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2023年8月22日火曜日

書評『現代スピリチュアリティ文化論 ― ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』(伊藤雅之、明石書店、2021)― 異文化としての東洋文化を受容した現代西欧の「スピリチュアリティ文化」を概観する

 

かつて書店の棚を多く占めていた「精神世界」は、現在では縮小傾向にある。それにとってかわったのが、いわゆる「スピリチュアル」のコーナーである。

1970年前後の米国発の「ニューエイジ」や「トランスパーソナル心理学」がその中核をなしていた「精神世界」は、日本では1980年代から「教養主義」にとって代わる存在となり、サブカルチャーからメインカルチャーへと進化していった。

カウンターカルチャーとしての「意識変容」、私的空間での「自分探し」、そして自己の「スピリチュアリティ」を意識し、宗教にとって代わるものとして存在感を増大させる流れ。

日本において、「精神世界」にいったんストップをかけたのが、1995年の「オウム真理教事件」である。

それじたいが「精神世界」の申し子ともいうべき「オウム真理教」は、そのいびつな世界観と暴力的で反社会的な行動によって自滅の道を突き進むことになる。

この事件の発生とともに、「精神世界」も退潮していった。危険視され忌避されるようになったためだ。

その後、TVメディアを舞台に一般化した「スピリチュアル」のブームは、2020年代の現在にいたるまでつづいている。もともとその土壌のある日本独自の展開もあるが、「スピリチュアリティ文化」はグローバル化した世界における同時的現象でもある。


1990年代後半から2020年にいたる「スピリチュアリティ文化」

『現代スピリチュアリティ文化論 ー ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』(伊藤雅之、明石書店、2021)は、そんな同時代現象としての「スピリチュアリティ文化」について、1990年代後半から2020年にいたる四半世紀の動きについて、その展開の状況をトレースしたものだ。

宗教社会学の立場からの解説であり、フィールドワークにもとづく研究である。その前史となる『精神世界のゆくえー宗教・近代・霊性(スピリチュアリティ)』(島薗進、秋山書店、2007) を読んでおくと、より理解が深まるであろう。

全体で3部構成となっており、キーワードとしては、「スピリチュアリティ」「マインドフルネス」「ヨーガ」「ポジティブ心理学」「ネオ・アドヴァイタ」などが重要だ。目次には登場しないが「ハッピネス」「ウェルビーイング」がキーワードである。

いずれもカタカナ語であるのは、それらがみな英語圏で成立した「現代スピリチュアリティ 文化」の構成要素であるからだ。

「目次」を紹介しておこう。


目 次
はじめに 
第1部 現代スピリチュアリティ文化の理論と研究アプローチ
 第1章 現代スピリチュアリティ文化の歴史と現在 ― 対抗文化から主流文化へ
 第2章 21世紀西ヨーロッパでの世俗化と再聖化 ― イギリスのスピリチュアリティ論争の現在
 第3章 現代宗教研究の諸問題 ― オウム真理教とそれ以後 
第2部 現代幸福論とスピリチュアリティ文化の諸相
 第4章 マインドフルネスと現代幸福論の展開
 第5章 現代マインドフルネス・ムーブメントの功罪 ― 伝統仏教からの離脱とその評価をめぐって
 第6章 グローバル文化としてのヨーガとその歴史的展開
 第7章 「スピリチュアルな探求」としての現代体操ヨーガ 
第3部 スピリチュアリティ文化の開かれた地平
 第8章 ポジティブ心理学と現代スピリチュアリティ文化
 第9章 人間崇拝の宗教としてのヒューマニズム ― ヒューマニストUKの活動を手がかりとして
 第10章 「自己」論へのアプローチ ― エックハルト・トールとネオ・アドヴァイタ・ムーブメント 
おわりに
初出一覧
参考・引用文献一覧
索引


宗教学、宗教社会学、宗教心理学の講義用の「教科書」として出版されたものであり、既出論文をまとめたものなので、かならずしも読みやすくない。寄せ集め感が払拭されていないからだ。

現代の「スピリチュアリティ文化」は英米中心であり、あるいは英語圏が中心になっているので、日本における現象を考える際には、日本との共通点や落差に注意して読む必要がある。この点の考察は、本書ではやや弱いという印象を受ける。


■グローバル文化としての「現代体操ヨーガ」と「ネオ・アドヴァイタ」

とはいえ、本書で興味を引かれるのは「グローバル文化としてのヨーガ」についてである。著者はヨーガの実践者でもあるようだ。

もともとインドで生まれた瞑想法と一体となっていたヨーガだが、英国の植民地時代に導入された北欧発のスウェーデン体操とミックスして心身鍛錬の体操化し、これが欧米社会に拡がることで、21世紀の「現代体操ヨーガ」に進化していく。

