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2023年3月23日木曜日

書評『頼山陽とその時代 上・下』(中村真一郎、ちくま学芸文庫、2017)― 漢詩漢文の背後に立ち現れてくる江戸時代後期の知識階層と文人たちの豊穣な世界

 

『頼山陽とその時代 上・下』(中村真一郎、ちくま学芸文庫、2017)を読了。上下あわせて千ページを超える大冊を読み終えるのに1週間もかかってしまった。  

下巻の巻末の人名索引を利用して、必要な部分だけ読めばいいと思っていたのだが、それではもったいない、最初から全部読んでみようと思って読み始めたら、思ったより時間がかかってしまったのだ。 

それは、この本が分厚いだけが理由ではない。江戸時代後期に生き、漢詩・漢文をよくした頼山陽(らい・さんよう 1781~1832)が遺した作品だけでなく、その家族や一族、交友関係や弟子たちにいたるまで、網羅的にその作品をつうじて理解すべく、膨大な量の漢詩漢文が取り上げらているからだ。

いずれも原文は読み下しされているとはいえ、漢文読み下し文を読みこなすのは、なみたいていのことではない。 


(頼山陽の一般に知られているのとは違う肖像画 Wikipediaより)


1971年に単行本初版がでたこの本は、いまやすでに古典といっていいのであろう。読みながらそう思ったし、読み終えたあとは、よりいっそうその感を強くしている。なぜなら、一般的に流通している頼山陽のイメージを一変させた内容となっているからだ。 

頼山陽というと、どうしてもそのライフワークで、幕末の志士たちを奮い立たせたベストセラー『日本外史』の著者であり(・・さすがに読んではないが)、「鞭声粛粛夜河を渡る・・」で始まる「川中島」などの漢詩(・・といっても、自分は詩吟をやるわけではない)の豪放磊落なイメージが固定化している。 

また、個人的には、頼山陽というと、灘の銘酒「剣菱」というイメージが大学時代に形作られてしまっている(・・なぜかわたしが属していた体育会合気道部では「酒は剣菱」と決まっていたのだ)。 

ところが、文学者の中村真一郎氏の代表作の一つともいうべき本書を読むと、頼山陽と文人が、そんな固定観念ではひとくくりにはできないような人物であったことがわかってくる。 

巻末の結びともいうべき文章を引用しておこう。この作家が、重度の神経障害を患ったという、きわめて個人的な関心から接近したのが頼山陽なのであった。
 

アンシクロペディスト的な教養と趣味。そして多くの性格的欠点を有し、やり直すことのできない人生に、多くの致命的な失敗を演じて、生涯を悔恨の堆積たらしめ、しかも執拗な神経障害のために、絶えず躁と鬱との状態を繰り返して、感情の平衡を保つことのできなかった人物。その病状のために時に、感覚の粗大と鈍感さとを免れなかった人物。しかしまた極度の自己中心主義によって、結局は己れの欲するままの生活を貫き通した人物。知性の快楽と官能の快楽を同時に追い求めて飽きなかった人物。そうした錯綜とした人格、頼山陽を長年の追尋の後に、私は遂に懐かしく想うようになって来つつある。ーー


人間的な、あまりにも人間的な、というべきであろうか。そんな人物が、江戸時代後期の19世紀前半の日本にいたのである。たかだか200年前のことに過ぎないのである。 

漢詩・漢文というベールをはぎとってみて、初めてわかる当時の知識階層の世界現代の日本人にとっては「教養の欠落部分」であり、それはわたしにもまた例外ではない。 

どうも俳句や川柳や浮世絵といった町人文化で江戸時代を見ることに慣らされてしまっている現代の日本人は、かつて漢詩漢文や文人画に代表される世界もまた存在したのだということを知る必要がある。そう強く思うのだ。 

そして、それはきわめて豊穣な世界であったこともまた。 

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目 次
第1部 山陽の生涯 
 まえがき 
 1 病気と江戸遊学 
 2 病気と脱奔 
 3 病気その後 
 4 遊蕩と禁欲 
 5 女弟子たち 
第2部 山陽の一族 
 まえがき 
 1 父春水 
 2 春水の知友 
 3 山陽の叔父たち 
 4 山陽の三子 
 5 三つの世代 
第3部 山陽の交友 上 
 まえがき 
 1 京摂の友人たち(第1グループ) 
 2 京摂の敵対者たち(第2グループ) 
 3 西遊中の知人たち(第3グループ) 
第4部 山陽の交友 下 
 1 江戸の学者たち(第4グループ) 
 2 江戸の文士たち(第5グループ) 
 3 諸国の知友(第6グループ) 
第5部 山陽の弟子 
 まえがき 
 1 初期の弟子たち(第1グループ) 
 2 慷慨家たち(第2グループ) 
 3 晩年の弟子たち(第3グループ) 
 4 独立した弟子たち(第4グループ) 
第6部 山陽の学藝 
 まえがき 
 1 『日本外史』 
 2 『日本政記』 
 3 『日本楽府』 
 4 『新策』と『通議』 
 5 『詩鈔』と『遺稿』 
 6 『書後題跋』 
後記 
解説(揖斐高) 
付録 略年譜 頼家略系図 人名索引


著者プロフィール
中村 真一郎(なかむら しんいちろう)
1918年(大正7年)3月5日生まれ、1997年(平成9年)12月25日没。日本の小説家・文芸評論家・詩人。加藤周一らと共に「マチネ・ポエティク」を結成し、共著の時評『1946・文学的考察』で注目される。『死の影の下に』(1947年)で戦後派作家の地位を確立。ほかの作品に『四季』4部作(1975~84年)など。(・・・中略・・・)
1957年に妻の元文学座女優・新田瑛子が幼い娘を残して世田谷区の自宅で睡眠薬自殺をしたことをきっかけにして、精神を病み、電気ショックの療法を受けて、過去の記憶を部分的に失い、その予後として、江戸時代の漢詩を読むようになってから、今までの西洋の文学に加えて、漢文学の要素が作品に加わっていくようになった。(・・・中略・・・)
1970年代以降は、江戸時代後期の漢文学への造詣を基盤にした評伝『頼山陽とその時代』(中央公論社)を刊行をはじめ、近世日本漢文学史の見直しのきっかけを作る。その後も著述を続け、『蠣崎波響の生涯』(読売文学賞受賞)、遺作となった『木村蒹葭堂のサロン』の浩瀚な評伝を著した(各・新潮社) (Wikipediaの記述による)



