(書斎における上原専禄 Wikipediaより)
「如水会講演会 元一橋大学学長
「上原専禄先生の死生観」に参加してきた。講演会の概要は以下のとおりである。
演題:「如水会講演会 元一橋大学学長「上原専禄先生の死生観」
講師:若松英輔氏(文芸評論家・シナジー・カンパニー・ジャパン代表)
日時:2013年7月11日(木)13時~14時半
場所:如水会館 3階 「桜の間」
如水会とは一橋大学の同窓会で、日本資本主義の父である渋澤栄一の命名になるもの。この講演会は如水会員むけに如水会が企画したもので、会場は東京神田一ツ橋の如水会館である。
講演会の開催が平日の13時から14時半までという時間帯のためでもあるだろう、参加されていた方の大半はすでに第一線をリタイアされた東京商大およびその後身である一橋大学の卒業生で、しかも上原専禄ゼミナール出身の方が多かったようだ。
この講演会については、阿部謹也ゼミの同期から教えてもらって開催を知った。この時間帯では、比較的時間の自由がきくひとでなければ参加はむずかしいだろう。
『自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也)というロングセラーの名著を読んだひとならご存知だろうが、歴史学者の阿部謹也は上原専禄ゼミの出身である。
『自分のなかに歴史をよむ』で紹介されている
「それをやらなければ生きてゆけないと思われるようなテーマ」、「わかるとは変わること」などの名言によって、現在でもかろうじて上原専禄という名前が知られているに過ぎないかもしれない。
上原専禄(1899~1975)が一橋大学の学長であったのは、敗戦後の1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけてのことである。当時は、戦時中に改称された東京産業大学であり、学長在籍中の1947年にふたたび東京商科大学に名称が戻り、1949年には一橋大学と名称変更があり現在に至っている。
ご年配の方であれば、
上原専禄といえば日教組という連想をおもちかもしれない。
戦後日本で「平和運動」の担い手の知識人の一人であったので、どうしてもその印象がつよいのだろう。
だが、配偶者を医療過誤によって亡くされたことがキッカケになって、学長退任後も在籍していた一橋大学を定年前に退官し、いっさいの公職から身を引いて世間から姿を消し、京都に娘さんと隠棲して「共闘」していたことを知る人は少ない。しかも、その死が明らかになったのは死後3年8カ月もたってからのことだった。
愛妻の死が西洋史の研究者として生きてきた歴史家・上原専禄の思想を180度変えたのである。そして、
近代が終わったいまの日本で必要なのは、晩年の上原専禄の思想なのである。
ここからが、
今回の講演会のテーマ 「上原専禄先生の死生観」ということになる。
講演者の若松英輔氏(1968年生まれ)は文芸評論家で、薬草を扱うシナジー・カンパニー・ジャパンの代表取締役として経営者でもある。このブログでもすでに取り上げた
『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)の著者でもある。
若松氏は、上原専禄の晩年の著書である
『死者・生者-日蓮認識への発想と視点-』(未来社,1970)を世紀を超えて生き続ける書としたうえで、インタビューをもとにした
「過ぎ行かぬ時間」という文章にこそ、上原専禄のすべてがそこに表現されているという。わたしもまったく同感だ。
講演内容はいずれ活字になるだろう。ここではそのかわりに、すでに活字になっている若松氏が書かれた上原専禄とのかかわりについて文章を引用させていただくことにしたい。
若松英輔さんエッセイ 「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」
『死者・生者-日蓮認識への発想と視点』(未来社)を初めて手にしたのは、たしか20歳のころだったと思う。場所ははっきり覚えている。当時、早稲田の穴八幡神社で行われていた古書市だった。価格は500円。金額まで覚えているのは買うかどうかを迷ったことも覚えているからである。阿部謹也の本で名前を知っただけで、上原がどんな人物かの知識はまったくなく、この本が私にもたらす出来事など、まったく知る由もなかった。
この本こそ、近代日本における死者論の古典である。あるとき上原は妻利子(としこ)を病で喪う。このとき彼は、自身が経験したのは愛妻の死ではなく、新生した一個の死者との遭遇だったと書いた。上原は妻の死という個の出来事を徹底して深化させる。上原専禄は現代を代表する西洋史の研究者であり、狭義の意味における「宗教」に依存しない日蓮の衣鉢をつぐ信仰者でもあった。学問と信仰が真実の意味で彼の中で結合したのは、妻の死後である。以後、彼の生は、「生ける死者」である妻利子との「共存し共生し共闘する」日々となった。彼はそれまでの学業を根源から問い直し、未開の形而上的世界を開示しようとした。しかし、彼もまた、道なかばにして病に倒れた。その道程は著作集の編纂というかたちをとって、娘上原弘江によって継承される。ここに並んでいるのは、私が手にした初版に丁寧な校訂を加え、新生した『死者・生者』(上原専禄著作集 16巻)である。
それぞれの書架には「一等地」がある。もっとも強く惹かれる本あるいは、衝撃を受けた本などが自ずとそこに集まってくる。『死者・生者』は、いつもその場所にあった。だが、他の本と違ったのは、通読されないにもかかわらず、いつもその位置を占め続けたことである。ページを開かずとも、すでに「影響」される本がある。何か奇妙に聞こえるかもしれないが、ほかに表現しえない強いつながりを感じさせる書物が確かに存在する。私にとって上原専禄の『死者・生者』はそうした一冊だった。
