梅棹忠夫の幻の名著 『日本探検』(1960年)がついに文庫化された。中央公論社から刊行されている自選の『著作集』に収録されているとはいえ、単著として手軽な形で読めようになったことは、じつに喜ばしいことだ。
わたしはこの「幻の名著」をオリジナルの単行本を古本で入手したが、なぜいままで文庫版を含めた別バージョンで出版されないのか不思議でならなかった。その意味でも講談社学術文庫から文庫化されたのはありがたいことだ。ウメサオタダオの本は、
『狩猟と遊牧の世界-自然社会の進化-』と『生態学入門』(共編著)が講談社学術文庫が発足した 1976年 に出版されているが、それ以来ということになる。
『日本探検』というネーミングは1960年前後では、ひじょうに新鮮かつ斬新なものであったようだ。そもそも「探検」とは、未知なる世界で行うものであって、既知であるはずの世界を「探検」するとはどういうことか、と。
たしかに、未踏の地(terra incognita)が消滅し、未踏峰の高山も、未開の森林もなくなりつつあったのが1960年代であったが、完全になくなってしまう前に、
既知であるはずの世界をあえて「探検」するという姿勢で取り組んだ先駆的な意味は大きい。
(1960年刊のオリジナル単行本 マイ・コレクションより)
『日本探検』がいかなる意味で「幻の名著」であるかについては、
講談社BOOK倶楽部のウェブサイトに掲載されている踏み切った「紹介文」を読んでいただくのがよいだろう。学術文庫編集部の思いが伝わってくるはずだ。
知の巨人は「日本」をどう見たか。『文明の生態史観』 と 『知的の生産技術』の間に書かれた梅棹学のターニングポイント、文庫化!
梅棹忠夫こそは、戦後日本に屹立する知の巨人です。若き日に『モゴール族探検記』『文明の生態史観』『知的生産の技術』をひもといた人は多いのではないでしょうか。しかし、ここにもう一冊、あまり知られていないスゴイ本があります。それが本書『日本探検』です。
1955年のカラコルム・ヒンズークシ学術探検、1957年の第一次東南アジア探検から1961年の第二次東南アジア探検までの数年間、梅棹には一見「小休止」ともみえる時期があります。しかし、そんなことはありません。この期間にも彼の知的関心はやむことなく、その視線は「日本」に向いていました。それまでの探検で培った比較文明的、巨視的手法でみずからの生まれた社会を対象化したのです。
1959年に『中央公論』誌上ではじまった連載は7回にわたり、そのうちの4回分が翌年に単行本となりました(著作集では第5回の「事務革命」を除くものが収録され、新たに著者自身による解説的な新稿が付されています。今回の文庫はそれに基づきます)。このあと梅棹は国立民族学博物館の設立という大事業に乗り出していくわけですが、「日本探検」は梅棹学が生態学から文明学、情報学へとフィールドを拡げていくうえでの転換点であったと位置づけられます。(*太字ゴチックは引用者=さとう)
「「日本探検」は梅棹学が生態学から文明学、情報学へとフィールドを拡げていくうえでの転換点であったと位置づけられます」、とある。この点については、『日本探検』を直接読んで実感していただきたいと思う。
(京都大学人文研をリードした桑原武夫の推薦文 単行本カバー袖より)
■
「なんにもしらないことはよいことだ」(ウメサオタダオ)
『日本探検』の冒頭に収録された「福山誠之館」は、以下の文章が導入となっている。まずは文庫版からではなく、
1960年出版の単行本から引用を行っておこう。
この段階ではまだ漢字の使用が多い。
何にもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の眼でみて、その経験から、自由に考えを発展させることができるからだ。知識は、あるきながら得られる。歩きながら本を読み、読みながら考え、考えながら歩く。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしは考えている。わたしはいままで、日本の外を歩く機会が多かった。そこで、いつもこういう勉強の仕方をしてきた。
まさに名言である。これこそフィールドワークを学問の中心においたウメサオタダオの方法論である。
知らないからこそ、知りたいのである。
知りたいというのは人間の本能である。
子どものような好奇心をもって観察する。これが学問の原点なのである。