これがインドに「逆輸入」され、さらにインドのソフトパワーとしてグローバル化がさらに促進されるという東西往還。仏教の瞑想法が起源の「マインドフルネス」と同様、「脱宗教化」してグローバルに拡大していった経緯がよく似ているのである。

インドといえば、「ネオ・アドヴァイタ」についても触れなくてはなるまい。「アドヴァイタ」(Advaita)とは、古代インドのウパニシャッド由来の思想であり、日本語では「不二一元論」と訳される。梵我一如である。ブラフマンはアートマンであるという思想。自我を超えた存在との合一。

この思想の現代英語圏での展開が「ネオ・アドヴァイタ」なのである。その代表的な存在が、ドイツ出身で英語圏で著作活動を行っているエックハルト・トールである。

エックハルト・トールについては本書ではじめて知ったが、「スピリチュアリティにかんして世界的にもっとも影響力のある人物」のトップに位置づけられているらしい。

ここではその思想について説明しないが、「エックハルト」という名前をつかっていることからもわかるように、ドイツ中世の神秘主義者マイスター・エックハルトをおおいに意識しているようだ。

前面には出さないが、やはり自分のバックグラウンドであるキリスト教が背景にあるようだ。マイスター・エックハルトの思想が禅仏教に似ていることは、鈴木大拙が指摘して以来、よく知られている

東西のスピリチュアリティ文化の融合が、エックハルト・トールには体現されているのであろう。


■異文化としての東洋文化を受容した現代西欧の「スピリチュアリティ文化」

そんな西洋文化の人間にとって、スピリチュアリティにかんする東洋文化は「外来文化」であり「異文化」である。

西洋においては、東洋がまったく異質な文化であったらからこそ、最初は抵抗があったものの、サブカルチャーからメインカルチャー化していったのである。著者によるこの指摘はきわめて重要だ。

チベット人のダライラマや、ベトナム人のティック・ナット・ハンなど、現在でも著名な人たちのように、最初はアジア人の指導者が多かったが、現在の西洋社会では東洋のスピリチュアリティ文化を咀嚼して自分のものとした西洋人の指導者が中心になっている。

英語圏を中心とした「現代スピリチュアリティ」は、もはや東洋文化というよりも、西洋文化の一部となっているのである。「現代スピリチュアリティ」は、いっけん東洋文化と親和性が高いように見えても、ホンモノの東洋文化とは異なる存在なのである。

だからこそ、いっけん日本でも受容しやすいように見えながら、西洋化した「現代スピリチュアリティ」がスムーズに定着しているわけではない。

日本を含めた東洋では、かえって仏教などの伝統文化からの反発もある。なにも「マインドフルネス」なんて輸入品の必要はない、昔からある「座禅」でいいではないか、というやつだ。それは反発といってもいいし、違和感といってもいい。

近代日本では、キリスト教などの西洋文化を受容して、「無教会派」などの「日本的キリスト教」を生み出した歴史がある。「日本化」である。キリスト教がまったくの「異文化」であったからこそ、可能となった文化変容だ。

その逆の事態が西洋では「現代スピリチュアリティ文化」として成立したわけだが、はたして今後の日本では、逆輸入された「現代スピリチュアリティ文化」がどうなっていくのだろうか。定着するのか、そうではないのか。

とはいえ、「マインドフルネス」や「現代体操ヨーガ」が、本来のわたしたち自身の伝統である「東洋の伝統的スピリチュアリティ」に目覚めるキッカケとなるなら、大いに意味のあることだろいえるだろう。

そんなことを考えさせてくれる「教科書」である。


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著者プロフィール
伊藤雅之(いとう・まさゆき)
愛知学院大学文学部宗教文化学科教授。1964年名古屋市生まれ。1998年、米国ペンシルバニア大学大学院社会学部博士課程修了(Ph.D)。専門は宗教社会学。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



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2020年1月11日土曜日

『逝きし世の面影(日本近代素描1)』(渡辺京二、葦書房、1998)をめぐる読書体験が、「近代」がもたらした「生きづらさ」に対する治癒行為となる



今年(2020年)の正月休みに、名著としてロングセラーになっている『逝きし世の面影』をようやく読むことができた。通して読むのは、今回がまったくの初めてのことになる。

幕末に来日した外国人(文字通りの欧米人)が記録した日本と日本人の記述から、当時の日本と日本人の生き様を再現した大著である。当時の日本に対する「異国人の目を通した驚き」を項目別に収集整理し、著者の表現を使わせて頂けばる、「コラージュ」したものである。

単行本初版が出版されてから、すでに20年以上たってからのことになる。まとまった時間がとれる年末年始にふさわしい読書体験となった。

ブームとなったのは、平凡社ライブラリーに収録された2005年以降のことだ。わたしがこの本を入手したのは、それ以前のことになる。積ん読のままだった状態であったが、平凡社ライブラリーに収録されたことを知って「しまった!」と思ったのであった。しかし、それからさらに15年以上もたっている。

