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2025年6月9日月曜日

「自力」あってこその「他力」ではないか? ― 『歎異抄』を読んで感じる違和感の正体をたしかめる。カギは清沢満之(きよざわ・まんし)にあり




違和感を感じたのは、「悪人正機」と「絶対他力」。この2点については、おそらく高校の倫理社会の授業でも取り上げられるテーマではないかと思う。 

前者の「悪人正機」にかんしては、1995年の「サリン事件」の際にも大いに論じられたはずだが、みなすっかり忘れてしまっているのだろうか。麻原彰晃のような大悪人も救済されるのか? そんな問いである。 

後者の「絶対他力」については、ある意味では「『歎異抄』原理主義」」といった印象をつよく感じる。 

信心としての発言ならわからなくはないが、日常生活に応用するにはムリがあるのではないか。「自力」で努力することの意味がわからなくなってしまうからだ。 


■清沢満之という知られざる哲学者 

なぜこうのように思うかというと、清沢満之(きよざわ・まんし)という、浄土真宗の大谷派(東本願寺)が生んだ僧侶で、知られざる哲学者の文章を以前から読んでいたからだ。 

わたしが読んでいたのは、『清沢文集』(岩波文庫、1928)である。清沢満之は、夏目漱石や西田幾多郎にも影響をあたえている。フランス現代思想を専門にしていた今村仁司氏が、晩年にほれこんで『現代語訳 清沢満之語録』(岩波現代文庫、2001)も出しているほどの存在だ。  




昭和2年(1927年)に創刊された岩波文庫だが、その翌年に出版されたのが『清沢文集』である。参考のために岩波書店のウェブサイトから内容を再録しておこう。


清沢満之(1863‐1903)は16歳で僧門に入り,東大哲学科を卒業,一高の教授となり,のち,東本願寺関係の教職についた.当時,本願寺が財を追うに汲々とし,既に親鸞の精神が失われ去られているのを見るに堪えず,筆と舌をもってその革新を叫んだ.すなわち明治精神主義の警鐘となった人である.


一向宗(=浄土真宗)中興の祖である蓮如によって400年にわたって封印されてきた『歎異抄』。これを再発見し、その意味を明らかにし積極的に評価したのが清沢満之である。

ただし、清沢は『歎異抄』だけでなく、初期仏典である『阿含経』とあわせてエピクテートスの『語録』を「予の三部経」として愛読していた。 

エピクテートスは、『自省録』のマルクス・アウレリウスに先行する古代ローマのストア派の哲学者。清沢満之はエピクテートと書いているが、英語版で愛読していたようだ。東大でフェノロサから直接ヘーゲルなど学んでいた清沢は、通訳ができるほと英語には堪能だった。





エピクテートスがその最たる存在だが、ストア派哲学においては、「自分でコントロールできるもの」と「自分ではコントロールできないもの」を分けて考えよと説いている。

これをさして、清沢満之は「如意」と「不如意」と書いている。「如意」とは「意のままになる」なので、「不如意」は「意のままにならない」を意味している。カネがないという俗語的用法のもともとの意味は、そういうことになる。 

エピクテートスを愛読していたということは、清沢満之は『歎異抄』でいう「絶対他力」には限定づけを行っていることになる。『歎異抄』絶対主義者ではないのである。精進や積善など「自力」の要素を否定していないのである。

自己啓発哲学にからめていえば、ある意味ではスピリチュアル系の「他力」を前提としながらも、セルフヘルプ的な修養、つまり「自力」を否定はしていないことになる。重要なことは、「自力」には限界があるということだ。

宗門に属していた「中の人」であったが、幕末に生まれた没落士族出身の清沢満之は、明治時代前期の「成功時代」の空気を吸っていた人物であり、哲学志向の持ち主ならでは、というべきではないだろうか。



■『歎異抄』に感じる違和感をたしかめる

内発的動機ではなく外的要因からではあったが、『歎異抄』をひさびさに読むことになったのも、これまたなにかの「仏縁」である、そう感じて購入したまま長らく積ん読のままにしてきた関連書を、つぎからつぎへと読んでみた。『歎異抄』をひさびさに通読して抱いた違和感の正体を確かめたかったからだ。 

