「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル 上原専禄 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 上原専禄 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年7月11日木曜日

「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」(若松英輔氏)」を聴いてきた(2013年7月11日)

(書斎における上原専禄 Wikipediaより)


「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」に参加してきた。講演会の概要は以下のとおりである。

演題:「如水会講演会 元一橋大学学長「上原専禄先生の死生観」
講師:若松英輔氏(文芸評論家・シナジー・カンパニー・ジャパン代表)
日時:2013年7月11日(木)13時~14時半
場所:如水会館 3階 「桜の間」

如水会とは一橋大学の同窓会で、日本資本主義の父である渋澤栄一の命名になるもの。この講演会は如水会員むけに如水会が企画したもので、会場は東京神田一ツ橋の如水会館である。

講演会の開催が平日の13時から14時半までという時間帯のためでもあるだろう、参加されていた方の大半はすでに第一線をリタイアされた東京商大およびその後身である一橋大学の卒業生で、しかも上原専禄ゼミナール出身の方が多かったようだ。

この講演会については、阿部謹也ゼミの同期から教えてもらって開催を知った。この時間帯では、比較的時間の自由がきくひとでなければ参加はむずかしいだろう。

『自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也)というロングセラーの名著を読んだひとならご存知だろうが、歴史学者の阿部謹也は上原専禄ゼミの出身である。

『自分のなかに歴史をよむ』で紹介されている「それをやらなければ生きてゆけないと思われるようなテーマ」、「わかるとは変わること」などの名言によって、現在でもかろうじて上原専禄という名前が知られているに過ぎないかもしれない。

上原専禄(1899~1975)が一橋大学の学長であったのは、敗戦後の1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけてのことである。当時は、戦時中に改称された東京産業大学であり、学長在籍中の1947年にふたたび東京商科大学に名称が戻り、1949年には一橋大学と名称変更があり現在に至っている。

ご年配の方であれば、上原専禄といえば日教組という連想をおもちかもしれない。戦後日本で「平和運動」の担い手の知識人の一人であったので、どうしてもその印象がつよいのだろう。

だが、配偶者を医療過誤によって亡くされたことがキッカケになって、学長退任後も在籍していた一橋大学を定年前に退官し、いっさいの公職から身を引いて世間から姿を消し、京都に娘さんと隠棲して「共闘」していたことを知る人は少ない。しかも、その死が明らかになったのは死後3年8カ月もたってからのことだった。

愛妻の死が西洋史の研究者として生きてきた歴史家・上原専禄の思想を180度変えたのである。そして、近代が終わったいまの日本で必要なのは、晩年の上原専禄の思想なのである。

ここからが、今回の講演会のテーマ 「上原専禄先生の死生観」ということになる。

講演者の若松英輔氏(1968年生まれ)は文芸評論家で、薬草を扱うシナジー・カンパニー・ジャパンの代表取締役として経営者でもある。このブログでもすでに取り上げた 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)の著者でもある。

若松氏は、上原専禄の晩年の著書である『死者・生者-日蓮認識への発想と視点-』(未来社,1970)を世紀を超えて生き続ける書としたうえで、インタビューをもとにした 「過ぎ行かぬ時間」という文章にこそ、上原専禄のすべてがそこに表現されているという。わたしもまったく同感だ。

講演内容はいずれ活字になるだろう。ここではそのかわりに、すでに活字になっている若松氏が書かれた上原専禄とのかかわりについて文章を引用させていただくことにしたい。


若松英輔さんエッセイ 「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」

『死者・生者-日蓮認識への発想と視点』(未来社)を初めて手にしたのは、たしか20歳のころだったと思う。場所ははっきり覚えている。当時、早稲田の穴八幡神社で行われていた古書市だった。価格は500円。金額まで覚えているのは買うかどうかを迷ったことも覚えているからである。阿部謹也の本で名前を知っただけで、上原がどんな人物かの知識はまったくなく、この本が私にもたらす出来事など、まったく知る由もなかった。

