「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2026 禁無断転載!



ラベル 山田方谷 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 山田方谷 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年1月28日土曜日

書評『佐久間象山 上・下』(松本健一、中公文庫、2015)― 「殖産興業」と「富国強兵」路線を先取りした「革命思想家」の生涯

 

『佐久間象山 上・下』(松本健一、中公文庫、2015)を読了。帯によれば、著者が「病床で手を入れた最後の本」だという。原本は『評伝 佐久間象山』というタイトルで2000年に出ている。  

文庫化されて購入してから8年、積ん読のままだった。先日ようやく陽明学の山田方谷(やまだ・ほうこく)の評伝を読んだこともあり、「佐門の二傑」と呼ばれたライバルの佐久間象山も読まねばなるまいと思って、ついに読むことにした次第。  




読み応えのある評伝であった。上下あわせて700ページ近いボリュームだが、まったく飽きさせない。

「革命思想家」であったと著者がいう象山の生涯を描いて、この作品を越えるものはなかろう。 

明治維新後の殖産興業と富国強兵路線を先取りし、その見取り図を描いた先覚者である。朱子学者として出発し、「格物究理」(=格物致知)から西欧の科学と技術の「理」を「究」めようとした洋学者でもあった。 


(『省諐録』のなかで「詳証術」=数学の重要性を説く象山)


尊王も攘夷も超えた次元での「日本」を想定していた愛国者であり、最期はテロの嵐が吹き荒れた幕末の京都で、長州攘夷派による凶刃に倒れている。 愛弟子であった吉田松陰の弟子達によるものだけに、なんとも皮肉な話である。

山田方谷とのからみでいえば、昌平黌では朱子学を講じながらも、陽明学への傾斜を隠さなかった儒者の佐藤一斎。その陽明学の側面に大きな影響を受けたのが方谷であれば、徹底的に朱子学にこだわったのが象山であった。 その意味では、象山にとっての佐藤一斎は反面教師であったようだ。

プライドのきわめて高い象山は、朱子学については自分でやるから教わる必要はない、文章については一斎に学ぶべきものがあるとして実行していたという。象山らしいエピソードである。 


(文庫版の帯)


そんな象山を代表するものとして著者が引き出し、本書を貫く主要旋律となるがのが、帯にも引用されている、つぎの2つのフレーズである。 

●「夷の術を以て夷を制す」 
●「宇宙に実理は二つなし」 

あくまでも愛国者の立場から、「夷」(=西欧)の技術でもって「夷」(=西欧)を制するとする。地球が一体化した時代に真理は一つしかないとする。東洋だろうが西洋だろうが、真理は一つである。だから、西洋の技術を徹底的に身につけることで、他者に侮られない強い自分をつくることができるのだ、というのが趣旨である。 

象山といえば、「東洋道徳・西洋芸術」(・・ここでいう芸術とは技術のこと)がよく知られている。のちに「和魂洋才」という通俗的なフレーズで一般に知られることになるが、著者はそれでは象山をつかみきれないとする。だから、先の2つのフレーズなのだ。 とくに後者の「宇宙に実理は二つなし」は、象山の思想の歴史的意味を考えるうえできわめて重要である。

もともと朱子学者であった象山は、アヘン戦争(1840年)の衝撃のなかで「夷の術を以て夷を制す」を歩むことになる。34歳ではじめてオランダ語を学び、たった2ヶ月でマスターしたという猛烈ぶりだ。 

佐久間象山といえば、愛弟子の吉田松陰を黒船に密航させようとして失敗したことでも知られているが、その本意は「夷の術を以て夷を制す」にあったのである。間者として米国に送り込んで敵情を知る。「敵を知り己を知れば・・」の孫子の兵法である。あくまでも軽挙妄動を戒めていた。 

「宇宙に実理は二つなし」は、もう一人の愛弟子であった長岡藩士の小林虎三郎が帰郷する際にあたえた文章にでてくるという。小林虎三郎は「米百俵」の人である。かれは吉田寅次郎(=松陰)と並んで象山門下の「両虎」と呼ばれていたという。


