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2022年2月15日火曜日

Eテレの「100分de名著」で『日蓮の手紙』(植木雅俊)が放送(2022年2月)-手紙をつうじて知る日蓮の素顔

 
Eテレの「100分de名著」で『日蓮の手紙』が放送されていると知って、まずはテキストを入手して通読してみた。 副題には「筆に込められた仏心」「苦しみを分かち合い 生きる智慧を伝える」とある。

「内容紹介」は以下のようになっている。

時に激しく、時に優しく。多彩な手紙から浮かび上がる日蓮の素顔とは
数々の迫害に耐えつつ、「法華経の行者」としての生涯を貫いた日蓮。他宗や幕府を盛んに批判したため、激烈なイメージが付きまとうが、信徒たちに送った手紙には、家族を失った人の悲しみに寄り添う深い思いやりや、病と闘う人への励まし、人間関係や職場でトラブルに直面したときの対処法など、人間味あふれる実像がにじみ出ている。また、女性信徒の悩みに答える手紙も多く、月経を不浄なものと見なす価値観に異を唱えたり、女人成仏についての思想を語るなど、当時としてはたいへん先進的な女性観も披露している。相手の立場や性格を考慮しながら具体的に書き分けられた多様な手紙を手がかりに、日蓮の生涯と信念を読み解く。


在家仏教を推奨する『維摩経』と『法華経』のサンスクリット原文からの現代語訳を完成させた植木雅俊氏が講師。通読していて「なるほど!」と納得する箇所が何度もあった。 

「いま、ここ」を重視する法華経! 房総半島の太平洋岸で生まれ育った「海洋民族」的な日蓮! 戦闘的な姿勢が目立つ日蓮だが、信徒とその家族には情愛深い態度!

わたしのように、日頃から日蓮にも法華経にも慣れ親しんでない人間には、大いなる気づきを与えてくれる内容だ。 

これはぜひ放送を実際に視聴して、故中村元先生の在野の直弟子である植木先生の肉声を聞かねばと思った。 

第1回目の放送を聞き逃しているので今回の2回目がはじめて(全4回)。第2回の放送は、雪の降らない北京で人工雪で実施されている、いわくつきの「北京オリンピック冬期大会2022」の関係で30分遅れだった(ちょっとムッと怒り)。

実際に視聴してみての感想は、さすが理系出身の仏教研究者だけあって、現代の維摩居士・植木先生の語りはきわめて理知的で、大いに満足するものだった。

それにしても、いわゆる「鎌倉新仏教」の祖師たちのなかでも、日蓮の61歳という生涯はじつに短い。内柔外剛ともいうべき人だったのだろうか、「4度の法難」を体験して「法華経の行者」として闘い抜いた人生は、日蓮のカラダをボロボロにしたのであろう。




目 次
はじめに 行間からにじみ出る人間味
第1回 人間・日蓮の実像
第2回 厳しい現実を生き抜く
第3回 女性たちの心に寄り添う
第4回 病や死と向き合う


講師(=著者)プロフィール
植木雅俊(うえき・まさとし)
仏教思想研究家・作家。1951年長崎県島原市生まれ。九州大学理学部物理学科卒、同大学院理学研究科修士課程修了。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程中退。1991年から東方学院で中村元氏に師事し、2002年に文系ではお茶の水女子大学で男性初の博士(人文科学)の学位を取得
著書に『法華経とは何かその思想と背景』(中公新書)、『差別の超克原始仏教と法華経の人間観』(講談社学術文庫)、『テーリー・ガーター 尼僧たちのいのちの讃歌』(角川選書)、『梵文『法華経』翻訳語彙典』(全2巻、法藏館)、『法華経 誰でもブッダになれる』(NHK「100分de名著」ブックス)など。訳書に『日蓮の手紙』(角川ソフィア文庫)『梵漢和対照・現代語訳法華経』(上下巻、毎日出版文化賞受賞)、『梵漢和対照・現代語訳維摩経』(パピルス賞受賞、いずれも岩波書店)、『サンスクリット版全訳維摩経口語現代語訳』(角川ソフィア文庫)など。小説に『サーカスの少女』(コボル)。(NHKのサイトより)
 