*****


仏教をベースにした宗教学者の山折哲雄氏は、岩手県の浄土真宗の末寺の出身で、父親の布教先であるサンフランシスコで生まれた人。多作のこの人の本は、10代後半の大学学部時代以来これまで何冊も読んでいる。




『悪と往生』の原本は2000年の出版で、1995年のサリン事件がキッカケになったのだという。 弟子の唯円の聞き書きで構成された『歎異抄』と、親鸞自身の手になる主著『教行信証(きょう・ぎょう・しん・しょう)』との内容のズレを指摘し、「弟子というものは師を裏切るもの」だと書く。 

山折氏は、このテーマだけで『教えるえること、裏切られること ー 師弟関係の本質』(講談社現代新書、2003)という本を書いているが、あらためてその意味をかみしめている。  

*****

同時並行的に『地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし 小説 暁烏敏(あけがらす・はや)』(石和鷹、新潮文庫、2005)を読む。暁烏敏という名前は時々耳にするものの、どういう人か知らなかったので。 

 タイトルの「地獄は一定すみかぞかし」は『歎異抄』にでてくる有名なフレーズ。「地獄に落ちることはわかっているが、いまここの自分がいるところが地獄なのだ」という自己認識をを意味している。




暁烏敏は、門徒地帯である北陸の、金沢にも近い貧乏寺に生まれ、先に名前をだした清沢満之の弟子で、『歎異抄』を前面に打ち出した「破格の念仏僧」。 生きていた当時は、カリスマ的な人気をほこっていたが、スキャンダルまみれで毀誉褒貶あいなかばする人物であったようだ。

たしかに文学作品の素材としては面白いが、「悪人正機」をそのまま生きた人物であったといえるのかもしれない。 その意味では説得力のある説教者だったわけだ。

だが、この暁烏敏もまた、「弟子というものは師を裏切るものだ」という山折哲雄のテーゼそのままを地で生きた人物といえる。というのも、師である清沢満之の哲学的な側面を黙殺して、『歎異抄』を絶対化した人だからだ。自分の都合にあわせて、師の名前を利用したと言われても否定しようがない。 

*****

『清沢満之と日本近代思想 ー 自力の呪縛から他力思想へ』(山本伸裕、明石書店、2014)は、知られざる哲学者であった清沢満之について詳しく知ることのできる良書。一読してみて、清沢満之を知るには、まずこの本から始めるといいと思った。  




先にも触れたが、意外なことに清沢満之はお寺の出身ではない。勉強はできたが没落士族であったため、東本願寺の奨学金を得て、帝大になる前の東大で哲学を学んでいる。宗教哲学の開拓者たらんと意気込んでいたのである。

そのまま大学に残っていたら、西田幾多郎の前に「日本初の哲学者」になっていただろうという評価もある。 

「目次」は以下のようになっている。 

序章 清沢満之ー「神話」の形成とその解体 
第1章 人物と思想 
第2章 東京大学哲学科 
第3章 清沢満之のインパクト 
第4章 『歎異抄』の再発見 


清沢満之には、もっと注目があっていい。どうも「宗門の人」という固定観念ができあがってしまって、敬遠されてしまったままなのだろう。残念なことである。 


(清沢満之 Wikipediaより)



*****

『仏教の大東亜戦争』(鵜飼秀徳、文春新書、2022)は、京都にある浄土宗寺院の住職でジャーナリストの著者によるノンフィクション作品。  

明治維新にともなう「廃仏毀釈」で壊滅的な打撃を受けた仏教界が、いかに近代日本において国策を支える存在として機能してきたかをつぶさに検証している。 




なかでも大きな役割を演じてきたのが、豊富な資金力と閨閥によって明治維新体制の支配層とも密接な関係をもってきた、東西両本願寺の浄土真宗であることが明らかにされる。物心両面にわたって支配体制を支える一翼であったことは紛れもない事実なのだ。

戦国時代末期に一向一揆が壊滅的打撃を受けて以降は、その時代の支配層とたくみに折り合いをつけて生き抜いてきた教団である。

禅仏教と戦争協力の件については、禅宗各派が戦後ほっかむりしてきたことに対して、だいぶ前から糾弾されてきたが、戦争協力にあたって浄土真宗のはたした役割については、あまり知られていない。功罪両面にわたって冷静に受け止める必要がある。 