PS 第1部の「まえがき」より

重度の神経障害を病み、その治療を兼ねて10年あまりにわたって、江戸時代後記の漢詩を読みあさってきた著者の感慨である。

今まで、人は生まれて、仕事をして、死んで行く、という経過が、ひとつの完成した作品のように見えていたのが、そうではなくて、無数の可能性の中途半端な実現の束が、人の一生なのではないか、と思われてきたのだった。殆どの人間の人生が中断なのではないか。ーー

いまのわたしには、著者のこの感慨は、じつに刺さるものがある。  


PS2 知られざる人物の掘り起こしとしても

個人的には、丹後田辺藩の儒者・野田笛甫(のだ・てきほ 1799~1859)の存在を知ったことは大きい。生まれ故郷の人に、そんな人がいたとは知らなかった。


こういった知られざる人は、もっともっと掘り起こすべきだろう。



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2022年4月3日日曜日

書評『永守流 経営とお金の原則』(永守重信、日本経済新聞出版、2022)ー教科書には書いてある「知識」とは次元が異なる「知恵」の書

 
【教科書には書いてある「知識」とは次元が異なる「知恵」の書】 『永守流 経営とお金の原則』(永守重信、日本経済新聞出版、2022)を読んだ。これは「教科書には書いてある「知識」とは次元が異なる「知恵」の書」というべき本だ。  

内容には大いにうなづきながら読了。線引きだらけになるだろうから、線引きはいっさいしない。線引きするくらいなら、二度、三度と繰り返し、繰り返し読むべきだ。 

京都には、京セラやオムロンをはじめとして、島津製作所や堀場製作所など、ハイテク企業の集積地帯となっている。日本電産もその1つであり、「京都はハイテク」というイメージを形作っている重要な存在だ。 

消費財メーカーではないので一般的な知名度は低いだろうが、日本電産は、知る人ぞ知る国際的な生産財メーカーである。2023年には社名を NIDEC に変更し、さらなるグローバル経営を推進するらしい。 

小型モーターを中核にした事業経営を中軸に、内部成長とM&Aによって規模を拡大してきたのが著者の永守重信会長。ことし77歳になる伝説のモーレツ経営者。創業からちょうど50年。 そんな永守氏がカラダを張って体得した「原則」なのだから、面白くないはずがない。

まさに「知恵の塊」といってよい内容であり、「知識」が書かれている教科書とは、次元が異なるのは当然なのだ。 もちろん、教科書は教科書で重要だ。知識がなかれば知恵も生かせない。

自分自身、金融と製造業の両方を「中の人」として体験してきたので、世界的な経営者である永守氏とは次元がまったく違うとはいえ、その発言には大いに納得しながら読んだ。 

技術は大事だが、経営にとっては大事なのはマーケティング。そしてその根幹となるのが財務と資金繰りカネのマネジメントがきちんとできていてこそ、夢の実現に向けて全身全霊でチャレンジできるのである。 

ビジネスパーソンなら、できれば20歳代で、遅くても30歳代までには読み込んでおくくべき本である。  




目 次
まえがき 
序章 お金の戦略が必要だー会社を絶対つぶさないために
第1章 キャッシュこそ企業価値の源泉ーコスト意識を鍛えよう
第2章 会社を成長へ導く財務戦略ー創業期に重視すべき指標とは
第3章 創業時の資金の集め方ーやっぱりお金から始まる
第4章 金融機関とどう付き合うかー「取引は人なり」で活路
第5章 取引先を見極める方法ーその選択が会社の命運を分かつ
第6章 チャレンジと財務バランスー持続的成長へ変化を恐れない
第7章 いざ株式上場 規律の中で鍛えるー問われる発信力
第8章 M&Aをどう活用するかー永守流・勝利の方程式
第9章 海外展開は飛躍のチャンスーリスク管理は分散から
第10章 波乱の時代をどう乗り切るか
あとがき


著者プロフィール
永守重信(ながもり・しげのぶ)
1944年京都生まれ。職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科卒業。1973年、28歳で従業員3名の日本電産株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。1980年代から国内外で積極的なM&A戦略を展開し、精密小型から超大型までのあらゆるモータとその周辺機器を網羅する「世界No.1のモーターメーカー」に育て上げた。代表取締役会長兼社長(CEO)、代表取締役会長(CEO)を経て、2021年より代表取締役会長。 2014年、世界のすぐれたモータ研究者の顕彰と研究助成を目的とした公益財団法人永守財団を設立、理事長に就任。また2018年には京都先端科学大学を運営する学校法人永守学園理事長に就任。ブランド主義と偏差値教育に偏った日本の大学教育の変革と、グローバルに通用する即戦力人材の輩出に情熱を燃やしている。 著書に『「人を動かす人」になれ! 』(三笠書房)、『情熱・熱意・執念の経営』(PHP研究所)、『成しとげる力』(サンマーク出版)など。


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2021年12月24日金曜日

歴史学の立場から「新選組」を捉え直す ― 子母澤寛の新選組ものを読み、そのうえで『歴史のなかの新選組』(宮地正人、岩波現代文庫、2017)を読む

 

ここのところ、事のついでで幕末維新関連の本をつづけて読んでいるが、どうしても「官軍」サイドばかり読んでいると、逆サイドからのものも読みたくなってくる。 

「勝てば官軍」というフレーズで表現される「薩長史観」とは距離をとりたくなるのも、けっして不思議なことではない。 といっても、べつに「判官贔屓」というわけでもない。日本人らしいバランス感覚のなせるわざかもしれない。あれから150年もたっている現在、双方ともに「恩讐の彼方に」にしてノーサイドとしたいものだが・・ 