 この本こそ、近代日本における死者論の古典である。あるとき上原は妻利子(としこ)を病で喪う。このとき彼は、自身が経験したのは愛妻の死ではなく、新生した一個の死者との遭遇だったと書いた。上原は妻の死という個の出来事を徹底して深化させる。上原専禄は現代を代表する西洋史の研究者であり、狭義の意味における「宗教」に依存しない日蓮の衣鉢をつぐ信仰者でもあった。学問と信仰が真実の意味で彼の中で結合したのは、妻の死後である以後、彼の生は、「生ける死者」である妻利子との「共存し共生し共闘する」日々となった。彼はそれまでの学業を根源から問い直し、未開の形而上的世界を開示しようとした。しかし、彼もまた、道なかばにして病に倒れた。その道程は著作集の編纂というかたちをとって、娘上原弘江によって継承される。ここに並んでいるのは、私が手にした初版に丁寧な校訂を加え、新生した『死者・生者』(上原専禄著作集 16巻)である。

 それぞれの書架には「一等地」がある。もっとも強く惹かれる本あるいは、衝撃を受けた本などが自ずとそこに集まってくる。『死者・生者』は、いつもその場所にあった。だが、他の本と違ったのは、通読されないにもかかわらず、いつもその位置を占め続けたことである。ページを開かずとも、すでに「影響」される本がある。何か奇妙に聞こえるかもしれないが、ほかに表現しえない強いつながりを感じさせる書物が確かに存在する。私にとって上原専禄の『死者・生者』はそうした一冊だった。

 何度ページをめくったかわからない。そのたびごとに書物と向き合う準備ができていないことを知らされ、ある抵抗を感じてきた。この本とじっくりと対峙したのは、別離を経験し、私にとっての「死者」を身近に感じるようになってからである。それまで幾度となく、接近を拒みつづけてきた一巻だったが、このときは違った。そこに刻まれた言葉は悲しみとは何であるかを経験しなくてはならかなった私を温かく包んでくれた。死は存在しない。存在するのは死者だけである、そうした素直な告白が、絶望の淵にあった私を救ってくれたのだった。

(出典:【じんぶんや第81講】若松英輔選「魂にふれる 死者がひらく、生者の生き方」
http://www.kinokuniya.co.jp/contents/pc/20120623100032.html )


妻の死が「過ぎ行かぬ時間」として感じられるようになった歴史家に、劇的な認識の転換が訪れたのである。その認識をコトバにして語ったのが「過ぎ行かぬ時間」(1970)というインタビュー記録である。


(筆者蔵の 「過ぎ行かぬ時間」 右は上原専禄の肖像写真)


若松氏もまた妻の死という「個的な経験」によって、おなじく妻の死という「個的な経験」を出発点にした『死者・生者』に再会し、邂逅したのだという。

「個的な経験」がすべての出発点である。これは社会科学としての歴史学もそのひとつであるとされてきた、客観性を重視した科学とは異なるアプローチかもしれない。だが、化学者で哲学者でもあったマイケル・ポラニーも「個人知」(personal knowledge)の重要性について指摘していることは明記しておいたほうがいいかもしれない。

若松氏は現在執筆中という『イエス伝』を引き合いにだされながら、パウロの回心もまた「個的な経験」であったこと、その「個的な経験」を出発点としてキリスト教が無数の人々に受け入れられていった事実に言及する。

そして、上原専禄にとっての日蓮は、パウロにとってのキリストではなかったか、と。

上原専禄という「生者」にとっての亡妻・利子(としこ)という「死者」は、「共存・共生・共闘」の関係であった。「生者」から「死者」へのコミュニケーションとして始まった回向(えこう)は、時を過ぎゆくうちに「死者」から「生者」への回向となる。

呼びかけに対する応答、この関係を「対話」というのであれば、まさに「生者」から「死者」、そして「死者」から「生者」への呼びかけに対する応答が「対話」として成り立つのである。

いま生きている「生者」だけを問題にするのではなく、「死者」もまたともにあるものとして考え、感じ、そしてともに「生きる」こと。

若松氏は、水俣について書かれた石牟礼道子の名著 『苦海浄土』が1969年に出版されたことに講演で注意を促していた。 『苦海浄土』もまた死者たちの声なき声をすくいあげて結晶させた文学作品である。

既存の宗教団体ではすくいとられることのない「死者」たちの声。「死者」たちとのコミュニケーション回路をどう開くか、その問題意識において、石牟礼道子と上原専禄に通じ合うものがあったもではないか。

個的な信念と学問研究上の見解が一致すべきこと。言行一致といっていいかもしれないが、これが日本人にはなかなかできないのは、阿部謹也先生がいうように学問が「世間」のなかで行われているためだろうか。