単行本の初版のタイトルは、『逝きし世の面影(日本近代素描1)』(渡辺京二、葦書房、1998)である。熊本在住の著者が福岡の地方出版から出版した本だが、全国流通ルートに乗っていたため、八重洲ブックセンター本店で見て購入したのだ。

「前近代」の日本と日本人が、西欧近代化された明治時代以降、すなわち「近代」以降の日本と日本人とは、いかに異なるものであったか。読み進めていくと、そのことがおのずから理解されることになる。大量に引用されている外国人の記録そのものが面白いので、思っていたよりすらすら読んでしまった。

こんな文明が存在したのだという驚き、そしてその記述を読むことで神経衰弱が多少なりとも癒やされるという、ある種の解放感読書が治療行為にもなるという希有な体験をすることになる。


■「日本褒め」とは対極にある本だ

もともと、わたしは伴蒿蹊(ばん・こうけい)の『近世畸人伝』(1790年刊)という本が好きで、ときどき引っ張り出してきては、開いたページに登場する実在の江戸時代の畸人たちの言動に、思わずニヤニヤしたり、クスリと笑ってしまうことを喜びとしてきた。

『逝きし世の面影』に収録されているエピソードで、『黒船前夜-ロシア・アイヌ・日本の三国志-』(洋泉社、2010)にも再録されているものがある。捕虜となったロシアの海軍士官ゴロヴニンの裁判をめぐるものだ。

落語のような、なんだか間延びした不思議な雰囲気の裁判であり、役人も含めて関係者みな大笑いという状況は、なんだか意外というか、幕末においてすらそんな状況だったのかという、異文化をのぞき見るような不思議な気分にさせられるエピソードだ。これは、あくまでも一例に過ぎない。



著者が、膨大なページ数の著書をつうじて言いたいのは、けっして最近流行の「日本褒め」ではない。昔の日本人はスゴかったとか、日本人であることを誇りに思って胸を張れとか、そういった類いの主張とは無縁である。

著者が言いたいのは、すでに「近代」に突入していた欧米人の目から見ると、「前近代」の日本人が幸せに見えた、ということである。それは、西洋と日本の違いというよりも、近代文明と前近代文明の違いなのであって、西欧もまた中世から近世にかけては、前近代の日本とよく似た姿を示していたのである。これは、歴史を振り返ったらすぐにでもわかることなのだ。

「近代」と「前近代」は、著者が何度も繰り返すように、まったく異なる文明であるといっていい。だから、前近代の江戸時代後期の文明は「逝きし世」なのであって、もはや戻ってくることはない。現代に生きるわれわれは、イマジネーションを駆使して、あくまでも「面影」として感じ取るしかできないのである。

いったん失われたものは(・・というよりも、日本人は自ら江戸時代を否定して近代化し、西欧化したのである!)、もはや元に戻ることはない。「近代」がいかに特殊な時代であったかは、「近代」以前の「前近代」のほうが、はるかに長いことを考えるべきなのである。

すでに消え去った「文明」であり、もはや蘇ることもない存在を哀惜し、懐かしく思うしかない。しかしながら著者もまた、「近代」を乗り越えなければ現在の日本があり得なかったことも重々承知している。とはいえ、「近代」がもたらしたものはベネフィットだけではない。この件については、のちほど再び触れることにする。


■姉妹書ともいうべき『江戸という幻景』とあわせて読むべき

『逝きし世の面影』の単行本初版に日本近代素描1」という副題がついていることについて先に触れたが、それは日本近代素描2」以降も想定にあったためのようだ。だが、現在に至るまで出版はない。

その代わりというわけでもないが、江戸という幻景』(弦書房、2004というタイトルの本が出版されている。『逝きし世の面影』の姉妹編といってよいだろう。著者の表現を借りれば「裏取り」としての、同時代の日本人の書き物から「コラージュ」したものだ。

『逝きし世の面影』が外国人の視点からみた日本と日本人であるなら、『江戸という幻景』は、同時代に生きた日本人の視点から見た日本と日本人である。『逝きし世の面影』とあわせて読むことで、前近代の日本と日本人を立体的に再現することが可能となるだろう。



地方出版社からでた前者が平凡社ライブラリーに収録されたことによってベストセラーとなり、ロングセラーになった『逝きし世の面影』と違って、別の地方出版社から出たこの本は、いまだに文庫化されていないのが残念だ。「姉妹編」と銘打って文庫化すべきだと思うのだが、どうだろうか。

この両者をあわせて読むと、通念として流通していた江戸時代観が大きく変更を迫られることを認めざるを得なくなるはずだ。けっして体系的に叙述されているわけではないが、おのずから浮かび上がってくる空気といったものを読者は感じ取ることになる。





■「近代」がもたらした「生きづらさ」

「近代」以後に生きるわれわれが痛切に感じている「息苦しさ」や「生きづらさ」といったものに、どう対応したらいいのか? 

