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2024年8月7日水曜日

ベンガル出身で日本国籍のバングラデシュ人が書いた本を読んで、近代以降のベンガルと日本の深い絆を再確認する(2024年8月7日)ー すべては詩聖タゴールと岡倉天心の出会いと深い交流から始まった


 
バングラデシュ情勢が流動化している。 学生が主体のデモが数百人の犠牲を生んだすえに暴動に発展し、一昨日(2024年8月5日)にはついにハシナ首相が退陣して国外脱出という事態になった。

ハシナ元首相にかんしては、10年以上前のことになるが、東京で開催された海外直接投資のセミナーで見たことがある。小柄だがエネルギッシュな女性であった。フィリピンのアロヨ元大統領もそんな感じだったな。

そんな元首相も、長年にわたって統治をつづけるうちに権威主義低傾向が強まり、軍隊をつかって反対派の声を封じる挙にでて、その結果かえって大きな抵抗運動を生み出すにいたったのであろう。

今後のバングラデシュ情勢は要注視である。現在は首相退陣に大きな役割をはたした国軍が治安維持を行っているが、平和裏に総選挙が実施されることを願うばかりだ。

すでにヒンドゥー寺院襲撃など少数派への暴力行為が発生していると報道されている。民主主義の枠組みのなか、選挙をつうじて過激なイスラーム主義者に乗っ取られないことを望みたい。

バングラデシュといえば、発展途上国のソーシャルビジネスを支える「マイクロクレジット」の生みの親で、グラミン銀行の創設者で元総裁のユヌス博士のことは知っている人も少なくないと思う。2006年にノーベル平和賞を受賞している。  

ユヌス博士は、崩壊した前政権と対立して総裁退陣を余儀なくされていた。学生の熱い支持のもと、再浮上してきたのがムハマド・ユヌス氏だ。ユヌス氏は「(1971年のパキスタンからの独立につぐ)第二の解放だ!」という第一声を発している。84歳のユヌス氏は、暫定政権の首相になることが期待されている。





■在日バングラデシュ人という視点

 さて、こんなときだからこそ積ん読となっていたバングラデシュ関連書を読む絶好の機会である。 

まずは、『パンツを脱いだその日から ー 日本という国で生きる』(マホムッド・ジャケル、ごま書房新社、2022)という本から。副題には「日本社会の一員となったバングラデシュ人の物語」とある。  

大学に入るため日本にはじめて来て銭湯に入った際、番台のオバチャンから言われたのが、「パンツを脱ぎなさい!」という一言。 この一言が、人前ではハダカにならない文化に育った著者のプライドを崩壊させ、そして同時に日本人に生まれ変わった瞬間であった、と著者は回想している。 

貧困国のバングラデシュに生まれ育ち、不法滞在していた兄の影響もあって「憧れの国」日本にやってきた若き著者の苦労の物語

転々と職を変え、日本社会で生きる苦しさを味わいながらも、残り物には福があるというべきか、最終的に著者は日本企業ハクキンカイロの正社員となり、バングラデシュ人と結婚しながらも日本国籍を取得することに成功する。

ムスリムでありながら酒が好き、バングラデシュ人の妻と結婚する前のことであるが、惚れやすい体質など、なかなか人間くさい人物のようだ。


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目 次
まえがき 
第1章 バングラデシュに生まれて 
第2章 日本への旅立ち前夜 
第3章 日本という国で生きる 
第4章 日本の人たちと関わって 
第5章 日本人のひとりとなって 
第6章 日本とバングラデシュの架け橋へ

