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2013年5月5日日曜日

書評『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)ー この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう



2013年度のNHK大河ドラマ 『八重の桜』の主人公は、会津藩の砲術指南役の家に生まれた新島八重(=山本八重)が主人公である。

女だてらに鉄砲を打ちたいと熱望し、不屈の努力で技術をモノにした八重。戊辰戦争における会津戦争の際には、なぎなたではなく鉄砲をかついで実戦に参加、会津落城後はのちの同志社創立者の新島襄と再婚して近代女性として時代を先導した。

だが、わたしはその兄であった山本覚馬こそほんとうの主人公なのだと考えている。そう思いながらこのドラマをみるとより面白くなるのではないかと思う。なぜなら、あたらしい女性であった新島八重であるが、その人生をたどってみると12歳と年齢の離れた兄から多大な感化を受けつづけた人生であったことがわかるからだ。

女性を軽視しているのではない。それほど山本覚馬という人があまりにも傑出した「人物」であったのである。すぐれた人物をごく身近にもてば、その人をロールモデルとして模倣し、自分の人生をつくりあげるのは不思議でもなんでもない。だから、そのような兄をもったことは、新島八重にとっては幸せ以外のなにものでもなかったといって差し支えない。

山本覚馬を主人公にした小説仕立ての伝記もあるが、まずは『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2012)を推奨しておきたい。この本は、昭和3年に同志社が発行したものである。その復刻版が京都ライトハウスから1976年に出版されているが、そのまた最新の復刻版である。

盲人の福祉を目的とした京都ライトハウスから『山本覚馬伝』が再刊されたのは、山本覚馬が成人になってからだが全盲になった人であり、かつ維新後の京都復興に貢献した人であるからだろう。

山本覚馬(1828~1892)について一言で要約すれば、「この人がいなければ維新後の京都復興はなかった」、ということに尽きる。

その意味については、おいおい語ることとしたいが、幕末には政治の中心舞台となった京都であったが、遷都後は急速にさびれてしまった京都に、全盲となった会津人・山本覚馬が京都にいたということがなければ、京都復興はならなかったかもしれないといっても過言ではない。


西欧近代文明の粋を極めつくした山本覚馬

砲術師範の家に生まれ、砲術を一生の職業とするべく運命づけられ、その道を極めたということは、武士でありながら技術に明るく、しかも高度な技能の習得はきわめて職人に近い精神構造が養われていたことを意味している。
   
彼が生きていた幕末は戦争の時代であり、同時代で戦争のつづくヨーロッパや国を二分する激しい内乱状態にあったアメリカでは銃器のイノベーションが飛躍的に進展していた。とくに南北戦争終了後のアメリカからは最新式のライフルが大量に輸入されている。めまぐるしいまでの技術革新の渦のなかにいたわけだ。
   
彼の生涯は、西欧近代文明の粋を家職である砲術から始め、佐久間象山のもとで学んだ蘭学をつうじて西欧の社会制度全般、そして最後は新島襄をつうじてキリスト教まで至ったものであるということもできよう。工学から自然科学、社会科学、そして精神科学という道筋ということもできるだろう。
   
砲術家だけに数理的能力が高く、経済にも明るかった理詰めの人。余談になるが、江戸時代の日本では数学がブームだったという背景を知っておくことが必要だろう。カネがかからないひまつぶしとして、数学の難問を解くことが一般庶民レベルまで流行っていたらしい。
     
蘭学においては佐久間象山の弟子であり、横井小楠、勝海舟といった傑出した人物との交友、また親友が明治初期の啓蒙主義者であった西周(にし・あまね)であったことからも、知の側面での人物像は了解されよう。積極的に外国人とも交友していた。

山本覚馬は、文武両道を絵にかいたような人物であったことが本書でわかる。アタマが切れるだけでなく深く思考することのできる人で、しかも負けん気のつよく、強く腕っぷしもつよい大柄な男であったようだ。全盲になってからは心眼も研ぎ澄まされたことがエピソードによって知ることができる。

そしてなによりも、つねに国全体のことを考えていた人であった。

そんな人物が新首都・東京ではなく、京都に定住したということ、それが大きな意味をもったのである。


山本覚馬が京都復興に果たした役割

青山霞村による『山本覚馬伝』が不思議なのは、山本覚馬の伝記的事実よりも、京都府顧問として京都の復興と近代化にいかなる分野で貢献したかを詳細に、具体的にたどっている点にある。

その意味では異色の伝記であるが、山本覚馬と京都とのかかわり新島襄がなぜ同志社を京都に建学することになったのかなど、「京都復興」事業のなかに位置づけることが可能となる。山本覚馬は、同志社の発起人でかつ命名者でもあった。