近代文明はベネフィット(=便益)をもたらしたが、一方では大きなコスト(=犠牲)を個々人に強いている。 かつての日本や日本人が生きてきた軌跡を振り返ることが、は解決策の1つとなるといえよう。それほど、現代に生ける日本人の目から見ても、かつての日本人は、じつに幸せそうに見えるからだ。 

『逝きし世の面影』を読むということは、前近代の日本のような文明が存在したという驚きを知識として得ることだけでなく、神経衰弱が多少なりとも癒やされるという、ある種の解放感でもある。読書体験が、ある種の治癒行為にもなるのだ。 

『逝きし世の面影』がベストセラーとなってロングセラー状態が続いているのは、ある意味では当然だと思う。しかしながら、依然として誤解も消えないようだ。この本は「日本褒め」ではないかとか、その類いのものである。繰り返すが、著者の本意はそこにないし、虚心坦懐に読んでいけば、そうではにことは十分理解されるものと思う。

『逝きし世の面影』や『江戸という幻景』に表現された著者の考えを知るには、すでにこのブログでも取り上げている『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)のほか、『無名の人生』(文春新書、2014)や、津田塾大学の三砂ちづるゼミの女子学生たちとの対話を書籍化した『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫、2014)を読むといい。いずれも語りが文章化されている。

これらの本を読むと、「近代の生きづらさ」とは何かが、著書の一貫したテーマであることがわかるはずだ。「近代」をすでに通過した現在ではあるが、「近代」がもたらしたベネフィット(便益)とコスト(代償)との両面から考えることが必要なのである。




『無名の人生』の帯には、「「成功」「出世」「自己実現」などくだらない」。「生きるのがしんどい人びとにエールを送りたい」とある。これは、前近代の日本人の生き方であり、その生き方を参考にすれば、「生きづらさ」もある程度までは軽減できるだろうということだ。

もともと「出世」したいとか「えらくなりたい」とか考えたこともないわたしは、著者が言うことに大いに賛成だ。『無名の人』だけでも読んでみることを薦めたい




『逝きし世の面影』 目次 
第1章 ある文明の幻影 
第2章 陽気な人びと 
第3章 簡素とゆたかさ 
第4章 親和と礼節 
第5章 雑多と充溢 
第6章 労働と身体 
第7章 自由と身分 
第8章 裸体と性 
第9章 女の位相 
第10章 子どもの楽園 
第11章 風景とコスモス 
第12章 生類とコスモス 
第13章 信仰と祭 
第14章 心の垣根 
あとがき 
参考文献




『江戸という幻景』 目次
1. 振り返ることの意味 
2. 朗々たる奇人たち 
3. 真情と情愛 
4. 奇談のコスモロジー 
5. いつでも死ねる心 
6. 家業と一生 
7. 風雅のなかの日常 
8. 旅ゆけば 
9. 隠されたゆたかさ 
10. ぬしが殿様じゃったや 
11. 法と裁判 
登場人物略歴 
元号西暦対照表 
引用書目一覧 
あとがき




著者プロフィール 
渡辺京二(わたなべ・きょうじ) 
1930年京都生まれ。大連一中、旧制第五高等学校(熊本)文科を経て、法政大学社会学部卒業。評論家。河合文化教育研究所主任研究員。熊本市在住。主な著書に『北一輝』(毎日出版文化賞受賞、ちくま学芸文庫)、『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞受賞、平凡社ライブラリー)、『黒船前夜』(大佛次郎賞受賞、洋泉社)、『バテレンの世紀』(読売文学賞、新潮社)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える

書評 『日本政治思想史〔17~19世紀〕』(渡辺浩、東京大学出版会、2010)-歴史は「断絶」ではなく「連続」していることを、斬新な切り口と縦横無尽な引用で読ませてくれる渾身の一冊

国立歴史民俗博物館は常設展示が面白い!-城下町佐倉を歩き回る ①

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2016年8月12日)-江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

JBPressの連載コラム第68回は、「250年前に日本に来ていたトゥーンベリさんは何者か 「今年の人」グレタさんと時空を超えて共通するもの 」(2019年12月31日)-大みそかでもコラム公開です!
・・オランダ商館付け医師として来日したスウェーデン人の植物学者ツュンベリのこと

書評 『苦海浄土-わが水俣病-』(石牟礼道子、講談社文庫(改稿版)、1972、初版単行本 1968)
・・『苦海浄土』の成立には、渡辺京二氏が全面的にかかわっている

『王道楽土の戦争』(吉田司、NHKブックス、2005)二部作で、「戦前・戦中」と「戦後」を連続したものと捉える
・・「コラージュ・ノンフィクション」という手法によって描かれた近現代史


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2018年1月11日木曜日

『水曜日のアニメが待ち遠しい』(トリスタン・ブルネ、誠文堂新光社、2015)を読んで日本のアニメとマンガがいかに1970年代以降のフランス社会に受け入れられていったかを知る