この講演会では、もっぱら上原専禄晩年の思想について語られたものであり、上原専禄の全体像について語られたわけではない。そのため、一部のみ取り上げたという批判はあるかもしれないが、現在に生きるわれわれにとって大きな意味をもつのは晩年の思想であるという点は若松氏には同感する。

この講演会の内容はいずれ活字化されるだろうが、ここに記したのはあくまでもわたしという個人のフィルターを通した受け取り方であり「個的な経験」にもとづくものだ。誤解や誤読はご容赦いただきたい。



わたしにとって上原専禄はその声も聴いたことのない存在ではあるが・・・

若松英輔氏のひそみにならえば、わたしが 『死者・生者』を初めてにしたのは18歳のときであった。一橋大学図書館の小平分館(当時)二階の開架式スペースであったその本は白い表紙のやや大型の造本であった。

上原専禄の名前は、前期課程で講義をとっていたビザンツ史の渡辺金一教授(1924~2011)の授業で知った。おなじ図書館には上原専禄の処女作である『独逸中世史研究』(1942年)が何冊も入っていた。はじめて西洋史を原資料に基づいて研究した記念碑的著作であるが、戦前の古風な文体で、しかも難解な論文ばかりなのでとっつきにくいものだったことを覚えている。

だから、なぜ西洋中世史の研究者が日蓮なのか? 西洋史と日蓮がなかなか結びつかなかったのが正直なところだ。

そもそも日蓮関連の家に生まれたわけではないわたしにとって、日蓮はひじょうにとっつきにくい存在であったし、正直なところ現在でもそうである。

中学時代に、蒙古襲来を予言した日蓮の『立正安国論』の存在を知り、驚きとともに多大な関心をもったのだがそれ以上は踏み込みたいとは思わないまま現在にいたっている。上原専禄の最晩年のライフワークが日蓮上人を世界史に位置づけるという壮大なテーマ『日蓮とその時代』であったが、その死によって未完成に終わったのは残念なことだ。

もうずいぶん以前、すくなくとも20数年以上前のことだが、あるとき神田神保町の古書店で上原専禄最後の著書である 『クレタの壺-世界史像形成への試読』(創元社、1974)を入手し、「五 本を読む・切手を読む」と題された読書歴をつうじた自伝を読んで、上原専禄における日蓮の意味を知ることができた。上原専禄は10歳の頃から養父のもとで『法華経』を読み込んできた人なのだ。




そしていつどこで入手したのか記憶がないのだが、『人文科学への道 著者に聞くⅡ』(未来社編集部編、未来社、1972)に収録されていた上原専禄のインタビュー記録 「過ぎゆかぬ時間」は、いったい何度くりかえし読んできたことか。

わたしもこの 「過ぎゆかぬ時間」を繰り返し読み込むことが、上原専禄の晩年の思想を読み解くうえでもっとも重要だという若松氏の考えに賛同する。

そんな読書体験をつうじて、わたしにとってもまた上原専禄はその肉声も聴いたことのない「死者」という存在ではあるが、けっして遠い人ではないと思ってきた。

塩野七生の評伝によれば、マキャヴェッリは深夜に書物のなかの古人、すなわち「死者」と語り合うことによって、みずからの内面で「対話」を成立させてきたという。そしてそれがなによりも慰めであり、思索の源泉であったのだと。

マキャヴェッリならずとも、誰もがみずからの内面で「死者」と「対話」を行っているのではないだろうか。

たとえ「死者」であっても、現世では長く会ってないだけであって、生きているか死んでいるかは、あまり関係ないように思える。わたしはいまでも、ときどき寝ているときの夢の中ですでに「死者」となっている親友と対話を交わすことはしばしばある。だが不思議とはまったく思わない。

身近に「死者」をもたない人などいない。そして自分もまたいずれ死ぬ存在である。そしてそう思うことこにこそ、宗教教団とは関係のない、ほんとうの宗教が再生するキッカケがあるではなかろうか。

「3-11」に際してなにも発言することのなかった既成の仏教教団に激しく失望を感じたことは、すでにこのブログでも書いたとおりだ。

だが、同じようなことを感じていた若松氏が「死者」について書き続けていることは、わたしだけでなく日本人にとっての救いではないだろうか。『魂にふれる-大震災と、生きている死者』(トランスビュー、2012)などの若松氏の著作を読んで、わたしはそう思うのである。

『魂にふれる』に収録されている「非愛の扉を開く」で、若松氏は上原専禄について本格的に取り上げているので、ぜひお読みいただきたいと思う。

『上原専禄著作集』は残念ながら未完のまま中断している。若松氏も絶賛している『死者・生者』も現在では入手はきわめて困難だ。「死生観」の観点から若松氏の解説をつけて復刊していただくことを望みたい。

そして、多くの人がその人なりの「読み」を行ってほしいものだと思う。


画像をクリック!