(象山の『省諐録』は明治4年に勝海舟の尽力で出版された)


佐久間象山については、ずいぶん昔から親しくその名前を知っていた。たぶん勝海舟の『氷川清話』を中学生のときに愛読していた以来のことだろう。

だが、あくまでも蘭学者(=洋学者)としての興味に限定されていたように思う。 今回、松本健一氏による評伝を通読して、朱子学者として出発したその生涯をはじめてくわしく知った。


(中学時代に購入した岩波文庫の『省諐録』 もちろん読みこなせるはずもなかったが・・)


象山の『省諐録』(せいけんろく)は昔から読んできたが、松本健一氏の本書はその注釈書にもなりうる。 逐条解説というわけではないが、重要な文章を取り上げて論じているからだ。

引用された象山の文章にのほぼすべてに現代語訳がなされている。ややうっとおしい感もなくはないが、漢文訓読体になれていない人には、大いに助けとなるだろう。 

明治維新から150年、途中にはさまざまな紆余曲折があったものの、基本的に佐久間象山が見通していた道を歩いてきた日本。

あらためて佐久間象山という思想家について知ることは、日本の行く末について考えるためにも重要ではないか。


画像をクリック!



目 次 
序章 象山暗殺
第1章 宇宙に実理は二つなし
第2章 非常の時、非常の人
第3章 『省諐録』 
第4章 異貌のひと 
第5章 東アジア世界図の中に 
第6章 夷の術を以て夷を制す 
第7章 黒船来航 
第8章 開国
第9章 幽閉生活のなかで
第10章 再び幕末の動乱へ
第11章 統一国家のために
終章 人事の尽くるところ
佐久間象山人間関係図


著者プロフィール
松本健一(まつもと・けんいち)
日本の評論家、思想家、作家、歴史家、思想史家。麗澤大学経済学部教授。 中国日本語研修センター教授、麗澤大学経済学部教授、麗澤大学比較文明文化研究センター所長、一般財団法人アジア総合研究機構評議員議長、東日本国際大学客員教授、内閣官房参与(東アジア外交問題担当)などを歴任した。主な著書に『近代アジア精神史の試み』(岩波現代文庫、アジア・太平洋賞受賞)、『日本の近代1 開国・維新』(中公文庫、吉田茂賞)、『評伝北一輝 全五巻』(中公文庫、毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞)など多数。2014年没。(本データは『「孟子」の革命思想と日本』2014年が刊行された当時に掲載されていたものに wikipedia 情報で加筆)


<関連サイト>

・・冒頭に米国の思想家エマソンの一節が引用されている。
Trust thyself : every heart vibrates to that iron string. ――Emerson.


<ブログ内関連記事>







(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2023年1月23日月曜日

書評『炎の陽明学 ― 山田方谷伝 ―』(矢吹邦彦、明徳出版社、1996)― 江戸時代後期から幕末、そして維新後まで生きた「財政の巨人」の生涯、その全容を知る

 


「構造改革」が流行語だった当時に山田方谷(やまだ・ほうこく)の存在を知って以来、読もう読もうと思いながら幾年月。 

読み終えて思うのは、やはり読んでよかったということだ。人物の概要だけ知っていてもダメなのだ。その全容を知らなくてはならないのだ、と。 


(帯のオモテ)

山田方谷(1805~1877)は、知る人ぞ知る存在である。方谷は号であり、通称は安五郎であった。

陽明学に傾倒した儒者。農民出身でありながら藩校の学頭に取り立てられ、備中松山藩の「ナンバー2」として、藩主から絶大な信頼を受け、藩政改革をやり遂げた「財政の巨人」。財政破綻していた藩政を短期間で立て直し、富国強兵を実現した才能と手腕、そして胆力の持ち主であった。 

藩政改革といえば、上杉鷹山という連想がすぐに働くだろう。内村鑑三が英文の『代表的日本人』で取り上げて以来、世界的に有名だが、その詳細を見たら、はるかに山田方谷には及ばない。


(山田方谷 Wikipediaより *方谷は写真撮影を嫌っていたという)