いまさらというわけではないが『水曜日のアニメが待ち遠しい-フランス人が見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす-』(トリスタン・ブルネ、誠文堂新光社、2015)を読んだ。2年前に出版されたもので気にはなっていたが、ようやく読むことができた。昨年12月のことである。

フランス人で1976年生まれの「オタク第一世代」の日本近現代史研究者が、みずからの経験を踏まえながら、日本アニメがフランス文化に与えた影響を分析したもの。アニメについての本だが、図版はほんの少しで、ほとんどが文字ばっかりの内容だ。

「水曜日のアニメ」というのは、フランスでは著者が小学生だった当時は水曜日は学校が休みで、水曜日に集中して日本のアニメが放送されていたことを指している。当時の日本アニメのコンテンツは非常に安く(・・現在の韓国ドラマのようなものだ)、フランスでは大量に輸入されて放送されたらしい。おそらく、イタリアも同様だろう。

偶然の結果としてアニメにすっかり魅了された世代のフランス人の著者は、その後もアニメからゲーム、マンガへと日本のサブカルチャーにはまっていくが、これらのサブカルが、1970年代の幸運な最初の出会いから、1980年代のジャパン・バッシングを経て、いかにフランス社会に受け入れられていったかについて分析している。

フランス文化についての本であり、日本文化についての本でもある。日本文化が、いかにローカライズされてフランス文化の一部になっていったかについての本でもある。


■『水曜日のアニメが待ち遠しい』の「その後」

この本を読んだあと、ついでに『マリー・アントワネット』(惣領冬実、講談社KCデラックス モーニング、2016)『マリーアントワネットの嘘』(惣領冬実/塚田有那、講談社、2016)も読んでみた。




ヴェルサイユ宮殿の全面的協力で、講談社とフランスのマンガ出版社のコラボで製作されたマンガとその秘話。『水曜日のアニメが待ち遠しい』で描かれた世界の、その後のフランスの状況がよくわかる。

ルネサンス期のイタリアを舞台にした惣領冬実の歴史マンガ『チェーザレ』はまだ読んでないのだが(・・友人からは読め、読めと強く薦められてからすでに数年になる)、2000年代以降のフランスにおける新たな歴史研究を踏まえた『マリー・アントワネット』を読んで、大いに目を開かれた感じだ。もっと早く読んでおけばよかった。

マリーアントワネットが嫁入りする前から、フランスの王太子との結婚のためヴェルサイユ宮殿に入る1770年の1年間を描いたこのマンガは、ぜひ推奨したい。いままで作られてきた既成概念がガラッと崩されるのを感じるのではないかな。

とにかくディテールへのこだわりがすごいのだ。歴史書として読めるマンガだ。このマンガはぜひ読むことを推奨したい。


******************************************

ということで、フランス関連のアニメとマンガについての本を、3冊続けて読んでみた。

読んだから別にどうなるというわけではないが、ふだん見慣れているものとは違う観点から物事を見直すということは、じつに面白いことだ。

みなさんにも、ぜひお薦めしたい。


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PS フランスの現職大統領がなぜマンガ家の死を悼むのか?


鳥山明さんは、2024年3月1日に亡くなったことが、事後になってから公表された。 

投稿には、鳥山氏による「マクロン大統領へ」という献辞入りの色紙の写真とともに、「À Akira Toriyama et ses millions de passionnés qui ont grandi avec lui.  鳥山明と何百万もの彼の愛好家へ。」と、フランス語に日本語が添えられている。





なぜフランスの現職の大統領がマンガ家の死を悼むのか? その理由は、フランスのTV事情にある。 


この本を読むと、日本のアニメとマンガがいかに1970年代以降のフランス社会に受け入れられていったかを知ることができる。 

マクロン大統領は、1977年生まれ。つまり日本のアニメとマンガを浴びるようにして育った「ど真ん中の世代」ということなのだ。この事情は、イタリアもドイツも同様だ。

むしろ、アメリカよりもヨーロッパである。中東と南米、そして東アジアや東南アジアなどアジア各国については言うまでもない。 その意味をよ~く考えみる必要があるのだ。 

わたしの世代は、アメリカのホームドラマやアニメをTVで見ていたので、無意識レベルで影響を受けている。文化の相互浸透とはそういうものだ。

(2024年3月10日 記す)

PS2 画像をあらたなものに差し替えた(2024年3月10日 記す)



<関連サイト>


(項目新設 2021年10月7日)
 

<ブログ内関連記事>

■マリーアントワネット関連

「マリーアントワネットと東洋の貴婦人-キリスト教文化をつうじた東西の出会い-」(東洋文庫ミュージアム)にいってきた-カトリック殉教劇における細川ガラシャ

フランスの童謡 「雨が降ってるよ、羊飼いさん!」(Il pleut, Il pleut, bergère)を知ってますか?
・・「1780年に書かれたもので、歌詞にでてくる女羊飼いはマリー・アントワネットのことを指しており、雷雨や稲妻は近づきつつあったフランス革命を暗示しているのだという。フランス革命は、1789年のバスチーユ襲撃から始まった」