<関連サイト>

・・2022年2月16日は奇しくも「日蓮生誕800年」とのこと。

(2022年2月16日 項目新設)


<ブログ内関連記事>



・・晩年を日蓮研究に専心した上原専禄

・・下総は日蓮信仰の土地

・・三里塚供養塔である。正式には日本山妙法寺・成田平和佛舎利塔


・・「著者は、日本で「反・知性主義」を体現している人物としては、歴史上の人物としては親鸞や日蓮などの仏教者、政治家としては田中角栄などをあげている。」


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2015年1月21日水曜日

ここにも伊東忠太設計のインド風建築物がある ― 25年ぶりに中山法華経寺を参詣(2015年1月20日)

(中山法華経寺にある聖教殿 筆者撮影)


伊東忠太設計のインド風建造物が中山法華経寺にもある。「聖教殿」(しょうきょうでん)という名の建築物だ。

中山法華経寺は、千葉県市川市の中山にある日蓮宗の寺院。創建は鎌倉時代にもさかのぼることのできる由緒ある寺院である。日蓮を迫害から保護した領主が建立した寺で、その関係から時の鎌倉幕府に来るべき蒙古襲来をし警告した『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)など、日蓮遺文(・・日蓮の直筆原稿も多くこの寺に保存されているらしい。

その貴重な直筆原稿を収めた「正教殿」(しょうきょうでん)が、伊東忠太設計の建築物である。平成11年(1999年)に設置された説明書きによれば、「盗難、火災、虫害、湿気の害等を長きに亘って受けないよう、近代科学教えるところを取り入れた保存方法を講じて」いるのだという。

「聖教殿」は、1931年(昭和6年)の建設である。伊東忠太(1867~1954)は当時、東京帝国大学工学部教授で建築家でもあった。代表作は、築地本願寺東京商科大学(・・現在の一橋大学)の兼松講堂などである。

築地本願寺は、その名のとおり浄土真宗のお寺だが、インド風の外観をもつ石造の建築物である。いわゆるお寺という感じのない、エキゾチックな建築物だ。西域探検を主導した大谷光瑞が施主であったためでもある。


(聖教殿を守る二匹の西域ライオン)


ストゥーパの形をした中山法華経寺の「正教殿」もまたインド風の建築物である。伊東忠太というとインド風という連想があるが、おそらく発注者の側もそれを期待していたのだろう。そもそも日蓮宗が奉じる法華経は大乗仏教のなかではもっともインドとの関連が深い。インドで布教している日本山妙法寺も日蓮宗の系統である。その意味では、しかるべき場所に、しかるべき建築物があるというべきか。

今週のことだが市川市中山に用事があったので、ついでに中山法華経寺に参詣した。じつに25年ぶりである。留学で渡米する前の1990年に、身近にある日本的なるものをいろいろ見ておこうと思って初参詣して以来である。

その初参詣の際に境内をくまなく歩き回り、そこではじめて「正教殿」と遭遇したのであった。説明書きで伊東忠太の設計ということを知って、記憶に刻み込まれたのである。一橋大学出身のわたしにとって、兼松講堂の設計者・伊東忠太の名前は親しみを感じていたからだ。

だが25年ぶりに再訪してみて、意外と大きな建築物だったのだなと、少し驚いた。


(正教殿を飾る動物たち-左にゾウ、右にヒツジ)

25年ぶりにあらためてじっくり見てわかったのは、外観がインド風であるだけでなく、さまざまな動物が配置されていることだ。

狛犬ならぬライオン(=阿吽の二頭の獅子)が守護しているだけでなく、さまざまな動物が装飾として配置されている。狛犬は中近東のライオン(=獅子)が変容したものであり、ビルマ式仏教寺院では二頭のライオンが配置されている。

内部には入れないので正面からしか見ることができないが、右側面にはゾウとヒツジが配置されていることがわかる。仏教にも縁の深いゾウもさることながら、ヒツジがあるのは面白い。建築史の研究のためにユーラシア大陸を踏破した伊東忠太ならではの発想か? ことし2015年がヒツジ年なのでわたしの目についたのかもしれない。