「官軍」の逆サイドといえば、その代表格はなんといっても「新選組」であろう。「勤王攘夷」という点にかんしては、いわゆる「勤王派」も「佐幕派」も違いはないが、目指すべき国家像の違いと忠義のありかたが立ち位置の違いをうみだしたわけだ。 

新選組についてまったく聞いたこともないという日本人はまずいないだろう。だが、元禄時代の赤穂浪士の討ち入りと同様、どこまでが歴史的事実で、どこからがフィクションか判然としないのが新選組である。ドラマに登場する新選組は、かなり主観的な脚色が入っていると見たほうがいい。 主人公たちに仮託したい思いが反映しているからだ。




というわけで、『歴史のなかの新選組』(宮地正人、岩波現代文庫、2017 初版2004)という本を読むことにした。新選組をあくまでも歴史学の手法によって虚実をよりわける作業を行った歴史書だ。 

「前置き」にはこうある。「本書は新選組にかんする通史ではない。芹沢鴨暗殺、池田屋事件、三条大橋制札事件、油小路の決闘から流山での壊滅までの詳細は、子母沢寛の名著『新選組始末記』をはじめ、おびただしい類書に譲る・・」。

では、まずそちらを読んでおかなくてはなるまいということで、子母沢寛の『新選組始末記』(初版1928年)『新選組遺聞』(初版1929年)の2冊を先に読んでおくことにした。   




「新選組三部作」の最初の2冊で、いずれも中公文庫。これまた40年近くまえに購入しながら読んでなかった。いい機会なので通読することにした。

元新聞記者の作家が古老の聞き書きをもとにまとめたものだ。現代風にカタカナで表現すれば、オーラルヒストリーによるナラティブということになろう(と書いてみて、意味のないカタカナ表現だなと思ってみたりもする)。 

『新選組始末記』は、京都での新選組誕生の経緯から、流山で捕縛され板橋で処刑された近藤勇の最期と、戊辰戦争に参加し函館の五稜郭で戦死した土方歳三の最期までを扱っている。 

聞き書きというものは、話し手の主観にもとづいたものであり、しかも聞き手の主観のまじるので、どこまで史実そのものかは判然としないが、さすがにその場に居合わせた古老の証言など迫真性がある。記憶は捏造されるというのは脳科学の常識だが、トラウマ的な記憶は、かならずしもそうとは言い切れまい。 

新選組内部の粛清シーンや、新選組が激闘した事件などは、スプラッターものといっていいほど描写がリアルである。首が飛び、血しぶきが・・、返り血がネバネバとまとわりつき、気がついたら左手の親指の肉片がそぎ落ちていた、夏暑い京都では死体がすぐに異臭を放ち…など、五感のすべてに訴えかける描写の数々。おそらくドラマで再現するのもはばかられるような状況が活字化されている(*日露戦争に従軍した陸軍士官出身の作家が書いた『肉弾』を想起させるものがある。明治時代は、現在とは違ってへんな隠蔽などない、リアルに忠実な作品が多い)。

もちろん、そういったシーンだけでなく、近藤勇や土方歳三、そして沖田総司らの素顔をうかがわせるエピソードは読んでいてほほえましくもなり、じつに気持ちいい。著者の子母澤寛の近藤勇びいきの理由もわかるような気がする。 近藤勇の声は、高かったようだ。

『新選組遺聞』は、『新選組始末記』と一部重複するものもあるが、基本的に異なる証言を集めたもので、この2冊をあわせて読むと、史実に限りなく近い新選組のイメージをつかむことができる内容になっている。

さすが、原典ともいうべき古典的著作なのだなと感心する。 



■歴史学の立場から検証した新選組

さて、そのうえで『歴史のなかの新選組』(宮地正人)を読んだわけだが、さすがに子母澤寛の名著を前提にして読むと、読んでいて大いに納得するものが多い新選組を、幕末維新の流動的で複雑な歴史的コンテクストのなかに位置づけることで、見えてくるものがあるからだ。 

とくに印象的なのは、著者のいう「有志的結合」(一般的には「同志的結合」)である新選組のリーダーとしての近藤勇の力量が、ただ剣客としての腕だけにあっただけでなかったことが納得された点だ。 

「勤王攘夷」と「尽忠報国」という理念に忠実で、かつその時点時点の政治情勢の的確な読みと判断力の深さ、鋭さにもあったのだ。この本に引用されている近藤勇による数々の「建白書」の原文を読むと、その感を強くするのである。 

「終章 結論」の文章がじつにいい。思わず引用したくなるものがある。 


幕末維新期には、誰一人として将来を見通せた人物はいなかった。それほど時代に課された課題は大きく、自己が位置した現状はみじめだったのである。長期的な見通しの立たないまま、少なくとも現状はいかなることがあっても打破しなければならない、座して死を待つより前進あるのみとの決意と自負心が彼らを激しく突き動かした・・(P.213) 


そのひとつが、山岡鉄舟と清河八郎がかかわった「浪士組」から京都で分離して生まれた「新選組」であり、このほか数多くの「有志的結合」に参加した志士たちが担い、あるものは勝利し、その多くは非命にも斃れていったのであった。勝者による歴史だけが歴史なのではない。 

「座して死を待つより前進あるのみ」ではないか! 


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目 次
現代文庫版にあたって
前置き
幕末京都市街図
序章 問題の所在
第1章 幕末の政治過程をどう見るか
第2章 一会桑政権と近藤勇
第3章 有志集団としての浪士組・新選組
第4章 八月一八日事件以前の壬生浪士組の特徴
第5章 新選組の性格の多重化
第6章 超法規的武装集団化
第7章 他の諸集団との対立・抗争
第8章 「死さざれば脱隊するを得ず」
第9章 組織矛盾とその展開
第10章 史実と虚構の区別と判別
第11章 新撰組研究の史料論
終章 結論
補章 その後の新撰組研究
浪士組・新徴組隊士出身地一覧表
新選組略年表
あとがき
時代の扉を開く鍵-現代文庫版あとがきにかえて
人名索引

著者プロフィール
宮地正人(みやち・まさと)
1944年生まれ。東京大学史料編纂所教授、国立歴史民俗博物館館長を経て、東京大学名誉教授。専攻は日本近現代史。著書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものなど)


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2014年5月18日日曜日

会田雄次の『アーロン収容所』は、英国人とビルマ人(=ミャンマー人)とインド人を知るために絶対に読んでおきたい現代の古典である!