19世紀アメリカの生物学者ルイ・アガシーの Study nature, not books ! に匹敵する名言だとわたしは考えている。まずは知的好奇心となる対象が自分のなかで生まれ、それを観察し、考察を深めるために本を読むのである。
本の知識で語るのは本末転倒なのである。まずは
一次情報を最重要に位置づけなくてはならないのだ。
つぎに文庫版から同じ箇所の引用を行っておこう。
文庫版は、1990年の『梅棹忠夫著作集 第7巻』を底本としている。30年後のバージョンでは、さらに漢字が減っていることに気がつくはずだ。
なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている。わたしはいままで、日本のそとをあるく機会が多かった。そこで、いつもこういう勉強の仕かたをしてきた。
小学生でも読める文章になっていると思うが、漢字を極限まで減らしたこの文章は、みずからもその一役を担った事務合理化の流れのなかで登場したワープロの発明が、日本語文章に不要な漢字を増やしてしまったことへのアンチテーゼではないだろうか。
日本語論については別にブログ記事として書いているので、そちらを参照していただきたいが、1990年段階のつぎは、ローマ字化を想定していたと考えられる。
(企画展「ウメサオタダオ展にて筆者撮影)
企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)では、会場にこの名言が展示されていたのは当然といえば当然だろう。
この方法論は、「1957年の第一次東南アジア探検から1961年の第二次東南アジア探検までの数年間」に行われた
『東南アジア紀行 上下』(梅棹忠夫、中公文庫、1979 単行本初版 1964) では、「移動図書館」として実践されている。現在なら、気になったらすぐにスマホで検索し、さらに詳しく知るために本を読むという方法論になるだろう。
問題意識の深め方として、これほどすぐれた方法論はない。
梅棹忠夫自身は、文庫版に収録されている「『日本探検』始末記」で、
「主著となっていたはずの本」だと、振り返っている。
出版当時は、書評では好意的に取り上げられたのにかかわらず重版がかからなかったままだったらしい。現在でも「良書」にはよくありがちなことだが、1960年当時もそうであったわけだ。
文庫化されることなく、
単行本未収録の4本を「続編」として出版する計画も、
Tradition & Modernity in Japanese Civilization というタイトルでオックスフォード大学出版局から英訳版を出す計画も頓挫(とんざ)している。そのための定本となる日本語合本版もも実現することなく終わったという。
もしこの『増補改訂 日本探検』と英訳版が出版されていたら、この『日本探検』の仕事は、わたしの著作のなかでも主著のひとつとなったであろう。(『日本探検記』始末記 より)
梅棹忠夫には、実現しなかった「未刊行」の企画が多いことに気がつかされる。みずからの遅筆のせいだとしているが、まことにもって残念なことである。
たとえば、
『世界の歴史 25 人類の未来』 (河出書房、未刊) がその最たるものだが、企画をつめてメモもつくりながら結局は書けずじまいになってしまった。この本は、
『梅棹忠夫の「人類の未来」-暗黒の彼方の光明-』(梅棹忠夫、小長谷有紀=編、勉誠出版、2012) として没後に編集されて刊行されている。
本書に関連した主題で、
1962年に創刊された中公新書から『日本群島』というタイトルで出版される予定があったが、これも企画倒れに終わっていると本人が述懐している。じつに残念なことだ。
ちなみに
中公新書の創刊時に出版されてベストセラーとなり現在でも読み継がれているロングセラーとなったのが、おなじく京都学派の歴史学者・会田雄次の『アーロン収容所』である。
■
『日本探検』はフィールドワークによる「日本文明論」構築の軌跡
『日本探検』と銘打って「中央公論」で連載されたタイトルは以下の7つである。
① 「福山-殿様と学校」
② 「綾部・亀岡-大本教と世界連邦」
③ 「北海道独立論-根釧原野」
④ 「高崎山」
⑤ 「事務革命」
⑥ 「名神道路」
⑦ 「出雲大社」
なんだかバラバラなテーマがならんでいるようにみえるが、これは
著者自身の知的好奇心を最優先にされたためである。
単行本の「あとがき」には以下にようにある。