*****

このテーマとも関係があるのが、『親鸞と日本主義』(中島岳志、新潮選書、2017)。 この本の存在は出版当時から知っていたが、じつはつい最近まで黙殺していた。タイトルにあるこの組み合わせにあまり関心がなかったからだ。 

思想史家の中島氏は、近代日本とインドの関係についてのノンフィクション的研究書を何冊も出しているが、バーク以来の本来の意味としての「保守主義」の立ち位置から近現代の日本思想について積極的な言論活動を行っている人。

 特定の宗派には属していないが『歎異抄』を座右の書とし、自分は「門徒」である自覚している中島氏は、このテーマは他人事ではないとしている。 

わたしもそうだが、一般的に「日本主義」というと、どうしても「日蓮主義」のイメージが固定観念として濃厚にある。

田中智学の「国柱会」の影響下にあった軍人の石原莞爾などを想起するからだ。浄土宗の僧侶で作家の寺内大吉氏の『仮城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』(中公文庫、1996)などの印象が大きい。だから、中島氏のこの本は黙殺していたのだ。




 ところが、激しいアカデミズム攻撃をおこなったことで悪名高い蓑田胸喜(みのだ・ むねき)など『原理日本』の関係者は、いずれも親鸞主義者であり、「絶対他力」のロジックを国家神道体制のもとにおける「惟神(かんながら)」に援用している。このことは初めて知って驚いている。

『歎異抄』を戯曲化した『出家とその弟子』の著者である倉田百三が、後年は国家主義者に転じていること。

また、徹底的に弾圧された獄中のマルクス主義の運動家たちが、浄土真宗がその中心であった「教誨師」によって「転向」していること。 

先にも名前を出した暁烏敏が、浄土真宗の門徒たちを殺生をおこなう戦場に送り出すためのロジックを編み出して、ある種のイデオローグ(・・いやデマゴーグというべきか?)として煽りに煽った存在であったこと。(・・ただし、なぜか中島氏は、暁烏敏の手のひらを返したようなご都合主義的な敗戦後の「転向」については触れていない)。 

そんな事実がつぎつぎと明らかにされ、「日蓮主義」だけでなく、「親鸞主義」もまた「日本主義」や「超国家主義」を支えていたことを知った。

日本最大の宗派である浄土真宗の存在の大きさについては、日本近現代史を考えるうえで、無視できない重要な要素である。 今後は、「積極哲学」ともいうべき日蓮主義と、「消極哲学」ともいうべき親鸞主義の違い、近現代の日本におけるその意味について、考えていきたい。



 ■「『歎異抄』絶対主義」はきわめて危険 

話がだいぶ拡散してしまったようだが、結論としては「『歎異抄』絶対主義」あるいは「『歎異抄』原理主義」は、きわめて危険だということだ。400年前に蓮如が封印したのもわかる気がする。『歎異抄』は古典であるが、依然として取扱注意の危険な本なのだ。

「絶対他力」は信心の世界では可能かもしれないが、現実の日常として生活をおくるうえでは不可能である。精進や積善というと古くさいニュアンスがあるが、すこしでも自分を向上させるための修養は必要である。

自力」あっての「他力」、そして「自力」の限界を悟ることの意味を体感することは必要だ。そのキッカケとして『歎異抄』を読むことには意味がある。だが、古典だからといって、無批判に賞賛したり、自分に都合よく読むのもまた禁物である。けっして軽々しく取り扱うべき内容ではない。 

もちろん、そう書いているわたしは「門徒」ではないものの、「凡夫」(ぼんぷ)だという自覚はもっており、知らず知らずのうちに悪を犯している「悪人」であることは否定しない。『歎異抄』のそんな要素にかんしては共感する。 

だからこそ、浄土真宗の「中の人」でありながら、ストア派のエピクテートスを愛読していた哲学者・清沢満之の存在を意識しておきたいのだ。 



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2025年5月24日土曜日

いまこの時代に『歎異抄』を読むことの意味とは? ―『超訳シリーズ』の最新刊である『超訳 歎異抄』(安永雄彦、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2025)を読む

 

ビジネスマン出身の異色の僧侶・安永雄彦さまより『超訳 歎異抄』をいただいた。ディスカヴァー・トゥエンティワンの『超訳シリーズ』の最新刊。本日(5月23日)発売の新刊である。 