山間の小藩の財政とはいえ、山田方谷のとった手法と実行力は、現在でも財政立て直しの教科書とされるほどすぐれたものだ。その肝は、徹底的な経費削減と新規事業投資であった。もっとも有名な産品が「備中鍬」である。この手法は成功し、愛弟子の河井継之助が長岡藩で再現している。

しかも、その手法も実行もみな中国の史書にモデルを求めたということがすごい。儒者ならではのケーススタディ活用法である。当時はターンアラウンドの教科書などなかったのだ。

佐藤一斎の門下で塾頭をつとめた俊才であり、佐久間象山と並んで「佐門の二傑」と呼ばれた存在であったが、象山ほど世に知られていない。だが性格は真逆で、しかも人物としては、方谷ははるかに象山を上回る存在であったというべきだろう。 方谷が陽明学に傾倒したのに対し、象山は朱子学に徹底的にこだわった。

(帯のウラ)

司馬遼太郎の長編小説『峠』の主人公は、長岡藩の家老として戊辰戦争を戦った河井継之助だが、その継之助が内弟子として親しく教えを受け、死の直前まで心底から敬っていたのが山田方谷である。そう言えば、ああ、あの人かとわかるのではないだろうか。 

そんな山田方谷の盟友として人生を伴走したのが、著者の先祖にあたる庄屋の矢吹久次郎であった。本書は、山田方谷が矢吹久次郎にあてた密書を含む書簡を一次資料とし、残された漢詩から山田方谷の心情をさぐった評伝である。 山田方谷の情報網は、やり手の商売人でもあった矢吹久次郎にあったらしい。

(河井継之助 Wikipediaより)

陽明学というと、先に名を出した河井継之助だけでなく、大塩大塩中斎や西郷隆盛がすぐ連想される。だが、それだけが陽明学ではない。そのことを一身で示したのが山田方谷の生涯というべきだろう。 

方谷は陽明学そのものも突き抜けて、「活学」としての自分自身の哲学を作り上げていたというべきかもしれない。朱子学をベースに陽明学を修めていただけでなく、禅仏教や老荘思想の影響も受けていた博識の人であった。


■「ナンバー2」としての生き様

山田方谷がかつて師として教え、かつ「ナンバー2」として仕えた藩主の板倉勝静(いたくら・かつきよ)は、松平定信の孫であった。定信はまた八代将軍吉宗の孫である。

藩主の絶対的な信頼のもとに全面的に任されていたからこそ、山田方谷は大胆な改革を実行することができたのだ。いわば同志的結合である。 

(板倉勝静 Wikipediaより)

分析力と洞察力に富み、幕府の命運が長くないことを早くから予見していた方谷の反対にもかかわらず、「最後の老中」として徳川幕府と命運をともにした、「ナンバー1」である藩主との愛憎に満ちた関係。その結果、板倉勝静と備中松山藩は「朝敵」とされてしまう。

四方を新政府側に包囲されるという苦難に満ちた状況のなか、山田方谷は「無血開城」を実現する。長州藩にさきがけて農民兵を組織し、西洋式軍隊を常備していた備中松山藩だが、冷静な計算のもとに無用な衝突を避けることに成功した。

この点は、新政府側に中立を拒否されたため徹底抗戦の末に敗れ去り、結果として長岡を廃墟にしてしまった河井継之助との違いが大きく現れている。

継之助の墓碑銘の執筆を関係者からたのまれた山田方谷は、弟子の非業の死に筆をとることができなかったという。碑銘を書いたのは、方谷の一番弟子であった三島中洲である。

板倉勝静と山田方谷という主従関係を軸にした幕末史もまた、一般に流通している官軍サイドの幕末史とは違った側面から歴史を読む面白さがある。

財政立て直しの手腕が買われて、維新政府から6年にわたって何度も出仕を求められたが、最後まで断り続けた。その理由もまた興味深い。慶喜の直属の家来であった渋沢栄一との違いである。 

すぐれた手腕を示し、信念を貫き、見事なまでの出処進退を示した山田方谷であった。だが、私生活にはかならずしも恵まれなかったようだ。まあ、人生とはそういうものかもしれない。成功した経営者もそうであるが、偉人とよばれる人の多くがそうであるのと同様に。 

ずしりと重いこの本を読み終えて、人間の生き方、生き様にかんして、さまざまなことを考えている。そうさせるだけの人物が山田方谷であった。 


画像をクリック!