ちなみに、法隆寺の円柱と古代ギリシアの神殿の石柱の類似性をはじめて指摘したのは伊東忠太であった。



中山法華経寺は「世界三大荒行」の一つの修行道場

今回の訪問は寒中の1月半ば。正教殿のとなりの荒行堂から大音声の読経の声と、バシャっと水をかぶる音が聞こえてくる。「世界三大荒行」の一つとされる「寒百日大荒行」が、いまままさに進行中なのだ。

11月1日から2月10日まで100日間にわたって行われるこの荒行は、中山法華経寺がその根本修行道場となっている。全国から日蓮宗の僧侶がこの荒行に参加するために集まってきている。

日蓮宗の僧侶は、「法華経の行者」ともいわれるように、信者である一般民衆の期待に応えるべく、祈祷師あるいは霊能者としての役割も期待されている。100日に及ぶ荒行(あらぎょう)は、修行者たちを極限状態に追い込んで、祈祷師としての能力を高めることも目的の一つとしているのだ。

法華経に登場する「鬼子母神」(きしもじん)の信仰は、日蓮宗のなかにビルトインされた民間信仰であるが、これは仏教というよりも限りなくシャマニズム的である。そしてなによりも、南無妙法蓮華経というお題目がマントラ(呪文)そのものなのである。

このほか境内には大黒天を祭ったお堂や宇賀神(うがじん)を祭ったお堂もある。庶民信仰そのものの神仏習合的な要素を現在まで遺しているといえよう。




(中山法華経寺の参道は門前町の風情)


中山法華経寺は、「正中山本妙法華経寺」(しょうちゅうざん・ほんみょう・ほけきょうじ)として『江戸名所図絵』にも登場している。

船橋街道の左側にあり。(この地を中山村といふ。)日蓮大士最初転法輪の道場にして、一本寺なり。開山は日常上人、中興は日祐尊師たり。(『鎌倉大草紙』に云ふ、・・(後略)・・)(出典:『江戸名所図絵 六』(角川文庫、1968))

『江戸名所図絵』は、江戸時代末期のトラベルガイドともいうべき本で、江戸だけでなく市川から船橋あたりまでカバーしている。この本に取り上げられているということは、庶民にとってはそれなりの観光スポットであったことも意味しているのであろう。とくに鬼子母神信仰は、江戸では入谷や雑司ヶ谷が有名だが、中山法華経寺もそれなりに有名だったようだ。


(JR下総中山駅からつづく参道を京成中山駅を経て正門へ)


中山法華経寺の周辺には寺院が集中している寺町になっている(上図)。JR下総中山駅からつづく参道は京成中山駅を経て正門へ至っている。クルマも通行する石畳の参道は門前町としての風情もある。

建築好きであるなら、伊東忠太設計のインド風建造物である「聖教殿」を見るためだけのために中山法華経寺に足を運んでみる意味はある。「聖教殿」境内の奥まった位置にあって訪れる人も少ないが、そこまで足を伸ばす価値はある。


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「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」(若松英輔氏)」を聴いてきた(2013年7月11日)
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・・ザクロは西では制母子像に、東では鬼子母神として展開

市川文学散歩 ②-真間手児奈(ままのてこな)ゆかりのを歩く
・・文化都市・市川には万葉集の時代にまでさかのぼることのできる文化財が多い

(2017年7月31日、9月20日 情報追加)


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2013年7月11日木曜日

「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」(若松英輔氏)」を聴いてきた(2013年7月11日)

(書斎における上原専禄 Wikipediaより)


「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」に参加してきた。講演会の概要は以下のとおりである。

演題:「如水会講演会 元一橋大学学長「上原専禄先生の死生観」
講師:若松英輔氏(文芸評論家・シナジー・カンパニー・ジャパン代表)
日時:2013年7月11日(木)13時~14時半
場所:如水会館 3階 「桜の間」

如水会とは一橋大学の同窓会で、日本資本主義の父である渋澤栄一の命名になるもの。この講演会は如水会員むけに如水会が企画したもので、会場は東京神田一ツ橋の如水会館である。

講演会の開催が平日の13時から14時半までという時間帯のためでもあるだろう、参加されていた方の大半はすでに第一線をリタイアされた東京商大およびその後身である一橋大学の卒業生で、しかも上原専禄ゼミナール出身の方が多かったようだ。