『歎異抄』と書いて「たんにしょう」と読む。日本最大の宗派である浄土真宗の宗祖で、中世日本に生きた親鸞聖人の言行を、その死後に直弟子の唯円(ゆいえん)が書き残したものだ。「異」説を「歎」くというのが、その本意である。 

「悪人正機」などパラドックスに充ち満ちた表現が多く、とかく誤解を生みやすいのが親鸞の教えだ。唯円は、その親鸞の言葉が語られた背景まで含めて後世に残そうとしたのである。 

そんな『歎異抄』は、名前は聞いたことはあっても、実際に読んだことのある人は、いったいどれくらいいるのだろうか?  現代語訳でわずか50ページほどの短い本だが、もし読んだとしても理解できない、納得がいかないと思った人も少なくないかもしれない。 

わたし自身は、20歳台の終わりに哲学者で日本学の梅原猛の訳で読んで以来、35年ぶりに『歎異抄』をとおしで読んでみた。そんな機会をあたえていただいた安永さまには、この場を借りてその仏縁に感謝したい。 


(留学のため渡米する前の1990年に読んだ梅原猛の2冊)


『歎異抄』の現代語訳や解説本は、それこそ山のように出版されつづけている。ビジネスパーソンを主要な読者層に設定した安永版は、その最新版となる。 

さっそく、「はじめに」に目をとおしたあと、項目別に整理された『歎異抄』の文章を読んでみる。これ以上ないと思われるほど、平易な現代語に訳されている。 

だが、平易な文章だからこそ、いまなお納得できない内容や、違和感を感じるものがあることは否定できない。先にも書いたように、親鸞の教えがパラドックスに充ち満ちたものであり、基本的に信心について説いた内容だからだ。 

親鸞には「絶対他力」という教えもある。だが、信仰の場面はさておき、はたして日常生活のなかで「絶対他力」は成り立つのかどうか? 「自力」で努力することに意味はないのか?  そんな問いがわき上がってくるのは当然だろう。

わたし自身もそうであったが、とかく若いときには自信過剰気味になりがちであり、なんでも「自力」で成し遂げることができると思いがちだ。 

ところが、「自力」だけでは物事が動かないことを知る瞬間が、かならずやってくる。しかも、「自力」に頼らないほうが、かえって物事がスムーズに進行することがある。そんなことを、悟る機会もあるだろう。ミドルエイジ以降の人なら人なら、誰でもそんな経験があるのではないか。 

ビジネスパーソンであれば、いやそうではなくても、そんな気づきを得ることができれば、『歎異抄』に触れることの意味があるというべきだろう。いま読んでも理解できないフレーズ、納得のいかないフレーズが、「ああ、そういうことなのか」とストンと理解できる瞬間が訪れることがあるはずだ。 

基本的に親鸞の教えは浄土真宗の教えであり、阿弥陀仏への絶対的な帰依と、「南無阿弥陀仏」という念仏が強調される。仏教でありながら、限りなくキリスト教に近い印象さえ受けるかもしれない。 

だが、浄土真宗の門徒ではなくても(・・かくいうわたしの場合も、母方の祖母は熱心な門徒であったが、わたし自身は宗門の人ではない)、また仏教徒ではなくても、あるいは宗教には距離を置いている人であっても、親鸞の教えに触れることの意味は大きなものがあるはずだ。 

ぜひこの機会に、安永版『超訳 歎異抄』を手にとって、読んでみてほしいと思う。読んでみて、すんなりと理解できなくてもいいのである。親鸞の教えに対しては、異論や違和感があって当然なのだ。 

いろいろな読み方があると思うが、まずは後半に収録されている「超訳歎異抄 全文」を通しで読んでみてから、前半の104条に整理された項目ごとに読んでみるといいのではないか。

というのは、項目別の文章だけつまみ食いして読むと、誤読しかねないものが多々あるからだ。そもそも現著者の唯円が「異」説を「歎」いていたように、『歎異抄』という本は誤読を生みやすい本なのだ。

AI(=人工知能)がもてはやされ、とかく「知能」や「知性」ばかりが重視される現代社会である。いや、であるからこそ、知性の限界を超えた存在に、自分自身を開いていく必要があるのではないか。 

ビジネスパーソンであろうとなかろうと、いまこんな時代に生きる人が『歎異抄』を読むことの意味は、そんなところにあるのではないか。わたしはそう考えている。 


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2023年12月24日日曜日

書評『何度でもリセット ー 元コンサル僧侶が教える 「会社軸」から「自分軸」へ転換する マインドセット』(安永雄彦、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2023)ー 異色のキャリアをもつ変革リーダーによる自己啓発書