とりあげた主題は、一見それぞれまるでバラバラである。しかし、わたしとしては一貫して、現代日本の文明史的課題を追求しつづけているつもりである。説きつくされた日本の歴史も、比較文明論の立場から見れば、またいくらかは新しい見方もでてくるであろう。未来のことをいうならば、人類史の未来に日本文明は何を寄与しうるか、あるいはまた、日本文明における新しい可能性は何か、というのがわたしのほんとうの主題である。(*太字ゴチックは引用者=さとう)
日本近代化と日本文明の関係という一貫した大きなテーマを、
個々の具体的な小さなテーマを深掘りすることによって解明しようという、ある種のケーススタディ作成を想定していたのではないだろうか。
その意味では、せっかくの文庫版刊行であったが、
きわめて残念なことに、⑤ 「事務革命」が収録されていない。
「日本探検 事務革命」を収録しなかったのは編集方針としては大きな誤りであったと言わざるを得ない。
たしかに、梅棹忠夫自身が書いているように、
「事務革命」は「日本語論」に近いので『著作集』では「日本語論」として自身の判断によって日本語論の巻に収録している。
「事務革命」は、『著作集』のほか、単行本としては『日本語と事務革命』(くもん選書、1988)に収録されている。内容的には、『知的生産の方法』にも重なるものである。
だが、
「事務革命」は大阪本町のビジネス街の「探検」記であり、
聞き取りを中心にしたフィールドワークの記録であることに変わりはない。
もちろん個々の論考はケーススタディであるのでバラして読んでも差し支えはないが、なぜこのようなテーマを選択したのかという著者自身の当初の問題意識を探るうえでは大きな問題なのだ。
さらに、
「日本探検」には着手されながら活字化されなかった「日本探検⑧ 近江菅浦」がある。梅棹家の発祥の地である琵琶湖畔の近江菅浦の「探検」記である。
「初公開・草稿」として、 『梅棹忠夫-地球時代の知の巨人-(KAWADE夢ムック 文藝別冊)』(河出書房新社、2011)に収録されている。
文庫版に収録された「「日本探検」始末記」によれば、さらに
「日本探検⑨」として「陶」(すえ)が予定され、現地探訪も文献調査も行っていたとある。岐阜県の洋陶の発祥の地を取り上げたこの論考が書かれていれば、「近江菅浦」とともに、人類学的手法による近代日本経営史のよいケーススタディとなったのではないかと惜しまれる。
(「日本探検」はいまだバラバラのまま一冊になっていない!)
梅棹忠夫の意志に反してでも、『著作集』を再度バラして編集担当者がコメントをつける形で再編集し、オリジナルを復元すべきであったとわたしは思う。かならずだれかに実現してほしいので、豪腕の編集者が現れることを期待したい。
文庫版には単行本には掲載されていた写真がいっさいないのが残念だ。権利処理が面倒だから省いてしまったのもしれないが、これまたじつに残念なことだ。そのかわりとして、単行本のカバー袖にある著者近影をアップしておこう。
(出版当時40歳の著者 単行本カバー袖より)
■
文庫版に収録された「日本探検」について
文庫版に収録された「日本探検」の諸編について簡単にコメントを記しておこう。
① 「福山誠之館」(ふくやませいしかん)は、江戸時代の福山藩の藩校である。現在の広島県福山市である。
福山誠之館については、福山出身ではないわたしはまったく知らなかった。福山出身の友人知人もいるが、その名を聞いたこともない。あるいは聞いても忘れてしまったのかもしれない。
藩校という「封建時代」の発明品が、「近代と前近代」「伝統と近代」「中央と地方」「集中と分散」といった、いっけん二項対立的にみえるものをつなぐ存在であることが明らかにされる。
日本近代が突然変異的に発生したものではなく、
日本文明には封建制が存在したがゆえに近代化が可能であったという逆説的な事実を、1960年という時点で示したことの意味について意識すべきだろう。
すでに近代が終わっている現在からみればあたりまえと見えることも、唯物史観が猛威を振るっていた1960年当時の「近代」においては、じつに勇気のいる発言であった。ある意味では蛮勇をふるった発言でもあったのである。狭義の歴史学者ではないからこそ可能であったかもしれない。
② 「大本教」は、近代日本で徹底的に弾圧された神道系の新宗教である。
大本教は、京都府の亀岡と綾部に本部があり、ともに京都が始発の山陰本線の途中にある。
個人的な話だが、綾部はわたしの生まれ故郷の舞鶴からも近い。京都始発の列車は綾部駅でスイッチバックして舞鶴線に入る。現在では亀岡はすっかり京都の通勤圏となっている。