■フランス文化

Vietnam - Tahiti - Paris (ベトナム - タヒチ - パリ)

「特攻」について書いているうちに、話はフランスの otaku へと流れゆく・・・ 
・・日本とフランスの関係をサブカルチャーから考えてみる。フランスと日本は、知らず知らずのうちにお互い影響を与え合っている

月刊誌「クーリエ・ジャポン COURRiER Japon」 (講談社)2011年1月号 特集 「低成長でも「これほど豊か」-フランス人はなぜ幸せなのか」を読む


■フランスで放送されたアニメと原作マンガ

マンガ 『めぞん一刻』(高橋留美子)の連載完了から30年!(2017年4月)


■ローカリゼーション

書評 『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか-世界で売れる商品の異文化対応力-』(安西洋之、中林鉄太郎、日経BP社、2011)-日本製品とサービスを海外市場で売るために必要な考え方とは?
・・ローカリゼーションにかんする必読書

書評 『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・マリンズ、高崎恵訳、トランスビュー、2005)-日本への宣教(=キリスト教布教)を「異文化マーケティグ」を考えるヒントに

由紀さおり世界デビューをどう捉えるか?-「偶然」を活かしきった「意図せざる海外進出」の事例として・・日本語と音楽の関係について

(2018年1月13日 情報追加)


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2014年6月15日日曜日

書評『サッカー狂の社会学 ― ブラジルの社会とスポーツ』(ジャネット・リーヴァー、亀山佳明・西山けい子訳、世界思想社、1996)― サッカーという世界スポーツがブラジル社会においてもつ意味とは?



「サッカー狂」(soccer madness)というコトバは著者の造語だろうが、『サッカー狂の社会学  ―  ブラジルの社会とスポーツ』(ジャネット・リーヴァー、亀山佳明・西山けい子訳、世界思想社、1996)はサッカーという世界的なスポーツが社会においてもつ意味を、ブラジル社会、とくにリオデジャネイロについて徹底的に分析したスポーツ社会学の研究書である。

こんなふうに書くと、こむずかしい研究書のように聞こえるかもしれないが、この本はじつに面白い。抽象的な議論よりも、ブラジル社会そのものを記述した内容になっているからだ。言うまでもなくブラジルは「サッカー王国」であり、サッカーを抜きにしてブラジル社会は理解できない

つまり、この本のテーマは「スポーツ社会学」であり、同時に「ブラジル社会」の2つなのである。とくに重要なのは、「サッカーファン」についての研究である点だ。そこに社会学の研究としての意味と面白さがある。

しかも著者はジャネットという名前からもわかるとおり女性であり、また「サッカー」というコトバを使用していることからもわかるとおりアメリカ人の社会学者である。フットボールではなくサッカーというコトバをつかうのはアメリカや日本くらいで、世界ではきわめて少数派である。

原著タイトルは Janet Lever, Soccer Madness: Brazil's Passion for the World's Most Popular Sport(『サッカー狂-世界でもっともポピュラーなスポーツへのブラジル人の情熱』)である。初版は1983年で、1995年に新版が出版されている。




ブラジルの公用語はポルトガル語だが、もちろんフットボール系の futebol(フッティボル)という。辞書で調べると、 futebolismo というコトバもでてくる。「サッカー主義」とは「サッカー狂」のことだ。

いまでこそ女子サッカー日本代表の「なでしこジャパン」の活躍によって、アメリカの女子サッカーがライバルとして強敵であることが日本人にとっても常識となったが、アメリカ人にとってはサッカーは国技でもないし、ましてやアメリカ人女性にとって男性中心のブラジルサッカーは、二重の意味で「異文化」そのものなのである。(・・個人的な話だが、仕事で1990年代に「アメリカ女子サッカー協会」を訪問したことがあるが、大歓迎された)。

なぜアメリカ人が、しかも女性が(?)という当然でてくるであろう疑問には、著者みずからが「はじめに-この研究の発端にかんする私的な覚え書き」で語っている。研究の背景と発想の源泉について知るこおとができる貴重なドキュメントでもある。

本書は、アメリカ人で女性という立ち位置が好結果をもたらした研究だといえる。ブラジルサッカーそのものといえる「王様ペレ」と個人的に知り合うことができたのも、そのためだという。

さきに「異文化」と書いたが、その意味ではテーマ的にもアプローチ的にも社会学の本流でありながら、限りなく文化人類学に近い。ジンメルの社会学と文化哲学、デュルケムの宗教社会学だけでなく、文化人類学者のクリフォード・ギアツやレヴィ=ストロース、『ホモ・ルーデンス』のホイジンガの所論を援用している。しかも経済学者のアルバート・ハーシュマンからはファンの行動選択にかんする示唆を受けている。