古典というのは、さまざまな読み方が可能だからこそ、長生きするものである。

わたしは『アーロン収容所』「日本人論」としてだけでなく、英国人、ビルマ人(=ミャンマー)、インド人を知るための必読書として推奨したい。いや、絶対に読んでおきたい現代の古典と言っておく。

もともとは「中公新書」の発刊とともに1962年に出版されたものらしい。副題には「西欧ヒューマニズムの限界」とあり、現在でもひきつづきロングセラーとして増刷されつづけている。

わたしがうまれたのが奇しくも1962年なので、ちょうど同じ年ということになる。まさに半世紀を超えるロングセラー中のロングセラーなのである。文庫化されたのは1973年のことだ。文庫版からは「西欧ヒューマニズムの限界」という副題は外されている

高校時代に「推薦図書」の一冊であったので、わたしは文庫版で読んだ。1970年代後半のことである。

高校時代に読んだ本で、大きな影響を受けたものを三冊あげよと言われたら、この『アーロン収容所』すでにこのブログでも紹介した『ソビエト帝国の崩壊』(小室直樹、カッパビジネス、1980)、それからまだブログでは取り上げていないが『ものの見方について』(笠信太郎、角川文庫、1957 単行本初版 1950)をあげるだろう(・・いま聞かれたらという仮定の質問なので、聞かれるたび多少の変更はありかもしれない)。

いずれも高校生でも読めるような平易な文章でありながら、鋭い観察と推論が全編を貫いているものだ。こういった本を高校時代に読んでおいたからこそ、社会科学的な「ものの見方」が知らず知らずのうちに培われたのかもしれない。

(文庫版カバーのウラ 1997年第24版のもの)

高校時代に『アーロン収容所』を読んだとき、自分自身がもっていた白人、とくに英国人にかんする固定観念が完全に崩されたのを覚えている。捕虜という屈辱的な立場に置かれながら、その立場からの観察力の鋭さと豊富さが読み物としても魅力的なのだ。

1970年代後半は、すでに「高度成長」期を経て日本経済が世界的に強くなっていたとはいえ、その経済が強いという一点を除いては先進国からは評価されていない時代であった。日本人もまだ肩肘張っているところがあったようにも思う。いまだ成熟していなかったということだ。

その意味では、梅棹忠夫の『文明の生態史観』と同様、敗戦後の日本人に「自信」を回復させ、「高度成長」に向けてのエートスを大いに後押しした内容だといえるだろう。英語版がそれぞれ不評であったのはそのためだ。

世界を支配しているのは西欧であり、いまでもまだそうだが、先進国首脳が一堂に会する「サミット」において「非西欧国家」はいまだ日本だけなのである。冷戦後のソ連崩壊後にはロシアが加わってG7がG8になったものの、先般のウクライナ問題(2014年)で抜けてふたたびG7に戻ってしまった。

1970年代当時にくらべたら、2014年の現在は、西欧諸国のさらなる衰退もあって、日本人がそこにいる違和感もなくなった(・・見慣れたからということもある)。

価値観の点からみても、経済が強くなっても異質の価値観の大国が出現していることも、日本がサミットに参加している違和感がなくなった理由であろう。


『アーロン収容所再訪』(1975年)はビルマ再訪記

文庫版カバーのウラにも印刷されているように(・・上掲の写真)、『アーロン収容所』は基本的に「日本人論」として読まれてきたようだ。

そういう読み方以外にわたしが提案したいのは、英国人、ビルマ人(=ミャンマー)、インド人を知るための必読書という側面である。

まず著者を含めて、大東亜戦争敗戦の結果、捕虜となったは日本人である。日本と戦ったのは大英帝国であり捕虜収容所を管理するのは英国人である。英国の将兵には男性だけでなく、女性もいたことは著者だけでなく、読者にも驚きであった。

それだけではなく、大英帝国の軍隊には、当時まだ英国の植民地であったインド人の兵士がいただけでなく、ネパールの精鋭グルカ兵もおり、なんといっても大日本帝国と大英帝国が激突し、死闘を行ったのは、当時まだ英国の植民地であったビルマ(=ミャンマー)であったということだ。


(現在は原動機付き! 初訪問した1997年当時もまだ手漕きだった)


高校時代に『アーロン収容所』を読んだときは、どうしても英国の将兵と日本捕虜との関係の印象が強かったが、その後、1997年にはじめてミャンマーにを訪問したあと(だと思う)、『アーロン収容所再訪』(会田雄次、中公文庫、1988)という本を八重洲ブックセンター(東京)で見つけて読んだことが、『アーロン収容所』は英国関連本であり、ビルマ関連本なのだと思うキッカケになったと思う。


(『アーロン収容所再訪』文庫版1988年 カバーのウラ)



『アーロン収容所再訪』は、ビルマでの体験以来、いわゆる「ビルキチ」(=ビルマ大好き人間のこと)になった著者が、26年後の1974年に1週間だけビルマを再訪した旅の紀行文である。

当時は、「ビルマ式社会主義」の名のもと、ネ・ウイン独裁が続いていた時代であった。単行本の出版は1975年であり、日本は公害など「高度成長」の負の側面が顕在化していた頃である。そのコントラストがあざやかな紀行文なのだが、この本が1988年に文庫化されたのは、「ビルマ民主化」が挫折し、軍事政権の時代へと大転換した年であったためだろう。

1988年当時は、わたしもまさか20年以上も軍事独裁が続くとは思いもしなかったのだが・・・

長くなってしまったが、『アーロン収容所再訪』がビルマ再訪がそのテーマであったことで、『アーロン収容所』もまたビルマについての本であったことを思い出したわけである。

高校時代は、ビルマといえば『ビルマの竪琴』などの粗雑な知識しか持ち合わせていなかったため、それ以上の関心が薄かったのかもしれない。

ついでにいうと、1970年の大阪万博は小学生の頃にいったが、あまりもの混雑のため、入館できたのはビルマ館やソビエト館、そしてベルギー館など人気のない(・・失礼!)ものばかりだった。アポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」を見るために、子どもながら疲弊してしまった記憶もある。