<関連記事>

記者の目:上原専禄さんが現代に問うもの=田原由紀雄(毎日新聞) [2010年10月26日(Tue)] 2010(平成22)年10月26日(火) 毎日新聞
・・「死者との共闘」という姿勢など、近年さまざまなかたちで上原専禄再発見の兆しが見え始めているが、その件についてはこの記事(のさらなる再録)を参照

一橋の学問を考える会 [橋問叢書 第四十七号]『学者渡世―心理学とわたくし』を中心として 一橋大学名誉教授 南博
・・「上原専禄先生の学問とその人間像」という項目がある。ただし誤記が多い

Intermission 謎の銅像絵葉書 上原専禄??
・・「大正13年1月18日 ウィーン王立博物館前 マリヤテレサの銅像の下にて 専禄」と書かれた 絵葉書を購入した人による記事

対談 日蓮認識の諸問題 上原専禄・田村芳朗 (『日本の思想4 日蓮集』別冊 昭和44年 筑摩書房刊)・・「日蓮については、いつでも世界史における日蓮ということが、方法上問題になるし、逆に日蓮というものを通して世界史をつかまえるということが、問題になるわけです。・・(中略)・・日蓮が認識されるということは、同時に、狭く言えば鎌倉時代の日本がわかるということ、それにかかわって現代の日本というものがある程度わかってくる。そういう相関関係にある」(上原専禄)

Introduction to Hitotsubashi University (YouTube 大学案内 英語)

書評 『魂にふれる-大震災と、生きている死者-』( [著]若松英輔 [評者]横尾忠則(美術家) [掲載]2012年04月29日 ブック・アサヒ・コム 朝日新聞)



<ブログ内関連記事>

「旧制高校」における「教養主義」とは何だったのか? ー 上原専禄と安岡正篤という二人の「同世代」のインテリに共通する「大正教養主義」と「修養主義」について比較列伝的に考えてみる

書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?

書評 『封建制の文明史観-近代化をもたらした歴史の遺産-』(今谷明、PHP新書、2008)-「封建制」があったからこそ日本は近代化した!
・・「隠遁後」の上原専禄についての言及がある。死後2年たってその死が明らかになったが、その際の朝日新聞記事のコピーが収録されている。今谷明氏は上原専禄と同じく京都出身の歴史家。封建制論争で苦言を呈した上原専禄への敬愛が感じられる本だ

書評 『井筒俊彦-叡知の哲学-』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)-魂の哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝

書評 『苦海浄土-わが水俣病-』(石牟礼道子、講談社文庫(改稿版)、1972、初版単行本 1968)
・・上原専禄の『死者・生者』は1970年の出版である

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」(ユーロスペース)をみてきた-ロシア文学者・湯浅芳子という生き方
・・「上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点がある」

書評 『オーラの素顔 美輪明宏のいきかた』(豊田正義、講談社、2008)-「芸能界」と「霊能界」、そして法華経
・・「美輪明宏はある意味で近代日本が生んだ日蓮信者の系譜のなかに位置づけることができあるのではないだろうかとも思う。宮沢賢治、北一輝、石原完爾、石橋湛山、上原専禄、といった芸術家、思想家、軍人、政治家、歴史家・・といった綺羅星のごとき系譜のなかに、である」

書評 『仏教徒 坂本龍馬』(長松清潤、講談社、2012)-その死によって実現することなく消え去った坂本龍馬の国家構想を仏教を切り口に考える
・・近代の日蓮主義者の一人であった長松清風(ながまつ・せいふう)は坂本龍馬に感銘した

書評 『必生(ひっせい) 闘う仏教』(佐々井秀嶺、集英社新書、2010)-インド仏教復興の日本人指導者の生き様を見よ!