 


異色のキャリアをもつ変革リーダーによる自己啓発書だ。出版から即 amazon では「ベストセラー1位」である。 

著者の安永氏(・・安永師というべきかな)は、銀行員から「キャリアチェンジ」して、転職コンサルタントに転身し、その後エグゼグティブ・サーチ会社の経営者を経て、築地本願寺の改革に携わり、現在は京都の西本願寺の代表役員として本寺改革に従事されている方。 

浄土真宗の僧籍を取得したのは経営者時代で、通信教育を受講されたとのこと。お寺の出身ではない異色の僧侶であり、しかも組織変革リーダーとしてのキャリアは一貫している。 

じつは安永氏には、仏教界に転身する前のエグゼクティブ・サーチ時代に、個人的にお世話になっている。最終的にわたしが転職ではなく、独立を決意したのは、安永氏が背中を押してくれたからだ。 

その安永氏が、その後は築地本願寺の改革で実績をあげて、各種メディアで取り上げられていることは、ビジネスパーソンなら知っている人も少なくないだろう。 

ところが、ご縁をいただいた当時は、まさか、その後そんなキャリアチェンジをされるとは知るよしもなかった。しかも、拙著『言志四録 心を磨く言葉』につづいて、この12月におなじ出版社から新刊を出版されることを知った。それが本書『何度でもリセット』である。 

なんという「奇縁」であることか! しかも、京都府出身のわたしのほうは母方の祖母が西本願寺の「門徒」であり、父方の祖父が徳島で浄土宗のお寺にいたことこともあり、「凡夫」(ぼんぷ)として、浄土系仏教にはそれなりに通じている。その意味では「仏縁」というべきかもしれない。 

とはいえ、本書は仏教どころか、浄土真宗がらみの説法は、ほとんどないので心配無用だ。あくまでも仕事がアイデンティティにならざるをえない現代人のための人生論であり、キャリア論である。いや、それこそ現代人のための「法話」というべきか。 

「失敗・逆境・恐れこそ第二・第三のキャリアチャンス」と帯にある。まさにそのとおりだなと、数度にわたる自分自身の「リセット人生」を省みても実感する。 キャリアを「リセット」すると、それにともなって人間関係も「リセット」される。古い人脈が甦ることもある。

会社員として、このまま組織のままにとどまっていていいのか、そんな思いを抱いている人にすすめたい本だ。きっと一歩踏み出すため、背中を押してくれることだろう。 「リセット」は、けっして悪いことではない。

「キャリアチェンジ」というものは、一歩踏み出してしまえば、なんとかなるものだ。もちろん、それが山あり谷ありの、たとえ楽な道ではないにしても。 


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目 次 
はじめに 
第1章 仕事で自分をなくしていませんか? 
第2章 会社軸から自分軸を取り戻したイギリス時代 
第3章 「自分の軸」を見つける 
第4章 「自分の軸」を活かす 
第5章 「自分の軸」を守る 
第6章 失敗や逆境に負けない自分になる 
第7章 あるがままに「凡夫」として生きる 
おわりに 


著者プロフィール
安永雄彦(やすなが・ゆうひこ)
1954年東京生まれ、開成高校、慶応義塾大学経済学部卒業、ケンブリッジ大学大学院博士研究課程修了(経営学専攻)、三和銀行(現三菱UFJ銀行)、米系大手人材コンサルティング会社ラッセル・レイノルズ社を経て、経営幹部人材の人材サーチコンサルティング会社島本パートナーズ社長(現会長)。 2005年に得度し浄土真宗本願寺派僧侶となる。2015年7月より築地本願寺代表役員宗(しゅう)務(む)長(ちょう)として僧侶組織のトップとして法務に従事するとともに、寺院の運営管理や首都圏での個人を対象にした新しいかたちの伝道活動に従事し伝統寺院の改革を主導。2022年8月より京都の浄土真宗本願寺派本山である西本願寺の代表役員執行(しゅぎょう)長(ちょう)として本山の改革に従事中。グロービス経営大学院大学専任教授。経済同友会会員。元武蔵野大学学外理事(現顧問)。龍谷大学理事。 著書に、『日本型プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社)、『築地本願寺の経営学』(東洋経済新報社)。 (出版社サイトより)