ビルマ館は、龍の形をした建物であった。わたしにとってビルマ(=ミャンマー)は、1970年以来の「縁」ということになる。



英国人、ビルマ人(=ミャンマー人)、インド人を知るための必読書

『アーロン収容所』を英国関連本であり、ビルマ関連本として読むとはどういうことか、具体的に著者自身の文章を引用しながら見ていってみよう。

その前に確認しておくべきことがある。著者は、日本が降伏後に捕虜になったので、戦闘中に戦争捕虜になったわけではない。捕虜収容所においての処遇には違いがあったらしい。

この作業のとき、私は奇妙な一群を見た。・・(中略)・・ 戦時中の捕虜、投降者たちである。それは、捕虜(キャプチャード)、または戦争捕虜(プリズナー・オブ・ウォー)、(戦犯者 クライムド ではない)として私たち降伏軍人(サレンダー・パーソネル)または非武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)から区別され、中央監獄に収容されている人々であった。(P.72)

この事実はかなり重要なので、会田雄次の回想は、あくまでも「降伏軍人」(サレンダー・パーソネル)または「非武装解除人」(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)の立場からのものであったことを理解する必要がある。

まずは、英国人にかんする観察からみておこう。

彼女たち(=英軍の女性兵士)からすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうもそうとしか思えない。・・(中略)・・ もっとも私自身はあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人とおなじように、イギリス人にはなにか別種の、特別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。(P.50)

1945年当時、いまだ大英帝国が植民地帝国であった時代のことであるから、現在ではさすがにここまではないだろう。だが歴史的ドキュメントとしての意味はある。

ヨーロッパ人には、いったん自分がとった重大な行動の責任は、どんなことがあってもなくならないとする考え方がある。また一度やりだしたことは都合が悪くなっても、いや悪いと思っても断じて曲げない方が立派で男らしいのだという考え方も、私たちの想像以上に強く広く根を張っているようである。(P.77~78)

この点にかんしてはヨーロッパ人もアメリカ人も同じではないだろうか。日本人の変わり身が早いこともまた変化はないようだが。

英軍の階級は社会秩序をそのまま反映しているといえる。とくに士官と下士官・兵との間には、これでも同じイギリス人かと思われるほどの差がある。士官はいわばホワイト・カラーであり、下士官・兵は労働者である。下士官・兵にもホワイト・カラーが少しはいるが、それは幹部候補生としてのそれではなく、下積み的な事務屋である。このこと自体は別に不思議ではない。近代国家のなかで日本だけが特殊なのである。・・(中略)・・ そのことはさておき、このような士官と下士官・兵の差、とくにその体格の隔絶といってよい決定的な相違は眼を見張らすほどのものであった。(P.111~112)

これは重要な指摘である。やや崩れたとはいえ、いまでも階級意識が強く残る英国はそのままあてはまるのではないか。労働者階級と中流階級、アッパーミドル、貴族はまったく異なるカテゴリーであり、相互に階級間移動はない。

文章や時の誤りは、ただそれだけのことだからよかったが、私たちを驚かせたばかりではなく大いに迷惑をこうむったのは、かれらの計算力である。・・(中略)・・ 三ケタの数を三回足したりすると大変である。何回やっても答えがちがうのには私たちの方が驚いてしまう。なかには「ヘーイ、ジャニイ」と私たちを呼びつけるのがいる。計算しろというのである。一回で計算してみせると、しきりに首をひねっている。・・(中略)・・イギリス兵のこういう能力の低さというものは私たちの想像の外である。私たちのうけた初等義務教育のゆきとどいていること、それもかなりの程度が高いもんであることは大いに誇りにしてもよいことではなかろうか。(P.116~118)

この点は、大学時代に富士山八合目でアルバイトしているときに多数かかわることになった米軍兵士とまったく同じである。とにかく単純計算ができないのだ! 

1945年当時の英軍兵士も、1982年当時の米軍兵士もまったく同じである。もちろん、日本人の計算能力は1962年当時とくらべると落ちているだろうが、それでも概して世界的には高い方だろう。

さて、ここから先は、英軍とともに行動してきたグルカ兵とインド兵についてみておこう。英国のグルカ兵は1997年の「香港返還」によって大幅に規模が縮小されたが、現在でもブルネイに駐屯している。ブルネイの旧宗主国は英国である。

私たちの看視兵にははじめの間ネパールのグルカ兵があてられていたが、半年ほどたってインド兵に代わった。グルカ兵は馬鹿正直で勇敢で規律正しく剛健愚直の見本みたいなもので、戦争中も第一線に立ち日本軍をさんざん苦しめた。看視兵としてもイギリス人にはまったく忠犬といった格好だった。(P.124)  戦闘中の敵歩兵の主力はかれらだった。さんざん悩まされた相手に終戦後はじめてお目にかかる。英軍など戦闘中見たことはないからあまり対面ばえがしなかったが、グルカ兵に出会ったときはまったくギクりとした。決戦場へもう一度つれだされたような妙な感じである。(P.33)

グルカ兵も、ビルマ人からはあまり好かれていなかったが、私たちには愛想のいいインド兵はビルマ人からは徹底的に嫌われていた。(P.130)

インドの兵制がどうなっているのか知らないが、大きくは宗教各派の信者別、地方別、カースト別に隊が異なっている。ほかに理由があるかもしれないが、いずれにしても他隊のものには大変不人情である。(P.132)

この当時はまだインドは英国の植民地でいまだ独立していなかったので、このようなマインドセットがあらわれていたのであろう。いわゆる植民地根性に近いものがある。

また、英領ビルマはもともと行政的には英領インドへの補給基地という位置づけでその一部であったので、植民地時代に大量にインド人が入植してきていたことも、ビルマ人の対インド人観を形成しているようである。

このほか重要な指摘も多々あるのだが、あまりにも多いのでインド人にかんしては引用はこれでやめておく。

最後にビルマ人について引用を行っておこう。きわめて根本的なものである。


ビルマの仏教は、ただこの国が僧侶の天下であり僧侶も又真面目であるというだけでなく、その精神が人びとのなかにこのように生きているということである。・・(中略)・・仏教の精神が本当に広く一般にしみこんでいたとすると、あとでいろいろ述べるビルマ人の行為は、この精神と関係あるように思える。(P.162)

こういったビルマ人に接することによって、著者もまた「ビルキチ」の一人となったのである。「ビルキチ」とは「ビルマきちがい」の略である。現在ならミャンマーおたく略して「ミャンたく」かしらん?