大本教を取り上げたのは、梅棹忠夫が京都のエスペランティストであったことが根本にある。戦前から大本教はエスペラントの熱心な推進者であったからだ。
世界平和、人類愛、エスペラント、心霊主義といった広範なテーマを有する大本教の名誉回復を行った文章にもなっている。戦前のモンゴル調査で出会った紅卍会(こうまんじかい)や戦後のベトナム調査で訪れたカオダイ教などの話題もでてくるこの論考は、
日本文明の世界への発信という点でも興味深い。
『美意識と神さま』(中公文庫、1985)にも大本教関連として、戦前の国家神道のもとにおける大本教弾圧事件をモデルにした長編小説高橋和巳の『邪宗門』の書評が収録されている。
日本近代を国家の中枢から推進した国家神道とは対立関係にあった大本教を取り上げたことは、日本文明の二元的構造を示した好例といえるかもしれない。
③ 「北海道独立論」は、大東亜戦争の敗戦後、
樺太(サハリン)という辺境を失った日本列島において、あらたに辺境(フロンティア)となった北海道を取り上げたものだ。
とりあげられた根室と釧路に拡がる根釧平原は、
アメリカやデンマークの影響を受けた近代農業を全面的に展開した、まさに「近代」そのものといえるような地域である。
内地ではすべてが実現できなかった「近代化」の実験地であったともいえる。
だが、一方では
先住民のほかに、近代以前から内地からの流れ者が定住を行ってきたことも事実であり、
漁業関係者や商工業者は、エリートによる近代化とは異質の存在である。内地からの定住者は近代以降も増加し、その意味では北海道も内地化しているわけである。
「北海道独立」の実現性についての考察が行われているが、なぜか沖縄への言及がまったくない。
北海道と沖縄は日本文明における位置づけが異なる点は共通しているが、日本近代における位置づけはそれぞれ異なるものであった。沖縄への言及がないのは、当時の沖縄は米軍の軍政下にあったためでもあろうか。
2014年には英国からのスコットランドの分離独立に向けての国民投票が大きなイシューとなったが、北海道の場合も
独立よりも連邦制のなかでの自治権強化の方向が現実的というべきだろう。あるいは
「道州制」(大前研一)の議論につなげて考えることも面白い。
梅棹忠夫が鋭くも指摘しているように、分離独立は経済基盤の確保がカギとなることは言うまでもない。
④ 「高崎山」は、日本のサル学を世界最高水準のものとした伊谷純一郎の名著『高崎山のサル』(1954年)で知られている高崎山のことである。『高崎山のサル』は、講談社学術文庫から2010年に再刊されている。
高崎山というと日本のサル学の聖地という印象がつよいが、もともとは自治体の首長の発想で開発された自然環境を観光資源化したサル山なのである。現在なら下北半島の「スノーモンキー」が世界的に有名だが、当時の日本国内では高崎山が先駆者としてもっとも有名であった。
サル学は日本独自の「土着科学」である。それは研究対象となるニホンザルが日本国内というフィールドに存在するだけでなく、日本人の自然観が無意識のうちに大いに反映した科学だからでもある。
日本文明におけるサルの位置づけは、キリスト教世界とは異なり、親近感に満ちたものである。人間のつぎにサルがあるという自然序列観は日本人には不思議でもなんでもない。「河童駒引」や柳田國男の『孤猿随筆』などへの言及もあるが、サル学はナチュラル・ヒストリーの復権という意味合いもあることを梅棹忠夫は記している。
個体識別という方法論が、日本のサル学を世界的なものとした。
餌付けによってサルとの関係を構築し、一匹一匹ごとに識別してサル社会の生態を明らかにしたのである。
日本のサル学の成果は、すでに日本では「一般常識」として共有された財産になっている。日本以外ではかならずしもそうではないだろう。
『高崎山のサル』(伊谷純一郎)はわたしも高校時代か大学時代かに読んだが、あわせて読んでおきたい名著である。とくにサルがイモを海水で洗って塩味つきで食べる「文化」が群れ全体に伝播し、その「文化」が世代を超えて継承されていく姿は、ドーキンズの「ミーム」(=文化遺伝子)論を先行しているというべきだろう。
⑤ 「事務革命」は、講談社学術文庫版には収録されなかったが、内容について説明しておこう。
日本語の近代についての論考である。
近代ビジネスと日本語の表記方法との戦いの歴史が、事務革命というイノベーション生み出した源泉となった。