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2020年5月4日月曜日

『法然の衝撃-日本仏教のラディカル』(阿満利麿、人文書院、1989)は、タイトル負けしていない名著。現在でもインパクトある内容だ


『法然の衝撃-日本仏教のラディカル』(阿満利麿、人文書院、1989)という本を取り上げたい。すでに30年も前の出版だが、タイトル負けしていない名著といっていいだろう。なぜいまこの本を取り上げるのか、まずはその背景となる理由を簡単に記しておく。

***

FBで「7日間ブックカバーチャレンジ」というチェーンメールのようなものが行われている。4月後半から続いている。

新型コロナウイルスのパンデミックによる「緊急事態宣言」の最中、自宅にステイすることを余儀なくされている人たちが多いなか、少しでも読書文化の向上に貢献しようという取り組みのようだ。趣旨そのものはともなく、あるテーマに関連して7冊をセレクトするという行為には意味があるので、その試みに乗っかってみることにした。

最初は、引きこもり(stay-at-home)関連で4冊セレクトしたが、4月25日早朝に父が臨終に近いという緊急連絡を受け取ってから、病院に直行、臨終には間に合わなかったが、葬儀一式にかかわるためバタバタしていた。初七日までは喪に服すと決めて、FBへの投稿をいっさい行わず、5冊目からの再開は、4冊目の後の5冊目だから「四五」すなわち「死後」と定めて、その関連の本を取り上げることにしたのである。

5冊目は、『唯葬論-なぜ人間は死者を想うのか-』(一条真也、サンガ文庫、2017)。この本は、葬儀一式にかかわった機会にはじめて読んだ本。この本については、内容をふくらませた上で、のちほどブログにアップすることにする。

6冊目に選んだのは今回紹介する、『法然の衝撃-日本仏教のラディカル』(阿満利麿、人文書院、1989)。亡くなった父が浄土宗であり、その関連から自分自身も浄土宗について知る必要を強く感じていたので、かつて2回ほど集中的に読み込んだ時期がある。いまからもう四半世紀も前に読んで、強い印象を受けた本が、この1冊だ。

以下、FBに投稿して、内容を紹介した一文をそのまま再録しておこう。

***

法然なくして親鸞なし!

日本仏教の二大勢力は親鸞を宗祖とする浄土真宗と、日蓮を宗祖とする日蓮宗だが、その親鸞は法然の弟子であり、法然の「革命性」を認識しなければ、いわゆる「鎌倉新仏教」を理解できないことを示した内容。

法然とその後継者である親鸞、法然と徹底的に対決した日蓮。南無阿弥陀仏という「六字の名号」で成仏できるとした革命性阿弥陀仏にのみ帰依するという、ほとんど一神教に近い性格。戦国時代末期の一向一揆の原動力がこれだ。

私自身は、特定の教団や教派に属すつもりはないが、もともと浄土系の家に育っているので、浄土宗や浄土真教とは何か、という問いには強い関心がある。

浄土系の仏教は、生きるチカラが湧いてくるという類いの教えではないが(と自分は思っているが)、安心して死ぬ、安心して死者を送るためには、ほんとにすぐれた教えであり、体系であると、今回あらためて確信した。

阿満利麿氏は、経歴によれば元NHKディレクターの宗教学者。阿満氏の著書は、かなり読んだが、この本が一番だと思う。それだけ内容が濃く、タイトル負けしていないインパクトの強い本なのだ。

***

旧著紹介ということで、ここで取り上げた次第。





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「法然と親鸞 ゆかりの名宝-法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌 特別展」 にいってきた

『選択の人 法然上人』(横山まさみち=漫画、阿川文正=監修、浄土宗出版、1998)を読んでみた

「法然セミナー2011 苦楽共生」 に参加してきた-法然上人の精神はいったいどこへ?

善光寺御開帳 2009 体験記

葬儀は究極のサービス業である(2020年5月2日)-4月25日に永眠した父の葬儀一式にかかわって思うこと

書評 『唯葬論ーなぜ人間は死者を想うのか-』(一条真也、サンガ文庫、2017)-「なぜ生者は死者を弔うのか?」という問いを全18章で論じ尽くした渾身の一冊



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