わたしがはじめてミャンマーに渡航した1997年、そのときはミャンマー投資ブーム期待のあった頃で、関西空港からヤンゴンまで全日空の直行便が飛んでいたのだが(・・近年また復活)、ガラガラの機内にいたのは「ビルキチ」とおぼしき日本人の老人ばかりであった。現在では生きていれば100歳近いので、「ビルキチ」生存者はもうほとんどいないだろう。

いまミャンマーに熱中している日本人には「ビルキチ」など無縁だろうが、こういう歴史もあったのだよ、と書き留めておきたいのである。相思相愛の関係だが、それは細々としたものであった。





京都の知的風土から生まれ、さらに影響を与えたもの

『アーロン収容所』の著者・会田雄次氏の略歴を文庫版から引用しておこう。一部わたしが補足しておく。

1916年(大正5年)京都に生まれる。京都帝国大学史学科を卒業して、1943年(昭和18年)に応収、ビルマ戦線に送られ、戦後2年間、英軍捕虜としてラングーン(・・現在のヤンゴン)に抑留された。帰国後、神戸大学助教授をへて、京都大学教授(人文科学研究所)。専攻はイタリア・ルネサンス史。・・(以下略)・・

そう、会田氏もまた京都の知的風土のなかにいた人である。京都生まれの京都育ちの、ほんまもんの京都人である。

生態学者の梅棹忠夫や政治学者の高坂正堯(こうさか・まさたか)などもそうであったが、会田雄次もまた「京大派知識人」の一人でもあったわけであり、左派が幅をきかせてい「戦後知識人」のなかでは異色の存在であった。

しかもマキャヴェッリなどの研究者でもあった。イタリア・ルネサンス関連の会田雄次の本を読んだことはないのだが・・・(・・読んだのは塩野七生ばかり)。

いま書きながら重要なことを思い出した。『アーロン収容所』が一人称の「体験記」であることの積極的な意味についてである。著者は「まえがき」でこう書いている。

最後に一言お断りを。この本に書いたことは、できるだけ客観性を持たすためなるべく伝聞を避け、私自身の体験を主にした。「私」という言葉がすこし出すぎたようだけれども、そういう次第でご諒承いただければ幸いである。

高校時代、この一節の意味についてかなり考えたことを覚えている。「客観性」と「主観性」の関係についてであるが、客観性を担保するために主観的に書くという発想が、当時はなかなか飲み込めなかったのだ。理科系特有の「客観性信仰」のようなものだろうか(・・当時はまだ「理系」進学のつもりだった)。

だが、この一節の意味をアタマのなかで何度も何度も反芻(はんすう)するうちに、やっと納得することができたのである。それは「体験」と「伝聞」の違い、言い換えれば「一次情報」と「二次情報」の違いである。

さらに大学時代、現象学を学んで以後は、完全な「客観性」などあり得ないもので、しょせん「間主観性」(inter-subjectivity)に過ぎないのだという考えに達することができた。一次情報を語る「一人称としての私」は主観的であるが、主観性を離れた一次情報など存在し得ない。

これは認知科学の問題であり、量子力学における「観測問題」にもかかわってくるテーマなのである。観測者という「一人称としての私」にかかわる問題だ。

こういった基本的なことを考える出発点が、わたしにとっては高校時代に読んだ『アーロン収容所』だったわけだ。

先にあげた三冊の本のうち、『ソビエト帝国の崩壊』の著者・小室直樹は京大理学部数学科卒(・・博士号は東大から)『ものの見方について』の著者・笠信太郎は朝日新聞論説委員であったが東京商大卒(・・専攻は西洋文明史)である。『アーロン収容所』の著者・会田雄次は言うまでもなく京大卒である。

こうやって振り返ると、わたし自身、無意識のうちに京都帝大(=京大)と東京商大(=一橋大学)の二つの流れに大きな影響を受けて知的形成してきたのだなあと、あらためて感じるのである。

観念論に傾斜しない現実主義、ある種の日本型プラグマティズムが貫いているといってよかろうか。戦後の知的社会を支配した、「左派の啓蒙思想」としての東大型思考とは異なる流れであったわけだが、現実主義やプラグマティズムはアメリカの専売特許ではなく、一般庶民の世界では当たり前といえば当たり前の「常識」的世界観である。

冷戦終結後も時代を超えてロングセラーとして生き残った理由は、ここにもあるというわけだ。

まだ読んでいない人は、ぜひ虚心坦懐に読んでみることをすすめたい。もちろん半世紀前のものだから、ところどころ突っ込みを入れながら読むことは必要だ。


 
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<関連サイト>

『アーロン収容所-西欧ヒューマニズムの限界-』(中央公論新社のサイト)



<ブログ内関連記事>

ミャンマー(=ビルマ)関連

三度目のミャンマー、三度目の正直 (5) われビルマにて大日本帝国に遭遇せり (インレー湖 ④)
・・日本軍占領下のビルマで発行されたルピー軍票に書かれた大日本帝国の文字

「三度目のミャンマー、三度目の正直」 総目次 および ミャンマー関連の参考文献案内

「ミャンマー再遊記」(2009年6月) 総目次

ミャンマーで日本向けオフショア開発が有望な理由-それは日本語能力にある
・・二つの言語は、語順が同じなのだ


大英帝国と植民地ビルマ、東南アジア

書評 『大英帝国衰亡史』(中西輝政、PHP文庫、2004 初版単行本 1997)-「下り坂の衰退過程」にある日本をどうマネジメントしていくか「考えるヒント」を与えてくれる本
・・中西教授も京大出身