著者プロフィール
マホムッド・ジャケル(Mahmud Jaker)
1972年、バングラデシュ独立戦争中に生まれる。フェニ県ダゴンブィヤンプロショバゴニプル村出身。アジアの最貧困と言われたバングラデシュで青春期を過ごし、1994年4月に来日。出稼ぎも兼ねた外国人留学生として日本語を学び、城西国際大学人文学部(千葉県東金市)に入学。在学中にバングラデシュの現状を訴えたスピーチで、「留学生日本語弁論大会」NHK大阪社長賞を受賞。また翌年には「留学生スピーチコンテスト」で毎日新聞社賞を受賞。卒業後は外国人労働者として、仕事を転々としながら入国管理局や大阪府警察本部などで民間通訳人(日本語ーベンガル語)も担当する。2003年にはハクキンカイロ株式会社に入社し、現在に至る。仕事の傍ら、バングラデシュ人留学生に日本生活情報支援を行い、2019年にはNPO法人関西バングラディシュソサイエティ(KBS)を設立。日本とバングラデシュの架け橋になるため、在日バングラデシュ人には日本の文化を、日本人にはバングラデシュの文化を伝えている。また、現在は日本国籍を取得している。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



■インドの詩聖タゴールはバングラデシュでも絶対的存在 

それにしても印象的なのが、全編にわたって「タゴールの詩句」が何度も引用されることだ。数えてみたら13箇所もあった。 

ラビンドラナート・タゴール(1861~1941)は、英国の植民地時代のインドが生んだ、インドを代表する詩人で万能のアーチストである。 「詩聖」として讃えられている。

アジア人ではじめてノーベル賞(文学賞)を受賞した人だ。日本でいえば大正時代のことであり、日本でもタゴールのブームが巻き起こったらしい。 日本にもなんども来日している。

母語であるベンガル語で書いた詩集『ギーターンジャリ』(=歌の捧げ物)をみずから英語にした詩集が受賞対象となった。 

ベンガル語は、インド北東部のベンガル地方でつかわれていることばだが、ベンガルはインド独立後にイスラームとヒンドゥー教が「宗教分断線」となって、ムスリムが多数派のバングラデシュとヒンドゥー教徒が中心のベンガル州に分離されてしまったのである。

タゴールというとインドという連想があるのだが、じつはベンガル語地帯のバングラデシュでも、きわめて大きな存在であることが、この本を読んでよくわかった。バングラデシュの国歌もタゴールの詩に曲をつけたものだという。インドの国歌については言うまでもない。

というわけで、森本達雄訳註の『ギタンジャリ』(第三文明社レグルス文庫、1994)も引っ張り出してきて一緒に読む。

岩波文庫その他にもベンガル語からの訳と英語版からの訳が収録されているが、レグルス文庫版では英語原文も収録されているのがいい。  





■近代以降のベンガルと日本の深い絆を再確認する

そんなバングラデシュも含めたベンガル地方と日本の関係は、近代に入ってからだが、じつに深くて熱いものがあることは、日本人全体の常識にしておきたいものだ。 





在日30年で、日本語に堪能な日本国籍のバングラデシュ知識人が書いた本だ。 

このテーマは自分としては、昔から比較的よく知っている。「悲惨なインパール作戦、インドからはどう見えるのか 「形を変えて」インド独立につながっていた」 という記事も書いたことがある。

だが、本書を通読してみて思ったのは、じつによく調べ、じつによくまとまった良書であると感じた。日本人こそ読むべきだと大いに薦めたい。 

なによりも、バングラデシュ人である著者が、ベンガル人として書いた本であることが重要だ。カバーの肖像写真はタゴールである。 

岡倉天心とタゴールの出会いと深い友情から始まった日本とベンガルの歴史は、「中村屋のボース」ことラス・ビハリ・ボース、そしてインド独立を軍事面から推進したチャンドラ・ボースを経て、法律専門家として中立的立場から東京裁判でA級戦犯の無罪を主張したパル判事などにつながっていく。 

もちろん、タゴールとの出会いの前には、ラーマクリシュナの高弟であったヴィヴェーカーナンダと天心との出会いがあったことは記しておかないといけない。残念ながら体調を崩していた彼を日本に招致することは叶わなかった。

また、詩聖タゴールは5回も来日しており、日印協会の会頭を務めていた渋沢栄一との交流も特記しておくべきだろう。1924年(大正13年)には、「タゴール歓迎有志会総代」としてタゴールをもてなしている。タゴールは日本女子大創設者の成瀬仁蔵からの紹介であった。


(東京王子の「渋沢資料館」の展示 筆者撮影)