書評 『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)-こんなすごい日本人がこの地球上にいるのだ!
・・インドで日本山妙法寺を建立した藤井日達上人の衣鉢を継ぐ「闘う仏教」の佐々井秀嶺師もまた日蓮系の人である

庄内平野と出羽三山への旅 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性
・・熱烈な日蓮主義者であった石原莞爾将軍の墓所を吹浦(ふくら)に訪ねた記録も書いておいた。石原莞爾は宮澤賢治とおなじく東北出身で日蓮主義の在家団体である国柱会(こくちゅうかい)の会員。上原専禄もまたかなり長いあいだ国柱会の会員であった。ただし、石原莞爾や宮澤賢治とは違って、上原専禄の場合は養父が会員だったからというのがその理由であったようだ

書評 『対話の哲学-ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜-』(村岡晋一、講談社選書メチエ、2008)-生きることの意味を明らかにする、常識に基づく「対話の哲学」

「法然セミナー2011 苦楽共生」 に参加してきた-法然上人の精神はいったいどこへ?
・・ほんとうの宗教と宗教教団は関係ないと考えるべきなのだ

『僕の死に方-エンディングダイアリー500日』(金子哲雄、小学館文庫、2014 単行本初版 2012)は、「死に方」はイコール「生き方」であることを身をもって示してくれた流通ジャーナリスト最後の著書

(2014年8月1日、2026年2月6日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2011年10月29日土曜日

映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」(ユーロスペース)をみてきた-ロシア文学者・湯浅芳子という生き方



 日本映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』をみにいってきました。本日から大阪での上映も始まったということだが、東京では渋谷の「ユーロスペース」で、毎日朝10時半からの一回のみ上映です。
 

作品名:『百合子、ダスヴィダーニヤ』(日本、2011年)
監督: 浜野佐知
脚本: 山﨑邦紀
製作: 森満康巳
出演者: 菜葉菜(なはな:湯浅芳子役)、一十三十一(ひとみとい:中條百合子役)、大杉漣(百合子の夫・荒木茂役)、吉行和子(百合子の母役)、洞口依子(野上弥生子役)その他
上映時間: 102分

 『百合子、ダスヴィダーニヤ』の百合子とは、作家の宮本百合子、結婚前は中條(ちゅうじょう)百合子。ダスヴィダーニヤとはロシア語でさよならの意味。百合子に対して「ダスヴィダーニヤ」(さよなら)と呼びかけているのはロシア文学者の湯浅芳子。

 これだけでは情報が少なすぎて、まだピンとこない人も多いかもしれません。そりゃあ、そうかもしれませんね。なんせ、いまからもう 90年も前、大正末期から昭和初期にかけての物語なのですから。


 物語は、この二人のインテリ女性の出会い、熱烈な恋愛とお互いを高め合う友情、そして別離を描いたものです。友情というには濃すぎる関係、レズビアンと言ってしまうと興味本位に受け取られる恐れがなくもない。当事者の二人にのみ秘められた関係であったということでしょう。

 その後なんと100歳まで長生きした、先輩の女流作家・野上弥生子(1885~1985)の仲介で出会ったとき、中條百合子(1899~1951)は25歳、湯浅芳子(1896~1990)は28歳。百合子は新進気鋭の作家、芳子は雑誌編集者。

 17歳でデビューし「天才少女作家」と呼ばれていた百合子は、成功した建築家の娘でブルジョワのお嬢様そのもの。留学先のニューヨークで出会った15歳年上の学者に一目惚れして19歳で結婚。ブルジョワ育ちながらも、すでに自分のチカラで生計を立てていた存在

 京都の裕福な魚問屋に生まれて、養女にいった先が「お茶屋」。花街で育った湯浅芳子は、生前分与された財産で、東京で二階建ての一軒家を一人で借りるほどの資産家。東京にでて大学でロシア語を学びながらも、大学中退後は自分の生きる道を探しあぐねていた「自分探し」の途上にあった状態

 平塚らいてうなどによる『青鞜』の時代によって、すでに切り開かれていたとはいえ、まだまだ女性が主体的に仕事を選択し、自己実現を図るのが難しかった時代、お互いに強い影響を与え合いながら高め合った関係でもあったのでした。



 映画では、最初の出会いから、急速に二人の愛が深まっていくまでの40日間に集中し、共同生活のなかで愛が冷めていくプロセスや、二人で行ったソ連の首都モスクワへの 3年間の私費留学と帰国後の別離については、示唆的にのみ触れています。

 上掲のポスター写真だと、だいぶ実在の二人とは見た目が違う印象ですが(笑)、それでも監督はキャスティングにはそうとう時間をつかったようです。舞台設定やインテリア、モダン着物などの衣装にはそうとう力を入れて「大正ロマン」の再現には成功していますが、2011年の日本人が1924年(大正14年)の日本人を演じるのは、どうしてもやっぱり限界があるのは仕方ありません。善戦しているとは思いますが。