何度ページをめくったかわからない。そのたびごとに書物と向き合う準備ができていないことを知らされ、ある抵抗を感じてきた。この本とじっくりと対峙したのは、別離を経験し、私にとっての「死者」を身近に感じるようになってからである。それまで幾度となく、接近を拒みつづけてきた一巻だったが、このときは違った。そこに刻まれた言葉は悲しみとは何であるかを経験しなくてはならかなった私を温かく包んでくれた。死は存在しない。存在するのは死者だけである、そうした素直な告白が、絶望の淵にあった私を救ってくれたのだった。
(出典:【じんぶんや第81講】若松英輔選「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」
http://www.kinokuniya.co.jp/contents/pc/20120623100032.html )
妻の死が「過ぎ行かぬ時間」として感じられるようになった歴史家に、劇的な認識の転換が訪れたのである。その認識をコトバにして語ったのが「過ぎ行かぬ時間」(1970)というインタビュー記録である。
(筆者蔵の 「過ぎ行かぬ時間」 右は上原専禄の肖像写真)
若松氏もまた妻の死という「個的な経験」によって、おなじく妻の死という「個的な経験」を出発点にした『死者・生者』に再会し、邂逅したのだという。
「個的な経験」がすべての出発点である。これは社会科学としての歴史学もそのひとつであるとされてきた、客観性を重視した科学とは異なるアプローチかもしれない。だが、化学者で哲学者でもあったマイケル・ポラニーも「個人知」(personal knowledge)の重要性について指摘していることは明記しておいたほうがいいかもしれない。
若松氏は現在執筆中という『イエス伝』を引き合いにだされながら、
パウロの回心もまた「個的な経験」であったこと、その
「個的な経験」を出発点としてキリスト教が無数の人々に受け入れられていった事実に言及する。
そして、
上原専禄にとっての日蓮は、パウロにとってのキリストではなかったか、と。
上原専禄という「生者」にとっての亡妻・利子(としこ)という「死者」は、「共存・共生・共闘」の関係であった。「生者」から「死者」へのコミュニケーションとして始まった回向(えこう)は、時を過ぎゆくうちに「死者」から「生者」への回向となる。
呼びかけに対する応答、この関係を「対話」というのであれば、まさに
「生者」から「死者」、そして「死者」から「生者」への呼びかけに対する応答が「対話」として成り立つのである。
いま生きている「生者」だけを問題にするのではなく、「死者」もまたともにあるものとして考え、感じ、そしてともに「生きる」こと。
若松氏は、水俣について書かれた
石牟礼道子の名著 『苦海浄土』が1969年に出版されたことに講演で注意を促していた。 『苦海浄土』もまた死者たちの声なき声をすくいあげて結晶させた文学作品である。
既存の宗教団体ではすくいとられることのない「死者」たちの声。「死者」たちとのコミュニケーション回路をどう開くか、その問題意識において、石牟礼道子と上原専禄に通じ合うものがあったもではないか。
個的な信念と学問研究上の見解が一致すべきこと。言行一致といっていいかもしれないが、これが日本人にはなかなかできないのは、阿部謹也先生がいうように学問が「世間」のなかで行われているためだろうか。
この講演会では、もっぱら上原専禄晩年の思想について語られたものであり、上原専禄の全体像について語られたわけではない。そのため、一部のみ取り上げたという批判はあるかもしれないが、
現在に生きるわれわれにとって大きな意味をもつのは晩年の思想であるという点は若松氏には同感する。
この講演会の内容はいずれ活字化されるだろうが、ここに記したのはあくまでもわたしという個人のフィルターを通した受け取り方であり「個的な経験」にもとづくものだ。誤解や誤読はご容赦いただきたい。
■
わたしにとって上原専禄はその声も聴いたことのない存在ではあるが・・・
若松英輔氏のひそみにならえば、わたしが
『死者・生者』を初めてにしたのは18歳のときであった。一橋大学図書館の小平分館(当時)二階の開架式スペースであったその本は白い表紙のやや大型の造本であった。
上原専禄の名前は、前期課程で講義をとっていたビザンツ史の渡辺金一教授(1924~2011)の授業で知った。おなじ図書館には
上原専禄の処女作である『独逸中世史研究』(1942年)が何冊も入っていた。はじめて西洋史を原資料に基づいて研究した記念碑的著作であるが、戦前の古風な文体で、しかも難解な論文ばかりなのでとっつきにくいものだったことを覚えている。
だから、
なぜ西洋中世史の研究者が日蓮なのか? 西洋史と日蓮がなかなか結びつかなかったのが正直なところだ。
そもそも日蓮関連の家に生まれたわけではないわたしにとって、日蓮はひじょうにとっつきにくい存在であったし、正直なところ現在でもそうである。
中学時代に、蒙古襲来を予言した日蓮の『立正安国論』の存在を知り、驚きとともに多大な関心をもったのだがそれ以上は踏み込みたいとは思わないまま現在にいたっている。
上原専禄の最晩年のライフワークが日蓮上人を世界史に位置づけるという壮大なテーマ『日蓮とその時代』であったが、その死によって未完成に終わったのは残念なことだ。
もうずいぶん以前、すくなくとも20数年以上前のことだが、あるとき神田神保町の古書店で
上原専禄最後の著書である 『クレタの壺-世界史像形成への試読』(創元社、1974)を入手し、
「五 本を読む・切手を読む」と題された読書歴をつうじた自伝を読んで、上原専禄における日蓮の意味を知ることができた。
上原専禄は10歳の頃から養父のもとで『法華経』を読み込んできた人なのだ。