『戦場のメリークリスマス』(1983年)の原作は 『影の獄にて』(ローレンス・ヴァン・デル・ポスト)という小説-追悼 大島渚監督
・・原作は南アフリカ出身の英国陸軍コマンド部隊大佐、ジャワ島の日本軍捕虜収容所を舞台にした日英の相克と奇妙な友情の物語。大島渚監督も京都出身で京大卒

原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』
・・原爆投下による日本降伏によって捕虜収容所から生きて出ることができたと考える著者の回想録

「タイガーバーム」創業者の「タイガー・カー」(改造車)
・・大英帝国ネットワークとタイガーバーム。英領ビルマのラングーン(=ヤンゴン)に生まれた客家(ハッカ)の胡文虎はシンガポールでビジネスを成功させた


白人と非白人の非対称的な関係

書評 『「肌色」の憂鬱-近代日本の人種体験-』(眞嶋亜有、中公叢書、2014)-「近代日本」のエリート男性たちが隠してきた「人種の壁」にまつわる心情とは

書評 『驕れる白人と闘うための日本近代史』(松原久子、田中敏訳、文春文庫、2008 単行本初版 2005)-ドイツ人読者にむけて書かれた日本近代史は日本人にとっても有益な内容


京都の「知的風土」-現実主義とプラグマティズム

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!
・・京都生まれの京都育ちの生態学者

書評 『海洋国家日本の構想』(高坂正堯、中公クラシックス、2008)-国家ビジョンが不透明ないまこそ読むべき「現実主義者」による日本外交論
・・京都生まれの京都育ちの政治学者

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・京都生まれの京都育ちの歴史家による封建制度論

書評 『知的生産な生き方-京大・鎌田流 ロールモデルを求めて-』(鎌田浩毅、東洋経済新報社、2009)-京都の知的風土のなかから生まれてきた、ワンランク上の「知的生産な生き方」
・・東京出身の京大名物教授

書評 『革新幻想の戦後史』(竹内洋、中央公論新社、2011)-教育社会学者が「自分史」として語る「革新幻想」時代の「戦後日本」論
・・佐渡島生まれで京大卒の京大教授が書いた「戦後日本」の知識人世界。「戦後」というのがいかに異様な時代であったかがよくわかる本

(2014年6月8日、2015年10月14日 情報追加)


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2013年5月5日日曜日

書評『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2013)― この人がいなければ維新後の「京都復興」はなかったであろう



2013年度のNHK大河ドラマ 『八重の桜』の主人公は、会津藩の砲術指南役の家に生まれた新島八重(=山本八重)が主人公である。

女だてらに鉄砲を打ちたいと熱望し、不屈の努力で技術をモノにした八重。戊辰戦争における会津戦争の際には、なぎなたではなく鉄砲をかついで実戦に参加、会津落城後はのちの同志社創立者の新島襄と再婚して近代女性として時代を先導した。

だが、わたしはその兄であった山本覚馬こそほんとうの主人公なのだと考えている。そう思いながらこのドラマをみるとより面白くなるのではないかと思う。なぜなら、あたらしい女性であった新島八重であるが、その人生をたどってみると12歳と年齢の離れた兄から多大な感化を受けつづけた人生であったことがわかるからだ。

女性を軽視しているのではない。それほど山本覚馬という人があまりにも傑出した「人物」であったのである。すぐれた人物をごく身近にもてば、その人をロールモデルとして模倣し、自分の人生をつくりあげるのは不思議でもなんでもない。だから、そのような兄をもったことは、新島八重にとっては幸せ以外のなにものでもなかったといって差し支えない。

山本覚馬を主人公にした小説仕立ての伝記もあるが、まずは『山本覚馬伝』(青山霞村、住谷悦治=校閲、田村敬男=編集、宮帯出版社、2012)を推奨しておきたい。この本は、昭和3年に同志社が発行したものである。その復刻版が京都ライトハウスから1976年に出版されているが、そのまた最新の復刻版である。

盲人の福祉を目的とした京都ライトハウスから『山本覚馬伝』が再刊されたのは、山本覚馬が成人になってからだが全盲になった人であり、かつ維新後の京都復興に貢献した人であるからだろう。

山本覚馬(1828~1892)について一言で要約すれば、「この人がいなければ維新後の京都復興はなかった」、ということに尽きる。

その意味については、おいおい語ることとしたいが、幕末には政治の中心舞台となった京都であったが、遷都後は急速にさびれてしまった京都に、全盲となった会津人・山本覚馬が京都にいたということがなければ、京都復興はならなかったかもしれないといっても過言ではない。


西欧近代文明の粋を極めつくした山本覚馬

砲術師範の家に生まれ、砲術を一生の職業とするべく運命づけられ、その道を極めたということは、武士でありながら技術に明るく、しかも高度な技能の習得はきわめて職人に近い精神構造が養われていたことを意味している。
   
彼が生きていた幕末は戦争の時代であり、同時代で戦争のつづくヨーロッパや国を二分する激しい内乱状態にあったアメリカでは銃器のイノベーションが飛躍的に進展していた。とくに南北戦争終了後のアメリカからは最新式のライフルが大量に輸入されている。めまぐるしいまでの技術革新の渦のなかにいたわけだ。
   
彼の生涯は、西欧近代文明の粋を家職である砲術から始め、佐久間象山のもとで学んだ蘭学をつうじて西欧の社会制度全般、そして最後は新島襄をつうじてキリスト教まで至ったものであるということもできよう。工学から自然科学、社会科学、そして精神科学という道筋ということもできるだろう。
   
砲術家だけに数理的能力が高く、経済にも明るかった理詰めの人。余談になるが、江戸時代の日本では数学がブームだったという背景を知っておくことが必要だろう。カネがかからないひまつぶしとして、数学の難問を解くことが一般庶民レベルまで流行っていたらしい。
     
蘭学においては佐久間象山の弟子であり、横井小楠、勝海舟といった傑出した人物との交友、また親友が明治初期の啓蒙主義者であった西周(にし・あまね)であったことからも、知の側面での人物像は了解されよう。積極的に外国人とも交友していた。