 映像として美しく仕上がっているので、百合子と芳子の二人にとっても本望でしょう。ともにソ連にかかわった二人ですが、モスクワに私費留学(・・いや遊学ですか)するだけの資産をもった、ブルジョワ階級のインテリであったというのは興味深いことです。 


湯浅芳子という「孤高の人」(瀬戸内寂聴)について

 ところで、宮本百合子ときいてピンとくる人は、いまでは果たしてどれくらいいるのでしょうか? また、湯浅芳子といっても、現在ではほとんど忘却されているでしょうねえ。 

 文学愛好家ではないわたしは、"プロレタリア作家" 宮本百合子の作品はまったく読んでいません。また、宮本百合子と聞けば「ああ宮本顕治の妻か」とピンとくる人もいまではそう多くはないかもしれません。日本共産党書記長を長く務めた宮本顕治というだけで避けたくなるのは、わたしだけではないでしょう。

 原作でもあり映画のタイトルにもなった、沢部ひとみ氏の『百合子、ダスヴィダーニヤ』は、学陽書房の女性文庫(1996)で読んだのはいまか10年前くらいでしょうか。ふとしたキッカケでこの本の存在を知ったのは、宮本百合子ではなく、湯浅芳子というロシア文学者には多大な関心があったからです。

 高校時代から大学時代にかけてロシア文学はあらかた読んでいたわたしにとって、岩波文庫のロシア・ソ連文学の翻訳者としての湯浅芳子の名前は、ずっと気になる存在でした。とくに、チェーホフやゴーリキーなど、帝政ロシア末期からソ連にかけての世界的文学者の作品を多く訳しています



 いまではロシア文学者としての湯浅芳子の名前は、ソ連の児童文学作家サムイル・マルシャークによる名作 『森は生きている』(岩波少年文庫、1953)のものとして、かろうじて生き残っているくらいでしょう。そもそもロシア文学じたい、『カラマーゾフの兄弟』の新訳によるプチ・リバイバルがあっても、メジャーな存在ではなくなって久しいですから。 

 わたしの場合は、共産主義はキライでもロシアは好きで、しかもソ連好きな小学校教員などの影響もあって、けっこうロシアソ連にはけっこう詳しいのです。しかも愛読していたのはイリンとセガールによる『人間の歴史』(岩波書店の愛蔵版)。じつは、このセガールはマルシャークの実の弟で、しかもユダヤ系であるとしったのは後年のことですが。

 「湯浅芳子って、いったいどんな人なのだろう?」と思っていたのは、そういう背景があるのです。

 ちょうど時期を同じくして、瀬戸内寂聴さんによる湯浅芳子のの回想録 『孤高の人』が出版されてすぐに読みました。湯浅芳子の印象はこの本でほぼ固まったといっていいでしょう。現在は、ちくま文庫に収録されています。 

 「孤高の人」とは湯浅芳子を評して、まさに言い得て妙と言ったところかもしれませんね。自らを「いっぴき狼」と称した湯浅芳子にはふさわしい。プライドの高い、「凜」とした女性だったのでしょう。

 わたしは湯浅芳子には「精神の高貴さ」を感じます。比喩としては適切かどうかわかりませんが、永井荷風と同じ「精神の高貴さ」を死ぬまで持ち続けたひとだったのではないかと。湯浅芳子は老人ホームで亡くなったのが永井荷風とは違いますが。

 『孤高の人』は、この文章を書く前にもう一回読み返したいと思ったのですが、探さないとでてこないので、瀬戸内寂聴さんの回想としては、そのかわりに『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)に収録された湯浅芳子を紹介しておきましょう。

 横尾忠則による肖像画が三枚収録されていることから、新聞連載は3回に及んだのでしょう。おそらく、瀬戸内寂聴と湯浅芳子の交友は通り一遍のものではなかったからでしょう。小見出しは新聞社がつけたのかもしれませんが、参考のためにあげておくと、「レズビアンの先駆者は男装のロシア文学者」、「犬までリリーと名づける百合子への純愛」、「開拓者の孤独と誇りと栄光」。