「日本探検-事務革命」には、総合商社伊藤忠の伊藤忠兵衛が登場する。 若き日に欧米を体験して、ローマ字による事務処理が日本語の漢字かなまじり文の事務処理とは、段違いに効率的であることを痛感していた伊藤忠兵衛は、熱心なカナモジ論者となり、社内でもカナモジ化をみずから推進したのであった。 梅棹忠夫は、この二代目伊藤忠兵衛(1886~1973)を隠居先に訪問してくわしく話を聞き取っている。
『知的生産の方法』ではなぜか黙殺されてきた第7章「ペンからタイプライターへ」にぐっと接近した内容である。 もしわたしが 『実業家の思想』 というアンソロジー集を編集することがあれば、実業家自身が書いた文章ではないが、ぜひ入れたい一編である。
日本文明における日本語の表記法というテーマは、梅棹忠夫においてはカナ文字論やローマ字論として展開されているが、英語全盛時代のなかで日本文明が生き残るための課題として、もっと論じられてよいテーマである。
(くもん選書から出版された「日本語三部作」)
⑥ 「名神高速道路」は、
モータリゼーションという「近代化」について、道の文明史の視点で書かれたものだ。
もし「日本探検」がつづけて執筆されていれば、1964年の東京オリンピック開催にあわせて開業した「東海道新幹線」について書かれていたかもしれないと考えてみるのも面白い。
だが、
京都中心主義者の梅棹忠夫にとっては、東京を中心にして関西を結んだ東海道新幹線よりも、
京都を始点にした国道一号線のバイパスとして建設された名神高速道路のほうが意味があったのかもしれない。
自動車は馬車の延長線上にある発想であるが、
ウマが存在しながら馬車が生まれなかった日本文明においては高速道路という発想も生まれてこなかった。
日本にはひとが歩く歩道の発想は生まれても、クルマが走る道路という発想が脆弱なことが、現在にいたるまで尾を引いているような気もする。
この論考で展開されている
「建設の論理」と「存在の論理」という二項対立も興味深い。
「建設の原理=未来志向=近代化」とすれば、「存在の論理=現在と過去=伝統」、と整理できるが、近代がすでに終わっている現在、ますます「存在の論理」がふたたび前面にでてきていることは当然といえば当然だろう。
国土の制約性の強い日本における日本文明と、
広大な未開拓地をもつアメリカのアメリカ文明の根本的に異なる点である。この点、ヨーロッパも日本と近い。
⑦ 「出雲大社」は、
『日本探検』のなかでは「大本教」と対(つい)になるものであろう。
京都人の梅棹忠夫にとっては、出雲は意外と心理的に近いものを感じていたのではないだろうかという解説者・原武史氏の指摘にはうなづくものがある。山陰本線の夜行特急「出雲」が、京都が始発であったことを想起すればよい。
「日本文明の二元構造」についての指摘が重要だ。幕藩体制における天皇と将軍、中央と地方、東京と京都、国家神道と大本教、そして伊勢と出雲。
同じ関西でも京都や奈良の神社をとりあげず、
冥界の主となったオオクニヌシを主神とする出雲大社を取り上げたことに大きな意味を感じる。
縁むすびの神さまとして有名な出雲大社だが、根本にあるのは稲作と密接な関係をもつ農業神であって、
縁むすびは神学とは無縁の一般庶民の信仰である。
時代が変われば、神信仰のあり方も変わる。この論考は家族制度についてのテーマでもあり、風俗史でもあり、庶民信仰の話でもある。
多彩なテーマを出雲大社という軸で描いている点に梅棹忠夫ならではのものがあるといっていいだろう。
『美意識と神さま』(梅棹忠夫、中公文庫、1985)に「家庭における神と芸術」という一章があるが、収録された文章のタイトルをみれば、この「出雲大社」と問題関心のありかた重なっていることがわかるだろう。
「神々のまきかえし作戦の成功と失敗」
[追記] 神前結婚の起源
神さまの格づけと小型電気洗濯機について
工業的大量生産と神々の復活
[追記] 産業化社会のアニミズム
機能的デザインと洗濯ものの美学
三種の神器と嗅覚的芸術
「近代化」は完成し、すでに「近代」の終わっている日本であるが、日本文明は今後どのように展開し、世界に貢献できるのか、本書を読みながら考えてみたいものだ。
(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
ケン・マネジメントのウェブサイトは
ご意見・ご感想・ご質問は ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。
禁無断転載!
end