そのためには、編者の住谷悦治氏が、まずは目次を丹念にたどるべきことを推奨している。そのアドバイスにしたがって目次を見ておこう。小項目はあまりにも多いので省略した。

目 次

緒論

少年時代 壮年時代
京都勤務
幽囚
京都府顧問

日本最初の小学校
中学校創立 英学校
ドイツ学校とフランス語学校
女紅場、府立第一高等女学校、遊廓の女紅場
府立療病院と付属医学校(今の府立医科大学)創立及び精神病院 駆黴院
集書院
京都最初の活版印刷 新聞発行
物産引立所
勧業場 集産場 授産場
舎密局 アポテキ
織殿 染殿
製革と製靴 化芥所
博覧会 博物館
都踊り
伏見製作所
梅津製紙場 一名パピールファブリック
写真用レンズの模造
牧畜場 農学校 養蚕場 栽培試験所
童仙房の開拓
電信線架設と私設鉄道敷設発企
霊山招魂場
小野組転籍事件、槇村大参事の拘禁とその釈放運動
フランスへ留学生派遣
新施設の廃絶、失敗、犠牲

同志社創立その他

京都府会議長

先生の経済思想
家庭と講帷 晩年
山本覺馬先生の逸事

山本覺馬年譜

すでに都ではなくなっていた京都という「地方都市」の復興に大きな功績のあった山本覚馬であるが、もし東京で仕官していれば歴史から忘れ去られることもなかったろう。

だが、それは運命のめぐりあわせというものだ。いや、あえて意思のチカラで京都に残ったのか。

幕末と明治維新という大激動期に会津藩に生まれ、主君が京都守護職についたため京都に駐在し、京都で全盲となり、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の捕虜となり、口述筆記による社会改造計画の「管見」(意見書)を薩摩藩主に提出、新政府のもとで京都に残り、そのプランをもとに京都復興に大いなる貢献をしたという生涯。

キリスト教徒として一生を終えた山本覚馬は、思想家としてよりも実践家として人生をまっとうした人である。この人が新島襄と出会わなければキリスト教徒になることもなく、妹の八重が京都にきて新島襄と結婚することもなく、また同志社が京都に建学されることもなかったのである。

偶然を必然に変えた人生といってもいいかもしれない。おなじ時代に生きている人たちのために貢献した人生である。そしてその結果、一時は忘却されたが、いまふたたび見出されつつある。

山本覚馬という人こそ、ドラマのほんとうの主人公であるというのは、そのことなのだ。





<関連サイト>

日本ライトハウス80年のあゆみ(公式サイト)

NHK大河ドラマ 『八重の桜』(公式サイト)

国立歴史民俗博物館 「歴史のなかの鉄炮伝来」(2006年度企画展示)




<ブログ内関連記事>

・・山本覚馬が取り上げられている

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③

いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む
・・山本覚馬と新島八重についても「敗者」となった会津藩関係者として取り上げれている

書評 『武士道とキリスト教』(笹森建美、新潮新書、2013)-じつはこの両者には深く共通するものがある

書評 『聖書を読んだサムライたち-もうひとつの幕末維新史-』(守部喜雄、いのちのことば社、2010)-精神のよりどころを求めていた旧武士階級にとってキリスト教は「干天の慈雨」であった

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに

グンゼ株式会社の創業者・波多野鶴吉について-キリスト教の理念によって創業したソーシャル・ビジネスがその原点にあった!
・・同志社の伝道活動によって綾部で洗礼を受けたキリスト教徒

書評 『まだ夜は明けぬか』(梅棹忠夫、講談社文庫、1994)-「困難は克服するためにある」と説いた科学者の体験と観察の記録
・・「7歳で完全失明、15歳で突然視力を回復、自殺未遂、人生40年と見定めての10年間の放浪生活と思索の日々」を送った "沖仲仕の哲学者" ホッファー

コロンビア大学ビジネススクールの心理学者シーナ・アイエンガー教授の「白熱教室」(NHK・Eテレ)が始まりました
・・高校時代に病気によって視力を失った心理学者による授業。この授業を TV で見る限り、授業内容がこまかい事実や数字まで含めてすべて教授のアタマのなかに入っており驚かされる

書評 『まっくらな中での対話』(茂木健一郎 with ダイアログ・イン・ザ・ダーク、講談社文庫、2011)
・・人為的に視覚が効かない世界で、聴覚と触覚をフルに使用する世界を体験

『歴史のなかの鉄炮伝来-種子島から戊辰戦争まで-』(国立歴史民俗学博物館、2006)は、鉄砲伝来以降の歴史を知るうえでじつに貴重なレファレンス資料集である

「学(まな)ぶとは真似(まね)ぶなり」-ノラネコ母子に学ぶ「学び」の本質について

(2021年12月30日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)








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