 瀬戸内寂聴さんの文章を引用させていただきましょう。

 湯浅芳子と宮本百合子(結婚前は中條)のレズビアンの関係は、当人たちが隠しももせず公表しているので、天下周知のことであった。
 山原先生と同棲するまでに、湯浅さんは数々の華麗とも呼べる女性遍歴をしている。その中で生涯、誰よりも愛したのが宮本百合子であった。そして最も残酷な裏切りを与えられたのも百合子からであった。二人の仲は百合子のほうから湯浅さんに惹かれ、情熱的に迫って結ばれたものであった。
 最初の夫との仲が冷えた心の隙に湯浅さんへの恋をしのびこませ、意識的にあおって、燃え上がらせたのは百合子の情熱であった。
 二人の愛にピリオドを打たせたのは、9歳年下の若かりし日の宮本顕治の出現であった。

(出典:『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)P.77


 瀬戸内寂聴さんは、湯浅芳子はわがまま三昧な人だったと回想していますが、翻弄されつづけながらも、死ぬまでつきあいのあった瀬戸内寂聴という人もまた、興味深いものがありますね。 



映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」にからめて書く、ロシア文学と大正時代についてのよしなしごと

 もともと湯浅芳子への関心から原作を読み、そして映画も見ることになったので、湯浅芳子がらみでいくつか書いておこうと思います。

 フェイスブックの友人からこの映画を教えられるまで、じつは映画化されたことはまったく知りませんでした。
 
 聞くところによれば、浜野監督は14~15年から映画化したかったそうですが、反対が強くてできなかったそうですね。製作資金の調達だけでなく、2007年に宮本顕治が亡くなるまでは、映像作品としては扱いにくいテーマにかかわっていたことは否定できないでしょう。

 いまではすでに「歴史」となったから可能となったわけですね。
 
 ところで、湯浅芳子の翻訳については今後も生き残るかどうかといわれれば、否定的にならざるを得ませんね。

 むかしからロシア文学においては、神西清(じんざい・きよし)のものが名訳とうたわれてきました。とくにプーシキンやチェーホフについては、岩波文庫では改版したうえで発行し続けていますが、チェーホフの戯曲については、湯浅芳子訳は新訳でリプレースしています。

 神西清のチェーホフの翻訳は新潮文庫に収録されているので、いまでも読むことができます。作家・堀辰雄の親友で、作家でもあった神西清の日本語が、とても翻訳だとは感じさせないほど透明で、すばらしいものであるのと比べると、湯浅芳子の訳文が、語学的な面はさておき、劣っているのは仕方がないでしょう。しかも、ソ連文学はソルジェニーツィンなどの例外を除けば、果たして今後も読まれることがあるかどうか。

 なぜ湯浅芳子の翻訳が岩波文庫にたくさん収録されていたかは、「岩波文化人」の大御所であった野上弥生子の存在抜きには考えにくいと思います。野上弥生子の夫の能楽研究家・野上豊一郎、息子のイタリア文学者野上素一ともども「岩波文化人」です。

 ちばみに映画の冒頭に百合子と芳子を引き焦るシーンで、野上弥生子がソーニャ・コヴァレフスカヤについて言及していますが、ソーニャは帝政ロシア時代の女性数学者で、岩波文庫には野上弥生子訳で、英訳からの重訳として『ソーニャ・コヴァレフスカヤ-自伝と追想-』が収録されていました。

 こんなところにも、ロシア・ソ連が、大正末期から昭和初期当時の文化人・知識人のあいだでどう受け止められていたか知ることもできるのではないでしょうか。

 昭和初期はまさに「モボ・モガ」の時代。モボとはモダンボーイ、モガとはモダンガールの略。女性のあいだでは洋装や断髪が流行した時代でした。これが 1929年(昭和4年)の「世界大恐慌」の到来以降は、マルクスボーイ・マルクスガールの流行となっていきますが、この後、共産党が徹底的に弾圧されたことは周知の事実でしょう。宮本百合子もまた、結婚してすぐに配偶者の宮本顕治が獄中の人となり、12年間の別離を強いられることになり、大いに苦労をすることとなります。

 いまでは日本とロシアの関係は、ロシア側の日本への一方的な片思いばかりで日本側はロシアにはつれない状態が続いていますが、1920年代にはそうではなかったことを知ってから、この映画を見ると時代背景がよよく理解されることでしょう。

