに冷戦時代末期で、サッチャー首相とレーガン大統領(当時)のタッグが、冷戦終結をもたらしたことは忘れるわけにはいかないのである。

この映画の原題である「鉄の女」(The Iron Lady)の毅然とした態度、断固たる態度には、わたしはすばらしいと賞賛の気持ちを抱き続けていた。まさにその「妥協」しないという態度を尊敬していたのであった。

サッチャー以前の英国は、先進国特有の「英国病」と言われ続けてきたのである。映画にもでてくるが、労働党の下で停滞し、衰退に拍車のかかっていた英国にカツをいれたわけである。「鉄の女」という異名をとったのは、度重なるIRA(北アイルランド解放闘争)による爆弾テロ、炭鉱ストとの全面対決、フォークランド紛争での一歩も引かない態度などがあずかっているのである。

フォークランド紛争で見せた不退転の決意と結果によって、ふたたび支持率が上昇したわけだが、それは英国人がなによりも忌み嫌う appeasement を回避したところに求めることができよう。映画では、戦争回避を説得する米国大使(?)に対して、パールハーバー(真珠湾)を引き合いに出していたが、ここは英国人向けなら appeasement(宥和)によってヒトラーに譲歩したチェンバレン首相(当時)の轍は踏まないというという発言になったことであろう。

そう、その「妥協」しないという点が、まさにサッチャー夫人そのものであり、英語の原題にあるように The Iron Lady Never Compromise(鉄の女に妥協なし)なのである。これがあえてタイトルになるということは、un-British(非英国的)であったからである。

サッチャー夫人は、自分の信念に忠実に徹し切れたわけだが、世の中というものは「押してダメなら引いてみな」というものである。英国では「妥協」というものが重んじられるとは、むかしからなんども聞かされてきたことである。英国人は日本人とは違って「大人」だから、だという理由づけで。

その意味では、この映画を観ていて思うのは、確固たる信念に基づいて毅然とした態度で臨むサッチャー首相のリーダーシップスタイルは、見習うべき点があると同時に、妥協を行わなかった点は反面教師にしなくてはならないと思うのである。

「妥協」しない政治家サッチャー首相。しかし、その「妥協」を欠いた姿勢が最後には・・・





「非英国的」であったサッチャー夫人

サッチャー夫人が非英国的であったという話に戻るが、映画のなかでもなんども強調されているが、男社会の閉鎖的クラブ社会であった英国政治(・・しかも保守党だ)のなかで孤軍奮闘してきただけでなく、オックスフォード大学卒業とはいえ、伝統的にオックス・ブリッジに進学していたエリート層ではない。庶民階級の出身であった点がまず、それまでの英国とはまったく違う。

ファミリービジネスの食料品店に生まれた娘である。奨学金制度の開始によって、一般庶民にもオックス・ブリッジに進学する道が開かれたのである。また、映画には出てこないが、オックスフォード大学で専攻したのは化学(ケミストリー)である。理系なのである。しばらく専攻を活かした職についていたが、政治家への道を選んだのは、出身地で市長を務めていた父親の影響だろう。

『サッチャー時代のイギリス-その政治、経済、教育-』(森嶋通夫、岩波新書、1988)は、まだサッチャー夫人が在任中に書かれたものだが、著者の森嶋教授は、「サッチャーは、イギリスの悪い所も、善い所も、数多くすっかりぶち壊してしまいました」と書いている。まさにそのとおりだろう。2012年現在でも、サッチャー夫人は毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする存在だ。

しかし、あの時点で荒療治を行わなかったら、英国の衰退はさらに加速していたことは間違いない。著者の森嶋通夫氏は独創的な経済学者で、日本を飛び出して社会科学系では名門のLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス)で長く教鞭をとっていた人である。森嶋教授(故人)の政治的立場にはあまり賛同はできないが分析としては面白いと思って読んだ本である。

サッチャー夫人の父親は職人の家に生まれた人で、主流の英国国教会ではなく、熱心なメソジスト派であり、まさに刻苦勉励によって自分自身を鍛え上げた人であったようだ。サッッチャー夫人の首相になるまでの回顧録『サッチャー 私の半生』(The Path to Power、1995)には、「両親ともに熱心なメソジストで、父親は牧師のようだった」とある。この記述から考えると、一般的にイメージされる英国人よりも、かなり米国人に近いメンタリティーの持ち主であったのかもしれない。こういう特性が、そっくりそのまま娘に受け継がれたようだ。サッチャー夫人は、自分自身のことを、プラクティカルでまじめで、宗教的だと書いている。

『サッチャー回顧録』(The Downing Street Years、1993)は、この映画でも冒頭にサッチャー夫人みずからがサインするシーンがでてくるが、日本経済新聞で「私の履歴書」として、翻訳連載されていた抜粋だけは読んでいるが・・・。この正編だけで900ページを越える大著は、ハードカバーの原著を所有しているのだが、いまだに読んでいない。いつかは読む日もあろうかと思って、手放していないのだが・・・。「ダウニング街10番」とは英国首相公邸のことである。