この講演会については、阿部謹也ゼミの同期から教えてもらって開催を知った。この時間帯では、比較的時間の自由がきくひとでなければ参加はむずかしいだろう。

『自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也)というロングセラーの名著を読んだひとならご存知だろうが、歴史学者の阿部謹也は上原専禄ゼミの出身である。

『自分のなかに歴史をよむ』で紹介されている「それをやらなければ生きてゆけないと思われるようなテーマ」、「わかるとは変わること」などの名言によって、現在でもかろうじて上原専禄という名前が知られているに過ぎないかもしれない。

上原専禄(1899~1975)が一橋大学の学長であったのは、敗戦後の1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけてのことである。当時は、戦時中に改称された東京産業大学であり、学長在籍中の1947年にふたたび東京商科大学に名称が戻り、1949年には一橋大学と名称変更があり現在に至っている。

ご年配の方であれば、上原専禄といえば日教組という連想をおもちかもしれない。戦後日本で「平和運動」の担い手の知識人の一人であったので、どうしてもその印象がつよいのだろう。

だが、配偶者を医療過誤によって亡くされたことがキッカケになって、学長退任後も在籍していた一橋大学を定年前に退官し、いっさいの公職から身を引いて世間から姿を消し、京都に娘さんと隠棲して「共闘」していたことを知る人は少ない。しかも、その死が明らかになったのは死後3年8カ月もたってからのことだった。

愛妻の死が西洋史の研究者として生きてきた歴史家・上原専禄の思想を180度変えたのである。そして、近代が終わったいまの日本で必要なのは、晩年の上原専禄の思想なのである。

ここからが、今回の講演会のテーマ 「上原専禄先生の死生観」ということになる。

講演者の若松英輔氏(1968年生まれ)は文芸評論家で、薬草を扱うシナジー・カンパニー・ジャパンの代表取締役として経営者でもある。このブログでもすでに取り上げた 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)の著者でもある。

若松氏は、上原専禄の晩年の著書である『死者・生者-日蓮認識への発想と視点-』(未来社,1970)を世紀を超えて生き続ける書としたうえで、インタビューをもとにした 「過ぎ行かぬ時間」という文章にこそ、上原専禄のすべてがそこに表現されているという。わたしもまったく同感だ。

講演内容はいずれ活字になるだろう。ここではそのかわりに、すでに活字になっている若松氏が書かれた上原専禄とのかかわりについて文章を引用させていただくことにしたい。


若松英輔さんエッセイ 「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」

『死者・生者-日蓮認識への発想と視点』(未来社)を初めて手にしたのは、たしか20歳のころだったと思う。場所ははっきり覚えている。当時、早稲田の穴八幡神社で行われていた古書市だった。価格は500円。金額まで覚えているのは買うかどうかを迷ったことも覚えているからである。阿部謹也の本で名前を知っただけで、上原がどんな人物かの知識はまったくなく、この本が私にもたらす出来事など、まったく知る由もなかった。

 この本こそ、近代日本における死者論の古典である。あるとき上原は妻利子(としこ)を病で喪う。このとき彼は、自身が経験したのは愛妻の死ではなく、新生した一個の死者との遭遇だったと書いた。上原は妻の死という個の出来事を徹底して深化させる。上原専禄は現代を代表する西洋史の研究者であり、狭義の意味における「宗教」に依存しない日蓮の衣鉢をつぐ信仰者でもあった。学問と信仰が真実の意味で彼の中で結合したのは、妻の死後である以後、彼の生は、「生ける死者」である妻利子との「共存し共生し共闘する」日々となった。彼はそれまでの学業を根源から問い直し、未開の形而上的世界を開示しようとした。しかし、彼もまた、道なかばにして病に倒れた。その道程は著作集の編纂というかたちをとって、娘上原弘江によって継承される。ここに並んでいるのは、私が手にした初版に丁寧な校訂を加え、新生した『死者・生者』(上原専禄著作集 16巻)である。

 それぞれの書架には「一等地」がある。もっとも強く惹かれる本あるいは、衝撃を受けた本などが自ずとそこに集まってくる。『死者・生者』は、いつもその場所にあった。だが、他の本と違ったのは、通読されないにもかかわらず、いつもその位置を占め続けたことである。ページを開かずとも、すでに「影響」される本がある。何か奇妙に聞こえるかもしれないが、ほかに表現しえない強いつながりを感じさせる書物が確かに存在する。私にとって上原専禄の『死者・生者』はそうした一冊だった。