著者は言及していないが、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティヤ・セン博士もこの系譜に加えるべきであろう。セン博士は英国のケンブリッジ大学教授だが、タゴールが創設した学校で学び、日本との関係も深い方だ。 

日本とベンガルとの関係は、このようにじつに深くて熱いのである。だからこそ、バングラデシュでは日本への憧れがあり、『パンツを脱いだ日』の著者も来日して日本国籍を取得するに至っているのである。 




バングラデシュの国旗は、緑地に赤丸であり日の丸と酷似(・・ただし、バングラデシュの赤丸は太陽ではなく、1971年の独立戦争で流された血を象徴しているという)しているのも、その現れであろう。

とはいえ、さまざまな人間関係があることは承知の上であることは言うまでもない。父親がバングラデシュ人の女性タレントがいることは、意外と知られていないかもしれない。

その一方、2016年の「ダッカテロ事件」で日本人援助関係者7人が虐殺されたことも、また「イスラーム国」に身を投じた過激なイスラーム主義者のテロリストが日本留学組から生まれていることから、目をそらすべきではない。

それでもなお、ベンガル人と日本人の絆を確認しておきたいのである。 



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目 次
はじめに 
第1章 日本とベンガルの交流のはじまり 
第2章 タゴールと岡倉天心 
第3章 ラス・ビハリ・ボースと日本 
第4章 受け継がれる「独立」への意志 
第5章 チャンドラ・ボースとインド国民軍 
第6章 「パル判決書」の歴史的意義 
第7章 バングラデシュ小史 
特別対談 ペマ・ギャルポ × シャーカー 
おわりに 
主要参考引用文献

著者プロフィール
プロビール・ビカシュ・シャーカー(Probir Bikash Sarker)
1959年、バングラデシュ・コミラ県生まれ。チッタゴン国立大学歴史学部卒業。大学在学中、中曽根首相時代の「留学生10万人計画」により1984年来日。日本の印刷技術と出版業を学び、1991~2002年、日本で初めてのベンガル語情報誌『月刊マンチットロ』出版。2007~2014年、ベンガル語子ども新聞『月刊キショルチットロ』編集長。タゴール研究家、出版者、編集者、作家、日本語法廷通訳。現在、アジア自由民主連帯協議会理事、岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


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・・ベンガル系の家族に生まれたヨーガ指導者

・・「在日バングラデシュ人の起業家ユヌス・ラハマンも 『おカネを取るヒト 取られるヒト』(H&I、2005)という本で、カネの重要性と人間の生き方について書いている。」



・・ユヌス博士が登壇

2010年7月23日金曜日 


・・チャンドラ・ボースと「インド国民軍」は、日本軍とともにインパール作戦に参加した


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2023年9月17日日曜日

書評『インド仏教はなぜ滅んだのか ― イスラム史料からの考察(改訂版)』(保坂修司、北樹出版、2004)― ヒンドゥー教のカースト制を否定するマイノリティの仏教徒は、神の下での平等を説くイスラームに改宗した



「なぜ本家本元のインドで仏教が滅んだのか?」。この疑問を抱く人は少なくないはずだ。

ヒンドゥー教の影響を受け、密教まで発展した大乗仏教。だが、インドが征服王朝であるイスラーム王朝の統治下で「イスラーム化」が進行するなか、非暴力で寛容の精神を説くがゆえに、暴力を前にしたときに、残念ながらなすすべがない仏教は生き延びることができなかった

そんな簡単な説明で片付けられることが多い。わかったようで、わからない説明だ。

なぜなら、なぜインド全体がイスラーム化されなかったのかイスラーム王朝のもとにおいても、インド人のマジョリティはヒンドゥー教でありつづけたではないか。現在にいたるまで多種多様な宗教が混在するインドで、なぜ仏教だけが衰退したのか?