山本覚馬は、文武両道を絵にかいたような人物であったことが本書でわかる。アタマが切れるだけでなく深く思考することのできる人で、しかも負けん気のつよく、強く腕っぷしもつよい大柄な男であったようだ。全盲になってからは心眼も研ぎ澄まされたことがエピソードによって知ることができる。

そしてなによりも、つねに国全体のことを考えていた人であった。

そんな人物が新首都・東京ではなく、京都に定住したということ、それが大きな意味をもったのである。


山本覚馬が京都復興に果たした役割

青山霞村による『山本覚馬伝』が不思議なのは、山本覚馬の伝記的事実よりも、京都府顧問として京都の復興と近代化にいかなる分野で貢献したかを詳細に、具体的にたどっている点にある。

その意味では異色の伝記であるが、山本覚馬と京都とのかかわり新島襄がなぜ同志社を京都に建学することになったのかなど、「京都復興」事業のなかに位置づけることが可能となる。山本覚馬は、同志社の発起人でかつ命名者でもあった。

そのためには、編者の住谷悦治氏が、まずは目次を丹念にたどるべきことを推奨している。そのアドバイスにしたがって目次を見ておこう。小項目はあまりにも多いので省略した。

目 次

緒論

少年時代 壮年時代
京都勤務
幽囚
京都府顧問

日本最初の小学校
中学校創立 英学校
ドイツ学校とフランス語学校
女紅場、府立第一高等女学校、遊廓の女紅場
府立療病院と付属医学校(今の府立医科大学)創立及び精神病院 駆黴院
集書院
京都最初の活版印刷 新聞発行
物産引立所
勧業場 集産場 授産場
舎密局 アポテキ
織殿 染殿
製革と製靴 化芥所
博覧会 博物館
都踊り
伏見製作所
梅津製紙場 一名パピールファブリック
写真用レンズの模造
牧畜場 農学校 養蚕場 栽培試験所
童仙房の開拓
電信線架設と私設鉄道敷設発企
霊山招魂場
小野組転籍事件、槇村大参事の拘禁とその釈放運動
フランスへ留学生派遣
新施設の廃絶、失敗、犠牲

同志社創立その他

京都府会議長

先生の経済思想
家庭と講帷 晩年
山本覺馬先生の逸事

山本覺馬年譜

すでに都ではなくなっていた京都という「地方都市」の復興に大きな功績のあった山本覚馬であるが、もし東京で仕官していれば歴史から忘れ去られることもなかったろう。

だが、それは運命のめぐりあわせというものだ。いや、あえて意思のチカラで京都に残ったのか。

幕末と明治維新という大激動期に会津藩に生まれ、主君が京都守護職についたため京都に駐在し、京都で全盲となり、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の捕虜となり、口述筆記による社会改造計画の「管見」(意見書)を薩摩藩主に提出、新政府のもとで京都に残り、そのプランをもとに京都復興に大いなる貢献をしたという生涯。

キリスト教徒として一生を終えた山本覚馬は、思想家としてよりも実践家として人生をまっとうした人である。この人が新島襄と出会わなければキリスト教徒になることもなく、妹の八重が京都にきて新島襄と結婚することもなく、また同志社が京都に建学されることもなかったのである。

偶然を必然に変えた人生といってもいいかもしれない。おなじ時代に生きている人たちのために貢献した人生である。そしてその結果、一時は忘却されたが、いまふたたび見出されつつある。

山本覚馬という人こそ、ドラマのほんとうの主人公であるというのは、そのことなのだ。


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<関連サイト>

日本ライトハウス80年のあゆみ(公式サイト)

NHK大河ドラマ 『八重の桜』(公式サイト)

国立歴史民俗博物館 「歴史のなかの鉄炮伝来」(2006年度企画展示)




<ブログ内関連記事>

・・山本覚馬が取り上げられている

幕末の佐倉藩は「西の長崎、東の佐倉」といわれた蘭学の中心地であった-城下町佐倉を歩き回る ③

いまこそ読まれるべき 『「敗者」の精神史』(山口昌男、岩波書店、1995)-文化人類学者・山口昌男氏の死を悼む
・・山本覚馬と新島八重についても「敗者」となった会津藩関係者として取り上げれている

書評 『武士道とキリスト教』(笹森建美、新潮新書、2013)-じつはこの両者には深く共通するものがある

書評 『聖書を読んだサムライたち-もうひとつの幕末維新史-』(守部喜雄、いのちのことば社、2010)-精神のよりどころを求めていた旧武士階級にとってキリスト教は「干天の慈雨」であった

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティング」を考えるヒントに

グンゼ株式会社の創業者・波多野鶴吉について-キリスト教の理念によって創業したソーシャル・ビジネスがその原点にあった!
・・同志社の伝道活動によって綾部で洗礼を受けたキリスト教徒

書評 『まだ夜は明けぬか』(梅棹忠夫、講談社文庫、1994)-「困難は克服するためにある」と説いた科学者の体験と観察の記録
・・「7歳で完全失明、15歳で突然視力を回復、自殺未遂、人生40年と見定めての10年間の放浪生活と思索の日々」を送った "沖仲仕の哲学者" ホッファー

コロンビア大学ビジネススクールの心理学者シーナ・アイエンガー教授の「白熱教室」(NHK・Eテレ)が始まりました
・・高校時代に病気によって視力を失った心理学者による授業。この授業を TV で見る限り、授業内容がこまかい事実や数字まで含めてすべて教授のアタマのなかに入っており驚かされる

書評 『まっくらな中での対話』(茂木健一郎 with ダイアログ・イン・ザ・ダーク、講談社文庫、2011)
・・人為的に視覚が効かない世界で、聴覚と触覚をフルに使用する世界を体験

『歴史のなかの鉄炮伝来-種子島から戊辰戦争まで-』(国立歴史民俗学博物館、2006)は、鉄砲伝来以降の歴史を知るうえでじつに貴重なレファレンス資料集である

「学(まな)ぶとは真似(まね)ぶなり」-ノラネコ母子に学ぶ「学び」の本質について

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