 何度ページをめくったかわからない。そのたびごとに書物と向き合う準備ができていないことを知らされ、ある抵抗を感じてきた。この本とじっくりと対峙したのは、別離を経験し、私にとっての「死者」を身近に感じるようになってからである。それまで幾度となく、接近を拒みつづけてきた一巻だったが、このときは違った。そこに刻まれた言葉は悲しみとは何であるかを経験しなくてはならかなった私を温かく包んでくれた。死は存在しない。存在するのは死者だけである、そうした素直な告白が、絶望の淵にあった私を救ってくれたのだった。

(出典:【じんぶんや第81講】若松英輔選「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」
http://www.kinokuniya.co.jp/contents/pc/20120623100032.html )


妻の死が「過ぎ行かぬ時間」として感じられるようになった歴史家に、劇的な認識の転換が訪れたのである。その認識をコトバにして語ったのが「過ぎ行かぬ時間」(1970)というインタビュー記録である。


(筆者蔵の 「過ぎ行かぬ時間」 右は上原専禄の肖像写真)


若松氏もまた妻の死という「個的な経験」によって、おなじく妻の死という「個的な経験」を出発点にした『死者・生者』に再会し、邂逅したのだという。

「個的な経験」がすべての出発点である。これは社会科学としての歴史学もそのひとつであるとされてきた、客観性を重視した科学とは異なるアプローチかもしれない。だが、化学者で哲学者でもあったマイケル・ポラニーも「個人知」(personal knowledge)の重要性について指摘していることは明記しておいたほうがいいかもしれない。

若松氏は現在執筆中という『イエス伝』を引き合いにだされながら、パウロの回心もまた「個的な経験」であったこと、その「個的な経験」を出発点としてキリスト教が無数の人々に受け入れられていった事実に言及する。

そして、上原専禄にとっての日蓮は、パウロにとってのキリストではなかったか、と。

上原専禄という「生者」にとっての亡妻・利子(としこ)という「死者」は、「共存・共生・共闘」の関係であった。「生者」から「死者」へのコミュニケーションとして始まった回向(えこう)は、時を過ぎゆくうちに「死者」から「生者」への回向となる。

呼びかけに対する応答、この関係を「対話」というのであれば、まさに「生者」から「死者」、そして「死者」から「生者」への呼びかけに対する応答が「対話」として成り立つのである。

いま生きている「生者」だけを問題にするのではなく、「死者」もまたともにあるものとして考え、感じ、そしてともに「生きる」こと。

若松氏は、水俣について書かれた石牟礼道子の名著 『苦海浄土』が1969年に出版されたことに講演で注意を促していた。 『苦海浄土』もまた死者たちの声なき声をすくいあげて結晶させた文学作品である。

既存の宗教団体ではすくいとられることのない「死者」たちの声。「死者」たちとのコミュニケーション回路をどう開くか、その問題意識において、石牟礼道子と上原専禄に通じ合うものがあったもではないか。

個的な信念と学問研究上の見解が一致すべきこと。言行一致といっていいかもしれないが、これが日本人にはなかなかできないのは、阿部謹也先生がいうように学問が「世間」のなかで行われているためだろうか。

この講演会では、もっぱら上原専禄晩年の思想について語られたものであり、上原専禄の全体像について語られたわけではない。そのため、一部のみ取り上げたという批判はあるかもしれないが、現在に生きるわれわれにとって大きな意味をもつのは晩年の思想であるという点は若松氏には同感する。

この講演会の内容はいずれ活字化されるだろうが、ここに記したのはあくまでもわたしという個人のフィルターを通した受け取り方であり「個的な経験」にもとづくものだ。誤解や誤読はご容赦いただきたい。



わたしにとって上原専禄はその声も聴いたことのない存在ではあるが・・・

若松英輔氏のひそみにならえば、わたしが 『死者・生者』を初めてにしたのは18歳のときであった。一橋大学図書館の小平分館(当時)二階の開架式スペースであったその本は白い表紙のやや大型の造本であった。