著者自身、ブランジルには交換留学や研究者としての留学など含めて、本書が完成するまでに数年の現地滞在を含め10年近くかかわってきたという。ポルトガル語を駆使した取材に基づく、フィールドワーク中心の濃い内容の記述となっているのはそのためだ。


サッカーというスポーツが社会においてもつ意味

スポーツを社会という文脈で捉えると、スポーツは勝負である以上、敵と味方に「分離」する機能をもつと同時に、同じルールのゲームであるという点において「統合」をもたらす性格をもっている。

ヨーロッパやラテンアメリカのようなサッカー先進国の場合、一都市に複数のチームがあるのがフツーなので、同じ都市内でもひいきのチームへの一体化をめぐって都市住民間での「分離」が生じるが、これが統合のレベルが上がっていくにつれて、一体化の対象がが州レベルとなり、ワールドカップにおいては国の代表チームへとなっていく。

さらにサッカーファンは地元のひいきのチームや代表チームだけでなく、世界のサッカー選手についても詳しくなるから、サッカーという世界共通のルールで行われるゲームという枠組み自体を共有することになるわけなのだ。

代表チームはナショナリズムの表現でありながら、同時にグローバリズムと両立しているわけである。代表チームを応援することは、言語など人間としての根源的感情にもとづくものであるとはいえ、かならずしも偏狭なナショナリズムにならないのはそのためである。

著者は、「サッカーというスポーツは国際共通語のエスペラント語のようなものだ」と書いているが、このアナロジーはじつに味わい深いものがある。著者がエスペラント語をあげているのは、実質的な世界標準語である英語ではないという意味だ。世界スポーツであるサッカーは、アメリカが支配するではないという意味でもある。

本書が面白いのは、著者がアメリカ人でアメリカ人を読者に想定しているために、ブラジルのサッカーとアメリカのプロスポーツがつねに比較対象として意識されている点にある。ブラジルサッカーを分析すると、アメリカのスポーツの特殊性が浮かび上がるのである。

ベースボール、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーと、複数のプロスポーツリーグが存在し、一都市一チームというフランチャイズ制が確立し、ビジネスとしてのスポーツがスポーツマネジメントによって運営されているアメリカは、世界的にみてきわめて特殊な国なのである。

この点、日本も相撲に野球、さらにJリーグと複数のプロスポーツリーグが存在する点はアメリカモデルに近いが、日本もプロサッカーリーグをもつことによって、サッカーがいかに世界スポーツであるかを体感できるようになったわけである。

サッカーにおいてはアメリカは世界の中心ではない(!)という事実を知ることは、アメリカ人にてってだけでなく、日本人の世界認識にも大いに意味あることなのだ。アメリカ人がどこまで認識を深めたかどうかはわからないが。



(2014FIFAワールドカップ ブラジル大会公式ロゴ wikipedia より)


サッカーファンも三つに区分して考えるのが自然

「ブラジル=サッカー」と思っていた人にとって、2014年FIFAワールドカップのブラジル開催に地元で反対運動があるということは奇異な感じがするのではないだろうか。このわたしもそうである。

だが、反対運動はあくまでもワールドカップをブラジルで開催することに反対なのであって、サッカーそのものに反対しているわけではなさそうだ。スタジアム建設にカネかけるなら、もっと福祉や生活面にカネ使えという要求は、わからなくはない。

おそらく今回のワールドカップでブラジルが優勝すれば、反対運動どころではなくってしまうことだろう。なんせブラジルなんだから。だが「祭りのあと」も懸念は残る。2年後の2016年にはオリンピックがブラジルで開催されるのである。

著者自身が 200人の労働階級の男性を対象に行った面談踏査結果(第5章)を読むと、「ブラジル=サッカー」というのがどうやら固定観念であるのは、わたしだけではないことがよくわかる。

著者は、ファン度合いの濃淡によって3つに区分している。「軽度のファン」「平均的なファン」「熱心なファン」である。「熱心なファン」とは、かならず会場で応援する「サポーター」のことだ。

すべてのブラジル人がかならずしもサッカーの「熱心なファン」ではないことを、著者の調査結果によって明らかになっているのを読むと、なるほどと思うのはわたしだけではないだろう。どこの国であれ似たようなものだな、と。

日本でもかつて野球がそうであったように、広い意味の社交において、スポーツは共通の話題となりやすい。そういえば日本には『野球狂の詩(うた)』というマンガもあった。水島新司の作品である。

日本語訳が出版されたのが1996年、原著がアメリカで出版されたのが1983年だから、現在からみればデータそのものは古いかもしれない。なお、この日本語版には原著の1995年版の序文も収録されており、その後のブラジル社会におけるサッカーの意味や、アメリカにおけるサッカー普及についても触れられており、時代が変化していることも感じさせられる。