 湯浅芳子が京都生まれであることに関連して、京都生まれの同時代人について一言触れておきたいものがあります。それは歴史学者の上原専禄についてです。

 上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。

 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点があることに興味がひかれます。

 上原専禄はドイツ中世史研究のために、関東大震災後の1923年(大正12年)12月から第一次大戦後のウィーンに留学して1925年(大正15年)に帰国、湯浅芳子は中條百合子とともにモスクワに私費留学したのは 1926年(昭和2年)、3年間の滞在ののち、「世界大恐慌」の始まった 1929年(昭和4年)に帰国しています。

 したがって、欧州での遭遇はなかったことになりますが、湯浅芳子と中條百合子はウィーンも旅行しているので、同じ空気を吸ったといってもいいでしょう。もちろん、海外留学したということは、当時としてはきわめてレアな体験の持ち主であることはいうまでもありません。また、留学当時のソ連はスターリンによる大粛清が行われる以前であったことにも触れておく必要があるでしょう。

 思想信条に違いはあっても、同時代人というものはおなじ「空気」のなかに生きていたという点で、なにかしら共通点をもっているものです。

 岩波書店からでている『座談会 明治・大正文学史』(岩波現代文庫、2000)の第三巻では「明治から大正へ」という座談会があって、上原専禄が招かれて発言していますが、上原専禄の発言を読むと明治時代とも、昭和時代前半とも異なる、「大正時代」の雰囲気がなんとなく伝わってくるものを感じます。



<関連サイト>

映画 「百合子、ダスヴィダーニヤ」公式ウェブサイト

湯浅芳子と宮本百合子 | 『百合子、ダスヴィダーニヤ』オフィシャルサイト


<参考文献>

映画「百合子、ダスヴィダーニヤ」カタログ(株式会社旦々社、2011)

『百合子、ダスヴィダーニヤ-湯浅芳子の青春』(沢部ひとみ、学陽書房女性文庫、1996 単行本初版   1990 文藝春秋社)
・・なお、2011年に静山社文庫から新装改訂版による復刊予定。

『孤高の人』(瀬戸内寂聴、筑摩書房、1997 現在は、ちくま文庫 2007)

『奇縁まんだら 続』(瀬戸内寂聴、横尾忠則=画、日本経済新聞出版社、2009)

『断髪のモダンガール-42人の大正快女伝』(森まゆみ、文春文庫、2000 単行本初版 2008)
・・「湯浅芳子-女が女を愛すること」と「中條百合子-生きぬく!書きぬく!」を参照。

なお、上原専禄については、『クレタの壺-世界史像形成への試読』(上原専禄、評論社、1975)に収録された「本を読む・切手を読む」(1974)によった。





<ブログ内関連記事>

バレンタイン・デーに本の贈り物 『大正十五年のバレンタイン-日本でチョコレートをつくった V.F.モロゾフ物語-』(川又一英、PHP、1984)
・・白系ロシア人亡命者モロゾフ一家の苦闘の物語

書評 『西洋史学の先駆者たち』(土肥恒之、中公叢書、2012)-上原専禄という歴史家を知ってますか?
・・「上原専禄(1899~1975)は、湯浅芳子(1896~1990)の3歳下になります。宮本(中條)百合子(1899~1951)と上原専禄は同年生まれになります。上原専禄は、わたしの大学学部時代の先生であった阿部謹也先生のの、さらに先生にあたる人です。 直接の接点があったのかどかどうかわかりませんが、湯浅芳子と上原専禄は、ほぼ同じ頃に京都の商家に生まれ、青春時代と職業人生を東京で過ごした京都人という共通点

日本人が旧ソ連の宇宙飛行船「ソユーズ」で宇宙ステーションに行く時代
・・ソ連と小学生

石川啄木 『時代閉塞の現状』(1910)から100年たったいま、再び「閉塞状況」に陥ったままの日本に生きることとは・・・ 

永井荷風の 『断腸亭日乗』 で関東大震災についての記述を読む
・・関東大震災は 1923年(大正13年)であった

書評『河合隼雄-心理療法家の誕生-』(大塚信一、トランスビュー、2009) 
・・古い岩波文化を打破した編集者が伴走した河合隼雄の評伝

(2014年1月19日 情報追加)



(2022年12月23日発売の拙著です)

(2022年6月24日発売の拙著です)

(2021年11月19日発売の拙著です)


(2021年10月22日発売の拙著です)

 
 (2020年12月18日発売の拙著です)


(2020年5月28日発売の拙著です)


 
(2019年4月27日発売の拙著です)



(2017年5月18日発売の拙著です)

(2012年7月3日発売の拙著です)


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end