そんな反論がすぐにでてくるだろう。

『インド仏教はなぜ滅んだのか-イスラム史料からの考察-(改訂版)』(保坂修司、北樹出版、2004)という本がある。

一般人が疑問に思いながらも、学者が本腰を入れて研究することのなかった「仏教衰退」を、宗教が社会生活そのものであるインドの文脈において、しかもイスラーム史料から解明しよう治した大胆で魅力的な「仮説」が展開されている。

著者十数年間の苦闘の成果というだけでなく、大いに説得力のあるものだと思った。

数年前に読んだ本だが、ブログにアップ機会を失していた。いまあらためて書き直し、アップすることにしたい。


■「ヒンドゥー教地域」ではなく「仏教地域」がイスラーム化した

本書において提示される事実が、じつに興味深い。それは、「ヒンドゥー教地域」ではなく「仏教地域」がイスラーム化したという事実だ。

仏像がはじめて製作されたのは、アレクサンドロス大王の東征によってギリシア文明がおよんだガンダーラ地方であるというのは、よく知られていることだ。

この地域はいずれもイスラーム化されている。中央アジア(=アフガニスタン)とインド西部(=現在のパキスタン)である。21世紀初頭にイスラーム原理主義のタリバーンによって破壊されたバーミヤン大仏はアフガニスタンにあった。

そして、インド東部(=現在のバングラデシュ)もまたイスラーム化された地域である。インドが英国の植民地支配から独立した際、西部と東部のイスラーム地域がパキスタンとして分離独立した。バングラデシュが1971年に独立するまで「東パキスタン」であった。

つまり、イスラーム化されたのは、インドの西と東の辺境地帯なのである。もちろんその他の地域にもムスリムは居住しているが、集団として居住していたのはこれらの地域である。

よく知られているように、仏教はバラモン教が前提とする差別構造を否定した教えである。そして、一神教のイスラームもまた「神の下の平等」を説く教えである。ヒンドゥー世界の差別構造を否定した宗教という点において、仏教とイスラームには共通性がある。

バラモン教の末裔であるヒンドゥー教は、多神教というだけでなく、カースト制という差別構造を温存してきた。

この事実から引き出されるのが、著者による「仮説」である。

インドのイスラーム化が進行するなか、13世紀には大乗仏教信者は消極的にイスラームを受容し、その結果、仏教はインドで消滅したというものだ。

イスラム統治下で生き延びるために必要だったのである。スーフィーたちの布教活動によって集団改宗したのであろう、と。おそらく、二世代目以降はイスラームへの「同化」が進行していったのであろう。

説得力のある「仮説」である。ただし、イスラーム王朝であったムガル帝国において、アクバル帝は「宗教寛容政策」を実行したではないかという反論もありうるだろう。

イスラームが国教化されたバングラデシュには、全人口の1%弱ときわめて少数だが、いまなお初期仏教を伝承する仏教徒がいるではないか、仏教の姉妹宗教といわれることもあるジャイナ教は現在までインドで生き残っているではないか。そんな批判もあるだろう。だから、あくまでも「仮説」として受け取るしかない。

いずれにせよ、インドではイスラームが大乗仏教にとって変わり、大乗仏教はインドではほぼ滅亡した。大乗仏教の最終形態である密教は、インドからヒマラヤ山脈を超えたチベットで栄えることになる。中国経由で空海が持ち帰った日本でも栄えることになった。

西からやってきたインド亜大陸まで進出したイスラームは、その後は陸路ではなく、イスラーム化したインド商人たちによって、海路で現在のマレー半島やインドネシア、フィリピン南部まで普及していくことになった。

また、イスラームとヒンドゥー教の融合によって、平等を説いたシク教を生み出したことにも触れておく必要があるだろう。日常的にターバンを巻いている人たちである。


■宗教がいまでもに熱い「中洋」という地域

注意しておかなくてはならないのは、「宗教」という日本語では、捉えきれないものが「宗教」にはあるということだ。

これは、大宗教発生のゆりかごともいうべき「中東インド世界」について考える際に重要となってくることだ。

この地域は、梅棹忠夫の『生態史観』にならって、インド亜大陸を中心にした「中洋」とよぶべきだろう。インドには西からイスラームが押し寄せてきたのである。

イスラームは、生活全体を律するきつい法体系であり倫理体系である。イスラーム化された地域では、完全にイスラームの生活体系に服すことが求められるのであって、例外はない。その点が、土着の信仰と習合しやすい、ゆるい仏教世界とは違う