目 次
序文にかえて
第1章 もとめるは陽明学
 1 神童といわれて /2 両親の死、家業を継ぐ 
 3 儒教と武士道 /4 京都遊学
 5 武士への出世とおかげ参り
 6 陽明学との出会い /7 師の白鹿との対立
 8 江戸へ、佐門の塾頭 /9 佐久間象山の登場
 10 死をみつめて /11 藩校有終館学頭となって
 12 アヘン戦争勃発
 13 若き獅子たち /14 幕府諸藩の改革
第2章 風塵の嵐「藩政改革」 
 15 世子の御国入り /16 変身
 17 元締役拝命 /18 衝撃地帯
 19 帳簿公開 /20 節約令と産業振興
 21 藩札の改新 /22 文武奨励
 23 黒船襲来 /24 改新は進む
 25 方谷の危機 /26 火宅の人、方谷
 27 寺社奉行勝静の誕生
 28 安政の大獄と、勝静の失脚
第3章 幕末の政治顧問 
 29 孤灯の家 /30 河井継之助の来訪
 31 桜田門外の変 /32 勝静、幕閣に返り咲く
 33 老中勝静の政治顧問 /34 舞台は京都へ
 35 大政奉還と方谷の密書
第4章 明治維新 ― 森の人方谷 
 36 国破れて山河あり /37 江戸城開城と勝静流転
 38 青き竜、河井継之助の咆哮 /39 勝静の自首と藩再興
 40 新しい出発 /41 閑谷学校よ再び
 42 再会、勝静の来訪と久次郎の死
 43 春風と共に帰っておいで、生徒達
あとがき

著者プロフィール
矢吹邦彦(やぶき・くにひこ)
1940年、石川県加賀市塩屋生まれ。本籍、鳥取県日野郡阿毘縁。京都大学文学部社会学科卒。長きにわたるビジネスマン生活に別れをつげ、2000年4月より山田方谷の故郷・岡山県高梁市にある吉備国際大学教授に就任(新設された政策マネジメント学部および社会学部で、吉備文化論・実践マネジメント・実践マーケティング論を講義)。中小企業診断士(2004年刊行の著者につけられたプロフィール)


<ブログ内関連記事>








(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2021年11月30日火曜日

書評『「論語と算盤」 渋沢栄一と二松学舎 ― 山田方谷・三島中洲から渋沢栄一への陽明学の流れ』(学校法人二松学舎編、朝日新聞出版、2021)― なるほど渋沢栄一は「陽明学」の影響を受けていたわけだ

 

2021年度のNHK大河ドラマ「青天を衝け」も終盤に入ってきたいま、こういう機会を逃すのはもったいないので、つい最近知ったばかりの『「論語と算盤」 渋沢栄一と二松学舎 - 山田方谷・三島中洲から渋沢栄一への陽明学の流れ』(学校法人二松学舎編、朝日新聞出版、2021)という本を読んだ。  

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一だが、教育事業に大きく関与していることは、その学校の関係者ならよく知っていることだろう。主要なものとして一橋大学、日本女子大学、そして二松学舎大学がある。いずれも渋沢栄一が大きく関与して、現在につながっている大学だ。 

自分自身は一橋大学の関係者だがが、二松学舎大学の関係者ではない。にもかかわらず、この本はじつに面白かった。 この本を見つけて読んだのはじつに正解だった。

というのは、「論語と算盤」で有名な渋沢栄一の「道徳経済合一説」は、二松学舎の創設者で陽明学者の三島中洲の「義利合一論」と密接な関係があることが本書で示されているからだ。ここでいう「義利」とは「義理」のことではなく、儒教の徳目である「義」と「利」の組み合わせである。