とはいえ、ブラジルサッカーについてはスポージャーナリストによる雑誌記事や著書も出版されているものの、ブラジル社会をまるごとサッカーという軸で捉えたものは類書が少ないので、本書の価値は現在でも減じていないと思う。

研究者による日本語訳にしては、ひじょうにこなれていて読みやすい訳文だ。博士論文をもとにしたものだが、読み物としての面白さを損なわない訳文になっているのは珍しい。

社会学とスポーツ社会学、ブラジル社会を深く理解することのできる好著だ。地味な表紙だが内容は面白いので、このテーマに関心のある人にはぜひ薦めたい本である。


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目 次

はじめに-この研究の発端にかんする私的な覚え書き
第1章 スポーツの逆説-闘争による統合
 社会におけるスポーツの役割
 社交性と集合精神の表現としてのスポーツ
 最近の研究
第2章 サッカー-最高の国際スポーツ
 国際的な大会
 対抗する他の団体スポーツ
 サッカーのたどった幸運な歴史
第3章 ブラジルにおけるスポーツと社会統合
 国内を結びつける絆
 サッカーの全国組織
 スポーツと政治
第4章 大都市におけるスポーツ-リオデジャネイロ
 サッカークラブ
 リオ市内のライヴァル関係
 くじとマスメディア
 サッカーの財政危機
第5章 ファンの生活におけるスポーツ
 ファンの関与
 ファン研究の結果
 どういう人がファンなのか
 ファンになる予兆
 ファンの忠誠心
6章 共有される文化シンボル-英雄、悪役、イデオロギー
 公的人物としての選手
 象徴としての悪役の重要性
 社会移動のイデオロギー
 大都市と地域社会における社会移動の比較
 ペレのもつ特別な象徴的重要性
第7章 結びに-スポーツの重要性
 スポーツから利益を受けるのはだれか
 多元論か単一論か
 性的アパルトヘイトという例外
 スポーツは現状を維持するものか、変革を推進するものか

1995年版への序文
 アメリカにおけるワールドカップとサッカー
 世界の他の地域でのサッカー
訳者あとがき


著者プロフィール

ジャネット・リーヴァー(Janet Lever)
カリフォルニア州立大学 社会学教授(Ph.D)  Dr. Lever has been at CSULA since 1990; during the previous 16 years, she taught sociology at Yale, Northwestern, UCLA, and UCSD, and also completed a post-doctoral program in health policy at RAND. From 1991 through 1998, with Dr. Pepper Schwartz, she coauthored Glamour magazine's "Sex and Health" column, thus serving as a liaison between the research community and "real" people. (CSULA: School of Natural & Social Sciences, California State University, Los Angels 公式サイトより。これを読むと、現在は「職場恋愛」(workplace romances)という、かなり面白いテーマで調査研究を行っていることがわかる)


訳者プロフィール

亀山佳明(かめやま・よしあき)
1947年、岡山県に生まれる。1978年、京都大学大学院教育学研究科博士課程(社会学、教育社会学専攻)単位取得退学。龍谷大学社会学部教授。著書に『スポーツの社会学』(編著、世界思想社、1990年)その他(本書の奥付より)

西山けい子(にしやま・けいこ)
1959年、奈良県に生まれる。1994年、奈良女子大学大学院人間文化研究科博士課程単位取得退学。奈良女子大学その他で非常勤講師(本書の奥付より)


<関連サイト>

More Americans Than Ever Are Watching the World Cup (BloombergBusinessweek, June 17, 2014)
・・ワールドカップにはアメリカ代表も出場している。しかし、アメリカも変わりつつある。しかもアメリカは一次リーグを突破して決勝トーナメントに進出が決まった(2014年6月27日)

南米サッカーの「情熱」と「狂気」に関する考察 (星野智幸、フォーサイト、2014年6月27日)
・・「(コートジボワールの)ドログバに流れた雰囲気を変えるすべを持たない会場に、私は日本のサッカー文化がまだまだ薄いことを思い知らされた。失敗したら呪詛を浴びて呪い殺されそうな環境で日常的にサッカーをしているラテンアメリカの選手たちに比べれば、日本の選手が逆境に弱いのは当然である」  その呪詛とは『サッカー狂の社会学』にもでてくるブードゥー教もまたその一つである


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・・『サッカー狂の社会学』の著者は研究に当たって経済学者ハーシュマンの示唆もうけているようだ。「個人の価値観(バリュー)の変化は、当然のことながら組織の価値観にも影響を及ぼします。個人が組織に影響を及ぼす選択肢(オプション)は大きく分けて2つあります。経済学者のアルバート・ハーシュマンによる有名な分類です。まずは、Voice(=声)。組織内での異議申し立てです。意見をいって組織内改善を志向するものです。つぎに Exit(=退出)組織からの退出です。つまり転職ですね」


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