イスラームがマジョリティとなった地域では、イスラーム以外の宗教は存在は認められても劣位に置かれた。原則として認められるのはズィンミー、すなわち「啓典の民」とされるユダヤ教徒キリスト教だけである。現在では、イスラーム主義者の台頭により、イスラーム以外の宗教への攻撃は高まりつつある。


■現在なおインドは一神教と多神教が直接対峙する「最前線」

現在のインドは、ヒンドゥー教徒がマジョリティを占める社会である。分離独立に際してムスリムがマジョリティーを占める西部と東部と分離された結果である。

とはいえ、14億人の人口をもつインドだが、現在なお1億人以上のムスリム人口を抱え、ヒンドゥー教徒との「宗教暴動」が絶えることがない。宗教暴動は、英語では communal violence という。宗教共同体が地域共同体とイコールだから発生する事態である。

現在のモディ政権は「ヒンドゥー至上主義」政党であり、マイノリティとなったムスリムへの締め付けが厳しい。多神教のヒンドゥー教 vs 一神教のイスラーム。

「宗教のるつぼ」であるインドだが、インドはまさに「一神教」と「多神教」が直接対峙しせめぎ合うホットスポットであり最前線なのである。

この点はよく理解しておくことが必要だ。けっして過去の話ではないのである。


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目 次
改訂版序文
序文
第1章 宗教とは何か
第2章 インド仏教衰亡説の検証
第3章 イスラム史料『チャチュ・ナーマ』とは
第4章 『大唐西域記』と『チャチュ・ナーマ』の対照研究
第5章 西インド社会と仏教
第6章 イスラム教のインド征服と仏教
第7章 最初期のインドのイスラム教
第8章 他地域における仏教の衰亡
第9章 比較文明論からの考察
第10章 社会変革の手段としての改宗
第11章 アメリカの社会と宗教
第12章 結論


著者プロフィール
保坂俊司(ほさか・しゅんじ)
1956年群馬県渋川市出身。早稲田大学大学院文学研究科修了。現在、麗沢大学国際経済学部教授、早稲田大学政治経済学部非常勤講師、財団法人東方研究会・東方学院講師、財団法人モラロジー研究所研究員。著書に『シク教の教えと文化』(平河出版社)『イスラームとの対話』(成文堂)など多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに情報追加)



<関連サイト>

・・それぞれベンガル語版もある


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・・不可触賎民出身のアンベードガル博士の「仏教復興」の志をつぎ、インド仏教徒の頂点に立つ日本人・佐々井秀嶺師








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2010年2月4日木曜日

岡倉天心の世界的影響力 ― 人を動かすコトバのチカラについて

      
    
 岡倉天心について書いておきたいことがある。これほど誤解されている人物もほかにはいないのではないかと思えるからだ。

 岡倉天心(1863-1913)は、本名は岡倉覚三(Kakuzo Okakura)、いわゆる明治初期の「英語名人世代」の人である。英語は横浜で直接外国人から学んだが、一方で漢文もよくし、著作は英語と日本語の双方で行っている。

 美術行政にかかわる文部省の役人としてキャリアを開始した人だ。商品としての日本美術の輸出促進を行政の立場で行った。しかし、東京美術学校校長から追われた後、民間人として日本美術院を旗揚げ、横山大観や菱田春草などの日本画家を育成したことで著名である。

 ボストン美術館から招聘されて東洋美術部門の主任として渡米、滞米中の英文著作 The Book of Tea(茶の本)を出版、当時のベストセラーになっている。いや、現在にいたるまでロングセラーである。

また、米国だけでなくインド、とくにベンガルには深く関わったことは、インドの詩聖タゴールとの交友だけでなく、宝石の声なる人プリヤンバダ・デーヴィーとの秘めた恋など、人間臭い側面もしっておくべきだろう。