上原専禄の名前は、前期課程で講義をとっていたビザンツ史の渡辺金一教授(1924~2011)の授業で知った。おなじ図書館には上原専禄の処女作である『独逸中世史研究』(1942年)が何冊も入っていた。はじめて西洋史を原資料に基づいて研究した記念碑的著作であるが、戦前の古風な文体で、しかも難解な論文ばかりなのでとっつきにくいものだったことを覚えている。

だから、なぜ西洋中世史の研究者が日蓮なのか? 西洋史と日蓮がなかなか結びつかなかったのが正直なところだ。

そもそも日蓮関連の家に生まれたわけではないわたしにとって、日蓮はひじょうにとっつきにくい存在であったし、正直なところ現在でもそうである。

中学時代に、蒙古襲来を予言した日蓮の『立正安国論』の存在を知り、驚きとともに多大な関心をもったのだがそれ以上は踏み込みたいとは思わないまま現在にいたっている。上原専禄の最晩年のライフワークが日蓮上人を世界史に位置づけるという壮大なテーマ『日蓮とその時代』であったが、その死によって未完成に終わったのは残念なことだ。

もうずいぶん以前、すくなくとも20数年以上前のことだが、あるとき神田神保町の古書店で上原専禄最後の著書である 『クレタの壺-世界史像形成への試読』(創元社、1974)を入手し、「五 本を読む・切手を読む」と題された読書歴をつうじた自伝を読んで、上原専禄における日蓮の意味を知ることができた。上原専禄は10歳の頃から養父のもとで『法華経』を読み込んできた人なのだ。




そしていつどこで入手したのか記憶がないのだが、『人文科学への道 著者に聞くⅡ』(未来社編集部編、未来社、1972)に収録されていた上原専禄のインタビュー記録 「過ぎゆかぬ時間」は、いったい何度くりかえし読んできたことか。

わたしもこの 「過ぎゆかぬ時間」を繰り返し読み込むことが、上原専禄の晩年の思想を読み解くうえでもっとも重要だという若松氏の考えに賛同する。

そんな読書体験をつうじて、わたしにとってもまた上原専禄はその肉声も聴いたことのない「死者」という存在ではあるが、けっして遠い人ではないと思ってきた。

塩野七生の評伝によれば、マキャヴェッリは深夜に書物のなかの古人、すなわち「死者」と語り合うことによって、みずからの内面で「対話」を成立させてきたという。そしてそれがなによりも慰めであり、思索の源泉であったのだと。

マキャヴェッリならずとも、誰もがみずからの内面で「死者」と「対話」を行っているのではないだろうか。

たとえ「死者」であっても、現世では長く会ってないだけであって、生きているか死んでいるかは、あまり関係ないように思える。わたしはいまでも、ときどき寝ているときの夢の中ですでに「死者」となっている親友と対話を交わすことはしばしばある。だが不思議とはまったく思わない。

身近に「死者」をもたない人などいない。そして自分もまたいずれ死ぬ存在である。そしてそう思うことこにこそ、宗教教団とは関係のない、ほんとうの宗教が再生するキッカケがあるではなかろうか。

「3-11」に際してなにも発言することのなかった既成の仏教教団に激しく失望を感じたことは、すでにこのブログでも書いたとおりだ。

だが、同じようなことを感じていた若松氏が「死者」について書き続けていることは、わたしだけでなく日本人にとっての救いではないだろうか。『魂にふれる-大震災と、生きている死者』(トランスビュー、2012)などの若松氏の著作を読んで、わたしはそう思うのである。

『魂にふれる』に収録されている「非愛の扉を開く」で、若松氏は上原専禄について本格的に取り上げているので、ぜひお読みいただきたいと思う。

『上原専禄著作集』は残念ながら未完のまま中断している。若松氏も絶賛している『死者・生者』も現在では入手はきわめて困難だ。「死生観」の観点から若松氏の解説をつけて復刊していただくことを望みたい。

そして、多くの人がその人なりの「読み」を行ってほしいものだと思う。


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記者の目:上原専禄さんが現代に問うもの=田原由紀雄(毎日新聞) [2010年10月26日(Tue)] 2010(平成22)年10月26日(火) 毎日新聞
・・「死者との共闘」という姿勢など、近年さまざまなかたちで上原専禄再発見の兆しが見え始めているが、その件についてはこの記事(のさらなる再録)を参照