サッチャー夫人の夫デニスと「鉄の女」の涙 


サッチャー夫人が引退を決めたのは、「マギー、もうそろそろいいのではないかな?」と夫のデニスが語りかけたからだという記憶がわたしのなかにあった。

この映画でも最終的に引退を決意させたのが、夫の一言であったことが明らかにされる。おかげで権力者にとって困難な課題である引き際を誤ることはなかったのである。

「在任中の政策が、ただしかったかどうかは、歴史が審判を下す」というサッチャー夫人のセリフに対し、「いや、ゴミ箱行きかもしれないな」と、夫が茶々を入れるのは、さすが英国人である。こういう肩すかしの発言が、サッチャー夫人のストレスリリーフになっていたのだろう。

しかし、11年間にわたるギリギリの意志決定の日々で消耗してしまったのかもしれない。いわゆるバーンアウト(=燃え尽き)症候群というやつか。認知症を患って、現在では自分が首相をやっていたこともわからなくなっているらしい。痛ましい話ではあるが、一国の命運を担う首相としては当然として受け止めるべきことかもしれない。

英国は、女王陛下の夫君というロールモデルが、同時代のエリザベス女王だけでなく、絶頂期のヴィクトリア女王にもあったことは、英国人男性であるデニス・サッチャーにはあらじめ心構えとしてあったのだろうか?

この映画のもう一人の主人公は、実業家のデニス・サッチャーである。男性であるわたしは、どうしてもデニスの存在が気になるものだ。

日本語版の副題が「鉄の女の涙」となているのは、またまた日本人観客向けの情に訴える作戦かといぶかしく思って見始めたが、原題の「鉄の女に妥協なし」よりは、日本語版のほうがいいかもしれないと思った。ちなみに Lady は Sir の女性版。サッチャー夫人は一代爵位で女男爵になっているので、Lady Thatcher が正式名称なのである。

衰退する英国で衰退をなんとか食い止めたサッチャー夫人。同じような地政学ポジションにある日本に住む日本人にとっては、どうしても他人事には思えないものがある。

まあ、ここまで書いてきたようなむずかしい話は別にして、エンターテインメント作品としてよくできているので、ぜひ観ることを薦めたい映画である。


P.S. 麹町ワールドスタジオ 「原麻里子のグローバルビレッジ」(Ustream 生放送) に出演して、映画 『マーガレット・サッチャー-鉄の女の涙-』についてさまざまな観点から語り合いました(2012年4月18日 21時から放送)。いろいろな裏話もふくめた内容の濃い番組になっていると「思います。当日の放送は、下記のサイトでから録画を視聴できますので、ぜひご試聴ください(2012年4月20日 記す)。 http://www.ustream.tv/recorded/21938422 


P.S. レディー・サッチャーがお亡くなりになったという情報が入ってきた。享年87年。まさに「巨星落つ」という感である。賛否両輪はあるものの偉大なリーダーであったことは間違いない。冷戦を終わらせた偉大な功績は後世に長く語り伝えられることだろう。レーガン大統領はすでに世を去り、残るはゴルビー(=ゴルバチョフ)と中曽根元首相である。ご冥福をお祈りしたい。合掌。(2013年4月8日 記す)


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<関連サイト>

映画 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 (日本版公式サイト)

The Iron Lady Trailer Official 2011 [HD] (英国版トレーラー)
・・イギリス英語は発音さえ聞き取れれば、むしろ受験英語に慣れてきた日本人には理解しやすいかもしれない

Casta Diva - Maria Callas (Best)
・・オペラ『ノルマ』から、マリア・カラスの独唱で「Casta Diva」(清らかな女神よ)



<補足解説>

映画のなかで、サッチャー首相の就任式で「アッシジのフランチェスコの祈り」を朗読するシーンがある。全文は以下のとおり。


平和の祈り        
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より

(出典: wikipedia アッシジのフランチェスコ )

<関連サイト>

「鉄の女」サッチャーの最大の強みは、最大の弱みでもあった (ロバート・B・カイザー,バート、E・カプラン、『ダイヤモンド・ハーバード・レビュー』、2014年3月3日)
・・わたしがこのブログ記事で書いたことをリーダーシップ論の観点から補強してくれる記事

(2014年3月3日 項目新設)



<ブログ内関連記事>

なぜいま2013年4月というこの時期に 『オズの魔法使い』 が話題になるのか?
・・「先日お亡くなりになったサッチャー元首相は、在職中に発揮したリーダーシップによって「英国病」を完治し、衰退する英国に活を入れた日本ではもっぱら称賛する人が多いが、当事者である英国人のあいだには、その強引なやり方のために中流階級が弱体化したと批判している人も存在します。 サッチャーの批判勢力が「祭り」(?)を引き起こしているとTVで報道されていました。批判勢力の呼びかけで、『オズの魔法使い』の「鐘を鳴らせ 魔女が死んだ」という歌が、猛烈な勢いでダウンロードされ、英国のヒットチャートでナンバーワンになっているいうのです」

映画 『英国王のスピーチ』(The King's Speech) を見て思う、人の上に立つ人の責任と重圧、そしてありのままの現実を受け入れる勇気

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)

書評 『大英帝国の異端児たち(日経プレミアシリーズ)』(越智道雄、日本経済新聞出版社、2009)-文化多元主義の多民族国家・英国のダイナミズムのカギは何か?
・・同書の第二章でサッチャー夫妻が取り上げられている

アッシジのフランチェスコ 総目次 (1)~(5)

(2016年6月25日 情報追加)


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