 「知の人」ではあったが、何よりも「情の人」、であった。


岡倉天心といえば、なんといっても「アジアは一つ」(Asia is One)というコトバが有名だ。このコトバは日本美術史にかんする英文著作『東洋の理想』(The ideal of the East with Special Reference to the Art of Japan, 1903)の冒頭のコトバである。

 私はこの Asia is One というコトバを米国で生活した二年間で、心の底から実感した。一言でいえば、アジア人としての覚醒を経験した、ということになろうか。

 人はよく、日本を離れて米国にいくと、日本が良く見えるという。自分の場合はそうではなく、アジア人としての覚醒であったのは、日本にいたときからもともと日本人としての自覚を強くもった人間だったからだ。大学の卒論で「ユダヤ史」などをやったからだろう。このテーマを扱うと、自分のなかの民族意識について自覚的にならざるをえない。

 幸いなことに私がいった大学院は理工系ということもあって日本人比率が小さく、いたのは韓国人、台湾人、中国人(米国国籍の華人を含む)を中心に香港人、マレーシア(大半が華人)、日系人(ハワイ出身とか日本語がしゃべれないブラジルの人間もいる)、タイ人、フィリピン人といった具合であった。ヒンドゥー教徒のインド人、シーク教徒のインド人、イスラームのパキスタン人も多いが、東南アジア人も含めた東アジア人とはかなり異なる。それでも、やはり彼らは広い意味のアジア人である。

 彼らとの交友をつうじて、アジア人としての自己を発見アジア人としての自覚に目覚めたのは、何よりも留学生を通じて多くのアジア人とつきあったことが大きい。「アジアは一つ」ではない!と得意げに主張する人も少なからずいるが、地球全体のなかでみれば、やはりアジア性というものが存在するといわざるを得ない。多様のなかの統一、それが「アジアは一つ」ということの意味である。



 滞米中、岡倉天心ゆかりのボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)のミュージアム・ショップで、The Book of Tea を購入した。当時でUS$2.95、Dover Publication から出版されているペーパーバックである。

 研究者によれば、同書は米国人によるネイティブ・チェックもしてもらっているとのことだが、英語を母語としない人が書いたとは思えない、流れるように美しい英語で、同じく「英語名人世代」の内村鑑三のゴツゴツした文体とも、新渡戸稲造の装飾過剰な文体とも、まったく異なるものだ。

 The Book of Tea(1906) は、現在でも英語から世界各国語に翻訳されてロングセラーを続けている。日本人が英語で書いた本ではもっとも売れた本ではないだろうか。

 日本では『茶の本』と題して、日本語訳ばかりが何度も訳者を替え、版を替え出版されているが、原文はあくまでも英語である!ということを強調すべきである。岡倉天心は、世界の読者に向けて、あえて最初から英語で書いたのである。

 
 ところで、先に紹介した『醜い日本の私』(中島義道、新潮文庫、2009)第2章「欲望自然主義」には、「世間」についてこういうことが書かれている。

 むしろ、それは、前後左右から自分を突き刺す他人(世間)の視線を気にかけた欲望の実現であって、それこそこの国では自然な欲望追求の仕方なのだ。
 日本的自我は、はじめからそして。徹底徹尾他人の視線のもとにある。ハイデガーの言葉をもじれば、まさにそれは「世間=内=存在」である。・・(後略)・・ (*引用は、同書P.84 太字は引用者=さとう)

 これだけ見ればなかなか鋭い指摘なのだが、ここで哲学者ハイデガーのコトバを持ち出すのは、あまり意味のないことなのである。なぜかというと、ハイデガーは、日本語に訳された表現では、人間存在のことを「世界内存在」というコトバを使って表現しているが、ハイデガーはこのコトバを岡倉天心の『茶の本』からパクったらしいのだ。