一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第四十七号]『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として 一橋大学名誉教授 南博
・・「上原専禄先生の学問とその人間像」という項目がある。ただし誤記が多い

Intermission 謎の銅像絵葉書 上原専禄??
・・「大正13年1月18日 ウィーン王立博物館前 マリヤテレサの銅像の下にて 専禄」と書かれた 絵葉書を購入した人による記事

対談 日蓮認識の諸問題 上原専禄・田村芳朗 (『日本の思想4 日蓮集』別冊 昭和44年 筑摩書房刊)・・「日蓮については、いつでも世界史における日蓮ということが、方法上問題になるし、逆に日蓮というものを通して世界史をつかまえるということが、問題になるわけです。・・(中略)・・日蓮が認識されるということは、同時に、狭く言えば鎌倉時代の日本がわかるということ、それにかかわって現代の日本というものがある程度わかってくる。そういう相関関係にある」(上原専禄)

Introduction to Hitotsubashi University (YouTube 大学案内 英語)

書評 『魂にふれる-大震災と、生きている死者-』( [著]若松英輔 [評者]横尾忠則(美術家) [掲載]2012年04月29日 ブック・アサヒ・コム 朝日新聞)



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「旧制高校」における「教養主義」とは何だったのか? ー 上原専禄と安岡正篤という二人の「同世代」のインテリに共通する「大正教養主義」と「修養主義」について比較列伝的に考えてみる

書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・「隠遁後」の上原専禄についての言及がある。死後2年たってその死が明らかになったが、その際の朝日新聞記事のコピーが収録されている。今谷明氏は上原専禄と同じく京都出身の歴史家。封建制論争で苦言を呈した上原専禄への敬愛が感じられる本だ

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝

書評 『苦海浄土-わが水俣病-』(石牟礼道子、講談社文庫(改稿版)、1972、初版単行本 1968)
・・上原専禄の『死者・生者』は1970年の出版である

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」(ユーロスペース)をみてきた-ロシア文学者・湯浅芳子という生き方
・・「上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点がある」

書評 『オーラの素顔 美輪明宏のいきかた』(豊田正義、講談社、2008)-「芸能界」と「霊能界」、そして法華経
・・「美輪明宏はある意味で近代日本が生んだ日蓮信者の系譜のなかに位置づけることができあるのではないだろうかとも思う。宮沢賢治、北一輝、石原完爾、石橋湛山、上原専禄、といった芸術家、思想家、軍人、政治家、歴史家・・といった綺羅星のごとき系譜のなかに、である」

書評 『仏教徒 坂本龍馬』(長松清潤、講談社、2012)-その死によって実現することなく消え去った坂本龍馬の国家構想を仏教を切り口に考える
・・近代の日蓮主義者の一人であった長松清風(ながまつ・せいふう)は坂本龍馬に感銘した

書評 『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)-インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!

書評 『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)-こんなすごい日本人がこの地球上にいるのだ!
・・インドで日本山妙法寺を建立した藤井日達上人の衣鉢を継ぐ「闘う仏教」の佐々井秀嶺師もまた日蓮系の人である

庄内平野と出羽三山への旅 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性
・・熱烈な日蓮主義者であった石原莞爾将軍の墓所を吹浦(ふくら)に訪ねた記録も書いておいた。石原莞爾は宮澤賢治とおなじく東北出身で日蓮主義の在家団体である国柱会(こくちゅうかい)の会員。上原専禄もまたかなり長いあいだ国柱会の会員であった。ただし、石原莞爾や宮澤賢治とは違って、上原専禄の場合は養父が会員だったからというのがその理由であったようだ

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」

「法然セミナー2011 苦楽共生」 に参加してきた-法然上人の精神はいったいどこへ?
・・ほんとうの宗教と宗教教団は関係ないと考えるべきなのだ

『僕の死に方-エンディングダイアリー500日』(金子哲雄、小学館文庫、2014 単行本初版 2012)は、「死に方」はイコール「生き方」であることを身をもって示してくれた流通ジャーナリスト最後の著書

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