どちらが先行しているかはわからないが、「道徳経済合一説」と「義利合一論」は、互いに影響を与えながらシンクロし、共鳴しあって育っていった思想である。このことが説得力をもって語られている。 

備中松山藩で藩政改革を主導した陽明学者・山田方谷(やまだ・ほうこく)の弟子であった三島中洲水戸学の影響下にありながら陽明学の大きな影響を受けていた渋沢栄一。山田方谷は、長岡藩の河井継之助がその下で学んだことでも有名だ。 司馬遼太郎の歴史小説『峠』の読者なら知っていることだろう。

渋沢栄一と三島中洲の二人は、ともに富農出身で漢学の素養も深かった

だが共通点は、それだけでなかった。それぞれ、渋沢栄一は西欧文明のなんたるかをフランス滞在中に肌身をつうじて感じ取って帰国後には大蔵省で仕官し、三島中洲は語学はできなかったものの司法省でフランスの法学者ボワソナードのもとで民法典の編纂に従事していた。
 
共通の友人(=玉乃世履 たまの・せいり)をつうじて若き日からの知り合いであった。 渋沢栄一は、三島中洲の私塾であった漢学塾・二松学舎の経営を引き継いでいる。

陽明学者・山田方谷の弟子である司法官・三島中洲が唱えていたのが「義利合一説」。実業の世界での渋沢栄一への陽明学の実践。この両者が互いに影響し合い、かの有名な「道徳経済合一説」が生まれたわけである。 

なるほど、そういう流れがあったわけかと大いに納得する。

陽明学というと、三島由紀夫や彼が礼賛する大塩平八郎や、大塩の影響を受けた西郷隆盛などが連想されるが、「知行合一」といっても革命の実践だけが実践ではない経済や財政における「知行合一」の実践もまたきわめて重要なのである。 

むしろ、後者の経済や財政のほうが重要といえるだろう。なぜなら、人間生活においては有事よりも平時のほうがはるかに時間的なウェイトが大きいからであり、なんといっても経済のもつ意味合いは政治よりも大きい人の上に立つリーダーとして心しなければならない重要事項である。

タイトルだけみたら、二松学舎の関係者ではない自分が手に取ることはまずなかっただろうが、読んでみてこれは予想外に良書であることがわかった。思わぬ収穫であった。 

読みやすく、内容がよく整理され、かゆいところにも目配りきいた新書サイズの本である。関心のある人にはぜひ薦めたい1冊だ。 


画像をクリック!


目 次 
刊行に寄せて 
プロローグ 『論語と算盤』の絵と由来
第1章 山田方谷-幕末の大改革者
 1. 山田方谷とは
 2. 山田方谷の改革
 3. 山田方谷の改革の評価
 4. 幕府瓦解と備中松山藩
第2章 三島中洲-漢学者・漢学塾二松学舎の創設者
 1. 明治維新以前
 2. 裁判官・法学者としての三島中洲
 3. 二松学舎の創設
 4. 二松学舎創設期の門人
第3章 渋沢栄一-資本主義の父は「社会福祉事業の父」でもあった
 1. 富農階級出身の渋沢栄一
 2. 一橋家とのかかわり
 3. 官吏として資本主義のインフラを整備
 4. 実業家、渋沢栄一の誕生
第4章 山田方谷・三島中洲・渋沢栄一の思想-陽明学の系譜
 1. 山田方谷と陽明学
 2. 三島中洲と渋沢栄一の邂逅
 3. 三島中洲の「義利合一論」と渋沢栄一の「道徳経済合一説」
 4. 利益追求と道徳律の両立
 5. 西欧ではどう考えられてきたのか
 6. 「道徳経済合一説と「義理合一論」の現代的意味
第5章 山田方谷・三島中洲・渋沢栄一-三人の絆
 1. 山田方谷・三島中洲の故郷岡山県と二松学舎との絆
 2. 渋沢栄一恩顧の大学のつながり
エピローグ
結びに
主な参考文献


<ブログ内関連記事>






(2021年12月4日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end