 美学を専攻する哲学者・今道友信は、イスラーム神秘哲学の世界的権威であった井筒俊彦との対談でこういうことを述べている。

井筒 そういえば、ハイデガーと禅なんかを比較する人はずいぶん多いですね。あれどうお考えになりますか。
今道 ハイデガーというのは例のダス・イン・デア・ヴェルト・ザインにしても独創ではありません。1890年代に出た岡倉覚三の英文の『茶の本』の「ビーイング・イン・ザ・ワールド」というのが最初に1908年かに独訳されたときにダス・イン・デア・ヴェルト・ザインと訳されましてね、独訳の『茶の本』はインゼル叢書にあって第一次大戦前後のベストセラーです。彼はそれを伊藤吉之助から貰い、あの語をそのまま取って黙っていたり、リヒャルト・ヴィルヘルムの訳した荘子や老子の書物から取った言葉を黙って知らん顔しているというところがありますしね、だからハイデガーを本当に研究しょうと思ったらハイデガ-のソースを考える必要がある。たしかに後期フッサールがあるでしょう・・・・
井筒 そうですね。
今道 それからもう一つはグノーシス、そしてまた、東洋の言葉ですね、テルミノロギーとしては東洋が多い。だから「ビーイング・イン・ザ・ワールド」というのは荘子の「処世」の訳なんですから、それを「世界内存在」なんてまた変に訳さないで、処世という言葉にもどしてくるぐらいのそれこそ思想史的なフレキシビリティーがないと、読んだってハイデガーはわからないことはたしかだと思いますね。
(出典:『叡知の台座-井筒俊彦対談集-』(岩波書店、1986)所収 Ⅱ 東西の哲学 P.122)


 ハイデガーは、岡倉覚三(天心)の英文著作『茶の本』(The Book of Tea)にある being in the world のドイツ語訳  das 》in-der-Welt-sein《  をそのまま黙って借用し、あたかも自分の独創であるかのように表現していた、ということらしいのだ。

 だから、「世界内存在」などと、もったいぶって訳された日本語表現は、実は「処世」であり、つまるところ「世間」のことにほかならない。

 岡倉天心が、どういう文脈でこのコトバを使っているのか、検証しておこう。

III. Taoism and Zennism 

But the chief contribution of Taoism to Asiatic life has been in the realm of aesthetics. Chinese historians have always spoken of Taoism as the "art of being in the world," for it deals with the present--ourselves.
(出典:The Book of Tea by Kakuzo Okakura)
http://www.sacred-texts.com/bud/tea.htm

 "art of being in the world,"、つまり道教でいう「処世」術のことなんですね。

 岡倉天心の「処世」が、ハイデガーの「世界内存在」に、そして中島義道の「世間=内=存在」にと変化しているわけだが、なんのことはない、「世間」のことをまわりくどくいっているだけなのである。


*****


 さて冒頭で触れた、「アジアは一つ」(Asia is One)に戻ろう。

 このコトバは、第二次世界大戦中、「大東亜共栄圏」の思想的根拠とされたと、いまでも一部の人からやり玉に挙げられているが、第一次大戦前に亡くなっていた岡倉天心の発想ではないし、もちろん岡倉天心の本意がそこにあったわけではない。しかしながら、このコトバが日本内外のアジア主義者たちを鼓舞してきたことまでは否定できない。

 たとえば、武力によるインド独立の道を選んだチャンドラ・ボースもベンガルの人であり、そういったアジア主義者の系譜のなかにあるといっていいだろう。

 先に引いた哲学者・井筒俊彦は、岡倉天心のコトバを引いて、イスラームのことを「騎馬の儒教」*と言っていたという。弟子でイスラーム哲学研究者の五十嵐一が著書のなかでそう書いている。五十嵐氏は、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳し、イランのアヤトッラー・ホメイニ師による「死刑命令」のファトワーに従ったバングラデシュ人に、筑波大学のキャンパスで刺殺されている。

 イラン王立アカデミー教授であった井筒俊彦が、1979年の「イラン革命」勃発後は日本に帰国し、西アジアのイスラームまで含めた、広義の「東洋哲学」を構想して日本語の著作として発表したのは、岡倉天心の「アジアは一つ」という発想が根底にあったと考えるべきであろう。


「騎馬の儒教」という表現は、『東洋の理想』(The Ideals of the East, 1903)に登場する。原文では "Confucianism on horseback" とある。このフレーズを含む一文は、"Islam itself may be described as Confucianism on horseback, sword in hand. となっている。実際に生活全般を律するイスラームの教えは儒教に近いことは『ハディース』の章句を見るとよくわかる。ブログ記事の「害に対して害で応じるな」と、ムハンマドは言った-『40のハディース-アッラーの使徒ムハンマドの言行録』より を参照。(2025年10月12日 記す)

 
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 しかしこのコトバ Asia is One は、アジア主義者を鼓舞しただけではない。あるヨーロッパ人の心を大きく動かしたのである。

 そのヨーロパ人とは、リヒャルト・クーデンドーフ=カレルギー伯爵。欧州共同体構想の生みの親である。伯爵の母は、よく知られているように、日本人・青山光子である。いわゆるミツコ(Mitsouko)、のことだ。ゲランの香水の名前として知られている。

 リヒャルトが提唱した「汎ヨーロッパ主義」(Paneuropa)とは、アジアが一つなのに、なぜ欧州が一つになれないことがあろうか、国家どうしが争うのではなく、「欧州は一つ」(Europe is One)になるべきなのだ、という主張である。

 第一次世界大戦後崩壊したハプスブルク帝国、すなわちオーストリア=ハンガリー帝国へのノスタルジーが念頭にあったようだ。また、彼が提唱した友愛精神(Brüderlichkeit)は、まわりまわって現在の日本の首相にも影響を与えている。

 ちなみに、シンガポール攻略作戦の総大将で、休戦交渉においてシンガポール駐在英軍司令官に Surrender ? Yes or No ? と迫ったといわれる山下奉文陸軍大将は、実はドイツ語畑出身で、オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官としてウィーンに駐在中、晩年のクーデンホーフ=カレルギー光子に会ったらしい。余談ではあるが、ふと思い出したので書いておいた。


 日本人だけでなく、ハイデガーやクーデンホーフ=カレルギー伯爵といった欧州人も動かしてきた思想の源泉が岡倉天心にある。この事実はほとんど知られないままになっているが、コトバ自体のもつ喚起力においてはメガトン級のものがあるといっていいだろう。

 これほどさように、コトバのもつチカラには大きなものがあるのだ。



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P.S. 茨城県の五浦(いづら)にあった、岡倉天心ゆかりの六角堂が「東北関東大震災」(2011年3月11日)による大津波で跡形もなく流されてしまった、という報道をみた。結局、一度も訪れることもなく・・・残念である。もちろん、大震災と大津波の犠牲者の方々のことを考えれば、文化財の流出など取るに取らぬものであるといっていいのかもしれない。

●参考サイト> 岡倉天心と五浦の地


PS2 映画 『天心』-岡倉天心と六角堂の復興支援の日本映画が作製公開された。

映画 『天心』公式サイト

復興支援映画 「天心」 公式ブログ

(2013年12月19日 記す)


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・・当然のことながら岡倉天心とボストンの知的世界との関係についても触れてある。幕末以来、ボストンと岡倉天心の生まれた横浜とは貿易をつうじて密接な関係がある

日印交流事業:公開シンポジウム(1)「アジア・ルネサンス-渋沢栄一、J.N. タタ、岡倉天心、タゴールに学ぶ」 に参加してきた

大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・
・・タゴールにもかわいがられたベンガル出身の世界的経済学者アマルティヤ・セン博士

アマルティア・セン教授の講演と緒方貞子さんとの対談 「新たな100年に向けて、人間と世界経済、そして日本の使命を考える。」(日立創業100周年記念講演)にいってきた

『大アジア燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』 (読売新聞西部本社編、海鳥社、2001) で、オルタナティブな日本近現代史を知るべし!

本日(2011年2月11日)は「イラン・イスラム革命」(1979年)から32年。そしてまた中東・北アフリカでは再び大激動が始まった
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内村鑑三の 『後世への最大遺物』(1894年)は、キリスト教の立場からする「実学」と「実践」の重要性を説いた名講演である
・・内村鑑三もまた「英語名人世代」の一人

(2013年12月19日 追加)


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